第十五話 帰郷
——壱——
天保四年十一月。
品川宿から四時間ほど歩き続けたら、遠くに日本橋がやっと見えてきた。
江戸はもうすぐそこだ。
京都から始まった東海道の旅路の最終地点、江戸日本橋——
俺、市川太郎松と天野宗歩は、京都の伏見から江戸を目指してはるばる二人で旅に出ることになった。
いやぁ、参っちゃうよ。本当に。
京都五条大橋での天狗騒動のあと、隣をとぼとぼと歩いているこいつは大橋柳雪と喧嘩別れみたいに屋敷を飛び出しちまった。
「信じてたのに! 柳雪様のバカ!」みたいな女向けの黄表紙にでも載ってそうな戯言を言いながら走り去るもんだから、人目が気になってしょうがねぇ。
このままじゃろくに旅もできねぇと思ったから、とりあえず落ち着かせて事情ってもんをあいつにとうとうと話してやったのさ。
——あのさ……宗歩よぉ。
——ぐす……。なによ、松兄。
——お前さ、柳雪様の本心、ちゃんと理解してるか?
——……それってどういう意味よ?
——今回の件、あの人はぜーんぶお前のために演じてたってことだよ。
——嘘だ!
——嘘じゃねぇよ! あの人は昔からそういう人だろう。お前ならそれくらいわかるだろうが。
——でも……。
——そもそも天狗との対局だって正々堂々勝負しただけじゃねぇか。多少やり方が強引だったけどよぉ。
宗歩が何かを悟ったのか愕然としている。
——そっか……。だったら私、柳雪様にひどいことしてしまったわ。今から謝りに行ってくる!
——いやいやいや、ここもう草津だから! 引き返すのすんごい大変だから!
こいつはかなり動揺すると衝動でなんでも飛び出しちまう習性があるらしい。
以後、気を付けておかねばな。
——なぁ……とりあえずいったん俺と江戸に帰ろうや。
——……。
——ほら柳雪様にはさ、どっかの宿場から文でも出して詫びちまえよ。
——……うん。そうする。
——おっしゃ、じゃあいくぞ。
——(……ありがとう、太郎松)
まぁ、そういうわけであいつを宥め透かしながらもようやく着きましたよ。
俺の故郷、江戸にね。
はぁ、俺この一年くらいずーっと旅してるのな……
——弐——
江戸市中に入った俺たちは、まずは本所にある大橋本家のお屋敷へと急ぐ。
俺の実家なんぞは後回しで結構よ。
宗歩に事情を聞くと案の定、京都に行くとき本家を飛び出してきちまったらしい。
まずは、真っ先に詫びを入れに行くってのが本筋ってもんだろうよ。
一応、前もって文で知らせてはあるから大丈夫とは思うが……。
まさかいきなり破門ってことはねぇだろうな。
本所のお屋敷が近づくにつれて宗歩の顔がどんどん険しくなってきやがる。
分かるよ。一度出て行った実家に戻るってのはなんだか億劫なもんだよなぁ。
「よぉし、ようやく着いたな。じゃあ俺は外で待ってるからさっさと行ってこいや」
「うん……」
宗歩が俯き加減で門の中に消えていく。
ああ、昔何度も見た光景だ。
あれ? 戻ってきた。ちょっと早すぎない?
「あの……」
何だ? なんかもじもじしてるぞ。
「おう、どうしたい?」
「お師匠様がね、その……『市川殿もご一緒に』って……言ってるの」
「え……」
こりゃ驚いた。
大橋本家ご当主様が俺に一体何の用だ。
お屋敷の玄関口にいぶかしげに入ると、そこには無表情な青年がぽつんと立っていた。
大橋本家十一代目当主、大橋宗桂様だ。
ほほぉ、こりゃ若いな——
これがうわさに聞く『鉄仮面』か。
けど、思ってたより普通だな。もっと化け物じみた奴かと思ってた。
「お、お師匠様……この度は——」
「ご苦労だったな。宗歩」
宗歩が何かを言おうとしたが、お師匠様はそれだけ言うと踵を返して、黙ってすたすたと廊下の先に行ってしまわれた。
前言撤回、やっぱ変人だわ。
俺と宗歩が茫然としていると、若い門弟がやってきて「先生方こちらでございます」と案内してくれた。
どうやら宗桂は先に部屋で待っているらしい。
奥座敷に通されて、襖を開けるとそこには宗桂の他にもう一人、厳つい老人が座っていた。
髪の毛が相当固いのか鶏冠のように逆立っている。
見た目は老けてはいるが目は険しい。
体格は筋骨隆々で将棋棋士っていうより力士みたいだ。
いや地獄の極卒か?
「!!」
宗歩が一瞬立ちすくむ。
「どうした? 宗歩、ってうわ!」
宗歩が咄嗟に平伏すると同時に俺の着物の裾を強く引っ張った。
とにかく頭を下げろということだ。
「おう! 久しぶりだな。麒麟児よ」と地獄の鬼が話しかけてきた。
「お、お久しゅうございます。このたびは数々の不始末、誠に申し訳ございません」
宗歩の声がすっごい震えている。
あーん、このおっさんどっかで見たことあるな……
あ、思い出した。
「荒指し」の宗看——
第十世名人の伊藤宗看じゃねぇか!
