ラブコントラクト
1 天使の出現
俺の前に天使が現れたのは高校3年生の夏だった。大学の入試が刻々と近づく中、俺は勉強に全く集中できずにいた。
高校に入ってからずっと思いを寄せていた上戸彩子のことが気になって勉強が手につかったからだ。上戸彩子は高校で一番の美人で成績もよく、しかもバスケ部では主将を勤めバスケ部を全国大会に導いていた。まさに才色兼備だった。
俺は彼女を一目見て好きになった。一目惚れだった。でも、同じような男は他にもごまんといた。上戸彩子は大人気だった。学年で一番の秀才からサッカー部のエースまで色々な男が思いを伝えていた。平々凡々な俺が勝てるはずが無いと諦めていた。
このまま上戸彩子に思いを伝えることは無く卒業するのだろうと思っていた。大学に行って地元を離れれば自然と忘れて新しい好きな人ができるだろうと考えていた。それでいいと思っていたし、高校3年になって勉強が忙しくなってからは受験で精一杯になり自然と上戸彩子のことは考えなくなった。
そんなある日、上戸彩子と偶然にも二人きりになることがあった。学校が終わり、本屋へ寄り道してバス停でバスを待っていたとき、気がつくと隣に上戸彩子がいた。雨が降っているせいかバスを待ってるのは俺と上戸だけだった。
「あれ、荒木君?家ってこっちだっけ?」
上戸も俺の姿に気がついた。高校2年生の頃に同じクラスになったことがあるので顔くらいは知っていたのだろうが、名前まで覚えていると思わなかった。
「ちょっと本屋に用事があってさ。欲しい参考書があったんだけど、うちの近所にある本屋じゃ売ってないんだよね」
俺は手に持った紙袋を掲げて中身を見せた。
「ああ、そうなんだ。それって早稲口大学の入試問題集?早稲口大学希望なの?」
その頃の俺は夏も終わるというのにやっと進路を固めた。
「そう早稲口が第一希望。今の模試の成績だと危ないんだけど、これからの猛勉強で頑張るつもり」
俺が照れくさそうに言うと上戸は満面の笑みで、
「私も早稲口大学が志望なんだ! 二人とも受かったら東京に行っても遊べるね。合格できるといいね」
と言った。
「東京で遊べるね」の言葉と彼女の笑顔が忘れていた彼女への思いを呼び起こした。やっぱり上戸彩子ってかわいい。その日俺は上戸の言葉と笑顔が浮かんでは消えて何も手に着かなくなった。
我慢できず、上戸の写真を見ながらひとりエッチをしてしまった。写真は男子バスケ部が部活で運動中の上戸を写真に撮った。その写真を俺の友人が買い、それを友人に頼み込んで俺が買ったものだ。
「上戸ー!!」
思わず彼女の名前を叫んだ。叫ぶと同時に俺は射精した。射精後の高揚感に浸った後で、目を開けると目の前に天使がいた。もっとも最初は大理石の天使像だと思ったのだが。
真っ白な赤ちゃんサイズの銅像がいきなりベッドの上に現れた。突然のことに俺は放心する。すると、目にあたる瞳も無かった部分がいきなりぎょろぎょろと動き、ぐるんとひっくり返ったと思ったら黒い瞳が出現した。眼球はぐりぐりと動き俺を見た。
「私と契約したいのはあなた?」
俺はあとずさった。
「そんなに怖がることはないよ。私は天使であなたを助けに来たのよ。もっと私の近くにおいで」
目の前の銅像みたいなものは天使らしい。俺はズボンをはき、ベッドに座った。
「天使がなんで俺の目の前にいるんだ?何をしにきたんだ?」
俺は信じることにした。そうでもしなければこの異常な状態を説明できない。天使なんだから俺の目の前に現れることもできるだろう。そうじゃなければこれは夢なんだ。夢だったら天使ぐらい現れても不思議じゃない。
「あなたの声が強くてうるさかったから来てあげたの。私は恋の天使。あなたの恋を叶えてあげる」
「俺の恋を叶える?」
「あんた上戸って女の子が好きなんでしょ?私にはあなたと上戸ちゃんを恋仲にすることができる」
「それって上戸と付き合えるってことか?」
俺は身を乗り出した。
「まあ、平たく言えばそう。この契約書にサインすれば付き合うなんて甘っちょろいものじゃなくて……」
「する! すぐに契約する! 契約書ってどこにあるんだ!?」
俺は天使の話を遮り答えた。
「しょうがない人だね、最後まで話を聞かないんだから。契約書はここにある。“乙”って書いてある欄にあなたの名前を書けば契約成立よ」
天使が手の平を空中にかざすとA4サイズの紙が出現した。その紙はうっすらと虹色に輝き、この世に存在する紙ではないとわかるものだった。
紙の一番上には「愛の契約書」と書かれている。
**********************
愛の契約書
