〜4.交わされる言葉は如何な戯曲か〜
透子と遙。そして、祐斗と和人。それぞれの想いがそれぞれ違った形の旋律を奏でる。――それは不協和音か、それとも協和音たりえるのか。
その日の夜。
女の子らしい優しい色彩の壁紙に可愛いデザインの小物類が数多く飾られている雨宮透子の私室で、
透子はコードレスフォンを手にしながらベッドの上で膝を抱えていた。その顔は、やはり優れない。
『――そう。ユウがあの神崎さんと』
「うん……」
ユウ、とは勿論祐斗の事だ。
電話の相手は透子の中学校の頃からの親友、大隈遥。そのハスキーな声と活発な性格はクラスでも人気を博している。
高校に上がってからは透子とクラスは違えど、前と変わらず仲良く過ごしている。それは時々ケンカはするが、それも仲のいい証拠。
『話には聞いていたけど、そこまで彼が心を許すのってやっぱり重大よね。特にアンタには』
祐斗と結衣の噂は学内でも有名でそれは当然遥の耳にも聞こえてきていた。
しかし、一匹狼を自称する祐斗の胸の内に秘められた孤独。
それを少しずつとはいえ浄化している結衣は今、彼にとってもとても重要な役割の中にいる。
しかし、だからこそそこが問題なのだ。
「……別に、私は」
『バカ、そこで強がるんじゃないよ』
透子の声を遥は間髪入れず遮った。想い人の想う相手がどんなに強敵でも、そこで諦めれば恋はその瞬間、儚くも朽ち果てる。
確かに結衣は美少女で、同時に人を包み込むような包容力を兼ね備えているかもしれない。しかし、だからと言ってただ諦めてしまうのは釈だろう。
『――今、彼の事情に一番通じてるのは、他でもないアンタなんだよ?
そりゃ、たしかに神崎さんは美人だし頭もいいしで学内ではそれなりに人気があるかもしれない。
でも、元を正せば透子には神崎さん以上にユウとの面識がある。それを無に返すワケ?』
透子は祐斗と小学校低学年からの付き合いだった。高校に上がってから彼と出会った結衣とは根本的に過ごしてきた時間が違う。
しかし、出会った当初透子は祐斗とあまり親しくはなかった。それは初めから親しみを持てるはずはないが、だったら今の結衣はどうか。
出会って間もない頃、透子は彼とすぐには親しくなれなかった。環境が違うというのもあるだろうが、それにしては結衣のケースは特異すぎる。
幼い頃に母親が他界して、高校上がる直前に父親まで亡くして、それ以来世間の冷たい視線に耐えながら祐斗は一体何を思ったのだろうか。
どんなに苦しくても、どんなに辛くても自ら周囲の人間に助けを求めることは出来ない。その前に、祐斗はちょっとした人間不信に陥っていたのだから。
透子だって何度も彼を助けようと思った。しかし、幾度となく祐斗はその協力を拒み、自分に素っ気無く接するだけ。この前の休み時間の時ように。
『透子が勇気を出せないでいる理由、あたしわかるよ。
少し前までは親しかったのに急に余所余所しくされちゃ、誰だって堪えるさ』
「始めは何とかしようと思った。でも、私じゃダメだったの。
……私じゃ、神崎さんみたいに彼の支えにはなれなかったんだ」
透子は痛感していた。自分が無力であること。そして、結衣になら祐斗の力になってあげられることを。
いくら望んでも透子に結衣のような包容力はない。祐斗の心の傷を一番癒してやれるのは自分ではない。結衣なのだ。
『透子、あんまりあたしに心配させないでよね。もしアンタがボロボロに傷ついたとしたって、あたしはアンタを本気で責めることなんか出来ないんだから』
中学時代の負い目もあるし、それでなくても透子はすぐに何かと追い詰めてしまう性分なのだ。
遥は例え透子が自分の命を自ら絶とうとしてももはや安易にそれを止めることは出来ないだろうと思った。
もし軽はずみな言葉を並べたとしても、それは透子の心には響かない。
逆に言えば、それが悪い意味での引き金となる可能性すらある。
そもそも遥が透子に出会った中学当時、遥はクラスで一人浮いていた。
逆に透子は持ち前の明るさで周囲を賑わすムードメーカー。
そんな二人がこうして高校に上がった頃にはすっかり親友同士になっていることなど、その時は一体誰が想像しただろうか。
かつて遥は学校が嫌いだった。日々の授業は殆ど寝て過ごし、休み時間になるとそのまま担任の許可なく早退したことさえある。
出席日数の関係でまた登校してきてもやはり普段の態度は変わらず、相変わらず不良のお手本とすら言われていたほどその生活態度は悪かった。
しかし、そんなある日、PTAでそのことが問題になった。
つまりは、ある生徒の親が遥の存在自体を問題視したのである。
あの子の生活態度には目に余るものがある。このままあの生徒の行動を許しては周りの子供達にも害が及ぶのも時間の問題だ。
その親の言い分はこうだった。しかしそんな風に言われることに遥は何の感情も湧いてはこなかった。
――しかし、一つだけ気に掛かることがある。
それは遥が自宅謹慎を言い渡される三日ほど前、いつも通り遥が昼前に早退しようとしていた時、それを遮るようにある一人の少女が現れた。
当時クラス委員だった透子である。
その時はちょうど祐斗とも仲が良く、透子は毎日笑顔を絶やさず暮らしていた。
