〜3.波紋、拡がりきる頃には〜
祐斗の憤怒と結衣の涙。それらの意味するものとは一体――。
水曜日の放課後。今だ雨は降り続いていた。
B組の結衣は帰りのホームルームが終わるや気づいたように意識を隣のクラス――祐斗のいるA組に向ける。
雨が降っている以上、いつもの場所で彼と会うことは出来ない。昨日の今日では、むしろその方がいいのかもしれない。
しかし、結衣は祐斗の存在を求めていた。
昨日、話を最後まで聞けなかったこと。
家に送って貰ったのにちゃんとお礼を言っていなかったこと。
――様々な思いが彼女を動かす。
しかし、隣のクラスを覗くと彼の姿はなく、疎らに生徒の姿があるだけだった。
やりきれない思いにかられながら結衣は仕方なくその場を後にした。
そして、昇降口。
「……祐斗さん」
気づいたように結衣が声を上げた。視線の先にはスラッと伸びた背丈にほんの少し儚げな雰囲気を湛えた少年。
しかし、彼の様子を気にしてか結衣は少し躊躇った後、下駄箱へ行くと靴に履き替えるやそのまま玄関を出て行った。
――今は話し掛けられない。普段通りの態度を出来るかすらわからないのに、こんな不安を抱いたまま彼と会話なんて出来ない。
結衣はそう固く決意し、苦渋の表情で姫野学園の校門をくぐり、そのまま大急ぎで自宅までの道のりを走り始めた。
一方、祐斗が校門を出ると今だ止む気配すらない雨に憂鬱な気分になりながら、やがて意を決して前に向き直る。
いつまでも下を向いて歩くのはよくない。何より気分が晴れないのだから、そうしたところでその背後には冷たく暗い影しか落とさない。
「っ!?」
――と、数メートル進んだところで不意に後ろから抱きつかれるような感覚に襲われ、
それに驚いた祐斗は身を翻して自分を掴む人物に瞳を向けた。
「よっ! 君島。ヤケに暗い顔してるな、何かあったか?」
何だ、この馴れ馴れしさは……とも思ったが、祐斗は自分の体から彼の両手を振り払うとすました顔のまま言った。
「……別に、おまえには関係ないだろ」
祐斗はあからさまに不快な表情を露わにしているが、目の前の男にそれを気にした様子はない。
人懐っこい、というか極端に図々しい人間に出会ってしまったと祐斗は少し頭を痛めたが、間髪いれず口を開く少年。
「なあ……おまえ、最近女の子とよくいるよな?
敷地内の講堂で……あれ誰なんだ、おまえのコレか?」
言うや少年は自分の右手の小指を立て、祐斗に示した。
――小指立ては即ち、"彼女"の意。
結衣とはたまたま居場所が同じなだけで別にそこまで親しい関係ではない。
しかし、祐斗はそれを否定するのも面倒と言わんばかりにその男を睨みつけた。
「うおっ!? そんな睨むなよ。大体話してる人がいるんだから、
それに耳を傾けるのが礼儀ってモンだろ。そう母親から学ばなかったのか?」
「それを言うなら、おまえは初対面の人へのマナーってもんを、学ばなかったらしいな」
やれやれ、と大袈裟にため息をつく祐斗。
先程からの彼の態度にいい加減無視するのも疲れてきていた。
「何言ってんだよ。俺はおまえと同じクラスの檜山和人。
たしかに一度も話してないかもしれないけど、一応クラスメイトだぞ」
言うや男――檜山和人は自分を指さした。
言われてみれば祐斗は目の前の彼の顔に見覚えがある気がした。
「……そうみたいだな。」
「うわっ、ひでぇ!」
和人は本来クラスメイトであるはずの祐斗に初対面扱いされたことに非難の声を上げる。
しかし、本気ではなくあからさまにふざけた口調なため、本気で非難しているわけではない。
祐斗は先程から和人の大袈裟なリアクションに苦笑を漏らしていた。
自分とは正反対の性格の同級生。それは、最も自分が忌み嫌うはずの存在。
