あなたの傍に居る駄目な私
将刀の顔が目の前にあった。憂いを帯びた顔は何だか悲しそうだけれど、その心の中は分からなくて、法子は何とか分ってあげたいと将刀の瞳の中をじっと覗き込んだ。その瞳が瞼によって遮られる。将刀が目を閉じた。法子にはその意味が分からない。けれどやけに動悸が激しくなって、一体なんなのかと思っていると、
「神様!」
突然目の前の顔が外国の少女の顔になって、それが一気に近付いてきて、首に物凄い衝撃が走った。
息が詰まって地面に転がる。
「神様! 大丈夫ですか?」
立ち上がろうとするけれど、何だか体がやけに重い。それでも必死で体を起こすと、首に途轍もない重さを感じた。見れば、少女が首にぶら下がっていた。
「え? 誰!」
少女が元気よく答える。
「エミリー・フォークナーと言います、神様!」
エミリーの答えを聞いて、再度尋ね返す。
「エミリー? 神様?」
「エミリーは神様じゃありません、神様!」
法子はようやっと自分が神様と言われている事に気が付いた。
「え? は? 私が神様? 何で?」
「狐の人形を取ってくれたからです、神様!」
「ええ? それだけで? だってそんな全然大した事じゃ。私が神様なんて」
「とっても嬉しかったから。本当に困っている時に救ってくれたから、だからあなたは神様です! 私にとっての神様です! 例え誰が何と言おうと、私にとっての神様です!」
真っ直ぐな称賛はとても嬉しいのだが、神様というのはあまりにも大仰すぎる。元々褒められ慣れていない法子には尚更だった。
だから何とか説得しようとしたのだけれど、何かを言う前に、エミリーは既に立ち上がっていた。
「それじゃあ、神様! また会いましょう!」
そうして狐の人形に口づけをして去って行った。
「何だったの、今の」
法子の疑問に誰も答えられず妙な沈黙が降りた。その沈黙は外からの声によって破られた。
「あ、みんな、もう来てたのか」
武志がこちらに駆け寄ってきた。そして法子の顔を見ると、突然衝撃を受けた様な顔になって、周りに居る友達の顔を眺めまわし、実里と摩子が大きく頷いたのを見て、急に感極まった様子で叫んだ。
「法子さん! 元気になったんだ!」
そうして涙目になりながら法子へと駆け寄り、法子の事を思いっきり抱きしめた。
「良かった! 心配してたんだ!」
「え? え?」
法子を混乱が襲う。何をされているのか分からない。ただ自分の顔の傍に武志の顔があり、温かい体温が全身を包んでいる事だけを感じ取って、思わず悲鳴を上げそうになった時、法子と武志の間に将刀が手が割り込んだ。
「法子さん、困ってるだろ」
「え? あ、ごめん!」
武志が慌てて体を離す。
陽蜜が背後から声を掛ける。
「遅かったな、変態」
武志が驚いて振り返った。
「え? 変態って、俺?」
「そうだよ、変態。いきなり女の子に抱き着くのはみんな変態」
実里が加勢する。
「うん、変態だよ」
叶已も加わる。
「変態ですね」
最後に摩子が言った。
「変態だね」
摩子の言葉が終わるか終らないかのところで、武志が膝を折って崩れ落ちる。
その傍で法子は将刀の事を見上げていた。
守ってもらっちゃった。
悪者から守ってもらっちゃった。王子様に。お姫様みたいに。
法子はそこで必死に頭を振った。自分なんかに似合わない。そんな想像して良い訳が無い。こんな暗い自分がお姫様だなんて。
「大丈夫?」
法子は振っていた頭を止めて、声を掛けてくれた将刀を見た。将刀は心配そうにしてくれている。
優しい。何だか涙が出そうになった。
潤んだ瞳で将刀を見上げていると、
「ごめん」
そう言われた。
「ごめん。さっき言ったばかりなのに」
さっきなんか言われたっけ?