この契約書の各条項に基づき、天使ウロヤカ・バホア(以下 甲)と人間 荒木孝彦(以下 乙)は愛の契約を締結する。本契約は甲乙が記名したときに成立する。
第1条 甲は乙と上戸彩子(以下 丙)の間に恋愛関係を発生させ、その恋を成就させる。
第2条 乙は甲が認めない限り丙と別れることはできない。
第3条 乙は貞操義務に違反した場合雷に打たれる
…
第40条 契約が成立した瞬間、甲が再度乙の目の前に現れるまで、乙の記憶から本契約に関する記憶が消える。
甲 天使 ウロヤカ・バホア
乙 人間
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契約書の文字は小さくこまごまとしており、読む気がしなかったが、俺の恋が実りそうだということはわかった。
天使は俺にはねペンを差し出した。
「このウロヤカ・バホアってあんたの名前か?」
俺ははねペンで自分の名前を書きながら尋ねた。
「そういえば自己紹介を忘れていたね。その通りよ、契約書に書いてある名前は私の名前よ」
「変な名前だな……いや、そんなこと言っちゃ駄目か。訂正するいい名前だよ。俺の恋を叶えてくれるんだから感謝しないと」
「気にしなくていいわ、どうせすぐに忘れるんだから。それにあなた達の恋を成立は私のためでもある。あなたの恋を成就させれば私の成績は一番になるから」
俺は自分の名前の最後の文字を書き終えた瞬間に今目の前で起こった出来事を全てを忘れた。
2 天使再び
バス停で上戸と二人きりになった日から俺たちは急激に仲良くなった。学校でもよく話をするようになったし、登下校で途中まで一緒に帰ることもあった。休みの日には図書館で一緒に勉強し互いにわからない問題を教え合った。最も、上戸のほうが抜群に成績が良かったので俺が教えてもらうことが圧倒的に多かった。
つい最近まで全く話したことがなかったのに二人で図書館で勉強できるくらい仲良くなれるなんて不思議な気分だった。何度も夢じゃないかと疑った。
それからすぐに俺は上戸に勇気を振り絞って告白をした。上戸は「うれしい」と笑顔で言って、俺の告白を承諾してくれた。
毎日が歓喜の日々だった。俺は毎日夢見心地だった。その気分と比例するように模試の成績もどんどん上がって行った。充実した日々だった。
月日が流れるのは速いものであっという間に受験の日が来た。上戸は試験会場に入る前に俺の目を真っすぐ見て「絶対二人で合格しようね」と言った。
「うん、絶対に合格しよう」
模試の成績が上がったとはいえ、俺の成績はギリギリだった。何が何でも受かってやろうと俺は思った。
それから大学の合格通知が俺の家に届いた。俺はやったと喜びすぐに上戸に電話をかけた。
合格したことを告げると上戸は寂しげに「おめでとう」と言った。もっと喜ぶと思ったのになんでだろう。おめでとう?何でそんな他人行儀な言い方なんだ?
不安に思った俺は「上戸も合格したんだろ?」と尋ねた。
「私は駄目だった」
嘘だろ。俺より遥かに成績が良かった上戸が何で不合格なんだ。上戸は予備校に通って一浪するつもりだと言った。
春になり、俺は東京で一人暮らしを始め、上戸は地元の予備校に通い始めた。遠距離恋愛だった。4月を過ぎたばかりの頃はそれこそ毎日連絡をとっていたが、それが6月になると1週間に1度になっていた。
俺が大学の話をすると上戸はあからさまではないけれど不機嫌になった。特に大学になってから入った演劇部の活動や飲み会の話をすると反応が途端に悪くなる。毎日勉強で頑張ってるときに大学の遊びの話は聞きたくなかったのだろう。
夏休みに入ると帰省して上戸に会いに行った。5月の連休以来に会うことになるので楽しみにしていたが、夏季の集中講座があり、宿題も大量に出てるので時間はあまりとれないと言い上戸の部屋から3時間くらいで追い出された。折角東京から帰って来た彼氏にとる態度かと不満に思ったが我慢した。上戸が大学に合格するまでの辛抱だ。今は勉強を頑張るときだからくだらないことで喧嘩しちゃいけない。俺は自分にそう言い聞かせた。
上戸の部屋をでるときに本棚の上にタバコの箱が置いてあることに気がついた。女性が好む銘柄のタバコだった。
「タバコ吸ってるの?」
上戸は本棚のタバコを見て、「そう」と言った。
「未成年だろ?」
「いいじゃない。今時未成年でタバコ吸ってる人なんていくらでもいるよ。勉強の合間に吸うと頭が冴えるの」
俺は何も言うことができず部屋を後にした。
あの上戸がタバコを吸うなんて。
