変心
「主人が浮気してるみたいなの」
明日香が、深刻な表情で言った。
「……え?」
まさか、大さんが?
私は周囲を見回した。
良かった、ファミレスの中はあちこちで会話が盛り上がっていて、私たちの話に聞き耳を立てている人はいないようだ。
それでも、私は声を抑えて尋ねた。
「それ、本当なの?」
「あの人から香水の匂いがしたり、服に長い髪が付いてたりしたの。シャツに口紅が付いてたこともあって……」
何てことだ……。
「大さんを問い詰めたりしたの?」
「……お義父さんが大変な時だから、波風を立てたくなくて……」
大さんの父親は末期の癌で、余命があまりないことは聞いていた。
「父親がそんな時に、自分は他所の女と遊んでるなんて、ますます許せないじゃない!」
「ちょっと由美、声が大きい……」
私は怒ったが、明日香は私を宥めるばかりで、夫を追及することに気が進まない様子だった。
明日香は、高校時代からの私の友人である。
私と彼女は、三年間、ずっと同じクラスだった。彼女は難しそうな本を読んでいることが多く、テレビのバラエティー番組が大好きな私とは、共通の趣味の話題など無いに等しかった。
それでも何故か気が合ったのは、明日香も私も、相手とずっと一緒にいるような友達関係に興味が無かったからだろう。
私は、時々面白かったテレビ番組について明日香に語った。明日香は、そんな話を楽しそうに聞いてくれた。
明日香は、時々私に自分が読んでいる本について語った。そんな話を聞いている時だけは、私も本を読んでみようかと思うほど楽しい気分になった。
明日香は学生の頃から美人で頭が良かった。
にもかかわらず、それを鼻にかけることもなかったので、男子からも女子からも好かれていた。
一方で、彼女には危なっかしいところもあった。育ちが良すぎるせいなのか、悪い人を見極める力が乏しかったのだ。
ある日、学校の中でも軽い男として有名だった男子が明日香を口説こうとした。彼女はそいつの話を真に受けて、どうしようかと真剣に思い悩んだのだ。私が止めなかったら、遊ばれて捨てられていたに違いない。
そんな彼女のことを、私は当時から心配していた。もっと悪い奴が近寄ってきて、いつか彼女を騙すのではないかと懸念したからだ。
私が大学を卒業してOLになった頃に、明日香が20歳も年上の大さんと結婚すると聞いた時にはとても驚いたが、彼に会ってみると、本当にいい人のようで安心した。
経済力もありそうだったし、チャラチャラした若い男よりも数段まともに見えた。
あの人が、まさか彼女を裏切るようなことをするとは……。
私は、浮気をする男が大嫌いだ。
この感情は正義感によるものではなく、憎しみに近いものだということは自覚している。
といっても、「以前付き合っていた男に浮気された」だとか、「父親が頻繁に浮気していた」だとか、分かりやすい理由があるわけではない。
ただ、私は信用していた相手に裏切られるのが嫌いなのだ。
悪いことをした人間は罰せられるべきだと思うし、そうならないのは、自分とは無関係な人の話だったとしても不快なことである。
テレビのワイドショーで、有名人の不倫が取り上げられたりするが、平気で妻を裏切るような男は、殺されたとしても文句が言えないのではないかと思ったりもするのだ。
明日香に大さんの浮気を相談されてから程なくして、大さんの父親が亡くなり、私はお通夜に行った。
大さんは、私の顔を覚えていたようだ。彼が私に笑顔を向けてきたので、私は驚いた。
どうして、この人はこんなに元気なのだろう?
大さんの母親は、明日香と結婚する前に亡くなっているはずだ。また、大さんに兄弟はおらず、結婚式の時に、式に呼べるような親戚もいないと聞いた。
つまり、彼にとって父親は唯一の肉親であるはずなのだ。
結婚式の時の様子を見ると、大さんと父親は仲が良さそうに見えた。以前に明日香から聞いた話でも、二人は仲の良い親子だったはずだ。
その父親が死んでも、彼は悲しんでいるように見えなかった。気のせいかもしれないが、なんとなく楽しげにすら見える。
彼よりは、血が繋がっていない明日香の方が目を赤くしており、悲しんでいるように見えた。
私が睨むと、大さんは驚いた様子だった。私が何に怒っているのか、彼には分らないようだ。
こんな人だと知っていたら、明日香との結婚には反対したのに……!
