助けを呼ぶ思い
「私が見てくるから待ってて」
陽蜜がそう言い残して駆けていった。
法子が心配している内に陽蜜の姿は角を曲がって見えなくなる。
「大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うけど」
実里が緊張した声音で言った。
その言葉の通り、しばらくして陽蜜が戻ってくる。
「陽蜜さん、どうでした?」
叶已が質問すると、陽蜜が駆け寄りながら己の口元に人差し指を当てた。叶已が口を噤む。そして法子達の前に着いた陽蜜は息を荒げながら言った。
「ヤバい。何か変な奴等が入ってきてる」
陽蜜の言葉に、実里が恐ろしげに尋ねた。
「変な奴等って?」
「分かんないけど。服装は普通なんだけど、何か普通じゃない。大人だけじゃなくて子供も居て、とにかく色んな人が居て、何か刃物持ってる奴も居る」
刃物。その言葉を聞いた瞬間、法子の心に恐れが走った。こんな夜中に病院へ刃物を持って押し込んできた者達。
再び何処かから悲鳴が聞こえてきた。
実里が尋ねる。
「何で、そんな。強盗?」
「分かんないけど、巫女を手に入れろって言ってた」
「巫女? 巫女ってあの神社の?」
「多分」
「もしかして誘拐でしょうか?」
「かも」
「何それ」
「うん。だから良く分かんないけど、何とかしないと」
「何とかって?」
「勿論止める。巫女を助ける」
「……そうだね。助けないと」
陽蜜の力強い言葉に実里が頷いた。叶已も頷く。
法子は困惑していた。強盗が入ってきた事にではない。どうしてみんなこんなに落ち着いているのだろうと、それが不思議でならなかった。この異常な状況の中で、どうしてこんな冷静に話して冷静に立ち向かおうと出来るんだろう。自分は、怖くて仕方が無かったのに。
「何か巫女っていうのは第二病棟の三○八号室に居るんだって」
「第二病棟はここですね。という事はここの三階」
「うん。早速行くぞ。とにかくあの変な奴等より先に行かないと」
そうして陽蜜達が駆け上がっていく。
法子は困惑していた。陽蜜達の冷静さにではない。三○八号室には聞き覚えがあった。ついこの前、法子が入院していた病室だ。そこには法子ともう一人の患者しか居なかった。四葉と名乗っていた少女。あの子が巫女? あの弱々しい、けれど殊更明るく振る舞う女の子が? ずっと入院していて同じ病室に誰も居なくて話の出来る人が一緒の部屋に来てくれて嬉しいと言っていたあの子が巫女?
法子が四葉と出会って話したのはほんの僅かな時間ではあったけれど、その少女の事を思うと何だかやるせない気持ちになった。ずっと苦しんでいたのに、それに加えて強盗に狙われているなんて。
「あ」
思い悩んでいた法子が顔をあげると、陽蜜達の姿が消えていた。法子の心が恐怖に塗りつぶされる。
置いていかれてしまった。夜の病院に。危ない人達が入ってきた建物の中に。
「待って」
その言葉は誰にも聞こえず反響して消えた。
森閑と静まった廊下の上で、法子は恐ろしさに足が竦み始めた。
辺りを見回すと、月の光の入る廊下は何処までも冷たくて、その凍り付いた光景の完全さが、完全な故に次の瞬間何者かに壊される様な気がして、法子は早くここから離れなくちゃいけないと思った。けれどどうすれば良いか分からない。どうしようかまた辺りを見回し、誰も居ない絶望が更に強くなる。
どうしよう。
「とりあえずその病室に行けば良いじゃないか」
「タマちゃん!」
タマの思念が流れ込んできた事で法子は一気に勇気づけられる。
「ほらすぐそこに階段があるし、早く上へ行こう。状況が分からないから下手に動けないけど、何にせよ友達になってくれたあの子達とそれから侵入者が狙ってる子とは一緒に居た方が良い」
「うん」
タマの言葉に促されて、法子は階段を上る。自分の靴音が妙に大きく響いた。強盗達に聞こえてしまうんじゃないかと怖くなった。
遠くから叫び声が聞こえてくる。
思わず法子の足が止まった。耳を済ませる。するとまた声が。けれどその声は上からも下からも、色んなところから聞こえてくる。まるで病院中で惨劇が起きている様な気がした。