法子は不思議に思ったが、将刀は苦悩する様な顔をしていて、忘れてしまったなんて言えそうにない。
「武志」
将刀が法子をかばう様に前に出て、崩れ落ちている武志に低い声を掛けた。武志は必死の形相で跳ね起きる。
「ち、違うんだ。法子さんが元気になったからつい嬉しくて」
皆が冷やかな視線を武志に送る。武志が必死で言い訳を重ねる。その様子がやけに滑稽で、それに自分の前で庇ってくれる将刀の背中を見ていると何だか嬉しくなって、法子は笑った。
皆の視線が法子に集まる。法子の笑顔を見て、陽蜜が呆れた様に苦笑した。みんなも釣られて笑う。
「何でも良いけどさ、その興奮したら涙流すのと、誰彼かまわず抱きつくのは止めといた方が良いよ」
「分かった。ごめん。もう二度としないから」
一人、将刀だけが不機嫌な顔をしていたが、法子の笑顔をもう一度見て、表情を緩ませた。
一瞬、法子は将刀が自分に笑いかけてくれたんじゃないかと思った。けれどそんなの絶対勘違いだと自分に言い聞かせて、それでも頬が緩んで恥ずかしかった。
陽蜜が行こうと声を掛けて、皆が駅へと向かって歩き出す。
法子の歩く隣に将刀がやってきた。
「クレーンゲーム得意なんだね」
法子は突然話しかけられた事にびっくりして思わず否定しかけたのを何とか自制して、頷いた。
「そんなに凄く得意な訳じゃないけど」
「いや、凄いよ。俺、ああいうの取れた事無いもん。法子さんはクレーンゲーム良くやってるの?」
法子は首を振る。
「ほとんどやらない」
「それなのに取れたんだ。凄いね」
大きく驚かれて、法子は委縮した。
本当に法子はクレーンゲームをあまりやった事が無い。といって、才能がある訳でもない。たまたま、あのエミリーという少女が欲していた人形のシリーズを揃える為に、夏休みの中の一週間をまるまる使って、先程操った台を一人黙々と研究し尽くしただけだ。他人のプレイを観察し、専用のシミュレーターソフトで特訓し、人形の配置が絶好の位置になるのを待って、取る。狩人の様な一週間過ごせば、誰だって上達する。だからほとんどやった事が無いけれど、取れて当然と言えば当然だった。
勿論そんな事を言えば、気味悪がられるなんて分かり切っている事なので、法子は決して口にせず、ただ黙って俯いた。
法子が落ち込む様に下を向いているので、将刀はまた何か自分が変な事を言ってしまったのではないかと訝った。けれど原因が分からない。とにかく会話を繋いでいこうと、将刀は流れるままに言葉を流した。
「法子さんはゲーム好き?」
法子が顔を上げる。ゲームってどの? と聞き返そうとして、すんでのところで思い止まり、必死で考えて無難に繋ぐ答えを出した。
「将刀君は?」
「俺、結構好きだよ」
「そうなんだ」
何となく嬉しくなる。
「法子さんは?」
「私も、好き」
「へえ、どんなのするの?」
法子は咄嗟に今やっているコンピューターゲームを答えようとして、けれどあまり知られていないソフトの名前だったので、口に出すのを躊躇った。ゲームが好きだと言っても、あまりに変なのを挙げると引かれてしまうかもしれない。
何か無難なソフトはと考えていると、考え事に意識が行き過ぎて、人にぶつかった。
難なく弾き飛ばされ、転びそうになる。
それを将刀に受け止められた。
将刀の胸に顔をうずめる形になって、法子は顔から火が出る様な思いがして、慌てて離れた。心臓の鼓動が高まり過ぎて、破れてしまうんじゃないかという位に強くなっていた。
混乱したまま、将刀を見ると、将刀の心配そうな目と合った。また心臓が跳ねた。