大好きな人と一緒にいられる幸せ。女の子ならこれ以上の幸福はないと言える。
しかし、そんな中でいつも遥の存在は何処か気にかかり、それは例え祐斗と話をしていた時であっても変わらなかった。
大隈遥。何処か鋭い、しかし寂しげな瞳を持ち、同級生とは思えないほど大人びた容姿をした女の子。憂いの帯びた表情は、若干の祐斗と被る。
これで生活態度さえまともなら人気が出ても何らおかしくはなかっただろうに。現実はそんな甘い幻想を嘲笑うかのように冷たい不協和音を奏でた。
「……何の用」
中学校の校門前、追いかけてきた透子に遥が言った。
その顔は透子からは見えないが明らかに嫌悪が浮かんでいることだろう。
「何の用って……まだ授業終わってないよ。大隈さん、帰っちゃダメだよ」
「関係ない」
言うや透子を振り切り、そのまま校門を出て行こうとする遥。しかし、透子は慌てて遥の目の前に立ちはだかった。
クラス委員の義務という問題も勿論ある。しかし、何より透子は心から遥のことを心配している。それだけは確かだった。
この頃、既に一部のPTAが遥の生活態度を懸念し、クラス委員である透子は彼女を説得するように担任から言われていた。
実際このままでは学校を追い出される。義務教育ということから最悪退学という事はないが、これからの事を思えば安易に遥を家に帰す訳にはいかなかった。
「関係なくないよ! 知らないの? 大隈さん、PTAの人達に問題視されてるんだよ。
ううん、それだけじゃない。このままじゃ大隈さん、学校から追い出されてこの町からも――」
「それなら逆に清々するさ」
その言葉に透子は息をのんだ。冷たい声音。何処か闇のあるいでたち。
「元々この町にはあたしの居場所なんかなかったんだ。
それなら、退学だろうが停学だろうが痛くも痒くもないね」
その頃の遥には世間体など関係なかった。もし自分の態度のせいで学校に居られなくなっても然程問題視する程のことではない。
遥はそう言うや透子を遮って校舎を後にする。透子は心の何処かで歯痒さを感じながら、やがて気づいたように声を上げた。
「待って!――待ってるから。私、大隈さんのこと、ずっと待ってるから!!」
何てお人好しなんだ――。遥は背中に投げかけられた言葉に苦笑しながらも心の何処かで何とも言えないやりきれなさを感じた
自分の居場所はない。そう決め込んで普段学校にいても然程真面目には暮らしてこなかった。しかし、実際は違ったのかもしれない。
自ら自分の居場所を見つけようとしなかった。だから居場所がなかった。
それだけの話だ。しかし、今更それに気づいたところで後の祭りでしかない。
しかし、数日後遥にとって驚くべき事が起こった。あれほど問題視されていたにも関わらず、遥は学校を追い出されなかったのだ。
話を聞こうと放課後、クラス委員の仕事をしていた透子を無理矢理屋上に連れて行くと透子は不思議そうに遥の顔を見つめた。
「どうしたの? 大隈さん」
「どうしたの、じゃないだろ! なんであたし、ここに居られるんだ……?
――……いや、この際そんなことどうだっていい。アンタ、一体何したんだよ!」
遥は透子が何か根回しをしたのではないかと踏んだ。本来PTAという人種は人の話を聞かないのが普通だ。
そんな連中を相手に、透子は何をして自分を学校に居られるようにしてくれたか。その手間は計り知れない。
しかし、透子は相変わらず屈託のない笑みを浮かべると呆気羅漢と言った。
「大隈さんの居場所は既にここにある。もしなかったとしても、これから作っていくことも出来るじゃない。
そんな簡単に"清々する"なんて言っちゃダメだよ。少なくとも私は、大隈さんがいなくなったら寂しいと思うもん」
「……アンタ」
驚いて透子を見つめる遥に透子は小さく首を横に振った。
「私は雨宮透子。呼ぶ時は透子でいいよ」
遥は今まで数多の笑顔を見てきたが、透子ほど自分の心を落ち着ける笑顔はないと思った。
つい先日まで学校に何の未練もないと自分に言い聞かせていた。そして、それが事実だと思ってた。
「……わかった。なら、あたしのことは遥って呼んでくれ」
「ホントに!? わぁ……ありがと、遥っ」
しかし、少なくとも透子がいれば学校も案外捨てたモノではないかもしれない。
学校が嫌いなのは変わらないけれど、このまま学校に通うのも悪くはない。
――その時から遥はそれなりに真面目に日々を過ごす事を決意した。
「それじゃ、透子。早速だけど今日一緒に帰らないか?」
「え、勿論大歓迎だよ! ……あ、でも、クラス委員の仕事が残ってるから、少しだけ校門で待っててくれるかな? すぐ行くから」
「ああ、いいよ。さっさと済ませといで。実はあたし、めっさ腹減ってんだ」
「ふふ……わかった。帰りに一緒に何か食べて帰ろうね」
「透子の奢りな」
「ダメ! 割り勘だよ、割り勘っ」
「ちぇっ」
そんなこんなで透子と遥の絆は今になっても色褪せないまま残っている。
今になってみれば立場が逆転しているような気がしないでもないが、それは二人にとって然程気になることではなかった。
