一方その頃英雄は
「褒められちゃったー」
摩子が嬉しそうに道を歩いている。変身は解いてある。姿も格好も何処にでも居る少女のもの。一つ違うのは肩に猫の様な生き物を乗せている事だけ。雨の中傘をさして、肩に猫を乗せた少女は夜道を歩いている。
摩子はちらちらと辺りに気を配りながらも嬉しさを溢れさせて歩いている。魔物に盗まれた大切な宝物を探す事も大事だが、今は何より褒められた事が嬉しかった。
「ねえ、マチェ。私カッコ良かった?」
摩子が嬉しそうに自分を指差す。肩に乗るマチェはそれに対して冷やかに答えた。
「感心しないわね」
「え?」
予期していなかった返答に摩子の表情が曇る。
「正義を名乗ったあなたはとても醜かったわ」
言葉を失った摩子に向けてマチェは更に言い重ねる。
「あなたの取った行動は正義じゃない」
「どうして? だって悪い人をやっつけて、喧嘩も止めて」
「でもそうしたのは決して誰かの為じゃないわよね?」
「みんなの為に、平和の為に」
「あの時のあなたは、酷い目にあった友達にどうしてあげる事も出来なかった自分に苛立って、その八つ当たりで誰かを攻撃しただけ」
「でも、だけど、それが良い事なら」
「そんなもの正義じゃない」
「何で?」
困惑する摩子に対して、マチェはあくまで冷やかに語る。
「人を助けても正義なんかじゃないし、悪者を倒しても正義なんかじゃない。秩序を守ったって、世界を救ったって、そんなものは正義じゃない。正義は概念。ひいては人の心」
摩子が分からずにマチェを見た。マチェはその視線を受けて、口調を諭す様な柔らかな口調に変えた。
「良い? 摩子。正義っていうのは、人を思いやる気持ちなの。例えそれがどんな行為でも、どんな結果を招いても、それが誰かの為を思って誰かの為に行う事ならそれは正義。逆にそれが誰かの為でないなら、何をしようと正義なんかじゃないの」
分かる? とマチェが尋ねると摩子は頷いてから、でも、と言った。
「納得出来ない」
「そう。まあ、無理も無いわ」
「何が無理も無いの?」
摩子が不思議そうに首を傾げる。
「それは自分で考えなさい」
「えー」
マチェはくすりと一つ笑ってから何処か遠くを見る様にして語り始める。
「正義だとか善だとか、世の中には溢れてる。私の時代にも今の時代にも」
「私の時代って、今の時代にもマチェは生きてるのに」
「揚げ足を取らないの。でね、溢れた正義と善が本当に正義や善とは限らない。口でなら何とでも言えるし、あなたと私が違う様に、みんな違うから、正義だってまた違う。ねえ、摩子。あなたは、さっき戦った事が、正義だって言える?」
「今は、言えないかも」
「あなたは戦っている時に、自分が正義だと思いながら戦ってた?」
摩子は少し考えて、首を振った。
「戦う時は戦う事だけ考えてた」
「それじゃあ、あなたが正義の為だから当然ですって答えた時は? 正義だと思ってた?」
「その時は確かに、思ってたけど、でも、今は」
摩子の言葉を遮って、マチェが続ける。
「そう、あなたはあの時、自分の行為を正義だって称えた。戦う時はそんな事考えていなくて、今は正義だなんて思えないのに、あなたはその時だけ自分を正義って肯定したの。肯定出来たの」
「何が言いたいの?」
「口で言う正義なんてその程度の物だって事。そして世の中では言葉として放たれた物だけが事実、つまり口で言う正義がその程度だって事は世の中の正義がその程度だって事。だからあなたが正義を名乗りたいなら、自分なりの正義を見つけなさい」
「自分なりの正義?」
「そう。自分がこれこそ正義だって思える正義。私や周りに言われた位で悩む様な正義じゃなくて、誰に何と言われたって正義だって言える様な、そんな正義を作りなさい」
マチェの言葉に、摩子は顔を俯けてしばらくの間考えた。そうして顔を上げる。
「分かったよ」
「そう。分かっていただけて何より」
「自分の気持ちに正直に生きなくちゃいけないんだね」
「ん? え、ええ、そうね。それは大事な事よ。何でそんな話になったのか良く見えないけれど」
「ありがとう、マチェ。私、やっと分かったよ。ずっと苛々してた。法子ちゃんの事で。だけどその苛々を考えない様にしてた。だからきっと、さっき戦った時もその苛々の所為で良く分からなくなって、自分が正義だって勘違いしてた」
「そう繋がるのね」
「自分の気持ちに正直に生きる事にする。苛々する事は仕方が無いもん。だから正直に苛々する」
法子がそう言って、拳を突き出す真似を数度した。
「うん、正直に生きるのは良いけれど、どうしてパンチの素振りをしてるの?」
「私、正直にこの苛々をぶつけるよ」
「気持ちをぶつけるのはとても良いんだけれど、そのパンチは何なの?」
「ありがとう、マチェ。ようやくモヤモヤがとれた」
「うん、どういたしまして。それは良かったけれど、私の質問に答えてくれても良いんじゃない?」
摩子はゆっくりと見上げる。頭上には傘があって、雨水が当たって、外側へと流れている。寒い。もう冬の入り。雨も手伝って、とても寒い。摩子は寒さを弾き飛ばす様に気合を入れて、もう一度拳を突き出した。
「ねえ、摩子。聞いてる? 暴力は駄目よ、暴力は」
食器を洗いながら、将刀は物思いに沈んでいた。
法子の事が気にかかって仕方が無かった。
何か悪い予感がするのだ。
帰宅途中に法子の家に寄った時、諦めて帰るのではなく、会って話をするべきだった。
そう思えてならなかった。
それは別に理由のない、先の見えない状況に苛立っているだけの焦燥だと思う。
けれどどうしても拭えない。
何か取り返しのつかない選択をしてしまったという不安が拭えなかった。
だがいくら考えてもその取り返しのつかなさの理由が掴めない。
明日の朝、話をすれば良い。
たった半日の違いに何の意味があるだろう。
何かあるとは思えない。
だがもしあるとすれば。
まさか自殺?
