〜2.Dear My ...〜
祐斗の父、敏彦と母、幸江の生き様とその双方の遺伝子を引き継ぐ彼自身の日常の旋律。
祐斗の母・君島幸江は祐斗を生んで間もなく亡くなった。
それ以来父親の君島敏彦が祐斗を男手一つで育ててきた。
敏彦はいつも着物を身にまとい、鋭い目つきで書斎の机にしがみついては、愛用の万年筆を軽やかに走らせる
そんな絵に描いたような堅物で、それこそ俗世間では"天沼芳樹"といえば、それなりに名の知れた小説家だった。
学生時代から創作活動を始め、他界する63歳まで実に57作も書き上げており、
代表作は全盛期の24歳から41歳までの17年の間に書き上げた長編小説≪Wild Wingシリーズ≫全十二章。
日本文学界でもこの長編ファンタジー超大作は度々話題に上がっており、
今でも数多くの熱狂的なファンが存在する、一種のミリオンセラー小説である。
彼の性格から一作書き上げるまでは誰も仕事場である書斎に入ることは許されない。
以前祐斗は彼の執筆中に迂闊にも書斎の扉を開けて、こっ酷く叱られたことがあった。
祐斗が再び目の前のコーヒーカップを煽ると、結衣はそれを目で追う。
「親父、いつも口うるさくてさ、当時小学生の俺にどれだけ雷を落としたか。」
そう言うや少し遠い目をしながら、当時のことを思い出すように
祐斗は薄っすらと苦笑いを浮かべる。つられて結衣も小さく笑みをもらした。
「……厳しかったんですね、祐斗さんのお父様って。
小説家って訊いて、最初は少し穏やかな感じの方だと思ってましたけど」
結衣は小説家というとロマンティストで普段は大人しい性格をしているのではないかとイメージしていたらしい。
事実、現代文学というとシチュエーションや環境設定などに凝ったり、キャラクタの構築に力を注いでいる創作物が多く、
それらに触れていなくても本のタイトルに惹かれ、興味を抱くことは多分にある。
実際、敏彦はそれにピッタリ当てはまる逸材で、だからこそ全盛期の作品を中心に
彼が創作・出版したものは今でも多くの人目を引いているのも確かだった。
「元々は大人しかったらしいんだけどな、ある時期を境に親父は変わった」
「?」
言うや祐斗は空になったコーヒーカップをコトッとテーブルに置いた。
伏目がちで、けれど何処か鋭い眼差しのまま祐斗は続きになる言葉を口にする。
「親父は生まれつき体が弱くて、運動をしてもすぐにスタミナが切れて学校の運動会でさえ、
まともに参加出来なかったらしい……ほら、よくいるだろ? 必ず、クラスで一人はそういう奴。」
そう。不思議なもので何処の学校でも多少の違いはあれど、共通する性格の子供がいるケースが多い。
クラスの空気を一気に明るくしてしまうほど陽気なムードメーカー。根拠のない自信で自分を高く評価する気取り屋。
何も興味がないと言わんばかりに無口で無愛想なすまし屋。喧嘩のとき、真っ先に中心人物となるガキ大将。
そして、身体、或いは心に傷を持った、普段は大人しいけれど
学校行事などでは密かにその雰囲気を愉しんでいたりする少年や少女。
敏彦は前者だった。そして、普段は然程目立たない少年で当時のクラスでも、特に何をするわけでもなく
ただ冷静に授業を聞いていたり、休み時間には喧嘩の多発する教室の中で静かに外の景色を見つめていたりしていた。
しかし、普段大人しいからこそ敏彦は少しずつ感受性を高め、それはいつしか彼自身の行動を限定するまでになった。
「……それって、どういうことですか」
「つまり、感じすぎる感性がいつしかクラス中で親父の存在を、イレギュラーな存在へと変えてしまっていたんだ。
いくら周りの連中が親父を遊びに誘ったとて、極端に不器用な親父にはそれを拒絶する以外は選択がない。即ち――」
身体の弱さと天性の人付き合いの悪さから、それ以来彼に率先して話し掛けたりする者はいなくなる。
例えいたとしても、敏彦自身がそこで一歩踏み出そうとしなければ、永遠にそれは変わらない。
そんな、いつまでも続く悪循環に胸が詰まりそうになった時、ふいに彼の目の前にある一人の少女が現れた。