しかし、どうだろう。最初こそ彼にあまりいい印象を抱かなかったものの、
和人と言葉を交わすことはむしろ安らぎすら感じさせるほど穏やかなものに変わっていく。
彼の人柄のせいだろうか。小一時間ほど会話を繰り返すと、不思議と次々に紡いでいく彼の言葉に特別深い嫌悪を感じることはなくなった。
とある十字路に差し掛かると和人は祐斗に向き直る。
「じゃ、また明日な。祐斗」
「ああ。」
それだけ言葉を交わすと和人は祐斗とは逆方向へ歩き出す。それを見つめながら小さく笑みを零す祐斗。
次に学校で会った時は、今までのように頑なに人を拒むことはしないだろう。
少なくとも彼と話すことにもう抵抗はない。いつしか祐斗は和人に心を開き始めていた。
しかし、それが後にとんでもない事態を引き起こすことになろうとは、予想だにしなかったのだが。
一方、こちらは場所変わって古風な印象の強いとある家庭。
瓦造りの屋根と家全体をしっかり支えている数本の柱。
庭にはいくつかの竹筒を固定して作られた獅子威しがあり、
水が溢れてはその度に、カコンッ――と良い音を立てる。
やがて、玄関に薄いグレーカラーのセーラー服を着た少女が優れない表情のまま現れる。
玄関に入るや、少女はほんの小さな声で「ただいま。」と言い、静かに扉を引いた。
「あら。おかえりなさい、結衣。」
「……うん、ただいま。お母さん」
一見して子持ちには見えないほど綺麗でシワ一つない顔立ちと容姿。
少女――結衣の母・珠美。彼女は娘の結衣に似てどこか儚げな雰囲気を持つ女性だった。
10年前、不慮の事故によりこの世を去った父・神崎和也を心から愛し、現在は生涯独身を心に誓う。それが彼女。
事故直後、和也を失った珠美は酷く落ち込んで一時は食事も喉を通らなかったが、彼女には当時幼かった結衣を養うという義務があった。
結衣は小さい頃から大人しく素直な女の子だったが、反面泣き出すと止まらない。
しかし、珠美にとって結衣の存在はまさに天使のようなもので、その泣き顔すら愛しかったという。
つまり、愛娘・結衣の存在が今の珠美を形作っていると言っても、もはや過言ではなかった。
「……元気、ないみたいね。」
母は結衣が真っ直ぐに自分を見ていないことに少し表情を沈めた。
普段、結衣が人と話す時は相手の目を見るが、今は違う。
何処か伏目がちで視点もはっきりしていない。
「うん、ごめんなさい……お母さん」
消え入りそうな声で結衣は言った。
母を前にしてもいつも通りの自分でいられない。
そんな自分に歯痒さを感じながら、ふと顔を歪める。
そして、珠美は少し間を置くと、やがてクスッと笑みをもらす。
「……いいのよ、結衣。さぁ、早く着替え済ませちゃいなさい。
お食事出来たら呼びにいくから、それまで休んでいて……ね?」
「うん……ありがとう」
結衣は母の言葉に頷くとそのまま真っ直ぐ自分の部屋へ向かう。
結衣の部屋は階段を上がった二階の突き当たりにある。
小奇麗に整理された和室。壁伝いに背の小さい勉強机があり、部屋の中央には丸い卓袱台がそれぞれ配置されていた。
襖を開けると押し入れの上辺には布団、そして下辺に箪笥が収納されており、そこには結衣の私服が納められている。
結衣はセーラーのスカーフを解くとそのまま私服へ着替え始めた。
当然の如く、終始結衣の表情はやはり優れない。
やがて着替えが終わると結衣は部屋の窓を開ける。
心地良い風が室内に流れ、空気が浄化されていくのを感じながら、不意に瞳を閉じる。
「………」
――いつから、こんなに弱くなったんだろう。
いつしか結衣の心は大きな不安で埋め尽くされていた。
人と話すことでさえ安易に出来ない。そんな自分が悲しくて、
やりきれなくて、結衣はそのまましゃがみ込むと自分の膝を抱く。
