〜1.徒然なるままに〜
二人の出逢いは一体何を意味するのか。そして、ある日突然日常に満ちる旋律が乱れ、不吉な不協和音を奏で始めた。
時は流れ、同年10月中旬の月曜日。少年はいつも通り適当に授業に出ると休み時間に学内の古びた教会に足を運んだ。
相変わらず人気のないこの場所は、季節の関係もあってより一層独特な雰囲気を湛えるようになっていた。
周囲を彩るオレンジ色の紅葉と、その木々の梢をあおる小さな風の音色。その一つ一つが少年の心にじんわりと染み渡る。
少年は相変わらずその瞳に鋭さを宿したままベンチに座ると、そっと瞳を閉じ意識的に深く意識を沈ませていった。
安らぎ。暫くして浮かんだ言葉がそれだった。風が少年の少し長めの前髪を揺らし、その感触が少年に伝わる。
本当に小さなことではあるが、少年はそれすら溶け込む空気の中の一つの愉しみと感じていた。
しかし、やがてそれを遮るように声を掛けてくる人物が現れた。
「祐斗さん」
聞き慣れた少女独特のソプラノ。瞳を開くとそこには今や見慣れた一人の少女の姿がある。
髪は腰まである長髪で前髪を眉毛の数センチ下で切り揃え、男子の淡いグレーの学ランとは違い、
女子独特の薄いグレーのセーラーを身につけている。姫野学園指定の女子制服である。
「また、ここにいらしたんですね」
祐斗、と呼ばれた少年は顔を上げると驚きもせずベンチに予め空けておいたスペースを示した。
「……座るか?」
「はい。」
少年――君島祐斗の言葉に促されるままに少女は彼の傍らに腰をおろす。
祐斗は普段学内では誰ともつるまない所謂"一匹狼"だが、彼女は別だった。
というのも、あの不思議な出逢いからほぼ毎日のように顔を合わせ、最初は二言三言交すだけだったが、
彼女の何処か遠慮がちな人柄に触れて、時々見せる儚げな顔を見ていくうちにその存在に興味が湧くようになった。
彼女の方も、彼を煙たがることもなく自分から姿を現し、彼の姿を確認するやその存在を安易に受け入れている。
「祐斗さんは休み時間はいつもここにいるんですね」
ベンチに座るや、少女はおもむろに口を開いた。
それを無視する理由はないから、祐斗はそれに応える。
「ああ……けど、それを言うなら結衣だって休み時間に限らずよくここにいるだろ。それと同じさ」
祐斗は休み時間・昼休み・放課後と事あるごとにこちらの様子を観察していた。
そして、その度必ずそこには彼女の姿があるか、後から姿を現すのである。
「……はい。この講堂、学内の中で一番好きな場所なんです」
結衣、と呼ばれた少女は祐斗の切り替えしに少し驚きながらもやがてクスリと微笑んだ。
神崎結衣――それが彼女の名前である。
初対面こそ一言も交わさなかったが、日を重ねるごとに祐斗は互いに名前を知らないことが不自然に思え、ある日思い切って彼女に言ってみた。
『――君島祐斗。』
『えっ?』
案の定、何の脈絡もなく祐斗に名乗られた少女は驚いて顔をこちらへ向けた。
それをフォローするように祐斗が再び言葉を付け足す。
『それが俺の名前だ。俺達、何度も顔合わせているのに
互いに名前を知らないだろう? そろそろ名乗ってもいいと思ってな』
『あっ、そうですね』
祐斗がそう言うや、少女は気づいたように声を上げた。
そして、小さく微笑むとおもむろに祐斗の前へ立つ。
『失礼致しました。私は姫野学園高等部一年、神崎結衣です。宜しくお願い致します』
言うや深々と頭を下げる少女――結衣。物腰の柔らかい印象を受け、それは思いのほか心地良く祐斗の視界に映った。
『宜しくな、神崎』
祐斗は言葉少なにそれとだけ言う。今は初対面から一週間以上も経っており、高等部一年ということは祐斗とタメである。
呼び捨ては少々心苦しいが祐斗は彼女に関して"さん付け"ではあまりにも他人行儀に思える。故に苗字の呼び捨て。
『結衣で結構ですよ。君島さん』
結衣は首を横に振るとにっこりと微笑み心なしか嬉しそうに言った。
そこまで言われては祐斗としても後には引けない。照れ隠しに鼻の頭を掻くと祐斗は再び口を開いた。
『なら、俺のことも祐斗でいい。まあ、呼び捨てるかどうかは、そっちに任せる』
『え、よろしいんですか? えっと、それでは……。』
少し間を置くと、結衣は意を決して言った。
『改めて、宜しくお願いします……祐斗さん』
『……ああ、こちらこそ宜しく。結衣』
あれから既に三週間。今では教会前は二人の特等席になっていた。
と言っても特にすることはなく、時たま結衣が小説を読んでいたり、
祐斗が両手を制服のポケットに突っ込みながら周囲を意味もなく見回したりして短い休み時間は終了する。
―――それがいつものパターン。
「物好きなんだな。今に始まったことじゃないけど」
祐斗は若干冷めた口調で言った。対する結衣は少しだけ意外そうな瞳を祐斗に向ける。
「そう……ですか? でも、それならどうしてあなたもここにいるんです?