少女は敏彦と同じく普段は無口で大人しい生徒だったが、前々から敏彦の寂しそうな背中を見つめては勇気が出せず声をかけられなかった。
―――しかし、神様の悪戯は不意に訪れた。
ある日の放課後、敏彦が学校の外れのとある丘で相変わらず悲しみに打ちひしがれていた時、突然近くである物音がした。
カサカサッ―――という、近くの草原で感じられる草の間をゆっくりと這うような音。―――そして、敏彦はその正体に気がついた。
蛇である。田舎の野原の中でさえ見ることはあまりないはずだが――。
しかし、そんなことを考えていた時、突然近くから悲鳴のような声が聞こえてきた。
思わず顔を上げ、声のした方向へ向かって走り出す敏彦。目標はすぐに確認出来た。
自分と同じくらいの少女が目の前の蛇に怯え、泣き顔になってそれを見つめている。
少女の体は震え、しかし恐怖で動けないのだろうか。その場から一歩も離れようとはしない。
咄嗟近くに落ちていた手頃な木の棒を拾うと敏彦は即座に少女を庇う形となり、蛇にそれを掲げた。
目からは大粒の涙が溢れていたが、その目つきは普段とは比べ物にならないくらい鋭く、力強い意志の力を秘めていた。
それに臆したのかどうかは定かではないが、蛇は暫しその身を揺らすと敏彦らを置いて近くの草原へと消えていった。
「それが……お母様の幸江さんだったんですね」
「そういうこと。それ以来二人は学校でも常に行動を共にするようになった。
時を同じくして"学校一静かなカップル"なんて言われ、からかわれもしたが二人は幸せだった。」
つい先程ウェイトレスが運んできた二杯目のコーヒーをジッと見つめると、結衣は何かを考えるようにしてそっと顔を伏せた。
祐斗はそれを知ってか知らずかカップを少し傾け、中身が零れるギリギリのところで固定させるとやがてカップを直角に戻す。
「今まで親父は自分が大嫌いだった。でも、オフクロと出会って親父は変わった。」
よくあることだ。消極的な人間が自分の大切なものを得た途端、別人のように生まれ変わる。
それこそ、身体的に体力が人並以下なのは変わらないが、敏彦はそれを余りある精神力で補った。
しかし、それはあまりに過酷な日々だった。変わったとはいえ元は大人しい敏彦である。
迫り来るプレッシャーに押し潰されそうになりながらも彼は毎日を必死に生きた。
そして、度々限界が近づき、幾度となく倒れはしたもののその都度、幸江が敏彦を介抱した。
幸江は「私にはあなたの力になれるとしたら、これくらいしかないから」と度々自嘲的な笑みを零したが、この事が返って病弱な敏彦を強くした。
当然肉体的にではなく精神的にであるが、敏彦は幸江の包容力に支えられてばかりいることに言い様のない苛立ちを感じ、更に自分を極限まで追い詰めていった。
そのせいかお陰かは定かではないが、敏彦は見る見るうちに精神的な成長を遂げた。
彼にとっては唯一にして最大の支え――幸江がいたからこそ今の自分があるのだと、彼は自ら語っていたという。
「でも、その無理がたたって親父は高校一年生の秋、本格的に病に倒れた。」
訪れる重い沈黙。やがてフッと自嘲的な笑みを零すと祐斗が改めて口を開いた。
「……悪い、つまらない話しちまったな。今の話は忘れてくれ」
途端歯切れが悪くなった祐斗はコーヒーを飲み干すとその場に立ち、
自分の分の勘定をテーブルに置くや、近くの学生鞄を手に取り、腕時計を見た。
「そろそろ時間もヤバイな。家まで送ってやるよ」
「……はい」
そして、喫茶店からの帰り道。既にオレンジ色の夕陽が見慣れた街並を真っ赤に染めていた。
何の感情も感じさせない表情の祐斗の真横、やや後方を歩く結衣の表情はやはり優れない。
結衣とて感受性が鈍いわけではない。祐斗の話にその背景をイメージするくらい簡単である。
そして、だからこそ余計な口を挟むことなど彼女には出来ない。
そうしたところで、彼が虚しくなるのは目に見えているのだから。
「おい……何か話せよ」
不意にそんな言葉を投げかけられ、結衣はハッとして顔を上げた。