それから何日も、私の怒りは収まらなかった。
職場の同僚は不機嫌な私の様子に怯えていたが、そんなことを気にする余裕は、私にはなかった。
「大さんの浮気、私の勘違いだったみたい」
同じファミレスで、数日後に会った明日香はそんなことを言い出した。
「そんなはずないでしょ! 貴方騙されてるのよ!」
「でも、上司に誘われて飲みに行っただけだって……」
「飲みに行っただけで、どうしてシャツに口紅が付くのよ!」
「たまたまぶつかっただけだって……」
「貴方……まさか、それを信じたの?」
「だって、よく考えたら、大さんがそんなことをするはずがないし……」
何てことだ。お人好しにも限度というものがあるだろう。
「自分の父親が死んでも、あの人は悲しくなさそうだったじゃない! どうしてそんな人のことを信じられるの?」
「それは由美が会った時の話でしょう? 大さんは、お義父さんが死んだ時には泣いていたわ。他所の人の前では普通に振る舞うなんて、よくあることじゃない。貴方の勘違いよ」
私がどれだけ説得しても、彼女は「大さんは悪い人じゃない」と言い続けた。
私の懸念は的中した。やはり、明日香は騙されやすい女だった。
大さんは悪い男だ。純粋な彼女を騙して、平然といい人を装っている。
どうして悪い人が罰を受けないのか。改めて腹が立った。
私は明日香に「大さんには気を付けるように」と繰り返し伝えた。それでも彼女は、私が彼の事を誤解していると思い込んでいるようだった。
それから一か月ほど経った。
さすがに怒りは収まったが、私は明日香のことが心配だった。
大さんは、また他の女と遊んでいるのではないだろうか……? それを明日香が察知したとしても、彼女はまた大さんに言いくるめられてしまうのではないか?
最近雨の日が続いており、私の憂鬱な気分はさらに沈んだ。
そんなある日、突然大さんが亡くなったと知らされた。
深夜に、泥酔して川に転落したらしい。最近の雨で、川はかなり増水していたはずである。
これは天罰ではないかと本気で思った。明日香を裏切った罰が、ついに下されたのではないか、と。
再び行われることになったお通夜で、明日香は茫然とした様子だった。私が声をかけると、明日香は涙を流した。そんな姿を見て、つい私も泣いてしまった。
大さんが死んだことは悲しくなかったが、明日香の健気さは心を打つものだった。
出来るだけ彼女の力になってあげよう、と私は決心した。
それからしばらくして、ようやく明日香に会うことができた。
「大変だったわね」
私は無難な言葉を選んだ。さすがに「良かったじゃない」と言うほど非常識ではない。
彼女は暗い表情で頷くだけだった。
「酔って川に転落したらしいけど、大さんってそんなに飲む人だったの?」
「最近、すごく飲んで帰ってくることが多くなって…お義父さんが死んだことがショックだったんだと思う…」
本当にそうだろうか? 大切な人が死んだら、知り合いに笑顔を向ける余裕なんて無いはずだ。明日香もそうだったではないか。
「そういえば、大さんの弁解は『上司と飲みに行った』だったでしょ? ひょっとして、浮気の相手は水商売の人だったんじゃないの?」
「まだそんなことを言ってるの? あれは私の勘違いだったって言ったでしょ!」
「でも……」
「いい加減にして。そんな話、今は聞きたくないわ!」
明日香が大きな声を出したために、他の客が何事かと私たちの方を見た。
驚いた。明日香が怒ったところを初めて見たからだ。
さすがに気まずくなり、私は話題を変えることにした。
「これからどうするの? お金のこととか、大変でしょ?」
明日香は会社に勤めたことがない。もう30歳を過ぎて、仕事を探すのは大変なはずだ。
大さんはそれなりにお金を持っていたはずだが、さすがに一生働かないで済むほどの財産は残せなかっただろう。
「……それは多分大丈夫だと思う。大さんもお義父さんも、それなりにお金があったはずだから」
「えっ、貴方、大さんの父親の遺産って貰えるの?」
