恋のはじまり
目を覚ますと皆が安堵した表情で自分の事を覗き込んでいた。ベンチに座らされていた。
「大丈夫? 法子ちゃん」
摩子がそう尋ねてきたので慌てて頷いた。皆が一層安心した顔になる。
「立てる?」
実里が心底心配そうな表情をしている。また法子は慌てて頷いて、立ち上がった。
「じゃ、いこっか」
法子が立ち上がると陽蜜が先導して皆が歩き始めた。
法子はその後に続きながらふと違和感を覚える。
なんだかやけにみんな素っ気ない。まるでさっきの事等無かった様に振舞っている。法子は不安になってみんなの背中を順繰りに見ていった。皆素っ気ない背中をしている気がした。
その時将刀が振り返り、一瞬、将刀と目があった。一瞬の事だった。目が合った瞬間目を逸らされてしまった。さっきは可愛いと言ってくれたはずなのに。やっぱりそうなのだろうか。やっぱりさっきのは本当は無かったんだろうか。さっき可愛いと言ってくれたのは自分の願望が作り出した都合の良い夢だったのだろうか。
確かめるのは簡単だ。聞けば良い。将刀に、さっき可愛いって言ってくれましたか? と聞けば良い。勿論そんな恥ずかしい事出来る訳が無く、法子は煩悶しながらその後についていった。
駅について法子は立ち並ぶ券売機を眺めた。実のところ、法子は一人で切符を買って電車に乗った事が無かった。いつも親や先生等、別の誰かが買ってくれて、乗る時も一人で乗った事は無かった、だからどうして良いのか分からない。
法子が迷っている間にもみんな切符を買ってしまって、いつの間にか買っていないのは法子一人になってしまっていた。
いけないと思ってすぐさま券売機の前に立つ、立つがどうして良いのか分からない。数字と文字の羅列から意味が読み取れない。どうすれば切符が出てくるのかさっぱり分からない。
とにかく何かしなくちゃ始まらない。そう考えて、試しに画面を押してみると、画面が変わって、何だかお金を払う様に要求された。慌てるが、どう取り消して良いのかも分からない。払わなくちゃいけないんだろうか。もうきっと後ろではみんな待ちくたびれているに違いない。どうしよう。どうしよう。悩んでいると、横に誰かが立った。
「あ、間違えて押しちゃったんだ」
慌てて横を見ると、将刀だった。驚いて竦んでいると、将刀が落ち着いた様子で画面を指さした。
「ここを押せば戻れるよ」
何だか冷や汗が流れてくる。さっき可愛いと言ってくれた事を思い出して恥ずかしくなる。更にそれが夢だったのかもしれないと考えると恐ろしくなる。何だかまともに顔が合わせられなくて俯いてしまう。傍から体温が漂ってきて何だか変な気持ちになる。
「法子さん?」
法子は顔を跳ねあげて、とにかく将刀の指す場所を押してみた。初めの画面に戻った。将刀が更に別の場所を指さした。
「後はここを押してお金を払うだけ」
言われた通りにすると切符が出てきた。
良かった。
思わず隣の将刀を見上げて微笑んだ。
「ありがとう」
すると将刀に目を逸らされた。
あれ?
たった今まで良くしてくれていたのに急に余所余所しくされて法子は戸惑う。何か変な事をしてしまったんじゃないかといつもの如く考えるけれど、理由は全く思い当たらない。どうしてだろうと何だか泣きそうになっていると、遠くから陽蜜の声が聞こえた。
「電車来たよ!」
電車が?