案の定、視線の先には真剣な眼差しの祐斗がいる。結衣の胸がチクリと痛む。
「え? あっ……はい」
しかし、特別話題もなく、いつしか結衣はちょっとした罪悪感に襲われていたため、続く言葉が見つからない。
祐斗とは違い、結衣は10年程前のある事故によって父親を亡くしていた。結衣がまだ、幼稚園の年少の頃だ。
それ以来、結衣の母親・神崎珠美は女手一つで彼女をここまで育ててきていた。
とはいえ彼女はまだ健在で、今も自宅にて夕食の用意をしながら結衣の帰りを待っているのだが、
そのため結衣には彼の話が他人事とは思えず、迂闊な発言は慎むべきだと先程から口篭もっていたのだった。
「……ごめんなさい」
「? …なんで謝るんだよ」
祐斗は不思議そうに、しかし少し怪訝しながら言った。
だが、結衣からは何の返事も返ってはこない。
少し考えると祐斗はおもむろに口を開いた。
「……まあ、いいか。とにかく行くぞ。
結衣のオフクロさん、心配してるかもしれないからな」
祐斗にとっては、結衣が何故謝ったのかは大体想像がつくし、何より周囲が段々暗くなってきている。
そのため一刻も早く彼女を家へ送り届けるのが先決だと判断した上で、祐斗は敢えて結衣を帰路へ促した。
「っ…………ふぅ―――。」
結衣を彼女の自宅まで送った祐斗は着替える余裕があらばこそ、制服のまま自室のベッドに倒れ込んだ。
結果的に生い立ちの「お」の字も話せなかったが、それでも今祐斗の身体の周囲を覆う疲労は普段とは比べ物にならない。
それほど彼女に自分の身の内話をするのは大変なことだった。それこそ、聞いている結衣に勝らずとも劣らないのは確かであろう。
「……やっぱ慣れないことはするもんじゃないな」
苦笑混じりに祐斗は仰向けになると既に陽光の閉ざされた自室の天井を見上げた。もう電気を点けずとも瞳に映るその景色は浮かぶ。
何より身体のダルさが祐斗から電気を点けるという単純作業さえする気をなくさせ、同時に暗闇に妙な心地良さを残した。
不思議と疲れが次第に引いていくのを感じながら、祐斗は不意に起き上がった。
「さすがに、このまま寝たらマズイか。しゃーない」
言うや学ランのフックを外し、そのままチャックに勢いよく手を掛ける。
途端一斉にチャックが落ち、中に着ているYシャツが露わになった。
――今日は色々ありすぎた。明日に備えるには、風呂入ってそのまま寝てしまうのが一番だ。
翌日の姫野学園一年A組の授業風景。窓際の席に座る祐斗に、教壇に立つ教師の言うこと訊いている様子はなかった。
頬杖ついて窓の外を見つめている。その視線の先―――教会前のベンチには人影一つ見当たらず、気づくと淡い靄がかかった。
気づいたように祐斗は瞳をしっかり開き、窓に当たる幾つもの水の雫―――雨に視線を向けた。
「…………――。」
雨は窓を容赦なく叩き、次第に強まっていく。外の景色は完全に遮られ、祐斗はふっと表情を曇らせた。
祐斗は雨が嫌いだった。雨は祐斗の心に惨めで荒んだ日々を思い出させるから。
世間の冷たい視線。当然のように繰り返される中傷・誹謗。
そんな環境にいた過去があるだけで、まさに生き地獄だ。
しかし、現実はそんな彼を嘲笑うかのように何の救いも齎してはくれない。
今になってみればそれも過去の出来事ではあるが、すぐに忘れられるものでもない。
「おい……おいっ! 聞いとるのか、君島ぁ!!」
「あ……」
いつしか回想に浸っていた祐斗は不意に担任に自分の名を呼ばれ、慌てて席を立った。
「……すみません、聞いてませんでした」
言うや気まずそうに祐斗は合わぬ視線をただ宙に漂わせる。
担任は途端勘弁してくれと言わんばかりに苦笑を漏らす。
「おいおい、しっかりしろよ。おまえ、今度のテストで80点以上取らなければ追試だぞ」
「……はい」
しかし、普段から予習・復習を怠らない祐斗にとって、テストは取るに足らない問題である。
ふと視線を窓際に戻すと、雨脚は先程より明らかに強まっているように思える。
――今日は、厄日だ。祐斗はふとそう思った。
そして、そんな彼に心配そうな瞳を向けている者がいた。