私がそういうと、明日香の顔が強張った。口を滑らせてしまった、といった表情だ。
「……法律でそういうことになってるのよ。大さんはお義父さんの遺産が貰えるし、私は大さんの遺産が貰えるから」
言われてみれば当然の話だった。さすがに法律に疎い私でも、自分の親や配偶者が死ぬと遺産が受け取れることくらいは知っている。たまに見るサスペンスドラマでも、相続に関するイベントは見たことがあった。
それにしても、結婚相手の親の財産が、最終的に自分の物になるなんて。何だか不思議な気分だった。
「よくそんなこと知ってるわね。貴方、大学は経済学部だったはずでしょ?」
「……大学で民法の講義を受けたの。相続のことは、時々本に出てくるし」
「ふーん……」
何だろう。何かが引っ掛かる。
「ねえ、大さんの父親の遺産がどれくらいか、どうして明日香が知ってるの?」
「……以前、大さんが言っていたの。お義父さんはお金を貯めるのが好きな人だったって。株とか債権とか貴金属とか、全部合わせれば、一億円は軽く超えるだろうって……」
「そんなに!」
何てことだ。やはり、大さんがお通夜の時に悲しそうでなかったことは勘違いではなかったのだ。
腹が立って叫びたくなったが、先程のことを思い出して堪えた。
「大変だろうけど、元気出してね」
そんな当たり障りのないセリフを吐いて、私は席を立った。
大さんは、父親の遺産が入ることを喜んでいた。だから悲しそうでなかったのだ。
明日香は否定するのだろうが、私はこのことを確信していた。
何て冷酷な人なのだろう! あの人は、遺産の事を考えながら、重い病の父親が死ぬのを心待ちにしていたに違いない。
大さんが貧しく、お金に困っていたのならまだ分かる。しかし、大さんは普通に生活するには充分な経済力があったはずである。
あんな男、死んでくれて良かったと改めて思った。
その日の夜は、なかなか眠れなかった。
怒りが収まらなかったから、というのもあるが、改めて考えると何かがおかしい気がしたのだ。
色々と考えると、明日香の言動が不自然だから、という理由に思い至った。
大さんは、自分の父親の遺産について、明日香の前で言及したという。彼女の口ぶりだと、大さんがそれを楽しみにしていたのは明らかではないか!
明日香はお人好しだが、決して非常識な人間ではない。大さんの発言を聞いても、彼の人間性に疑問を抱かなかったのだろうか?
そういえば、彼女は大さんの父親が亡くなった時、目を赤くしていた。ところが、大さんが死んだ時には、そんな様子が無かった。
ひょっとして、明日香が悲しそうにしていたのは演技であり、本当は大さんが死んだことなんて、それほど悲しくなかったのではないか? だとしたら、やはり明日香は大さんの冷酷な本性に気付いていたのではないだろうか?
そんなことを考えていると、大さんの父親の遺産のことが気になってきた。
明日香は、相続について私にあまり語りたくない様子だった。ここに、何か重大なヒントがある予感がしたのだ。
改めて相続の話を思い出す。今回は、大さんの父親が亡くなったすぐ後に大さんが死んだため、構図が簡単だ。では、それ以外の場合は……?
そんなことを考えていると、突然私の頭の中で、とんでもない推理が組み立てられていった。
しかし、まさかそんな……!
私は、飛び起きてパソコンを立ち上げた。普段なら何てことない立ち上がりの時間も、今の私にはひどく長い時間に感じられた。
ようやく画面が表示され、私はネットで相続について調べた。
たった今思い付いた推理が成立するためには、法律が私の思った通りになっていないとならないからだ。
相続に関する詳しい解説が載っているサイトは、簡単に見つかった。
この日、私は初めて法律について勉強した。
……何てことだ!
私は叫び出したい気持ちに襲われた。
マウスを握っている手が震えた。全身から冷や汗が噴き出しているのが分かった。
明日香は、大さんの父親が亡くなるのを待って、大さんを殺したのではないか?