将刀に腕を引っ張られた。
「急がないと」
将刀の手から体温が流れてくる。固く大きな手に包まれて何だか奇妙な心地になる。将刀に引っ張られて法子は走る。改札で戸惑い、将刀に手伝ってもらって何とか通りぬけ、そうして将刀に引っ張られながらホームへと向かう。
将刀に腕を引っ張られている間、何だか周りがぼんやりとしていて不思議な気分だった。とにかくこのままで居たいと思いながら、将刀の焦っている横顔を見上げ、心が高揚して、心臓が高鳴り、あまりにも将刀に注力しすぎて階段の途中で躓いた。
「危ない!」
将刀に抱きかかえられる。
ホームからは音楽が流れていて電車は今にも発車しそうになっている。間に合わない。法子がそう思った瞬間、ふいに体が宙に浮いた。
「ごめん、法子さん」
将刀の腕に抱え上げられていた。将刀が階段を駆け下りる。それに合わせて振動が体に響く。近くに将刀の顔がある。振動で上下する度に急接近して、くっつきそうで、法子は思わず顔を逸らした。恥ずかしさが込み上げてきた。
前に同じ様にして抱きかかえられた時の事を思い出し、何だか二倍恥ずかしくなって、法子は顔が火照るのを自覚して、赤くなった顔を将刀に見られません様にと祈った。
将刀が階段を降り切って、そのまま電車の中へと突っ込む。意外と余裕があって、将刀が速度を緩めて電車に乗り込み、そうして法子を下ろして、
「ごめん、恥ずかしかったよね。大丈夫だった?」
と法子を覗きこんだ時になって、ようやくドアが閉まった。
法子は何も答えられない。ただ恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして将刀の顔を見上げ続けている。将刀も何だか気恥ずかしそうな申し訳なさそうな顔で法子の顔を見つめてくる。二人がしばらく見つめ合っていると、武志が不思議そうに尋ねてきた。
「二人共どうして見つめ合ってるの?」
その言葉をきっかけに法子は自分の行為の恥ずかしさを認識して、更に顔を赤らめた。将刀も何だかはっと気づいた様な表情になって、慌てて法子から目を逸らした。目を逸らされた法子は何だかショックで、電車が出発するのに合わせてよろめいた。武志は陽蜜達によって叩かれた。
電車の中は空いていてほとんど人が居なかった。皆が適当に座る。法子の座る反対には、将刀が居る。通路を挟んだ所為で何だか凄く遠くなった気がした。
電車に揺られていると段々と落ち着いてきて、何だか全てが夢の事の様に思えてきた。これも全部夢なんじゃないだろうかと思っていると、隣に座った陽蜜がこっそりと耳打ちしてきた。
「良かったね」
「え?」
「可愛いって言ってもらえたし、今だってお姫様抱っこしてもらってたし」
口に出してそうはっきり言われると、また恥ずかしさがぶり返してきた。そもそもあれは夢じゃなかったのか。やっぱり本当にあった事なのか。
混乱する法子に陽蜜が追撃をかける。
「やっぱり向こうも好きなんだよ」
「向こう? 好き?」
「うん。絶対そう?」
「好きって何が? 向こうって?」
陽蜜が笑顔で固まって、法子の頭に手刀を入れた。
「だから、将刀君が法子の事を好きだって言っているの」
「え?」
将刀君が私の事を?