廊下側の一番後ろの席に座る女子生徒――肩まである栗色のショートカットと幼い瞳。
「………」
彼女は祐斗と小学校の頃から同じ学校で、中学まではよく彼と話しをしたりしていた。所謂腐れ縁というやつだ。
しかし、最近は一匹狼を自称する彼の独特のオーラに怯え、まともに言葉を交わしていない。
とはいえ、彼女自身は彼を毛嫌いしているわけではないので、どうにか話そう話そうとはしているのだが。
時は流れ、休み時間。廊下の隅の窓を鬱陶しげに眺めている祐斗に近づく一つの人影があった。
「……君島君」
不意に名を呼ばれ、祐斗は声のする方に視線を向けた。
視線の先には見慣れたショートカットと童顔の少女。
「雨宮か。何、俺に何か用?」
言うや祐斗は再び視線を窓に映す。雨脚は先程よりは弱まっているが、しかしやむ気配は一向にない。
雨宮、と呼ばれた少女は少し俯き加減になると次の瞬間意を決して口を開いた。
「う、うん……君島君、最近なんかボーッとしてるよね。だから、ちょっと気になって」
「………」
目の前の少女――雨宮透子に祐斗は前々から、極度のお人好しという印象を持っていた。
少なくとも家庭の事情のことで自分から助けを求めたことはないのだが、彼女は自分から率先して彼の力になろうとする。
それが例えハイリスクなことでも、もはや彼女には関係ない。
彼の力になること。それが彼女にとっての喜びであり、幸福だった。
「別に、雨宮が気に掛けるようなことじゃないよ」
「え。」
ふと声を上げる透子を余所に祐斗は窓から視線を逸らさずにきっぱりと言った。
「ただ……嫌いなんだ、雨」
「………」
祐斗の瞳には今、明らかに嫌悪が浮かんでいた。それが自分に向けられたものではないとわかっていても、
透子はそれに心を痛める。途端、居た堪れなくなって、透子は極力明るい声を意識して口を開いた。
「そ、そっか……ごめんね、邪魔だったみたいだね。」
「………」
透子の声はかすかに震えていたが祐斗はそれに何も応えず、
ふと窓から視線を外した。やがて、間髪入れずに透子が口を開く。
「それじゃあ……私は、これで。」
そして去り際、「ごめんね、邪魔しちゃって」と付け加え、透子は教室へ戻っていった。
彼女の様子に内心穏やかではなかったが、今の祐斗に彼女のことを気に掛ける余裕は何処にもなかった。
雨宮透子と親しくなったキッカケは、本当に些細なことだった。
小学校二年生の頃、算数の教科書を忘れた祐斗が、当時隣の席だった彼女に見せて貰ったのだ。
当時は今のように一匹狼ではなかったから、祐斗は安易に透子を受け入れた。
そして、それ以来忘れ物をする度に祐斗は彼女に協力を煽った。
始めはあまり良い顔をしなかった彼女だが、いつしか彼の屈託のなさに負け、結局は自分から協力する形となった。
以来、同じクラスになることが重なったのもあり、二人は腐れ縁と言われるまでになるのだが、
高校進学の年に祐斗の父、敏彦が病で倒れ、他界すると同時期に祐斗は人との関わりを一切断った。
葬儀やら何やらでゴタゴタがあったのも理由の一つだが、何より世間の目が彼に対して尋常ではないほど冷たかった。
特に関わろうとはせずに、陰ではこそこそ噂話、挙句の果てには陰口を叩く者までいたという。
当時の事情を知っている透子は今まで以上に祐斗を心配するようになった。
両親をなくし、住む場所がなくなった彼に自分の家に来るようにと勧めたが、
祐斗は透子とそのご両親に迷惑を掛けたくないという理由で、その申し出はキッパリと断った。
しかし、祐斗が人との接触を断ったのはそんなゴタゴタがあったがゆえ、である。
本来なら多少人に迷惑がかかっても居候という形でお世話になることは十分に在り得た。
けれど、その頃の彼は既に人として大きな挫折を経験していたのかもしれなかった。
「……独りがこんなに辛いなんて、思わなかったな」
祐斗のそのか細い呟きは、やがて鳴り響くチャイムの音に掻き消された。
独りには誰より慣れていたはずだった。しかし今、祐斗は明らかに孤独を感じてしまっている。
――何とも情けないことだ。