それが、私が辿り着いた結論だった。
法律に基づくと、明日香が大さんの父親の遺産を手に入れられる条件は限られる。まず、大さんの父親が亡くなって、その後大さんが死んだ場合のみだ。しかも、大さんが死んだ時点で、明日香は大さんと結婚したままでなければならない。
つまり、この推理によると、大さんは彼の父親より先に死んではいけなかった。また、明日香は大さんと離婚してはいけなかったのである。
普通、浮気をされて、相手からお金を得ようと考えたのならば、離婚して慰謝料や財産分与を受ける方法を思い付くだろう。明日香は法律の知識があったのだから、そのことは考えたはずだ。
しかし、その方法は、今回の場合には使えないのである。離婚による財産分与では、大さんが相続する親の遺産は、明日香の手に渡らないからだ。慰謝料だって、大さんの父親の遺産と比べれば、取るに足らない金額にしかならないだろう。
彼女は、大さんの無理のある弁解を受け入れ、私の説得にも応じなかった。しかし、それは「離婚するわけにはいかなくなった」からではないのか? ということは、あの時より前に、大さんを殺す計画を立てたことになる。
すると、彼女は私の前で「浮気をされても夫を信じる健気な妻」を演じていたことになる。警察が大さんの死を他殺だと判断した場合には、私を証人にでもするつもりだったのだろうか?
気が付くと、口の中がカラカラに渇いていた。私は、気分を落ち着けるために、コップに水を注ぎ一気に飲んだ。
それからひと月ほど経った頃に、私はもう一度明日香と会った。
彼女が人殺しかもしれないと思うと、直接会うことは怖くて仕方がなかった。しかし、事実を確かめたいという欲求に抗いきれなかったのだ。
明日香は、とても上機嫌だった。まるで、これからの人生が楽しみで仕方がない、といった様子だと私には思えた。
「あの人、やっぱり浮気してたみたい」
私が何かを言う前に、明日香はそう言った。落ち込んだ様子など全く見せなかった。
「えっ……」
私には、もはや何も言えなかった。この間まで、あんなに大さんを信じていたのは何だったのか?
吹っ切れた様子の明日香が、とても不気味に思えた。
「由美が言った通りだった。多分水商売の人だと思う。喪服なのに派手なお化粧の人が、突然夫の遺影に手を合わせたいって」
「……その人、家の中に入れたの?」
「あの人のこと、心から悼んでるみたいだったから。敢えて何も訊かなかったの。あの人も、私に何か言われないかビクビクしてるみたいだった。お焼香したら、逃げるみたいに立ち去ったわ」
「……怒ってないのね」
「だって、怒ってもしょうがないじゃない。大さんはもう死んじゃったんだし」
明日香は軽い口調で言った。
どうしてそんなに余裕なんだ。ひょっとして、前からその女のことを知ってたんじゃないのか?
問い詰めたい気持ちを抑えて、私は席を立った。突然の事に、明日香が目を丸くする。
「ごめん、そういえば、今日は用事があったの。すっかり忘れてた」
取って付けたように言って、私はその場から立ち去った。明らかに不自然で、彼女に何か勘付かれたかもしれないが、彼女は何も言わずに私を見送った。
とにかく怖かった。この女は夫を殺したに違いない。そう思うだけで、足が震えて止まらなかったのだ。
私は、もう明日香と会うことはないだろう。
泥酔した夫を待ち伏せ、川に誘い出して突き落としたかもしれない女となど、誰が会うものか!
警察に行って、自分の推理を伝えることも考えた。
しかし、大さんの死は、既に事故として片付けられている。何の物証もなく、一度出た警察の結論を覆すのは困難だろう。素人の推理をいちいち聞いてくれるほど、現実の警察は素直ではないはずである。
いや、そんなことよりも、私は明日香の報復が恐ろしかった。迂闊なことをすれば、彼女は私も事故死に見せかけて殺してしまうのではないかと思った。
悪いことをした人間を罰する役割は、警察か、探偵気取りの命知らずにでも任せておけばいいのだ。人間は、自分の命が何より大切なはずである。
私は、サスペンスドラマの主人公のようにはなれない。人知れず殺されるかもしれない恐怖など、これ以上味わってたまるものか!
それにしても、浮気をされた、いい人のふりをしていたというだけの理由で、人を殺すなんて信じられない。
騙されたのであれば、単に離婚すればいいではないか!
直接体に危害を加えられたわけでもないのに、人を殺してしまおうという発想が出てくること自体、今の私には信じられなかった。
ましてや、お金を得るために人を殺すなんて論外だ。遺産目的で夫を殺すような悪女は、テレビの中だけの存在だと思っていたのに。
そんな化け物が、私の近くにいる、私の友人である、などということは、あってはならない次元の話である。
この人間不信は、もはや拭いようがない。
私は一生結婚しないだろうし、もう友達は作るまいと決めた。