その背は秘密を隠して
格好良く見せるだけ?
法子が試しに刀を振ってみた。風が唸り、地響きが起こる。剣先が地面に触れる。雷光が走り、炎が立つ。けれど全てが収まった後、地面はほんの少しえぐれているだけ。他には何の変化も無い。
本当に何も。ただそれだけ。
何百万何千万に一つという稀有な才能さえも、私にそれだけのものしか与えてくれなかった。
法子が呆然としていると、サンフが笑い出した。だが表情には何処か焦りが見える。
「世界の法則を書き換えましたか。少々驚きましたが、まさか私の能力を忘れた訳ではないでしょう?」
サンフが得意気に言って、辺りを見回す。
「私はこの世界を打ち消す事が出来ます。この世界の向く矛先を逆転させる事が出来ます。つまりこの世界の恐ろしさは即ちあなたを襲う刃となる」
サンフが手を水平に動かして辺りを示した。
特に何も起こらない。
けれどサンフの挑む様な視線を見るに、恐らく法則を逆転させたのだろう。
法子は試しに刀を振ってみた。伸びきったゴムを弾いた様な音が辺りに響く。剣先が地面に触れるといつの間にか現れた小人達が刀の触れた場所に集まって万歳をし始めた。可愛い。格好良くはない。格好良くなる事の反対。
それだけだった。法子を襲う刃など何処にも現れない。それはそうだ。格好良く見せない事がどうして人を襲う直接的な刃になろう。そうサンフの能力は法子の世界に何の危険ももたらさない。それは良かった事のはずなのに、涙が出そうになった。
「ふふ、どうやら警戒して何も出来ない様ですね。それはそうでしょう。如何な魔術であろうと反転させてしまえば意味が無い」
サンフは勘違いしている。法子が自分の能力に絶望して動けないのを、警戒して動けないのだと勘違いしている。
サンフが楽しそうに加虐的な笑みを浮かべて歩んできた。
「世界の改変。確かに素晴らしい魔術です。かつて一度だけ見た事がありますが、その時は本当に寒気が走った」
その言葉が法子に刺さる。かつてサンフが見た新世界は素晴らしいものだったらしい。当たり前だ。世界の法則を改変するなんて、良く分からないけれどとても凄いに違いない。けれど、なら自分のそれはどうだ。
「あなたの世界もきっととても素晴らしく恐ろしいものなのでしょうね。けれど無意味です。いえ、全ては逆効果」
サンフの加虐的な言葉の滑稽な無意味さが法子の神経を刺激し続ける。
「あなたの才能は素晴らしい。成程。ルーマ様があなたに一欠片の視線を投げかけたのもうなずけます。ですが、今この場に限っては、あなたの才能があなたを死に至らしめる」
死に至らしめる訳が無い。だって才能なんて結局無かったんだから。結局惨めで滑稽で、何をしたって駄目なんだから。例え幸せになろうとしたって認められないんだから。池に突き落とされるんだから。
どうしたって駄目なんだから。
だから、だからもう分かってるから何も言わないで。
「全てがあなたの敵になる」
「うるさいうるさい! うるさいんだよ!」
法子の叫びにサンフが足を止めた。
「何で希望を持たせるんだ! 何で期待させるんだ! どうしてそんな……どうして私はみんなと同じになれないの? 何で何で!」
サンフが困惑して問い尋ねる。
「一体何を」
法子は涙を流しながら、滾る思いを吐き出した。
「どうして私は幸せになれないの? 何で! 幸せになりたいのに。私だってみんなと同じ様になりたいのに。それなのにどうして邪魔するんだよ!」
法子が泣きながらサンフとの距離を詰める。
サンフは混乱しつつ一歩退いた。
法子は尚も叫ぶ。
「別に良いじゃん! 私が幸せになってみんなが困るの? 困らないでしょ? それなのにどうして邪魔するの? 何で私が、何で私があんた等に」
「何を。意味が分かりません」
法子は耳を貸さない。
「何で、今までずっと私の事なんか見てなかったくせに。今までずっと無視してきた癖に。それなのに何で今さら関わってくるんだよ。どうして邪魔する時だけ! 何で!」