自分の中で上戸の完璧な女性像を作り上げていた俺にはショックな出来事だった。夏休みも終わり、大学が始まると上戸との連絡は更に減っていった。
上戸との連絡が減っていった秋頃と前後して同じ演劇部の女の先輩に心惹かれていることに気がついた。最初は頼りになる先輩としか思っていなかったが、大学生活の相談や演劇論を交わしていくうちに女性として意識していることに気がついた。
上戸とはほとんど連絡を取らず、たまに会っても喧嘩ばかりだったのでその先輩と話すことが楽しくて仕方がなかった。
俺は完全に先輩が好きになっていた。上戸と別れて先輩に告白しようと考えていた。先輩の思いを確かめるため、俺は先輩を食事に誘った。
先輩は俺の誘いに快く応じてくれた。先輩と駅前で待ち合わせをして予約した店に向かう途中空は快晴で星も見える夜のはずだったのに、いきなり暗雲が立ちこめたと思ったとき空が光り、すぐに雷鳴が轟いた。
俺は雷に打たれた。生死の境をさまよったものの、俺は何とか一命をとりとめた。気がついたときには病院のベッドの上だった。
「あーあ、契約違反だよ。契約違反」
目の前に白い銅像のようなもの浮いていた。
「心変わりは立派な契約違反だよ。契約違反をしたら雷に打たれるって契約書に書いてあったでしょ?ほらここに」
白い銅像は俺の口の中に手を突っ込み何か引き出した。虹色に輝く紙だった。
俺はそこで全てを思い出す。
俺は目の前の天使と恋の契約を結んだ。高校3年生の夏に上戸彩子と恋仲になるために目の前の天使を契約をしたんだ。なぜか、俺はそのことを全て忘れていた。
天使が俺の口から引き出した契約書にはこまごまと禁止事項が書かれており、確かに禁止事項を犯したときには雷に打たれると書いてあった。
「そんな話聞いてねえぞ!」
俺は天使に向かって怒鳴った。
「話を最後まで聞かないあなたが悪いのよ。それに他人の心を変えるってそんなに簡単なものじゃない、当然でしょ?その気がない上戸ちゃんをその気にさせておいて、自分に気がなくなったらさようならなんて勝手が許されるわけないでしょう?」
天使は冷たく言い放った。
「天使と結ぶ恋の契約書はそんな軽々しいもんじゃないの。あなたは一生上戸ちゃんと付き合わなくちゃいけないの。上戸ちゃんがこれからどんな悪い女になろうとも、ぶくぶく太って高校時代の面影が全く無くなってもあなたには上戸ちゃんしかいないのよ。でも安心して、あなたが愛情を契約違反をせずに愛情を注ぐ限り上戸ちゃんはあなたを好きでいてくれるのよ。くれぐれも気をつけることね。もしまた他の女の子に気を向けるようなことがあれば今回のような天罰が下るからね。そのときはまた私が現れるけど、もう私の顔は見たくないでしょ? せいぜい気をつけることね」
天使は俺の額を小突いて、目の前から消えた。天使が消えたと同時に強烈な眠気が襲って来た。眠くて仕方が無い。
多分目を覚ましたときにはこの出来事を全て忘れているのだろう。
3 それから
私は雷に打たれたものの、後遺症が残ることもなくぐんぐん回復していった。私の怪我に上戸も勉強で忙しいだろうに駆けつけてくれた。私が退院したときには涙を流して喜んでいた。
それから上戸は一浪したものの志望の大学にまたもや落ちてしまっため、地元の公立大学に進学した。
私が東京の会社に就職のを機にプロポーズをして一緒に暮らすまで遠距離恋愛が続いた。一緒に暮らすようになってからは喧嘩もして、どこか合わない噛み合ない「何で俺は妻と結婚したんだろう?」と疑問に思う時もあったけれど、子供が生まれ、家族で楽しい時間を過ごすことができ、子供も立派に成人し、老後を仲睦まじく過ごし、妻の最後を看取ることができたのは幸せなことだった。
正直に言うが浮気をしたいと思ったことが何度かあったが浮気をすることはなかった。
一度は私の部下となった新人の女性職員が大学生時代に憧れていた先輩にそっくりだったため、誘惑に負けてホテルの前まで行ってしまったことがある。しかし、その瞬間に雷が私に落ちて重傷を負ったため、それどころではなくなってしまった。若い頃にも一度似たようなことがあり、私は余程雷と縁があるらしい。2回とも妻以の女性に気が移ったときの出来事だったので、その恐怖が染み付いたので誘惑にも我慢することができたのかもしれない。恐怖と言えば大理石で作られた銅像や西洋画の天使を見ると背筋が凍る思いとともにむかむかした気分がこみ上げてくるのはなぜだろうか。
デスノートがラブノートだったら?と考えてどんどん妄想を膨らませていったらこんな話になりました。