旅人の上着
摩子の手を打ち払った法子は摩子達から離れる様にベッドの端っこへずり退がり、怯えの籠った目で摩子達を見回した。
「法子ちゃん」
摩子が心配そうに腕を伸ばす。それに怯えて法子が震えた。
「来るな」
法子の言葉に摩子の手が止まる。
「法子ちゃん」
法子が布団を強く抱き寄せる。
「来るな。嘘だ。嘘吐きだ」
「法子ちゃん、信じて」
「嘘吐きだ。だっておかしいもん」
「何にもおかしくないよ。私達は本当に」
「だって!」
法子の目に涙が溜まる。
「だって私に友達が出来るなんておかしいもん!」
「どういう事?」
涙がまなじりから流れていく。
「だって、だって私は、だって私は! 本当に駄目で、何やっても上手くいかないし、みんなと上手く話せないし、みんなみたいに上手く笑えないし、みんなを楽しませる事も出来ないし、皆が知ってる事も知らないし、他人と一緒に居るのがつらいし、みんなと一緒に居るのは楽しかったけど、でも偶に本当に偶にだけど面倒だなって思う事があったし、それに上手く話せないからどんどん自分が嫌になっていくし、一緒に居ると本当に居ても良いのかって怖いし、だって私って気持ち悪いでしょ? 変な匂いがするし、肌も汚いし、油っぽい気がするし、体も曲がってるし、顔も体も貧相だし、運動とか出来ないし、得意な事も無いし、卑屈だし、すぐ落ち込むし、本当に良いところがなくて、悪い所ばっかりで、それなのに人の悪い所が見えて、心も顔も体も何もかも醜くて。それなのに、そんな私に友達が出来る訳が無かったんだもん。学校で楽しく過ごすなんて夢見ちゃいけなかったんだ。みんなに嫌われてる私が人の居る所に行っちゃ行けないんだよ!」
法子が自分の頭を強く掻き毟った。岩を削る様な不穏な音が立った。その手を摩子が止める。そうして法子の目をしっかりと見据えて言う。
「違う。私達は」
しかし法子は摩子から目を逸らして、怒鳴った。
「分かってる! 分かってるよ! みんな良い人だって。本当に友達になろうとしてくれてるって分かってる。良い人だって分かってる。分かってるのに! 分かってるのに、私はそれが信じられないし、信じたって……信じたって! だって、それでも、だから、みんなに迷惑を掛けたくない!」
「そんな事無い!」
「嘘だ! そうだって分かってる! 私が居ない方が良いっていうのは分かってる。今日だって、閉じこもってわざわざみんなに来てもらって、迷惑だって分かってる。友達になってくれたのだって、馬鹿な私がクラスに溶け込めないからで」
「違う!」
「違くない! 分かってるよ! みんながそんな気持ちで友達になったんじゃないって事は。義務だとか同情とかそういうんじゃなくて、友達になってくれようとしたのは分かってる! でもやっぱりそれでも、私が友達になったら迷惑なんだよ。だって昨日も私の味方をしたから、他の人と喧嘩になっちゃったでしょ? 今日も私を迎えに来て──大丈夫? もう学校が始まる時間じゃない? 遅刻しちゃうよ? そうでしょ? 迷惑でしょ! みんなの善意は嬉しいよ。でも私はそれに応えられない。みんなに迷惑をかけるのが辛いの! それにどうせ嫌になってくるよ。絶対! 今だって段々嫌になってきてるでしょ? こんな我儘ばっかり言って。嫌な思いしてるでしょ? 苛々してるでしょ? ねえ! そうでしょ! どうせみんな私の事嫌いになるんだ!」
その時、摩子の掌が法子の頬を張った。
張られた法子は黙り込んで、恐る恐る摩子の顔を見て、怒気を発するその表情を見て、恐ろしげに壁に突けた背を更に押し付けて、あっと小さな息を漏らしたかと思うと、流していた涙の量を更に溢れさせて震える声で誤った。
「ご、ごめ、んなさい」