親友の変わらない笑顔。互いにとってそれが何よりも幸せだったから。
「……ごめんね、遥。急に電話しちゃって」
『だからそういうことは気にしないの。友達でしょ?』
「……うん」
透子は涙で腫れた眼を擦ると遥の言葉に小さく笑みを漏らした。
遥は変わった。最初の頃は取っ付き難い印象を受けていたが、今は素っ気無さの中にも確かな優しさがある。
遥は本当に心から透子の事を心配しているのだ。だからこそ、これ以上心配はかけられないと透子は感謝を込めて微笑む。
「ありがとう。それじゃ、そろそろ切るね」
『今日はゆっくり休みなよ』
「うん、そうする」
『よし。それじゃ、おやすみ』
「ふふ……おやすみなさい」
プチッ。電話が切れると透子はコードレスフォンを枕元に戻し、そのままベッドから降りる。
そして、ふと視線が机の上の写真立てに向かい、透子は少し間を開けると、クスッと今一度笑みを漏らした。
写真は中学の頃に遥や祐斗と教室で撮ったものだった。自分の右には遥、左には祐斗がいる。
――どう足掻いても過去には戻れない。だったら、多少冒険してでもこれから先の未来に向かうだけだ。
同じ頃、とあるマンションの一室にも一本の電話が入っていた。
小奇麗に整理されたクラシックな空間。――君島祐斗の部屋だ。
しかし、こちらは相手が友人の類ではないのかあからさまに嫌そうな顔をしていた。
「――それで、御用は?」
『だから、本当に悪かったと思ってるって! いい加減機嫌直してくれよ』
用件は今日の昼間の事だった。和人は人懐っこい性格でクラスでは誰からも好かれる人気者らしいが、
だからといって今回の事を安易に許せはしない。もしそれをすれば、和人の行動を認めるようなものだ。
『あれから、俺も色々考えたんだ。オマエが両親を失って、周りから蔑まれて毎日どんな気持ちでいたか』
「………」
どうやら和人も祐斗の過去を知っているらしい。考えてみれば当然かもしれないが。
何せ直接美奈子と交渉をしたのは他でもない和人なのだ。そして、その書類には"和人の字で"祐斗のサインがあった。
興味本位でその中を覗いたとしても何ら不思議はないだろう。故に、祐斗も然程驚きはしなかった。――ただ少し苛立っただけで。
『俺には両親もいるし、すぐそばにはいつも元気な妹や弟達もいる。
どんなに考えてもオマエの苦しみを、俺は100%知ることは出来ないかもしれない』
「当たり前だ」
今回の件に関して環境の違いは大きい。いくら想像で相手の事情を把握しようとしても所詮それは想像でしかない。
実際、真実を知るのは本人のみで、本人が自分から直接話す気がなければもはやこの問題は誰にも手出し出来ない。
『わかってるって、取り敢えず聞けよ。――でも、俺は今回の件で思い知らされたんだ。
自分の軽率な行動は確実にオマエの負担になってる。俺が許されないのも仕方ないってな』
それなりに理に適っている意見だ。和人は案外物分りがいいのかもしれない。
しかし、くどいようだが、だからといって彼を許せる理由にはならない。
『だから、最悪俺は許されなくてもいい。ただな――西篠さんだけは許してやってくれねえか?』
「は?」
祐斗はいまいち事態が呑み込めずあからさまに怪訝した。
しかし、話を聞いてみると段々その言葉の背景が明確になっていく。
『彼女、あの後ずっと教室で泣いてたの、俺見ちまったんだ』
「…………」
『確かにオマエの言う通り、彼女には自分を本気で怒ってくれる人はいなかったかもしれない。
でも、だからこそ彼女にはオマエの態度が相当堪えてたんだ。それ程のダメージ――お前にわかるか?』
わかっている。自分でも今日の自分の態度が女の子に対するものにしてはあまりにも酷だと思った。
しかし、あの場で怒りを発散しなければ今頃彼女は尚も自分のしたことの残酷さに気づかなかっただろう。
人の過去を無理矢理引き出し、挙句それをちらつかせて自分との関係を築かせようなど正気の性とは思えない。
そもそも、そんなことをして友達という名の関係が本当に形成されるだろうか。当然答えはNOだろう。
「わかってるさ」
『ん?』
「彼女に悪気がなかったことも、俺の態度があまりに過剰すぎていたこともわかってる。
――でも、だからって安易に許せるものでもないんだ。」
『…………』
「過去は俺にとって戒めの鎖だ。受けた傷が大きいほど人は臆病になって
その先の未来を生きる気力がなくなる。そういう意味では彼女も俺と同じなんだろう」
今、美奈子は精神的にかなり滅入っている。
そして、その傷はすぐには回復するものではない。
「かつての俺は過去を思い出すとその後の数日は、その後遺症に悩まされた。
――……いっそ、自分で自分の喉をカッ切ってしまいたい気分になるよ」
息の根を自分で止めてしまえばこの苦しみからは解放される。
しかし、それは同時に生の終わりをも意味する。
ゆえにそれはそう簡単に出来るものでもなかった。
『祐斗。』
その張り詰めた一言に祐斗は一瞬目を真ん丸くするとやがて一笑する。
「安心しろ。今は自殺願望なんかないから」
『……ならいいけど。』
自分の軽率な行動が元とはいえ、このまま自殺でもされたら後味が悪すぎる。和人は本当に安心したように一つ息をついた。