……その理由は、ここが好きだからではないんですか?」
「ん……まあ、な」
祐斗はお茶を濁すように視線をそらすと短く呟いた。
実際この場所は好きだ。人気が少ないし静かだし、何より落ち着けるから。
結衣は先ほどの意外そうな表情を消すとフワリと微笑み、軽くパチンと両の手を合わせた。
「あっ、それならあなたも私と同じ"物好き"ということですね」
確かに人気のないここを好きだと言っているのは結衣だけではない。祐斗の言葉を振り返ると
彼もその"物好き"とやらに入るのは至極自然ではあるが、そこまで嬉しそうに言うことでもあるまい。
しかし、祐斗は結衣の言葉を否定するのが面倒という理由から、それ以上は突っ込まなかった。
「ま、まぁ……そうだな」
そう言うや視線を宙に戻し、ふと通り抜ける風を受ける。その影響で結衣の長髪が揺れた。
心地良い秋のそよ風は秋の薫りと共に何処か甘い香りを祐斗のもとへ運んでいった。
他愛のない会話。しかし、そこには確実に大切な何かが含まれている。
かつて、祐斗は家庭の事情で波乱に満ちた日々を送ってきていた。
両親の死去で集まった周囲の視線。周囲の何気ない会話に溢れ出す嫌悪。
やがてそれは祐斗を極度の人間嫌いへと変えていく。
しかし、あの日―――結衣と出逢って以来祐斗は変わった。
自分でもわかるほど表情は柔らかく、周囲の同級生とも少しずつだが話をするようになった。
とは言ってもそれこそ初対面の頃の結衣との会話のように
二言三言交す程度だが以前と比べれば、格段の進歩と言えるだろう。
「? どうかしました……?」
気づくと結衣は小首を傾げ、不思議そうに祐斗を見つめていた。
「いや、別に。」
「そうですか?」
「ああ」
人間変われば変わるものだな、と思っていたことを結衣まで伝えることもないだろう。
祐斗は適当に言葉を濁した。と、次の瞬間聞き慣れたチャイムの音色が聞こえてくる。
「あ、もう時間。」
「らしいな。……っと、そろそろ教室に戻るか」
「そうですね」
祐斗が立ち上がるとそれに続くように結衣がベンチから腰を浮かせる。と、やがて気づいたように声を上げた。
「あ……祐斗さん。」
「え?」
呼び止められた祐斗はきょとんとして結衣を見つめた。
「今日の放課後、少しお時間ありますか?」
「? ああ、なくもないけど……何だ」
「よかった。私、寄るところがあるんですけど、
もし宜しければ一緒に付き合ってもらえませんか?」
そのあまりにも唐突な申し出に祐斗は暫し硬直した。大体自分が一緒に行く必要が何処にあるのか?