そんな不安が過る。
だがすぐに消える。
法子がそんな事をする訳が無い。
どれだけ落ち込んだとしても、悩んだ末の自殺や敵対者への意趣返しなどしない。
それもまた理由の無い確信で、将刀自身も勝手な想像に過ぎない事は分かっていた。
だがそんな理性を抑えつけて余りある、法子に対する故無き信服が胸中を満たしていた。
法子の身は無事だ。
法子が何かをしでかす心配も無い。
落ち込んでは居るものの、取り返しのつかない事に何て決してならない。
自分がそうであった様に。
そう思えてならない。
なのに、何故か取り返しのつかない選択をしてしまったという不安が付き纏う。
それが何故なのか。
どうしても分からなかった。
食器を洗い終えた将刀は手を拭いてから居間に戻った。居間にはファバランという魔物の少女が居る。未だに素性が分からない。何か理由があってこちらの世界に来て、今はそれとは別の理由で残っているらしいのだが良く分からない。
あまりにも白い光沢のある肌に、端正な顔立ちを台無しにする様なアイメイク、そこにアンティークなドレスで着飾って独特な雰囲気を醸している。そんな普通でない雰囲気がごく普通の部屋と交じり合って、不可思議な空間を作っていた。ふんわりと広がったスカートはフローリングに敷かれた安物のカーペットの上に広がり、フリルの付いた袖からちょこんと覗く白すぎる手がゲーム機のコントローラーを握っている。そうして塗りたくったアイシャドウから覗く目はテレビに映るゲーム画面に向けられている。将刀は何度も見ているその光景に慣れる事が出来ていない。
おかしいのは外見から来る雰囲気だけでなく、喋る言葉もまた変だ。
「将刀」
ファバランの顔が将刀に向いた。けれど手だけは忙しなくコントローラーのボタンを叩いている。
「雨が降っている。風も出てきた」
「ああ、そうみたいだな」
「嬉しい?」
「いや、別に。特別な感情は」
「そうか、将刀は雨、風、嬉しくない」
「君は雨や風が好きなのか?」
「将刀は雨、風、嬉しくない」
そう言ったっきり黙り込んだファバランがじっと将刀の顔を見上げる。大体こんな調子で、何か意味を持って聞いている様な気はするものの、向こうが勝手に納得して会話を打ち切ってしまうので、いまいち話が繋がらない。
更に
「今日の料理はどうだった?」
と聞いてみると
「ベテ!」
「ベテ?」
「ベテ!」
突然良く分からない単語で叫ばれた。どうやらそれは感情が動かされた時に出るあまり意味の無い感嘆詞の様だが、突然意味のない事を言われるとその度に面喰ってしまうので、会話は中々に困難だった。
けれど、将刀がファバランを眺めていると、ファバランは屈託の無い笑みを見せた。
「ご飯、美味しい。ありがとう、将刀」
こんな風に幼稚とも言えそうな、率直で邪気のない仕草を見ると、嫌う事は出来なかった。
嫌ってしまえる程不可解では無く、しかし傍に居ては心が休まらない程に不思議な少女を見ていると、将刀は自分の心すら良く分からなくなる時がある。心が融解していく様な気分になる事がある。
「どうした、将刀」
ファバランが立ち上がって、顔をぐいと近付けてきた。将刀は思わず仰け反る。
「何でも無い」
「悩み事? 将刀、悩み事?」
将刀は心を読まれた気がして恥ずかしくなる。だが悩み事という単語が、法子の事を思い起こさせて、心が沈んだ。
「どうしたの、将刀? 敵? 将刀が倒せないなら、私、倒す」
ファバランが身を引いてテレビ画面を指差した。
成程。そこにはプレイヤーの勝利を告げる画面を映している。将刀はまだそのゲームをそこまで進めていないので、確かに将刀の倒せていない敵を倒していた。
「大丈夫。敵なんていないから」
そう言って、将刀はファバランの頭に手を載せた。
敵が居るとすれば、それは自分の心に宿る不安か、どうしようもない状況だけだ。
「将刀」
ファバランは両手を頭の上にやって、将刀の手をぎゅっと掴むと力強く言った。
「私は何があってもあなたの味方」
その率直な言葉は素直に嬉しかった。
「ありがとう」
そして申し訳無かった。味方だと言ってくれる少女を前に、自分は悩みを共有する事も悩みを打ち払う事も出来ずに、ただ目の前の少女に気を遣わせながら沈み込んで悩む事しか出来ない。それは目の前の少女を無視したとても失礼な事に思えた。
将刀がそんな自分を嫌に思い、同時に法子の事を不安に思っていると、ファバランは再度将刀の手をぎゅっと握って、力強く言った。
「将刀、食後のデザート食べたい。甘いの」
将刀は手を掴み続けるファバランを引きずりながら買っておいたロールケーキを取りに行った。そしてケーキを二人で仲良く、ファバランの要求するミリ単位の正確な寸法で、半々にして食べた。甘い物の食べ過ぎでやって来た胸のむかつきが、将刀の不安を少しだけ上塗りしてくれた。