『それで? オマエ、これからどうするんだ』
「……フッ」
『? おい、何笑ってんだよ。祐斗』
和人は祐斗の反応に怪訝し声のトーンがやや下がった。
祐斗は少しの間笑みを漏らすとやがて落ち着いたところで改めて口を開く。
「いや。オマエ、結衣と同じ事聞くんだなと思って」
『は?』
「アイツも今日言ってた。「これからどうするんですか?」って。」
『……そりゃ、オマエのことが心配だからだろ。
そういう意味では、俺は神崎さんと同じ気持ちだぜ』
「わかっているよ。美奈子お嬢様とはいずれ機会があれば話し合う。
もっとも、あちら側にその気がなけりゃ、水掛け論で終わるだけだがな」
話し合いとは本来双方が真正面から向き合って初めて成立する。
もし片方が真剣でも、もう片方に真剣さが足りなければそれは話し合い足り得ない。
否。真剣さ、ではなく強いて言うなら相手を理解しようとする心意気だろうか。
『その心配はないぞ』
「ん?」
『……彼女も、オマエに謝りたいって言ってた。』
それは今日の放課後。祐斗が教会前のベンチに向かっていた時、和人はやはり美奈子が気になって改めて階段を駆け上がった。
案の定、教室の中からは泣きじゃくる声が聞こえ、覗いてみるとそこには未だ悲しみに打ちひしがれている西篠美奈子の姿があった。
その風貌たるや財閥のお嬢様には見えない。強いていうならば、たった一人放課後の教室で泣きじゃくる"西篠美奈子"という名の女の子。
いくら泣いても涙は止め処なく溢れてくるようで、それが自分の言葉で止められるとは思っていない。
が、だからといってこのまま黙って帰るわけにはいかないと和人は意を決して教室へ入っていく。
元はといえば自分の軽率な行動が引き起こした結果なのだし、
和人には目の前の現実に何かしらのケジメをつけなくてはいけなかった。
「! あなたは……」
「こうして面と向かって話すのは初めてだな。檜山和人。祐斗の――ダチだ」
本来ならば祐斗の友達を自称する資格はないのかもしれない。和人は知り合いの情報屋に頼んで祐斗の個人情報を入手したのだが、
今思えば、それは限りなく愚かな行為だった。それが原因で少しずつ仲良くなっていた祐斗を怒らせ、挙句美奈子まで悲しませてしまったのだから。
「……君島さんは?」
「帰った。もう、学内にもいない」
「そうですか」
美奈子はその答えに目に見えて落胆し、間髪入れずに再び嗚咽を漏らした。
本当はちょうどその頃、祐斗はいつもの教会前のベンチにいたが、
それを話したところで何にもならないだろうと和人は敢えてそのことを伝えなかった。
「……私……わたし、これからどうすればいいんでしょう……」
「え……」
「……君島さんとはもう、お話をするどころか、
普通にお会いすることも……出来そうもありません」
「………」
美奈子は何処までも祐斗しか見ていない。
不純な動機がきっかけとはいえ美奈子の存在を少しずつ特別なものと認識していた和人はそれに少なからずショックを受けた。
そもそも、祐斗にあれだけの屈辱を与えてなお、彼女を想う資格はないのかもしれない。
がしかし、このまま彼女を放っておくことは和人には出来そうもなかった。
「たしかに、君は――いや、俺達は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
実のところ俺だって祐斗が怒る気持ちもわからなくはない」
「……辛い過去だから、忘れたい過去だから……君島さんはそれを知られて傷ついた」
こくり、と和人が美奈子の感情のないその言葉に頷く。
「でも、祐斗がどれほど深い傷を負っていたとしても、
それを受け止められる人がいれば、そう簡単に傷は開かない」
「! まさか……彼には今、過去の傷を話せる相手がいないとでも? だって、あなたは彼の御学友で……」
しかし、和人は苦痛な表情のまま首を横に振る。
「本来は然程親しくも無いんだ、俺達」
「………」
「それに……もしアイツに過去の傷を洗い浚い話せる相手がいても、そのすべてを受け止めるには並の精神力ではとても無理だ。
――その上、その傷を俺が半ば無理矢理に掘り起こしちまった。結果、アイツの傷は当初の倍かそれ以上に膨れ上がってる。
目の前の現実は当然の成り行きだよ」
祐斗の心の傷。それは過去の記憶だけではなく、和人と美奈子の行動によって今確実に深くなっている。
こればかりはいくら結衣でも癒すことは難しいだろう。
事の深刻さを初めて知った美奈子は思わず言葉を失った。
温室育ちである美奈子にもやはりそれ相応の感受性があった。
現実は想いを寄せる相手を自分の手で傷つけてしまったのだ。
「私……どうしたら……」
呆然としながら呟く美奈子。
もう、どうしていいかわからなかった。今日まで生きてきて、美奈子にはこれほど複雑な現実に直面したことはない。
祐斗の言うように、何不自由なくすくすくと育ってきたのだ。だからこそ現状に立ち向かう意志を即座に持てるわけがなかった。
「簡単だよ」
「え……?」
そうあっさりと言ってのける和人を驚いて見つめる美奈子。