サンフは法子の言葉を理解出来なかったが、その言葉に敵意がみなぎっている事だけは良く分かった。サンフの目がすっと細まる。そして両手で構えを作る。
「どうやら混乱している様ですね。まあ好都合です」
「うるさいうるさいうるさいうるさい! 邪魔ばっかり。いつも嫌な思いばっかり! 嫌い! あんた等なんか大っ嫌い!」
思いっきり叫んだ法子が一気にサンフとの距離を詰め、刀を振るった。刀の振りに合わせてひよこの鳴き声が聞こえてくる。
サンフはそれを掌で受け止めようとして、危険を感じ手を引っ込め後ろに下がった。
法子はそれを見逃さない。
サンフが下がるよりも速く。サンフが反応するよりも速く距離を詰める。サンフは法子の動きに対応出来ない。
なんでやねんと繰り返す風切り音を纏った刀は袈裟に振り下ろされてサンフを切り裂いた。血が飛び散る。ぽんと軽妙な音を立ててピンク色の煙が起こった。
「あれは!」
「知っているのか、イーフェル」
「ええ、聞いた事があります。法子さんの怒りがサンフさんを超えましたね。魔術は感情で左右されますけど、やっぱり怒りは強いですね」
「ああ、警戒して弱気になったサンフと怒りで魔力を底上げした法子の力量差は近付いたな」
「けど残念ですね」
「何がだ?」
「サンフさんが法則を逆転させた所為で法子さんは結局その法則に頼らなくなったみたいですよ。今圧倒しているのは単純に感情で魔力を増幅しているだけ。結局法子さんの生み出した法則がどんなものなのかは良く分からなかったじゃないですか。期待していたんですけどね。凄く派手そうでしたし」
「興味ないな」
「え? 一応こちらの世界の相棒でしょう? さっきはあんなにはしゃいでいたのに」
「それは法子が法則の改変をやってのけたからだ。それは才能の証明となる。別に生み出した法則がどうこうじゃない」
「でも使える魔術の方が良いでしょう? むしろ使えないと困りませんか? これからの戦いに」
「法則の内容いかんに関わらず強力だ。相手の生み出した法則と交じり合って邪魔する事が出来るんだからな。同じ様に周囲の法則を改変する魔術やお前の様に精緻な環境を必要とする魔術師には切り札になり得る。だがそもそも法則の改変など無くても良いんだ。そんなものが無いと困るなら、そんな奴既に見限っている。極端な事を言えば、戦いは俺一人で十分なんだからな。あいつに期待するのは恋の魔法だ」
「恋の魔法か。それって、今の法子さんみたいに感情による魔力の爆発なんじゃないですか?」
「知らん」
「まあ、手がかりないですもんね。人間にしか出来ない魔術か。どんな魔術なんでしょう。魔術の扱いで人間と僕達にそこまで差が出るとは思えませんけど」
「それなんだがな。俺達にも使える可能性が出てきた」
「え? そうなんですか?」
「ああ。恋の魔法の文献が皆無に近いんだ。つまり魔物だとか人間だとか関係なく、使い手が有史以来本当に限られていて、たまたま世に広まった使い手が人間だけなんじゃないだろうか」
「というより、その恋の魔法とかいうのをを見ても恋の魔法だって気が付かなかったって事はありそうですよね。私もルーマさんもそれがどんな魔術か分からないんですから、それを見たって分からないかもしれない」
「そうだな」
「珍しい魔術だったとして、それをあの法子さんが出来ると?」
「分からん。だが少なくともあいつは希少な魔術をたった今実践してみせた。その更に先へ行ってもおかしくないだろう?」
「流石に希少さが違いすぎると思います」
「かもな。さて、そろそろか、出番だ、イーフェル」
「え? まさか。嫌ですよ。無理ですよ」
「イーフェル?」
「鬼ですか」
胸を切られたサンフは法子を蹴り飛ばす。蹴り飛ばされた法子は着地した瞬間、再びサンフへ向けて駆け出した。
サンフの目が冷徹に法子を見据える。
「あまり舐めないでください」
サンフの左腕を光が覆った。
「ルーマ様の片腕を担う以上、負けは許されない」