本当に恐ろしそうに謝る法子を摩子は冷徹に見据えて、謝り続ける顔先に向かって思いっきり怒鳴りつけた。
「勝手な事言うな!」
ひっと法子の喉が鳴り、謝る声は消え、流れていた涙も止まり、部屋の中は一気に静まり返って、静まった中で摩子はゆっくりと自分の顔を法子の顔へと近づけた。
「自分の事をどう言おうと勝手だけど、私の気持ちを勝手に決めつけるな!」
「でも」
「私の気持ちは私の気持ち! 法子ちゃんが思い込んでるのとは違う! 文句ある?」
摩子に怒鳴られて、法子は身を竦ませながらも俯きがちに必死で首を振った。
「無いです。ごめんなさい」
摩子は尚も怒鳴る。
「私が法子ちゃんと友達になったのは、私がなりたかったからだし、法子ちゃんと一緒に居て迷惑だなんて思った事は無い! 文句ある?」
摩子が首を振る。
「私は法子ちゃんが好き! 絶対に嫌いになんかならない! 文句ある?」
「けど」
「文句ある?」
「無い、です。でも」
反論しようとした声は止まって、再び法子の目から涙がこぼれ始める。
摩子の目からもまた涙が零れ出す。
「私は法子ちゃんは可愛いと思うし、良い子だと思う! 一緒に居て楽しかった! 文句ある?」
法子は何も答えられない。ただ涙を流している。
「私は法子ちゃんと一緒に居たい! 法子ちゃんとずっと友達で居たい! 文句ある?」
「でも私が一緒に居ると迷惑が」
「例え法子ちゃんがどんな迷惑を掛けて来ても、例え私が法子ちゃんにどんな迷惑を掛けても、とにかく私は法子ちゃんと一緒に居たい! 文句ある?」
法子は言い返せず、
「文句ある?」
摩子の恫喝に、ゆっくりと首を横に振った。
摩子はそれを見ると、ふっと息を吐いて、強張った表情を緩める。
「私達は友達、これからもずっと」
そうして笑った。
「一緒に学校に行こう。文句は?」
摩子の質問に法子は答えられず、顔だけ上げて言葉を詰まらせた。
「ある? ない?」
法子はまた首を大きく振る。それだけでは意味が伝わらないと思って、頑張って口を開いた。
「無い、です」
摩子は肩の力を抜いて、体を引くと、法子に手を差し伸べた。
法子はその差し出された手を、少し迷ったけれど、掴んだ。立ち上がらせてもらって、摩子の前に立つ。そうして泣き出した。
泣き出した法子を摩子が抱き締める。
「ごめん、ごめん。怒鳴っちゃったし、痛かったよね? でも私の気持ちを知ってほしくて」
後ろで黙っていた陽蜜が、私達のー、と補足した。
摩子が法子を放す。
法子は涙を拭う。
「ごめんなさい」
次から次へと溢れてくるきりの無い涙を拭う。
「ごめんなさい、ありがとう」
そうして嗚咽を漏らす、実里が静かに近付いて法子の背を押した。
「さ、じゃあ、お風呂に入りに行かなくちゃね。タオルと着替えは何処?」
そうして泣きじゃくっている法子を連れて用意を整え、部屋を出て行った。
残った陽蜜は部屋の時計を見て、楽しそうに言った。
「んー、遅刻ぎりぎり」
「仕方が無いのです」
「そう、仕方が無い。って訳で、どっか遊びに行かない?」
「駄目」
陽蜜の意見は摩子ににべも無く切り捨てられた。陽蜜は笑う。
「しかし、強引にいったね。ぶった時はどうなるかと思った」
「うん、悪い事しちゃったね」
「解決したから良いんじゃない? 意外だったけどさ」
「何が?」
「摩子があんなに怒ったの」
「うん。自分の気持ちに正直に生きなきゃいけないって教わったから」
「誰に?」
「秘密」
陽蜜が追及しようとした時にスマートフォンが鳴った。陽蜜は電話に出ると、相槌を打ちながら段々と笑みを濃くしていく。電話を終えた時、陽蜜は満面の笑みになっていた。
「学校で爆発があったんだってさ?」
「え?」