「おうおう、二年ぶりくらいか。ご当主様に聞いたがなんでも武者修行に出てたらしいじゃねぇか。ご苦労なこった。出来の悪い息子に爪の垢でも飲ましてやりてぇよ」
どうやらこの流れだと宗歩の不始末は「不問に処す」ということらしい。
宗看はそう言いながら手に持っていた饅頭を二つ丸ごと口へと頬張る。
うーん、豪放磊落だ。
たしか、噂によると「荒指し」の異名は、攻めっ気十割の豪快な棋風から来てるらしい。
あと、対局中に着手と同時に「ちぇすとぉぉぉ!」と相手に向かって気合を飛ばすってのも聞いたな。
薩摩藩士かよ。あんたは。
そういった名人の品格が有る無いみたいなもんが響いて名人になるのが遅れたってのが市中のもっぱらの評判だ。
ま、俺は嫌いじゃないけどね。
「京都伏見の大橋柳雪様にご指導をいただいておりました」
「柳雪か……懐かしい名前だな。あの者は元気にしてたか」
「大事無いかと」
「そうか。あ奴とはもう一度勝負してみたいものよ……。」
宗看が少しだけもの悲しそうな顔をする。
「……ところで宗歩よ、江戸へ戻ってきたところで悪いのだが、ちと頼まれごとを引き受けてほしいのだ」
「は、はい! どのようなことでしょう?」
突然の話に宗歩も少し顔が強張っている。
相当緊張しているんだろうな、なにせ相手はこの世にたった一人しかいない現役の名人だ。
「実はな。おぬしも知っての通り、儂は公方様のお許しを得て名人の座に就かせていただいた。」
今までずっと黙って聞いていた宗桂がすっと姿勢を正した。
これはいよいよ本題ってことか。
「名人が全国の在野棋士に免状を交付する役目があることはおぬしも知っておるだろう」
名人の在位中は名人だけが段位を認定する権限を持つ。
大橋本家当主であってもこの点は譲らなければならない。
「それはもう」
「でな、伝え聞くところによると不届きにも最近、儂以外の者がこの免状を発行しておるらしいのだ。しかもその者は『我こそが名人である』と名乗っておるらしい」
「そ、それはなんとも畏れ多いことで」
勝手に免状交付と名人宣言……なんてやつだ。気でも触れたか。
「うむ。今のところ段位を与えられるのはこの儂だけだからな。だが、在野棋士の監視も名人たる儂の大事な務め。将棋家を監督する寺社奉行様に事の詳細を知られる前に何とか手を打っておきたいのだ。そこでな——」
お主にその者を懲らしめてきて欲しいのだと宗看は真面目な顔をして言った。
「はぁ……懲らしめる、ですか?」
「なぁに、懲らしめるといってもそこは棋士同士、きっちり将棋で勝負を付ければ良い」
「……して、その者の名は何というのでしょうか?」
宗歩が恐る恐る宗看に伺う。
「大坂の小林東伯齋」
「小林東伯齋……」
「知らぬ名ではなかろう」
「はい……」
小林東伯齋かぁ。
俺はぜんぜん知らないな。
江戸の棋客はたいがい知ってるんだが、とんと聞いたことがない。
「ああ、そうだ。そこの者」
宗看が出し抜けに俺の方を見て言った。
「は、はい!」
「お主は天野宗歩の幼馴染、市川太郎松殿だな。江戸での棋客としての噂はかねがね聞いておる。なんでも儂の倅の金五郎も打ち負かしたらしいではないか。はっはっは」
そういやそんなこともあったな。忘れてた。
「畏れ多いことで」
「まぁそんなに畏まらんでもよいわ。おぬしは、京都でこの天野宗歩を助けたとも聞いておる。また江戸までの旅路でも何かとこ奴の世話を焼いてくれたそうだな。将棋家を代表して礼を言う。ありがとう」
「滅相もございません」
名人に頭を下げられるってのは意外と悪い気がしないもんだな。
「して、物は次いでと申すであろう。どうじゃ今回の大坂行き、お主も手伝ってくれはしないか。こやつ独りではちと不安でな。旅の道中の安全にも気を付けて欲しいのだ」
と言いながら宗看は宗歩の方をちらりと見やった。
まぁ……なんとなく呼ばれたときから予想はしてたよ。
大坂かぁ……まーたとんぼ返りじゃねぇか。くぅ、泣けてくらぁ。
「は、恐悦至極に存じます」
「おお、そうか引き受けてくれるか。ではその引き換えと言ってはなんなのだが、おぬしに四段免状を交付する。今度の旅でも何かの役に立つであろう。ありがたく受け取れ」
おお! よ、四段っていやぁ通常の在野棋士の最高段位じゃねぇか。
これは……よっぽどの仕事ってことなんだろうなぁ。
まぁ高段の免状は何かと使えそうだから有難く貰っておくことにしよう。
俺達は宗看から免状書を受け取り、お屋敷を後にした。
宗歩はそのまま屋敷に残って暫しの休息をとるとのこと。
師匠との水入らずの時間でも過ごすのだろうか。
出立は三日後の明朝、日本橋。
俺はその足で実家に向かうことにした——