半身になり光を纏った片腕を垂れ下げ、駆け寄ってくる法子を迎撃する為に力を込める。法子は刀を振り上げ、渾身の力を込め、迎え撃つサンフを切り裂かんと叫びを上げる。
法子の心はほとんど虚ろになっていた。先程の一撃にあらん限りの思いを込めた所為で、今はほとんど何も考えていなかった。ただ胸の内に蔓延する怒りの残り香だけに突き動かされて法子はサンフへ詰め寄り、刀を振り下ろした。
だが法子の腕が止まる。
意識して止めたのではない。
魔力のほとんどが防御に回された所為で、攻撃を続けられなくなったのだ。
攻撃を止めた事で法子の中の憤怒の残滓が消えて、自失していた意識が戻った。そして光の戻った目で前を見ると同時に、そこに立つ存在を認識する。
それはサンフも同じで法子へ突き出そうとしていた腕は止まり、纏っていた光も消えた。そして眼の前に居る存在を見て、安堵した後に苦々し気な表情を作った。
法子とサンフの目の前に、イーフェルが立ち塞がっていた。
イーフェルは両手に缶詰を持って、腕を交差させ、それぞれの缶詰の中身を法子とサンフの顔の前に晒していた。
「はい、二人共喧嘩は止めてください」
イーフェルが静かに行った。
法子は目の前に突き付けられた缶詰を観察する。腐った様な濁った白色をしたべちゃべちゃとした何かが詰め込まれている。気味が悪くて法子は顔を引いた。サンフは鼻を抑えながら後ろに退がった。
「はあ、全くどうして僕がこんな色恋沙汰の仲裁をしなくちゃいけないんだか」
イーフェルが独り言ちる。
「退きなさい、イーフェル」
「さてそろそろお遊びは止めにしましょう。時間ですよ」
「私は果たさねばならぬ事があります」
「嫉妬ですか? 見苦しい。折角の美貌が腐り落ちますよ?」
「黙りなさい。退かぬ様ならあなたも一緒に」
イーフェルが溜息を吐いて、空を見上げた。
「ほら! やっぱり僕じゃ無理ですよ、ルーマさん!」
「ルーマ様?」
サンフが呟いて空を見上げた時、サンフの背後にルーマが立った。
「中々見物だったぞ、サンフ」
サンフが呆然として振り返る。
「見物と仰いましたか?」
サンフの目が細くしかめられた。
法子はほっと息を吐いた。ルーマ達はきっとサンフをなだめに来たのだろう。後はルーマ達が何とかしてくれるはず。
さっきまでの怒りはほとんど消えていた。まるで夢の様に霞がかかってほとんど思い出せない。どうしてあんなに怒っていたのかわからない位に。
ルーマの出現で安心したというのもある。サンフはルーマの言う事ならある程度聞きそうだ。そもそも町中を駆けていた目的はルーマ探しなのだ。これで事態は沈静化する。
法子が期待してルーマを見ると、ルーマが満足そうに口を開いた。
「法子の訓練をしてやっていたのだろう? 中々の教官ぶりだったぞ」
あ、違う。ルーマ何にも分かってない。
法子の血の気が引く。これではサンフの怒りを刺激するだけだ。
見れば、サンフの拳が握られている。
「ルーマ様、あなたはさっきの私と法子さんのやり取りがただ単に訓練をつけていただけだと仰るのですか?」
「違うのか?」
サンフの肩が震える。拳が更に固く握られる。法子は思わず一歩退いた。
「はい、止まってください」
イーフェルがサンフの鼻先に缶詰を近付けた。サンフが鼻を覆って後ろに退がった。イーフェルが缶詰を捨て、サンフに近づき、その耳元に何事か囁く。サンフの顔が赤くなる。イーフェルが意地悪く笑う。
「ルーマさん、さっきの戦いは法子さんの訓練ではなかったみたいです。ね、サンフさん? 本当は何なんでしたっけ?」
「ふむ、さっきのは何だったんだ、サンフ」
サンフは赤い顔をしてイーフェルを睨みつけ、狼狽えながらルーマを見て、そうして指を絡み合わせて俯いた。
イーフェルが心底楽しそうに微笑みながらサンフから離れ、法子の元へと歩んだ。
「さあ、法子さん、僕達はもうお邪魔です。この場を離れましょう。僕が家まで送りますよ」
「え? でもサンフさんあんなに怒ってて」