必死で息を整えようとした。胸の鼓動を落ちつけようとした。けれど、もう将刀から離れているのに、どうしても鼓動は収まらなくて、むしろもっともっと強くなって、心臓がもう命を保つ役目が果たせていないんじゃないかという位に脈動が強くなった。
法子が口を半開きのまま将刀を見上げていると、将刀が心配そうに顔を寄せてきた。
「大丈夫?」
あまりにも顔が近付いたので、法子は驚いて身を引いた。
「大丈夫!」
そう言って、法子は後ろに飛び退って、そうして後ろを歩いていた人にぶつかった。法子は跳ねかえされて、バランスを崩し、片足立ちで一度くるりと半回転してから、将刀の下へ背中から倒れ込んだ。
将刀に支えられ、その暖かな体温が嬉しくて恥ずかしくて、かと思うと目の前に将刀の顔が合って、何だかもう耐えられなくて死んでしまいそうで、舞い上がりに舞い上がった法子の耳に、ぶつかった相手の声が聞こえた。
「今ぶつかった奴見た? うけんだけど」
「見た見た。くるって回ってたな」
「いや、動きじゃなくて顔。マジ、すげえ顔して倒れたから」
途端に、法子の心に冷却水が流し込まれて、法子の赤く混乱していた表情は真っ青な能面の様な表情に変わった。そんな法子の表情を見て、将刀は歯を強く噛んだ。
法子は沈み込む。今自分は何を考えていただろう。滑稽だ。自分が醜い事を忘れて、異性に変な気持ちを抱くなんて、滑稽だ。分かっている。もう最近何度も確認した事なのに、何度だって忘れて、沈み込んでしまう。そんな自分が滑稽で惨めで悔しくて悲しかった。涙が出そうになって、喉の奥に風船でも詰め込まれた様な不快感がやって来た。
「おい!」
法子の思考を、将刀の大声が妨げた。
「お前等、女の子を倒してといて、なに笑ってんだ!」
将刀の声に振り向いた相手はあからさまに苛立ちながら、将刀の事を睨み付けた。
「は? 意味わかんねぇ。ぶつかられたの、俺じゃん」
「でもお前は何ともないだろ。謝れとは言わないけど、人の事倒しといて、笑うなよ」
その瞬間、ちりっという金属音が鳴り、直後にぶつかった相手が怒りを露わに一歩踏み出し、その瞬間そいつのベルトが切れて、テーパードパンツが足元までずり下がり、もつれて、転んだ。
転んだ相手は何が何だか分からず、うつ伏せになったまま前を見上げ、そこに居る将刀の表情を見て、凍りつく。
将刀が静かに言った。
「あのさ、別に謝れとは言わないから、さっさと消えて」
言われた相手は、仲間に起こしてもらってから、よたよたと逃げて行った。
相手が居なくなった事で、将刀は安堵した様子で、法子を見下ろした。法子は申し訳なさに顔を歪める。小さな声で、ごめんなさいと言って、将刀から体を離す。自分の体が触れていた事が申し訳ない。
法子が将刀から離れた瞬間、将刀が法子の手を掴んだ。
掴まれた法子は、汚い自分を気味悪がられるのが怖くて、醜い自分の顔をじっくりと見られて嫌われるのが怖くて、将刀から強引に離れようとしたけれど、その寸前に将刀の顔がずいと伸びて来た。
「法子さんは可愛い」
「は?」
唐突な言葉に法子の顎が落ちた。
冗談かと思う。けれど将刀の真剣な顔はとても冗談には見えなかった。
法子の頭の中に沢山の感情が湧き上がって、全部が混ぜ合わさって真っ白になる。
「俺は法子さんを可愛いと思う。法子さんは可愛い」
その瞬間、湧き上がる感情が法子の脳の容量を軽々と突き破って、法子の意識と体は地面に崩れ落ちた。
何処か遠くから空気をつんざく金属音が聞こえてきた。