スゥ――と瞳を閉じ、やがてそこから溢れ出した何かが頬を濡らした。
程なくして今度は定期的に嗚咽のようなものが聞こえ始める。
明けて木曜日、祐斗はあからさまに不機嫌だった。その原因は言うまでもなく先日出来た友人――和人である。
「というわけで、君島さん。こちらの書類にサインか印鑑を御願い致します。あ、拇印でもいいですよ?」
言うや紙束を祐斗の机の上にドサッと置き、少女はにっこりと微笑んだ。
その紙束の表紙には『君島祐斗に関する個人データ』と記されており、下記に印鑑を押すスペースがある。
恐らく個人情報であろう。名前は既にそのスペースのすぐ脇に書かれており、それが余計祐斗の機嫌を損ねた。
祐斗はこの書類にサインした覚えはない。というより、見ることすら今が始めてだ。
にも関わらず、その書類とやらには彼の名義でサインがある。実に摩訶不思議である。
「……おい、和人。おまえだよな? このヘタクソな字」
「ぎ、ぎくっ!」
すぐ脇に今にも逃げ出しそうな男子生徒――和人を確認するや、祐斗は彼にヘッドロックをかける。
「ぐっ! 祐斗、ぐるじぃ! はな……せ……ってぇ……!」
「あまり抵抗しない方がいいぞ。余計入るから」
顔を苦痛に歪める和人を余所に祐斗はあくまでにこやかに言った。
その様子を先ほどからポカンと口を開けて見守っていた少女が口を開く。
「あの……?」
「あ、悪い。えっと……西篠さん、だっけ?
悪いけど、この話はなかったことにしてくれないか」
「えっ?」
西篠、と呼ばれた少女は祐斗の言葉に思わず声をあげた。
彼女の家――西篠財閥は地元では有名な富豪でその権力と財力は計り知れない。
この一家に関わるとロクなことがない、という話を祐斗は前もって知っていた。
何でも少女――美奈子は西篠家の一人娘で筋金入りのお嬢様で、一見おしとやかそうに見えて実はとんでもない世間知らずらしく、
今も『二人の御学友になる』というのを条件に祐斗の個人情報を入手しようとしていた。しかし、彼女に悪意はない。そこにあるのは、単純な好奇心だけ。
元は和人の目論み――美奈子と親しくなりたいというただそれだけのために、祐斗は自分の個人情報を半ば強制的に掘り起こされたのである。
そこには当然、他人に知られたくない両親絡みの情報もあるであろう。祐斗はその紙束を無造作に掲げるとそのまま真っ二つに引き裂いた。
「あっ……! な、何てことをするんですか!?」
そう言って慌てふためく美奈子を余所に祐斗は引き裂いた紙束を一つにまとめると、すぐさまそれで美奈子の視界を遮った。
「まあ待て。」
「きゃっ……な、何ですか?」
急に目の前が遮られ、少しだけ顔を赤くして声を上げる美奈子。
しかし、次に瞳に映ったのは思いのほか真剣な祐斗の顔だった。
「……っていうか、所詮これはコピーだろ。
これの元となったデータがあんたの手元にはある。違うか?」
美奈子は祐斗から紙束を受け取るとふと瞳を伏せ、再び祐斗を見た。
「……たしかに、ありますけど。
でも、それにはあなたのサインがありません」
「………」
そうやら美奈子はサインのあるなしに拘っているらしい。
しかし、元々和人が偽装したものゆえ、その価値はないに等しい。
「たとえそうでも、あんたが俺の過去を知っていることに変わりはない。
勝手に人の過去を掘り下げて、本人の知らないところでそれを読み耽る。それがあんたの趣味か」
祐斗はあくまでも荒々しく美奈子に言い放つ。
対する美奈子は、既に瞳に涙を浮かべていた。
「趣味だなんて、そんな……私はただ、あなたのことが知りたくて……だから!」
「だったら俺に直接声をかけるとか、もっと手っ取り早くて確実な方法が他にもあるだろ。何故こんな手の込んだことをする必要がある?