「いつもの事です。法子さんは災難でしたけどね。お疲れ様でした、法子さん。格好良かったですよ」
法子はその言葉を嬉しく感じたが、すぐに下を向いた。
「格好良いって言っても、さっきの新世界は」
「確かにあれは防がれてしまいましたけど、サンフさん相手にあそこまで戦って、最後は倒せそうでしたし。何より一生懸命な法子さんは素敵でした」
そのあまりにも率直な褒め言葉に法子は恥ずかしくなって、更に下を向いた。
イーフェルはにこにことそれを見つめてから、法子の肩に手を添えた。
「さあ、行きましょう。ここからは、この地方の言葉で言えば、犬も食いません」
イーフェルに促されて法子は公園を後にした。サンフとルーマは残って、電灯に照らされ向かい合っている。
「どうした? 黙りっぱなしじゃ何も分からない」
「ルーマ様」
「何だ?」
「私は」
「ん」
「私は、さっきの戦いは」
「うん」
「さっきは」
「さっきは?」
「さっきのは」
「何だ?」
「……さっきの戦いは法子さんがルーマ様の婚約者に相応しいかどうか試していたのです」
「ん?」
「その結果、合格とは言えませんね。不合格とも言いませんけれど、これからも十分観察する必要があるかと」
「誰が俺の婚約者だって?」
「法子さんです。言っていたでしょう?」
「誰が? 何を?」
「ルーマ様が、法子さんの事を伴侶にしたいと」
「おい、サンフ、目を覚ませ。またいつもの勘違いか?」
「何を。確かに今まではそうでしたけれど、今回は違います。私ははっきりと聞きました」
「まさかまたいつかの様に好きという言葉を、永遠の愛を誓う言葉と勘違いして暴走した訳じゃあるまいな?」
「まさか! 今の私はそこまで幼稚ではありません」
「なら何だ?」
「私はこの耳ではっきり聞きました。法子さんと交際したいと、付き合いたいと、付き合いを深めたいとおっしゃったではありませんか」
「全く覚えがない」
「とぼけないでください。今日のお昼にご飯を食べながら言っていたでしょう」
「おい、まさか」
「今更言い逃れは出来ません、ルーマ様。これ以上嘘を重ねないでくださ、痛」
「良く聞け。それは人類に対しての言葉だ。法子個人に言った言葉ではない」
「え?」
「え、じゃない。何でそう受け取ったんだ? あの時は確かに人類と俺達の文化を如何に融合するか話していただろう? 何故それが法子との婚約に繋がる?」
「そうでしたっけ?」
「そうだ」
「そうですか」
「そうだ」
「では法子さんを伴侶にする予定は?」
「今のところ全く無いな」
「そうですか」
「そうだ」
「ルーマ様」
「何だ」
「申し訳ありません」
「良い。いつもの事だ」
「すみません」
「良い。それに分かっている。お前の気持ちはな」
「え?」
「俺の身を思うお前の気持ちは良く分かっている。だから安心しろ」
「ルーマ様、それは」
「下手な相手と婚約すればイメージが下がり選挙戦で不利になるからと考えたのだろう。そしてその対処に俺が乗り出せば、それはそれでイメージが下がる。だから一人で奮闘したのだろう? お前の忠誠しかと受け取った」
「ルーマ様」
「俺が魔王になった暁には相応の役職を」
「ルーマ様」
「何だ?」
「いつもの通りにございます。私の全力しかと受け取ってくださいまし」
法子達の後にした公園から凄まじい地響きが届いた。
法子は慌てて後ろを振り向く。公園のある場所から天空へ向けて強大な光が立ち上っている。
「あーあ、あれじゃ今回も失敗した様ですね」
イーフェルが楽しそうに笑った。
法子が尋ねる。
「失敗?」
「恋とは難しいものなのです」
「そう、なんですか」
恋は難しいと言われて法子は何故だか急に不安になった。将刀は今どうしているだろうか。とにかくマンションごと吹き飛ばされる事態からは守れたけど。そういえば用事があると言っていた。一体用事とは何だろう。みんなで遊ぶ事よりも大事な用事。まさか本当は恋人が居て?