しかし、和人の顔には彼独特の人懐っこい笑みが浮かんでいる。
「君が誠意を持って祐斗に謝ればいい。
勿論、俺もそうする。――……一緒にアイツに謝ろう」
「……はい」
再び現在。
『へぇ……オマエって、結構マメなのな』
「茶化すなって。俺だって本当に悪いと思ってるんだから」
和人の部屋。祐斗のマンションとは違い、二階建ての一軒家で家族で住んでいるためそれなりに広い。
机の脇には趣味でやっているアコースティックギターがあり、よく見ると本棚にはギタースコアが数多く納まっていた。
『わかってる。これ以上ツンツンするのも嫌だし、今回の事は許してやるよ。』
「おぉ、祐斗大明神様! 有難き幸せっ」
そう言って大袈裟に歓喜の声を上げる和人。
勿論本音だ。これ以上祐斗と険悪になるのは嫌だったし、何より自分なりに彼と仲良くしたかった。
それが自分が犯してしまった罪に対する償いだ。
そして、自分の想い人――美奈子を苦しめた自分に対する、せめてもの慈悲でもある。
『ばーか。気持ち悪いこと言ってんな』
「失敬な! これでも俺は本気と書いてマジだぞ」
『んな、下らない弁明はいいから』
和人は繰り返される祐斗の言葉にそっと胸を撫で下ろした。どうやら本当に許してくれたようだ。
「――兎に角、西篠さんとのことは俺が仲介に入ってやるから、ちゃんと許してやれよ」
『ああ、了解した。――……しかし、和人。あの美奈子お嬢様の何処がそんなにいいんだ?』
祐斗の心にふと浮かんだ疑問。しかし和人は意外とあっさりとそれに答えた。
「全部。全て。英語で言うとオール」
まさに間髪入れずだ。和人の想い人が美奈子であることは先ほどの回想の説明で既に言っている。故にこれ以上黙っていることもなかった。
『アホ、んなはっきり言うな。聞いてるこっちが恥ずかしい』
「へへっ」
苦笑する祐斗を余所に和人は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
これで明日、美奈子と祐斗の間に生まれた亀裂が修整出来れば何も言うことはない。
――しかし、そう簡単にいくだろうか。
同時刻、姫野市の中でも一際その存在感を持つある建設物。ある有名な設計士が設計したその豪邸こそが西篠財閥の本拠地――西篠邸だ。
東京ドーム一個分はあろうかという広さの敷地内に屋敷と別館室内プールなどの施設が建ち並び、明らかに常人の住む世界とは異質の空気が漂っていた。
夕刻を過ぎ、周囲が暗くなったせいも多少はあるだろうが、元々敷地が広すぎるというのも間違いなく理由の一つとして挙げられる。
何せ庭に生えている草木は一部を除きほぼ全て海外から取り寄せたものが植えられているのだ。常人の住む世界ではないのは一目瞭然である。
そんな中、一人の少女が庭の人工芝を歩きながら、そっと池の前に立ち止まった。
フリルの沢山ついた上品なドレス風の寝間着を着ている美奈子だった。しかし、その視点は何処を見る訳でもなく宙を漂っている。
――美奈子は今、ある日の回想に浸っていた。
今年の四月――私立姫野学園の入学式の日、美奈子は同級生の中に自分と同い年とは思えないほど大人びた少年の姿を見つけた。
少年は何処か鬱陶しそうに周囲の何処にも視点を合わせず何となしに宙を見つめ、かと思えば制服のポケットに手を突っ込みながらそのまま何処かへ行ってしまった。
美奈子は初めて見た時から少年のミステリアスな雰囲気に惹かれ、何度か声をかけようとしたが箱入り娘の彼女にそんな勇気があるはずもなく、日々は刻々と過ぎていく。
今日のような夜を重ねる度、脳裏に浮かぶ少年の暗い瞳が美奈子には何処か艶かしく感じられ、それがたまらなく心地良かった。
今思えば、今までずっと屋敷に篭りがちだった美奈子にとって、それが"遅すぎる初恋"だったのかもしれない。
そっと自分の胸を抱く美奈子。すると、胸に確かに感じる痛み。やがて耐えられなくなってふとその場にしゃがみ込む。
「……ぅ……く……っ」
辛い。今まで約16年間生きてきて感じたことのない圧迫感に、美奈子は必死になって耐えていた。
元はといえば自分の軽率な行動から起こった事だ。今更逃げられるものでも、まして無かった事にすることも出来ない。
密かに好意を寄せる相手の情報――美奈子が和人を通じて入手した君島祐斗の暗く閉ざされた過去。
彼の瞳に浮かぶ闇が発生したまさにその瞬間をも垣間見ることが出来る細かな個人データ。
――実のところ、それを入手したいと思ったのは必ずしも彼女の意思という訳ではない。
ある日、自宅の庭でいつになくボ〜ッとしていた美奈子を、
彼女の父親である西篠禎治氏が声を掛けた。
最初はもたついて理由を言い出せなかった美奈子だが、
このままただボ〜ッとしていても仕方がないと勇気を出して事の経緯を告げた。
高校の入学式当時から気になる異性が出来たこと。
そして、日を重ねる毎にその少年の顔ばかり脳裏に浮かべてしまっていること。
禎治は最初怪訝そうにしていたが、やがて何かを閃いたのか意味ありげに口元に笑みを浮かべ、美奈子にこんな言葉を投げかけた。
『ならば、彼の個人情報を入手すればいいのではないか?