法子はしばらく考えて、思いっきり首を振った。
「そんな、ありえないよ。私が将刀君をなら分かるけど」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
「え?」
「将刀君の事、好きなんだ」
法子はその言葉の意味を考えて、思いっきり面食らった。
「えー、何で?」
「いや、今自分で言ったじゃん」
「確かに、そうだけど。でも」
そうなのだろうか。
いまいち実感が湧かない。そもそも好きとはどんな感情なのか。そんなところから分からなかった。
陽蜜は笑う。
「きっと大丈夫。両想いになれるよ」
「両……想い?」
「そう、もっと可愛くなれば、もっと大丈夫」
「もっと? え?」
「流石にお金持ってきてないだろうから、服は買えないかもしれないけど、髪型なら変えられるだろうし」
「髪型を変える?」
「そ、やっぱりちょっと重いからね。軽くすればもっと可愛くなるよ。大丈夫! 任せなさい」
「え? え? どういう事?」
混乱する法子を置いて、陽蜜はうっとりとして虚空を見上げた。
「ああ、でも良いなぁ。私も法子みたいに、あんな事言われて、あんな事されたいなぁ」
「私みたいにって?」
法子が恥ずかしくなりながら聞き返すと、陽蜜は聞こえなかった様でうっとりとし続けた。言葉が素通りして怖気づいた法子はそれ以上陽蜜に話しかけられなかった。
電車が目的の駅についた。降りた瞬間、陽蜜がちょっと行きたいところがあるからと言って、皆を先導し始めた。駅の中は人に溢れていた。何だか法子は息苦しくなった。改札を抜け、外に出ると人の数は更に増えた。町が果てしなく何処までも続く迷宮の様に思えた。
法子が町に圧倒されている間にも、陽蜜が先に進んでいってしまうので、法子は慌てて後を追った。陽蜜が真っ先に向かったところが美容院だった。
お城めいた不思議な雰囲気があって、今まで母親に連れられて近所の美容院に通っていた法子には何だか衝撃だった。みんなこういうところに通っているんだ、と中に入ってから辺りを挙動不審な様子で仔細に観察していると、突然陽蜜に腕を掴まれて美容師の前に引っ立てられた。
「この子です。可愛くしてあげてください」
え? 私? と疑問に思っていると、美容師と陽蜜が法子を挟み込み、何か話し始めた。法子には美容師と陽蜜の間の宇宙語はほとんど聞き取れず、辛うじて耳に入って来たのは、陽蜜が今度かっともでるをするらしいという意味は掴めるけれどあまりにも日常とかけ離れすぎて理解できない言葉と、髪が重いからすいてととのえてぱあまはせずえくすてもしないという聞き慣れな過ぎて良く分からない言葉だけだった。宇宙語にすっかり面喰って疲弊した法子を美容師が席へと促す。
席について、法子は鏡の中に映しだされた自分を眺めた。暗そうな雰囲気が漂っている。さっき陽蜜に重いと言われたけれど、まさしくしっくり来る表現だった。重い。一緒に歩くならきっと軽い方が良い。髪を切れば軽くなるのだろうか。
美容師が何か言いながら、髪を触ってくる。法子にはその言葉の意味が分からなくて混乱した。法子がおっかなびっくり受け答えをしているのに、美容師は何の動揺も見せずに話を進めていく。とても有能そうに見えた。
この人に任せれば自分も変われるんだろうかという希望が湧いた。
こんな自分でもみんなみたいに明るくなって優しくなれて楽しくなれるのだろうかと期待した。すぐにそんな大きな期待をしてはいけないと打ち消すけれど、どうしてもこれからの事に過度の期待をしてしまう事は止められなかった。
何だか色々と緊張しつつ美容師のなすがままにされる。美容師が話しかけてくるので更に緊張する。上手く話せない。美容師は何とか話を盛り上げようとしきりに法子へ話しかけるのだが、法子はあーとかうーとかへーとかすみませんとかしか返せない。それでも美容師は話しかけてくるのだけれど、法子の目にはその様子が困っている様に見えた。それを見て申し訳なくて法子も困るのだけれど、どうしようもない。自分て本当に駄目だなと思った。例え髪型を変えても自分は変われないんじゃないかという気がしてきた。あるいは変わってももっと悪い方向に変わってしまうんじゃないかという不安が湧いた。そもそも自分がお洒落なお店でお洒落になろうとするなんて間違っているのだ。