人の過去は本人ですら時間をかけて蓋をしてしまいたいものだって存在するんだぞ。――それを土足で入り込んで何が楽しいっ?!」
辛い思い出を人に、しかも自分の知らないところで掘り起こされている事実。
祐斗にとって、それは耐え難い苦痛だった。
「……ぅ……ぅぁ……く……っ」
祐斗の言葉にすっかり大人しくなった美奈子は引き裂かれた紙束を抱くと
小さく嗚咽を漏らし、そのまま泣き崩れた。
――彼女の性格で祐斗の言葉は重すぎる。
一つため息をつくとその肩に手を置き、祐斗は美奈子に視線を合わせた。
それに気づき、和人が声を上げる。
「お、おい……祐斗?」
しかし、祐斗は小さく首を振ると無言で和人を制する。思わず口篭もる和人。
元はといえば自分の浅はかな行動から始まったことだ。今更交わす言葉さえもない。
「……悪いけど、俺は行くぞ」
そう言うと祐斗は美奈子の肩から手を離し、そのまま教室を荒々しく出て行く。
それをただ呆然と見送る和人。当然ながら未だ美奈子の涙は止まらない。
重い沈黙が周囲を包む中、和人は気づいたように祐斗の後を追いかけた。
「お、おい、祐斗っ! ちょっと待てよ!」
その声に気づき、祐斗は不意に足を止めた。声の主は勿論和人である。
「おまえ、あれはちょっと酷なんじゃないか? 彼女、いいとこのお嬢様だぜ」
「なら尚更許せない……人のプライベートを根掘り葉掘り」
「はっ!? おまえ、一体何言って―――」
しかし、そこまで言うと和人はある事に気づいた。
祐斗は今、何かを耐えるようにして唇を震わせていたことに。
「……祐斗。」
驚いた和人はどこか意外そうに声を上げた。祐斗は間髪入れずに口を開く。
「いくらいいとこのお嬢様でもやっていいことと悪いことの区別もつかないようじゃ、西篠家も終わりだ」
物事の善悪を見極める力―――それが今の美奈子に決定的に欠けているもの。
何せ箱入り娘という意味では折り紙付きの彼女である。それは当然の成り行きと言えた。
「あの様子じゃ彼女、自分を本気で怒ってくれる人すらいないんだ。
何不自由なくぬくぬくと育ってきた美奈子お嬢様と俺じゃ、根本的に人の出来が違う」
昇降口を降り、祐斗はそのまま玄関を抜けた。
和人はふぅ――と小さくため息をつくと不意に意識を階段上に送った。
ちょうどその頃、美奈子は今だ1年A組の教室で泣き続けていた。
涙は止め処なく溢れ、美奈子は途方もなく深い孤独の中にいたのだった。
そして一悶着あった後、祐斗は久方振りに学園の敷地内の教会に足を運んでいた。
そこにはいつもはいるはずの結衣の人影はなく、取り敢えずホッと胸を撫で下ろす。
――今は出来るだけ人には会いたくない。
何より会ったところで気分が晴れるとは思えないから。
しかし、そんなささやかな願いは無情にも断ち切られることになる。
軽く数分が経った頃、コツコツコツ――と地面に靴が擦れるような音がし、
それにつられてそちらに意識を向けてみると、そこには最近見ていなかった顔があった。
「元気……ないですね。」
「……そうか?」
スッ――と結衣が祐斗の隣に腰を降ろすと、祐斗は前かがみになっていた体を起こす。
「どうかなさったんですか……?」
結衣は心配そうに祐斗の顔を覗き込んだ。
少し間を空けると祐斗はため息混じりに呟く。
「……まあな」
「…………」
さすがに結衣もそれで只事ではないと思ったのかふと口を閉ざす。
固唾を飲む結衣。しかし、祐斗は両の指を絡ませると不意に口を開いた。
「……なあ、もし自分が人には知られたくない過去を、