「タマちゃん」
「多分、入院している人達が異常に気が付いたんだろうね。悲鳴で生まれた不安が今の叫びで噴出したってところかな」
「そんな。だって、そんな混乱が起きたら、ここ病院なのに」
「まあ大変な事になるね」
「どうしよう」
「警察に連絡」
「え?」
「警察に連絡。とりあえずそれが先決だろう」
「あ、うん」
突然タマが現実的な事を言うので、法子は一瞬分からなかった。理解した法子は携帯を取り出して警察へ掛ける。
そして携帯に耳を当て、
「あれ?」
繋がらなかった。
「え?」
もう一度掛ける。
繋がらない。
「嘘」
もう一度掛ける。
繋がらない。
もう一度掛ける。
繋がらない。
電話口の向こうからは一定の電子音が流れてくるだけだ。
「何?」
「妨害、かな」
「そんな」
どうすれば良い。
「やっぱりまずは友達と合流」
「うん。でも何処に」
「三○八号室だろ」
「あ、そっか」
法子は思い出して、また三階へ向かう。
その時、階上から誰かの駆ける音が聞こえてきた。
法子は一気に不安な心が消し飛んだ。
みんなが気が付いて戻ってきてくれたんだ。そう思った。
だから言った。
「ごめん。すぐ行くから」
けれど何故か答えが返って来なかった。足音だけが大きく強く響いてくる。
あれ?
「すぐ行くからこっちに来なくても大丈夫」
やっぱり返答は無い。
足音が降りてくる。壁の向こう側で誰か階段を駆け下りてくる。誰だかは分からない。降り切って踊り場を越せば、姿が見える。誰だか分からない。誰かが。
もう気が付いていた。
降りてくるのが陽蜜達でない事に。見知らぬ誰かだということに。
法子は立ち止まって、眼を見開いて踊り場を見つめた。
足音がどんどんと降りてきて、やがて一際大きく鳴った。踊り場に降りた音だ。
来る。
足音の主が。
見知らぬ誰かが。
この夜の病院を駆けまわる誰かが。
来る。
見開いた視界に、男が現れた。
入院服を来た男は一瞬法子を見てぎょっと驚いたが、そのまま法子の事など気にも止めずに駆け下りていった。
足音が離れていく。
「どうやら逸早く逃げ出したみたいだね」
タマが言った。
「法子、これから多分混乱が起こるよ。立ち止まっていないで早く行こう」
「うん」
二階に差し掛かった時に入院患者達の不安げにざわめいている姿が見えた。皆事態が飲み込めずに混乱している様だった。中には棒を持って武装している者も居る。法子はそれを横目で見つつ、三階へ上がった。
「タマちゃん」
「どうした?」
「何が起こってるんだろう」
「さあ、まだ分からない」
「本当に大変な事が起こるのかな」
「分からない」
「そっか」
「法子、今君にとって大事な事は何?」
「え?」
「友達の安全? 病院の平和? この混乱を解決してみんなから賞賛される事? 何を一番にするか。それだけはちゃんと決めておきな」
「う、うん」
そう言われても分からなかった。
階段を登り切ると、三階は随分と混乱が少なかった。廊下の外に出ている人影はほとんど無い。もしかして患者が少ないんだろうかと法子は試しに病室を一つ覗いてみると、その予想は外れていて、中ではベッドの上で不安そうにしている人達が居た。他の病室もそうだった。混乱が少ないのは、彼等に廊下へ出て騒ぎ立てるという選択肢が与えられていないだけだった。
もしも病院が大変な事になったら、この人達はどうなるんだろうと法子は考え、そして不安に思った。
「法子」
またタマが語りかけてくる。
「もう一度言うよ。何を一番に取るかようく考えておきな。前にも言っただろう。中途半端な態度をとったら潰れるよ」
「うん。分かった。そうだね。今はみんなを」
法子はタマの言葉を聞いて不安が益々大きくなった。タマの言葉はまるでこれから病院で大変な事が起こると言っている様だった。
三○八号室に辿り着いて何も考えずに中へ入る。
中に入ると陽蜜達が居なかった。病室をいくら見回しても友達の姿が何処にも。
代わりに居ると思っていなかった人物がそこに居た。
「あ、法子お姉さん!