摩子と叶已が驚いて聞き返す。
「爆発があったみたいで、校舎が壊れてるみたい」
「そんな、大丈夫なんですか?」
「怪我人は居ないってよ? 良かったね。とにかく今日は休みだって」
「また爆発……でもいつの間に? だって昨日の夜だって、そんな騒ぎなかったよ?」
「さあ? 今連絡網が回って来たって事はついさっきじゃないの? 良く知んないけど」
「じゃあ、まだ犯人はこの辺りに居るって事ですね」
叶已の深刻な言葉に陽蜜も神妙に頷いて言った。
「じゃあ、遊びに行くしかないな?」
叶已が手を横に振る。
「いやいや、おかしいですよ。外に出ちゃまずいでしょう?」
「馬鹿だな。爆弾犯なんだろ? じゃあ家の中に居たって危ないだろ? だから電車で市街に遊びに行こう!」
「いや、でも、うーん」
悩み始めた叶已に対して、摩子は陽蜜の言葉に賛同する。
「確かに、それも良いかも。折角法子ちゃんと仲直りしたんだし」
「そうそう。じゃあ、遊びに行こう、決定」
まだ悩んでいる叶已を置いて、陽蜜と摩子は外に出た。廊下に出ると、丁度法子と実里が階段を上ってくるところだった。法子からは湯気が立っている。湯気の立つ法子は部屋から出てきた二人と顔を合わせると決まり悪げに、目を逸らした。
「あの」
そう言ってから、しばらく口を閉ざして、また開いた。
「ごめんなさい。ありがとう。学校、ちゃんと行く、から」
傍に立つ実里が何度か嬉しそうに頷いた。
それを陽蜜が否定した。
「あ、ごめん、やっぱそれなしで」
法子が衝撃を受けて顔を跳ね上げ、絶望に染まった表情で陽蜜を見た。
「そういう事じゃなくて。学校が休みになったから、遊びに行こう!」
法子はその瞬間、全身の力が抜けて崩れ落ちそうになり、何とか体を支えて踏みとどまると、安堵しきった表情で息を吐いた。それから慌てて顔を上げた。
「休み?」
「そ、爆発があったから」
「ば、爆発?」
「何かあったらしいよ。でも怪我人は居ないって」
「でも、それじゃあ、外に出るのは」
「爆弾なんだから中に居たって危ないだろ? どっか遠くに遊びに行かなきゃ」
「あ、そうか」
部屋から出てきた叶已は、納得する法子と実里を呆れた様子で見つめ、眼鏡の位置を直してから苦笑して嘆息した。
「そういう事なら帰って私服に着替えなくちゃいけませんね」
「良いじゃん。この制服のままで」
「補導されますよ?」
「大丈夫だって。っていうか、帰るのめんどい」
休日に遊びに行く。しかも制服で。何より友達と。その未知の体験に法子の心が震えた。冷め始めた体が再度温かくなった。
「じゃ行こう」
法子が母親に事情を話し、あっさりと許可をもらったので、五人して勇ましく外に出た。
その背を玄関で見送って、母親は嬉しそうに溜息を吐いた。
「うーん、こういうのも子の心親知らずって言うのかしら?」
その後ろから法子の弟がやって来た。
「おはよう。お腹減った」
「おはよう。用意出来てるから食べなさい」
「あれ、もう怒ってない?」
「怒ってないけど?」
「じゃあ、姉ちゃんは?」
「今、お友達と出かけて行った」
「そっか。なあんだ」
弟は嬉しそうに笑うと背を向けてリビングに向かう。
それを母親が呼び止める。
「ねえ、お母さん、そんな怒ってる様に見えた?」
「え? うん。めっちゃ怖かった」
「そう。うーん、何でかしら」
「怒ってたからじゃないの?」
「苛々はしてたけど。でも、どうして苛々してたのか分からなくて。大丈夫だって信じていたのに」
弟はしばらく考えてから笑った。
「老化じゃん?」
母親は無言で弟の傍に歩み、その頭をはたいてから、不思議そうにして、池の泥で汚れた法子の部屋を掃除する為に、二階へと上って行った。