さすれば悩みも少しは晴れよう。私に任せておきなさい』
結果として、その言葉が美奈子暴走の引き金となってしまったわけだが。
何故和人に情報リークの矛先が向いたかといえば、西篠財閥の現当主である禎治は立場上姫野市内の住民情報に少し通じており、例えばある人物を探したいという依頼があれば今、市内の何処に住んでいるかまたその場所には今何人で住んでいるのか等、短時間であらゆる情報を得る事が出来、檜山和人はその中でも美奈子と同学年であるし、知り合いに裏業界でそこそこ名のある情報屋がいることもわかっていたからだった。
個人情報の売買はお世辞にも良い商売とは言い難いが、学園内でそれらを誰にも見られずに受け取る時間は十分あるだろう。
実際、美奈子は和人から君島祐斗の個人データを誰にも見られる事なく入手した。
そして、数日が経ち、過去をちらつかせることで祐斗の近い存在になることを望んだ。
しかし、ハタから見れば非常識で失礼極まりない事と知らずに美奈子はそれに気づかない。
というより、気づける材料がないと形容した方がよりしっくりくるだろうか。――繰り返すが彼女は折り紙付きの箱入り娘だ。
もし好きな人が出来ても声をかける勇気さえなく、かといって遠くから彼の姿を見守っているだけではあまりに辛すぎる。
もっとも、このような結果になるくらいならそうした方が幾分ラクだったかもしれないが、彼女にそれを自覚出来るだけの経験はない。
それならいっそ、彼自身の情報を手に入れてそれで彼の事を知った上で、"御学友"という形で祐斗とお付き合いを始めたかった。
――それが美奈子の本音だ。しかし、現状はあまりにも複雑で、彼女は今になって自分の躰を蝕む"何か"の存在に気がついた。
その"何か"さえなければ、美奈子は明日勇気を出して迷わず祐斗に謝罪が出来たかもしれない。
しかし、その"何か"を生み出したのは間違いなく軽率な美奈子自身の行動であるのも確かだった。
逃げられない現実。いくら時間を重ねて、いくら無い頭をフル回転させても現状は一向に覆せるレベルにはならない。
次第に生まれる焦り。悲しみ。虚無感――。美奈子はそんな感情を胸に秘めたまま、今 夜の庭を佇んでいたのだった。
明けて金曜日。姫野学園は些か騒がしかった。来月の十一月四日には秋の学園祭を控えており、今日は授業が終わるとその準備に大新波だった。
学園祭は毎年各学年・各クラスでそれぞれ思考を凝らした出し物を用意し、外来にも十分喜ばれるような雰囲気作りを心掛けており、
今年は学園の敷地内に様々な出店を並べたり、教会の前で吹奏楽部がクラシックを演奏したりすることが既に決まっていた。
一年A組。黒板に白いチョークで"小物屋"だの"仮装行列"だの色々と候補が挙げられている中で
ただ一つ、マル印がついている項目があった。――\"喫茶店"。どうやらそれが今年の出し物のようだ。
「おいおい、よりにもよって接客かよ〜、だりぃな」
ふと祐斗の後ろの席で聞きなれた声が響いた。振り向く間もなく祐斗は皮肉を浴びせる。
「……んなこと言って本番サボるなよ、和人」
「うるへー」
今までは気づかなかったが、驚いたことに祐斗の後ろの席は和人だった。
普段然程周囲を意識したことも無かったが、いざこうして見ると妙な感じを覚える。
祐斗は高校入学以来、一度たりとも人の存在をこんなに近く感じたことはなかった。
それは、中学時代はそばに透子がいたかもしれないが、今年に限って言えば和人の存在は大きい。
つい昨日、電話で話した事も少なからず影響しているだろうが、何より彼は性格上、何処か憎めない。
人懐っこい少年のような笑みは典型的な楽天家を意味し、時折見せるぶっきらぼうだが暖かな言動は彼の人柄を表す。
祐斗は和人と小一時間しか話していなかったにも関わらず彼に気を許した数日前の自身を思い返し、その理由がやっと府に落ちた。
出会いが最悪なだけに最初は然程気にしていなかったが、檜山和人の天性の楽天主義と仁徳溢れる行動はまさに称賛。
それは、彼も人間故にかったるいと思う事もあるだろう。しかし、だからといって普段の彼の人柄を無に返せるものではない。
「――それでは、今決めた役割分担に基いて各々が各々の力を最大限に発揮出来るよう、事に邁進せられたし。以上だ」
教壇に立つ男子生徒はその独特の硬い口調を崩さず、クラス委員という立場からはっきりとクラス中にその声を響かせた。
一年A組のクラス委員――渋谷英二は責任感の強い生徒でその頑なな態度は教師には好評だった。
もっとも、生徒からすれば彼の態度は普段から何処か偉そうで鼻につく。――所謂、典型的な嫌われ者の性格なのだ。
「にしても、相変わらずうちの教授は凛々しいことで」
祐斗はあくまで口の中で呟くように言った。祐斗は教授――つまり、英二が嫌いだった。