「純君?」
法子が切ってしまった少年がベッドの傍らに座っていた。
「どうしてここに?」
「実は一昨日退院したんだけど、昨日嬉しすぎてサッカーでバイシクルシュートしたら頭から落ちちゃって」
「大丈夫なの?」
「うん。問題ないけど、一応今まで入院してたし、検査の為にもう一回入院って事になって」
「そうなんだ……って違うよ。そうじゃなくて、どうしてこの病室に居るの? だってここには」
四葉という少女しか居ないはずなのに。
そう思って、ベッドの上を見ると、そこに苦しそうな顔で胸を抑えている四葉が居た。
法子は言葉を失ってベッドに近付き、苦しそうにしている四葉をもう一瞥すると、純に言った。
「苦しそうにしてるよ! 誰か呼ばないと」
「うん、ナースコールはしたんだけど」
「したけどどうしたの?」
「誰も来ないんだ。普通ならすぐに合図を返してくれるのに」
「そんな、何で」
「多分、さっき悲鳴が聞こえたから何か起こってるんだと思う」
法子は改めて今この病院が非常事態に巻き込まれている事を思い出した。
「俺、その悲鳴聞いて、とにかく友達を助けようと思って、仁のところに行って」
「ひとし……君?」
見れば純の隣に純と同じ位の年齢の男子が座っている。
「うん、入院してる時に友達になったんだ。あと」
途端に純が泣きそうな顔になる。
「四葉とも友達になったから、ここまで来たんだけど苦しそうにしてて、でも呼んでも誰も来ないし、俺どうして良いか分からなくて」
四葉は苦しそうに息を荒げている。
純はそれを見て、悔しそうな泣きそうな顔になっている。
隣の仁も暗く顔を俯けた。
法子もどうして良いのか分からず、俯きそうになったが、勢い良く顔を上げた。
「運ぼう」
「運ぶって。四葉を?」
「そう。だって誰も来ないんじゃ仕方が無いもん」
「でも担架とか無いよ」
「背負って行けば。大丈夫、最近トレーニングしてるから力ついてきたし」
法子はそう言って、四葉に手を置いた。
「ごめんなさい。でもちょっと我慢してて」
そう言って四葉の下に手を潜らせて、力を込める。
思いっきり力を込める。
けれど持ち上がらなかった。法子の力は四葉の位置を少し変え、四葉の苦しみを少し増やしただけだった。
「俺も手伝うよ」
そう言って純が反対側から四葉を持ち上げようとする。
「仁も手伝って」
仁が頷いて純を手伝おうと手を伸ばした。
その時、外から人の走る音が聞こえた。
法子達が固まる。
もしかして病院の人がナースコールを聞いて来てくれたんだろうか。だなんて、法子は思えなかった。
あまりにも荒々しい足音。それに数が多い。多すぎる。一人二人じゃない。何人もの足音が聞こえる。
法子が危険を感じて、純達に警告しようとした時、扉が乱暴に開かれた。
現れたのは見知らぬ大人達で、眼をギラつかせて法子達を睨んでいる。
「法子お姉さん」
不安のこもった純の声が響いた。
法子はそんな純達と、睨みつける視線の間に割って入る。
こいつ等が侵入者だ。
法子は直感して、どうにかしないといけないと思った。
けれどどうすれば良いのかは分からなかった。