しかし、そんな祐斗を不思議に思ったのか結衣は小首を傾げ、徐々に不安げな表情になっていく。
「……あの、祐斗さん? ダメ、でしょうか」
結衣にそんな顔を見せられては人としてその申し出を断る訳にはいかない。
「ん〜……いいよ、別に。どうせ暇だし」
祐斗は少し考える素振りをすると快くそれを承諾した。
「本当ですか?……ふふ、よかった」
目に見えて安心する結衣。ここまで反応が素直だと見ている側としても気持ちが良い。
やがて、結衣は両手を前に持ってくると祐斗に向かって丁寧に一礼をした。
「それでは、私もこれで失礼しますね」
「ああ。それじゃ放課後にな」
「はい、校門の前でお待ちしてます」
「うぃ、了解」
言うや、結衣は今一度嬉しそうに微笑みそのまま身を翻すとその場を去っていった。
放課後。校内では部活動をする生徒達で賑わい、それ以外の生徒は次々と校舎を後にしていく。
流れていく景色。見慣れた街並。祐斗は隣に人の気配を感じながら学生鞄を背にして歩いていた。
「どうした?」
結衣は先程二言三言交しただけでそれ以降自分から率先して何かを話そうとはしない。
それを不思議に思い、祐斗は結衣に訊いてみた。
「えっ? な、何がですか」
「いや。さっきからおまえ、落ち着きないみたいだから」
祐斗がそう言うや、結衣は「あっ…」と何かに気づいたような声を上げた。
「……すみません。その、こういうの、初めてなもので」
「こういうの?」
「はい。……こうして、誰かと一緒に並んで歩くこと」
別に居心地が悪い訳ではないが、今まで結衣はこうして友人と下校をすることがなかったらしく、
その緊張というものがあったのかもしれない。尤、祐斗からすればちょっとしたことかもしれないが。
「へえ。結構結衣って、付き合い悪いんだな」
祐斗はからかうように言った。それは自分だって一匹狼という立場上あまり友達というものを作ったりはしないが、
それでも昔の自分と比べれば、祐斗は少しずつそれらしき存在を築き上げつつある。その余裕からの発言である。
「そ、そんなこと……ないはずですけど」
「あ。嘘ウソ、冗談だって。」
自分の冗談に目に見えて落胆する結衣を見て焦った祐斗は慌てて付け加えた。
結衣はというと途端拗ねるように口を尖らせ、俯き加減のまま呟くように言う。
「……そんな冗談、私笑えませんよ」
尤、結衣でなくてもそうだろう。祐斗は空いている方の手で鼻の頭を掻くと小さく苦笑を漏らした。
「悪い。……でも、俺もあまり友達とは一緒に帰ったりしなかったような気がするな」
真横の結衣から視線を外し、祐斗はふと空を見上げた。
その瞳は何処か遠く、ほんの少しだけ儚くもある。
「祐斗さん?」
しかし、その結衣の呼び掛けに反応する間もあらばこそ祐斗は再び口を開いた。
「俺、小さい頃に両親を亡くしてるんだ。それ以来極力人との接点を避けてた」
途端祐斗の真横でハッと息を飲む声が聞こえる。ふと立ち止まり、祐斗の遠ざかる後ろ姿を見つめる結衣。
――突然のカミングアウト。それは結衣にとって衝撃としか言い様のない出来事だった。
「へえ、学園の近くにこんな洒落た喫茶店があったのか」
外装は清楚な印象の強い純白で統一され、カフェテラスにはフランスなどでよく見かける赤と白のパラソルがある。
結衣の寄りたい場所はこの喫茶店だったらしいが、一人で入るのは少々気が引けるため付き添いとして祐斗を誘ったらしい。
立て看板には『喫茶Schnee Traun』とエレガントなフォントで描かれている。
シュネーとは独語で雪を意味する語で、トラオムは独語で夢の意味を持つ言の葉。
ゆえに、ここをよく知る者達は通称、シュトラやら、雪夢やらと呼んでいたりする。
売られている珈琲やお茶は本格的な機具を使用し、珈琲豆は本場アメリカの厳選されたものだけを使い、お茶の葉は
紅茶から烏龍茶、緑茶、アップルティー、ハーブティーに至るまで数十種に渡る種類を誇る。若者が集う場所としては最適である。
「………………」
結衣はつい先程運ばれてきたティーカップを見つめながら、しかし口をつけようとはしない。
俯いたまま指先でカップを触ったり、時折小さくため息をついたり。
祐斗の言葉に耳を傾けはするものの、話としては全く成立していない。
そして、話題も底を尽き、重い沈黙が二人の間を縛りつける中で。
「結衣。」
「えっ?」
突然何の脈絡もなしに自分の名を呼ばれ、結衣は驚いて顔を上げた。
祐斗は祐斗で相変わらず落ち着いた面持ちのまま彼女を見つめている。
「……さっきの話、続きが訊きたい?」
その口調は不自然なほど自然で明るかった。祐斗の顔には今、笑みさえ浮かんでいる。
「あ、いえ……その……」
が、祐斗の言葉を否定しようにも結衣は完全に否定は出来ない。
言い訳してこの小さな危機を脱出しようにも理由が浮かばなかった。
思わず目の前のティーカップを煽る。砂糖の甘味と紅茶の苦味が心地良かった。
「……ふぅ」
小さくため息をつく結衣。祐斗は少し考えるとおもむろに口を開いた。
「気にならないはずないよな。あんな話、急に振られたら」
「え……わ、私は、別に」
無論、気にならない、と言えば相当な嘘だった。
しかし、気になるから、という理由だけで
祐斗にとってプライベートとも言えることを訊ねられるほど、
結衣は無神経ではない。
「いや、気にしなくていい。俺も、結衣には話してもいいかなと思ってたところだったし、
訊いて欲しいからこそ、こうして話を切り出したようなものだ。」
祐斗はコーヒーカップを煽ると何処か遠くを見るようにして、落ち着いた面持ちのまま語り出した。