不安に表情を翳らせた法子を見て、イーフェルが楽しそうに微笑む。
「思い悩んでいますね、法子さん」
「え? あ」
「僕はそんな法子さんが可愛いと思います」
「え? あの、え、すみません」
慌てて謝る法子を見て、イーフェルが更に嬉しそうに笑う。
「何で謝るんですか?」
「え? だって」
言いよどむ法子を余所にイーフェルがまた帰り道を歩き始めた。法子が慌ててその後を追う。
「サンフさんの事、許してあげてください」
「え?」
「あの人は確かに嫉妬深いですけど、優しい方です」
「はあ」
法子にはそうは思えなかった。だったら襲われたあれは、町中で暴れまわったあれは何だったというのだろう。
「サンフさんは脅すだけで傷付けるつもりはなかったと思いますよ。町で走り回っていた時も、直接誰かを傷付けてはいないはずだ。サンフさんは誰かを傷付ける事が出来ない方だから」
「そうなんですか」
「多分」
「え? 多分?」
法子がイーフェルを見ると、イーフェルは楽しそうに笑っていた。法子にはその真意が見えず、結局サンフがどういう人なのかイーフェルがどんな人なのか、良く分からなかった。
二人はしばらく無言で歩いた。後ろから時折大きな音が聞こえてくる。辺りはすっかり夜になって、冬に入った寒さが身に沁みた。制服を着たままでその上に何も着ていない法子は体を震わせる。
イーフェルが法子を見て、自分の着ていたコートを脱いだ。
「どうぞ。着てください」
法子が慌てて首を横に振る。
「いえ! 大丈夫です。イーフェルさんが寒くなっちゃいます」
「僕は大丈夫ですよ。僕なんかより法子さんの方がよっぽど寒いでしょう?」
「駄目です、そんな」
「法子さん、人の好意は素直に受け取らなくちゃ失礼ですよ」
失礼、と言われると、法子は言い返せない。申し訳なく思いながらコートを受け取って袖を通した。温かかった。
法子が微笑むと、イーフェルが言った。
「羨ましいです」
「え?」
法子がイーフェルを見ると、虚空を見つめて何か考え事をしていた。やがてまたイーフェルが口を開く。
「法子さんは、楽しそうに恋愛をしているな、って思うんです。だから羨ましい」
「そうですか? でも、イーフェルさんだってそんな、もてない訳が」
「僕は色々な方とお付き合いさせていただきました。けれど結局恋愛というものは良く分からない」
「恋愛が分からない?」
「はい、分かりません。分からなくなったと言った方が良いか。だからそれが何なのか、知りたいんです。だから恋愛に一生懸命になれる人達が羨ましいんです。だから僕はそういった人達を、いえ……だから僕は一生懸命な法子さんが好きですよ」
「え? あの」
イーフェルが急に真面目な顔つきになって、法子の事を流し見た。
「法子さん、出来れば僕に教えてくれませんか? どれだけ時間がかかっても良いから。恋っていうのが何なのか」
法子は訳が分からず混乱して首を振った。
「そんな、すみません、私も実は良く分かってなくて、だからそんな教えられないというか」
法子が慌てて手を振り首を振る。
イーフェルはそれをしばらく眺めてから、やがて声を上げて笑った。
「そうですね。そんな簡単だったら苦労しませんね」
「あ、はい、そうです」
再びイーフェルが真面目な顔付きになって、黙り込んだ。法子はその唐突な変化を不思議に思う。
「あの、どうしました? すみません、失礼な事を?」
イーフェルは微笑むと急に立ち止まった。法子も慌てて立ち止まり、振り向いた。イーフェルがじっと見つめてくる。
「いえいえ。法子さんの家、もう少しですよね」
「はい。もう少しっていうか、そこです。もう後十秒です」
法子がすぐそこの家を指さした。
「そうですか。それじゃあ、すみませんけど、僕はこの辺で」
「え? あ! そうですね。送ってもらってありがとうございました」
「良いんですよ。誰かが居ないと。法子さんみたいな方だと危ない人が放っておかないから危険でしょう?」
「いえ! 確かにあんまり強くないですけど、いざとなったら変身してやっつけるから大丈夫です!」
「そういう意味じゃ、いえ……とにかく、ここでお別れです」
「はい。あ、そうだ、コート」
「僕は暑いくらいだから」
「それなら私だって家に帰ったら家の中は暑いです。きっと寒いから着てください」
法子がコートを突き出す。
イーフェルはしばらく固まっていたけれど、やがて手を伸ばして受け取った。
「ありがとうございます。それじゃあお気をつけて」
「イーフェルさんも気をつけてください」
法子がそう言って、赤い顔色に笑顔を浮かべて、家へと走っていった。
イーフェルはそれを笑顔で見送り、法子が家に入ったのを確認してから、堪えていた血を吐いた。地面に人と同じ赤い血が飛び散る。
「さて」
そう呟いて、背中に手を回し、そこに突き立つ幾つもの矢を抜き去った。ずたぼろになった背中を気にも止めずシュールストレミングの缶を懐から取り出すと、振り返って道路の先を見た。
人影があった。矢を番えてイーフェルに狙いを定めている。
「普通夜道で狙います? 女の子が居たんですよ? 不安にさせてしまうじゃないですか。折角元気になったのに」
イーフェルが缶の蓋を開けた。強烈な臭いが辺りに漂う。
「だから無粋な奴は嫌いなんだ」
そして弓を構える人影に戦いを挑もうとした。
が、傷を受けすぎていた。
背中の矢傷に痛みが走り、体から力が抜ける感覚を味わって、イーフェルは体の支えを失った。
そこに矢が走った。
強大な力を込めた矢はあっさりとイーフェルの胸を突き破る。
胸に大きな穴の開いたイーフェルはそれでもまだ立っていた。
けれど、目の光はもうほとんど失われていた。