赤の他人に陰で調べられてそれをネタに強請られたら結衣ならどうする?」
「…………………………へっ?」
突然の話題投下に結衣はただ呆然とするしかない。
しかも話はあまりに非日常的すぎていまいち状況が掴めない。
しかし、祐斗の顔は見るからに真剣でとても冗談で言っているとは思えなかった。
「それが……あなたの今の状況なんですか?」
「ま、簡潔に言えばそういうことだ」
西篠家のお嬢様である美奈子の御学友になるためだけに過去を売らねばならない。
勿論、直接的な強請りではないが、祐斗にとってはそれが一番しっくりくる表現だった。
「…はぁ」
が、いまいち実感が湧かない結衣。
それを余所に祐斗は小さく苦笑を浮かべた。
「悪いな、わかりづらくて」
「えっ?」
きょとんとする結衣。自嘲的な笑みを漏らすと祐斗が再び口を開く。
「いや、おまえの顔がそう言ってるから」
「……あ、すみません」
祐斗の言葉が府に落ちたのか結衣は申し訳なさそうに顔を伏せる。
しかし、実際は謝罪するほどの悪いことはしていないはずだった。
祐斗が再び苦笑する。
「だから、すぐに謝るなよ。別に特別癇に障ったわけじゃない。
ただ単に自分の陥った状況が他人からしたら極端にわかり辛いってだけだ」
実際、これ以上心配かけまいと事実をありのままに話そうとしたが、結衣はすぐに理解するには至らなかった。
勿論そこには自分の言葉が足らなかったという理由も大いにあるが、元々言葉だけではいまいち説明力に欠ける。
「えーっと……つまり、過去の情報をネタに、あなたは……その、強請られたと?」
恐る恐る問う結衣。しかし、その答えは意外とすんなりと返ってきた。
「いや、実際はどっかの世間知らずのお嬢様の御学友になるのを条件に
つい先日知り合ったばかりのどっかの阿呆に自分の過去を売られただけだ」
「成る程、少し会わない間にそんなことが……」
祐斗が結衣に事の経緯のすべてを告げると、結衣はやがて納得したような声を上げた。
たしかに彼の体験談は先の問いかけの内容に深く関連している。
すぐにはわからなかったのはやはり祐斗の説明不足からだった。
「ああ……困ったものさ。ただでさえ、毎日憂鬱に暮らしていたのに
それに拍車をかけるようにどっかの物好きなお嬢様の"検問"に引っ掛かっちまったんだからな」
人の過去を引きずり出して、それをネタに金持ちお嬢様の御学友になれなんてどう考えてもまともな展開ではない。
それは、自分の過去を売るだけで地元でも有数の権力と財力を持つ西篠財閥のご令嬢と関わりを持てるのなら安いものだと思う者もいるかもしれない。
しかし、少なくとも祐斗には美奈子の存在などどうでもよかった。特別気になっているわけでも、まして好意を持っているわけでもないのだ。
「それは、大変でしたね……でも、その西篠財閥のご令嬢―――美奈子さんでしたか」
「ああ」
結衣は祐斗に西篠美奈子の名を再確認するとおもむろに口を開いた。
「……彼女、それだけあなたのことが気になっていたんだと思います」
「えぇ?まさか」
意外そうに言う祐斗。
「だって祐――……いえ、君島さん、結構学年でも評判いいですから」
下の名前で呼ぶのがしっくりこないと感じたのか結衣は敢えて苗字で祐斗の名を口にした。
勿論その中には、彼の"隠れファン"の女子たちへの負い目というのもある。
実際、祐斗は常に少々近寄りがたい雰囲気を湛えてはいるが、
とても整った顔立ちをしていて学園内でも"隠れファン"が結構いるらしい。
――何でも、幼い顔立ちに宿る憂いを帯びた瞳がたまらないのだとか。