――と、かなり小さい声で言ったにも関わらず、何処からか笑い声のようなものが聞こえてきた。
「ふふ、言えてますね。噂じゃ今回の学園祭、生徒会の代表で学年全体を彼が取り仕切るらしいですよ」
「へ……?」
不意に和人ではない声が耳に響いて、祐斗は素っ頓狂な声を上げてしまった。声の主は隣の席にいた優しい顔立ちの少年だった。
「……えっと……」
「はぁ……どうやら、檜山君と同様、僕の顔と名前の方も一致していないようですね」
如何にもわからなそうに眉をひそめていた祐斗に少年が困り顔で苦笑する。
そう。一見して美少年であることはわかる。しかし、肝心の名前がどうしても思い出せない。
入学から半年以上立っている時期にも関わらずだ。考えてみれば祐斗はかなり薄情者である。
「いいですよ。あなたのそういうところは今に始まったことではありませんし……何より僕は、比較的心が広い方なのでねっ」
少年は再び微笑むと、祐斗にウィンクを送った。些か今の年齢には似つかわしくない大人びた仕草。相手が女子なら思わずドキッとしてしまうところだ。
「……変わった奴だな、おまえ」
「む、随分な物言いですね。ま、いいです」
少し膨れたようだが、すぐに表情を戻し少年はおもむろに名乗り始めた。
「僕は皇紘大。あなたがさっき言っていた教授は僕の幼馴染みですよ」
「え?」
その言葉に祐斗はもう一度教壇に立つ英二を凝視する。
彼は相変わらず頑なな表情を変えず、雑務を淡々とこなしていた。
あの"堅物クン"の目の前の"優男"が幼馴染み。この、全く正反対の性格をしている彼らが。俄かには信じ難い事実だった。
しかし、目の前の美少年――鉱大は相変わらず好意的な笑みを絶やさず、如何にも祐斗の反応を楽しそうに見つめていた。
「……んだよ」
「いいえ? 何でもありませんよ」
「………」
――ヘンなやつ、それが祐斗の鉱大に対する第一印象だった。
今まで自分をここまであからさまに楽しそうに眺める人間を彼は見た事がない。
中学時代の透子は――まぁ、別の意味で微笑みを絶やさない少女だったが、
彼女と鉱大とでは全く別の人種であることは火を見るよりも明らかだろう。
彼女の場合は祐斗に対する好意が含まれていたが、目の前の美少年の瞳は明らかに違う。
もっとも、男同士で好意を持たれても困るが、何よりその笑みは意図が掴めない。
一見すれば、楽しそう、嬉しそう、という形容も強ち間違ってはいないが、
明らかにそれとは違う念も込められているのは明白だった。
やがて、一通り学園祭の準備に区切りがつき、祐斗は和人と共に学園の校門で帰路に発とうとしていた。
しかし、一見して二人は仲の良い友人同士に見えるが、その顔は何故か優れない。
その理由は何より数メートル離れた少女の存在にあった。
胸辺りまであるロングヘアは生まれつきウェーブがかかり、
少女は姫野学園指定の制服を上品に着こなしている。
美奈子である。一通りの準備が終わった後、和人が彼女のクラスへ行って態々連れてきたのだ。目的は勿論――つい先日の謝罪。
しかし、謝罪と言っても何から話せばいいかわからず、暫し三人の間に重苦しい静寂が訪れた。やがて、その沈黙を破るように誰かが一つ溜息をつく
「おい……このままボ〜ッとしてていいのか?」
祐斗だった。その一言に美奈子の躰が少し震える。
「……すみません。で、では……まず謝らせてください。
この度は、一個人の判断で勝手なことをしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。
あなたの気持ちを考えることも出来ず今に至ること……本当に、申し訳御座いません」
祐斗の言葉に促されるようにして美奈子が頭を下げる。彼がそれを意図して声をあげたのか、と和人は思わず祐斗を凝視した。
視線の先の祐斗は相変わらず無表情のまま視線は美奈子に向けている。見る人から見れば怒っているとも感じられるかもしれない。
――と、やがて祐斗はフッと笑みを零し、首を横に振った。
「え……」
きょとん、とする美奈子。それを見て、和人が大袈裟に肩を竦めた。
「たしかに今回、君の行動は度が過ぎていた。
正直、過去を引き出されてあまりいい気分はしなかったよ」
「祐斗。」
「まあ待て」
何か言いたそうな和人を制し、祐斗は美奈子に向き直る。
「前に俺は言ったな。『人の過去は本人ですら時間をかけて蓋をしてしまいたいものも存在する』と」
「……はい」
勿論、美奈子もその時の事は覚えている。というより、忘れられない、と言った方が幾分適切だろうか。
何故なら、それを言った時の祐斗の顔は忘れたくてもそう簡単に忘れられるものではないのだから。
憤怒、嫌悪――そして、微かな悲しみを湛えた祐斗の表情。それを思い出すだけで美奈子の心はチクリと痛む。
しかし、今目の前の現実から目をそらしてはいけない。それをしたなら、どんなに言葉を並べても謝罪にはならないからだ。