後ろでは友達が楽しそうに話し合ったり法子を見つめたりしていて、法子にはその光景が、ガラスを隔てた別世界の様に思えて何だか寂しかった。髪を切られた自分は切られる前の自分と徹底的に変わってしまって、友達と二度と分かり合えなくなってしまう。そんな気がした。
段々と思考が鈍り始める。今日の色々な事に疲弊していた法子は何だか不安に思う事にも疲れ、段々と眠さでうつらうつらし始めた。その時、突然美容院に肩を叩かれた。びっくりして、曖昧だった意識が戻り、眠っていた事を謝ろうと鏡の中を見て、そこに居る自分を見た。
髪型の変わった自分が居た。髪のボリュームが減り、目元を隠す程伸びていた前髪が整えられ、伸ばし放題の髪を二つに束ねてごまかした気になっていた全体が、きれいなストレートになっていた。
それだけだった。
髪型はとても良いと思う。けれどその中に埋め込まれたいつもの自分の顔を見ると、何だかパッとしない。全体として見ると、あまり変わり映えのしないいつもの自分に見える。自分が魔法少女に変身した時の事を考えると、その変化はあまりにも僅かな気がした。
何だこんなものかと、安堵半分落胆半分で自分を眺めてから、そう言えばお金はどうするんだろうと急に不安になった。
恐る恐る鏡の中の、どうですかと聞いてくる美容師に尋ねてみた。
「あの、お金」
美容師が突然笑って、手を振った。
「いらないですよ。今日はサービスです」
笑われた事に委縮して、法子はそれ以上話題を続けられない。
「どうですか?」
美容師が再度尋ねてきたので、法子は慌ててとても良いですつっかえながら返事をした。けれど内心、大して変わっていない自分を眺めて何となく気恥ずかしい思いを抱いていた。きっとこの美容師さんにかかれば、みんな素敵に変わるに違いない。それなのに自分だけがこんなものなのだ。何だか頑張ってくれた美容師や陽蜜に申し訳ない気持ちになった。
全てが終わり、待っていてくれた皆の元へと向かった。どうせ大して変わってないから落胆されるに違いないと少し怯えながら。
恐る恐るといった様子で法子は皆の前に立った。
その瞬間、陽蜜が抱きついてきた。
「可愛い!」
「ええ!」
驚きと混乱で固まった法子に、実里が声を掛ける。
「うん、凄く素敵になったよ。法ちゃん可愛いよ」
法子は物凄く恥ずかしくなった。そして嬉しくなった。普段ならお世辞かもしれないと思うところなのに、今だけはどうしてか素直に褒め言葉を受け止められた。
嬉しかった。
「うん、とっても可愛くなったよ、法子ちゃん」
「可愛いのです。綺麗になりました」
「男の代表として、可愛いと思うよ」
摩子、叶已、武志と、次々に可愛いと言われて法子の中で嬉しさが溢れ、混乱も拍車がかかり、可愛いがゲシュタルト崩壊し始めた。
自分が褒められているのかも分からなくなる位に混乱した法子は、ふと辺りが静かになった事に気がついた。どうやらみんな将刀の言葉を待っている様だ。
法子も気になって、将刀を見た。将刀は皆の視線を受けて、頬を掻いてから、恥ずかしそうに口に出した。
「俺も可愛いと思う」
おおという歓声が上がる。何故か周りから拍手が起こる。美容師の人達まで拍手している。将刀が一気に顔を赤くして顔を背けた。顔を背けられても法子はショックを受けなかった。それ以上に重要な事が心を占めていた。
気付いちゃった。
抱きついている陽蜜を見る。目が合うと陽蜜がとても嬉しそうに笑った。とても綺麗な笑顔で、見ていて引き込まれる様だった。
凄いなぁと思う。
見回すと、そっぽを向いている将刀と何だかそれをからかっている武志を除いて、実里も摩子も叶已もみんな素敵な笑顔を浮かべていた。
凄いなぁと思う。
一昨日、法子が将刀と付き合う為の作戦会議をした。その時からみんな分かってたんだ。
凄いなぁと思う。
私は今の今まで全然分からなかったのに。みんな凄いなぁと思う。
気付いちゃった。
みんなに可愛いと言われた時に、将刀に言われた時だけ喩え様の無い衝撃が走った。将刀に言われた時だけ、みんなに言われ時よりもずっとずっと強い喜びが体を震わせた。
気付いちゃった。
私、将刀君の事、好きなんだ。