しかし、結衣は少し前から祐斗と仲良くしていて、その頃からクラスメイトや同級生の視線が厳しくなり始めたことに気づいた。
それは所謂、嫉妬という一つの感情の現れであり、その負い目が彼女を講堂前のベンチへ足を運ばせなかったことさえある。
そして、最近本格的に結衣の学園での評判はガタ落ちしていた。特に、女子生徒の間からは。
「……だから、このように権力で過去を掘り返す人間が出てきても仕方が無い、と?」
少し間を開けると、呼び名が変わったことに多少怪訝しながらも祐斗は結衣に問い返す。
「あ……勿論、人の過去を勝手に調べることはいけないとは私も思います。
君島さんと同じことを私がされたら、きっと辛くて耐えられなかったと思いますから」
気づいたように結衣は言葉を付け足した。
結衣にも幼稚園の頃に父を亡くしたという記憶がある。それを人に知られ、それをネタに理不尽にも
自分が学友になることを勧められたら、いくら相手が財閥の御曹司でも嫌悪を露わにするに違いない。
やがて暫しの沈黙が訪れ、周囲に異様な雰囲気が漂い始めた。別に不快というわけではない。
秋風と相俟って、本来ならば心地良いのだろう。しかし今の祐斗にとってはあまり良いものではなかった。
「…それで、これからどうされるんですか…?」
「どうするもこうするも、俺に出来ることなんかないだろ」
祐斗は財閥のお嬢様が相手では何を言おうが無駄だと思った。
育ちが違うのに何故意見を共通させることが出来るか。
「そうでしょうか…私には、君島さんは現実から逃げているだけのように思えます。
……出来ることは……いえ、君島さんにしか出来ないことは、きっとあります。」
「………」
そうかもしれない。実際、既に美奈子相手に一通りの弁明は済んだ。そして、彼女からそれを否定する言葉は聞こえなかった。
いや、正しくは否定出来なかったのだろう。温室育ちのお嬢様に捻くれ者の祐斗の言葉を否定するだけの知識と精神力はない。
しかし、だからと言って今のままでは何処か胸のうちがスッキリしないのも事実だ。
もう一度会って話の一つでも出来れば、もしかしたら和解のキッカケが出来るかもしれないが。
「ごめんなさい、ナマイキを言ってしまって…でも、美奈子さんはきっと、あなたが思うほど悪い女の子ではないはずです」
わかっている。祐斗とて彼女に悪意がないのは百も承知だ。
しかし、自分のされた事を思えば、それは気休めにもならない。
祐斗は一つ小さな溜息をつくと不意に空を見上げた。
――いつもと変わらない空。しかし、そこには肝心な何かが欠けていた。
一方ちょうどその頃、校舎には一つの影があった。
ショートカットの少女。意外なことに、雨宮透子だった。
実は先日から祐斗の心配をしていた透子はふと視線を送った先に学園一の美少女と名高い神崎結衣の姿があることに驚き、
その隣に普段は一匹狼を貫いているはずの祐斗が特に拒絶反応も見せず、結衣と親しげに話をしているのに動揺を隠せなかった。
ついさっき、檜山和人が西篠美奈子に祐斗の個人情報を売買していたことは透子も廊下から漏れ聞いていたために知っている。
そして、祐斗が凄い剣幕でほぼ初対面のはずの美奈子を怒鳴りつけ、明らかに嫌悪を露わにしていたのも見ていた。
そんな最悪の状態の彼と共にいて拒絶されず、しかも祐斗の顔には今笑みさえ浮かんでいる。
この時、透子は君島祐斗と神崎結衣が同じ姫野学園高等部一年の同級生という、
ただのありふれた関係でないことを初めて思い知らされた気がした。