美奈子は極力祐斗から意識をそらさないようにしながらも、その躰は小刻みに震えていた。
和人は一瞬、その肩を支えてやりたい衝動に駆られたが、もはやそれすら許されない。
こうしてしまったのは美奈子の軽率な行動と、およそ和人らしからぬ無慈悲な行動の結果。
心臓を貫くような鈍い痛みが和人の胸に突き刺さる。もはや、まともに美奈子の顔さえ見れない。
「……俺の過去はその典型的な例、とだけ言っておく。
例え相手が親しい人でも、今後一切このような真似はするな。
それが約束出来るなら、これ以上君を咎めることはしない」
祐斗は真っ直ぐに美奈子を見つめた。美奈子もほぼ泣き顔とも形容出来る顔ながら、真っ直ぐ祐斗を見てる。
「――お約束します。もう二度と、このような醜態を晒すことはしません。
もしそのようなことに再びなったとしたら、私は如何なる贖罪をも受ける覚悟です」
醜態――。強ち間違ってはいないが、傍目典型的なお嬢様である美奈子からは到底浮かんでこない言葉だ。
祐斗はその美奈子の真っ直ぐな瞳を捉えながら、やがてコクリと頭を縦に振った。その刹那、一つ溜息が漏れる。
「……これで、取り敢えず一件落着、か?」
「そうだな。彼女も反省しているようだし、俺もこれ以上腹を立てていたくない」
その言葉に和人が再び溜息まじりに頷く。
「よっしゃ。んじゃ、景気祝いにどっか寄り道して行かねえか? 勿論、西篠さんも一緒に」
「えっ……?」
驚いて和人を見つめる美奈子。
如何にも「いいんですか?」と言いたげだった。
その視線を感じて振り向くと和人は一笑した。
「なっ、それくらいいいだろ、祐斗? もう彼女は俺達と同じ学友同士だ。
――ま、ちょっち遠回りしたが、これで俺の望みも達成されたって訳だな」
「?」
如何にもわからなそうな美奈子を余所に祐斗は和人に向かって小さく溜息をつく。
「結局それか……なんて現金なやつだ」
「失敬なっ! 忍耐力がある、と言ってくれ」
「冗談。ただ"がめつい"だけのくせに」
「ぐっ……かはっ! ――効いた。今のは事実なだけに無駄に効力が高いぞ、祐斗!」
「否定しないんだな。やっぱり俺、お前との付き合い考え直そうかな」
「うっ……そ、それだけはやめてくれ!
折角またこうして一緒に歩けるようになったのに」
くくっ、と泣いてみせる和人。その肩に祐斗は手を回し、宥める。
「はいはい。そんなことはどうでもいいから、早く行こうな」
そうしてそんな軽口を叩きながら、祐斗と和人は校門を出て行く。
そんな中、見慣れぬ目の前の状況にきょとんとしてそれを見つめている美奈子。
「――あ、待ってくださいっ!」
やがて美奈子は気づいたように二人の背中を追うと、心持ち若干の緊張を示しながら手に持っている鞄を両手で持ち直す。
――幸いそこには、先ほどまでの悲しみと苦しみに満ちた表情はない。ともあれ、この件は一件落着したのだった。
それから連日、祐斗は和人と共に美奈子を引き連れて街に出て遊んだ。
最初は緊張していた美奈子も段々打ち解け、今や完全に場に馴染んでいる。
いつもは近寄り難い財閥のお嬢様。その実態はあまりに素朴で、その上可憐でもあった。
小さい頃から箱入り娘だったが故の世間知らずな一面。
電車やバスの乗り方もロクにわからず、その度に和人が彼女の世話を焼いた。
――もっとも、和人はそのお陰で彼女との接触が増えて大喜びだったが。
そうして時は流れ、翌日の放課後。
祐斗は久方ぶりに敷地内の教会前へ足を運ぶ。
案の定そこには見慣れた先客の姿があった。
「よっ、久し振りだな」
「祐斗さん…………はい、お久し振りです」
結衣は祐斗の言葉に反応こそするが、しかし依然としてその顔は優れない。怪訝する祐斗。
やがて、彼は結衣が座っているベンチとは別のベンチに座るとおもむろに口を開いた。
「元気……ないな。」
「………………」
何も答えない結衣。ずっと会いたかった彼に会えたはずなのに、そこにはかつての明るさはない。
「……先日、祐斗さんのご両親のお話を訊いてから、色々考えていました」
「えっ?」
祐斗が振り向くといつも以上の儚さを宿して、結衣は再び口を開いた。
「実は私、父を交通事故で亡くしているんです」
「!」
「………」
結衣にとって辛いはずの過去。それをさも簡単に言ってのける彼女に祐斗は驚きを隠せなかった。
祐斗ですら結衣に自分の過去を話す時、少し躊躇いがあったのに今の彼女にはそれが全く感じられない。
「結衣……おまえ」
「心配なさらないでくださいね……私は、大丈夫ですから。
あなたに私の過去を訊いて貰いたい。今はその事しか頭にありません」
「………」
絶えず小さく微笑みながら、やがて意を決して結衣は話の続きを口にする。
「……父がこの世を去ったのは、私がまだ幼稚園の年少さんの頃です」