勢力、それぞれ
徳間は潜伏先であるホテルの廊下を歩いていた。酷く静かな空間だ。厚手の絨毯が徳間の靴音すら消してしまうので、何も聞こえない無音の世界が広がっていた。そうであってはならないのに。
このホテルは町の再開発と合わせて国外からの観光客向けに作られながらも、未だ開発の終わらない町の事情によって、ほとんどその用を為していない施設だった。この町に願いを叶える何かがあるという怪文書がばら撒かれるまでは。
この一週間は今までにない位、客で賑わっている。そのほとんどが願いを叶える何かに釣られてやって来た魔術師達だ。つまりお互いがお互い共通の目的に向かって競い合うライバル同士であり、周り全てが敵の状況なのだが、衆目の前で騒ぎを起こしたがる魔術師等まず居ない。その上あるかどうかも分からない何かの為に他者と敵対関係を築こうとする者もまた居ない。だからホテルではお互いを敵と認識しつつも、黙して見過ごす不思議な緊張関係が出来上がり、またお互いなるべく素性が知れぬ様に隠れ潜む様に暮らしていた。
だからこそ潜伏と捜査を行う上でうってつけの場所であった。
木を隠すには森の中という様に、大勢の怪しい魔術師の中に隠れてしまおうという算段で、徳間達はこのホテルを選んだ。
徳間は廊下を渡り、エレベーターの前に来てボタンを押した。ゆっくりと頭上の表示機の光が移り変わって、徳間の居る階へと迫ってくる。やってくるエレベーターを待ちながら、徳間はもう一度耳を澄ましてみたが、やはり何処からも物音一つ、しわぶき一つ聞こえない。異常であった。
エレベーターが辿り着いてドアが開いたので、徳間はその誰も乗っていないエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押して扉を閉めた。密室となったエレベーターはゆっくりと昇りながら、徳間の体に気怠い重力を押し付ける。徳間はエレベーターの上昇を感じながら、誰も居ない閉ざされた空間の中でもう一度針の様な短剣を握ってその存在を確認した。
魔術師達が幾ら隠れ潜んでいるとはいえ、外に出ない訳ではない。現に今日の朝までは、部屋からホテルを出るまでの間に必ず何人かとすれ違った。まして今は夕飯時であり、最もエレベーターが賑わう時間である。誰も乗っていない訳が無い。
そうでなくとも、ホテルに入った瞬間、ロビーに誰の姿も確認出来なかった時点で、徳間はこのホテルが死んでいるのだと判断した。既にこのホテルの中で生きている人間はほとんど居ないだろう。
エレベーターが最上階に辿り着いたので、徳間は廊下に踏み出し、左右に伸びる廊下の先を確認してから、目の前にある扉にゆっくりと近づいた。先程見た血文字を思い出す。潜伏していた部屋の壁には次の文句が血で書かれていた。
『最上階のパーティ会場で待つ』
たったそれだけの簡潔な文章だった。その他には何もない。捕らえていたはずの引網も、相棒である双夜真央も有黍明日太も居なかった。どうやって引網が逃げたのか。真央と有黍がどうなったのかは分からない。真央がやられたとは思えないが、最悪の事態は覚悟している。
少なくともこのホテルの魔術師達は皆人形にされたのだろう。人形を使って不意打ちを仕掛けてくると読んでいたのだが、ここまで一度も襲撃を受けなかった。それは恐らく会場で全てを決しようという意志の表れ。必ず勝てるという算段があるに違いない。そこから導き出されるのは、相棒である二人が人質にとられているという事。その時どうするか。いや、どうすべきかは決まっている。
徳間が再び短剣を握りしめてから、扉をゆっくりと開いていった。
扉の向こうには、ワンフロア全てを使った大きなパーティ会場があり丸テーブルが幾つも並べられていて、その中の会場の中央にある丸テーブルに人影があった。椅子に座った状態でテーブルに持たれる様にして倒れたその人影は、真央の様だった。
徳間が罠だと覚悟しつつも駆け寄った。駆け寄って、抱き起し、その死体の顔を覗き込んで、小さく舌打ちをした。
真央の顔をしていた。死んでいる。死体である。だが真央ではない。触れてみて分かる。外見だけを真央にした誰のものだかわからない偽物の死体だ。
即座に罠だと判断して、徳間は辺りに更なる警戒を払う。だが待てども待てども敵の襲撃は来ない。苛立って、こちらから探してやろうと歩み始めた時、徳間の入ってきた扉がゆっくりと開いた。
徳間の警戒が一気に高まり、目を細め、入ってくる人影を睨みつける。
その人影は双夜真央だった。
入り口の人物は傍に倒れている死体と同じ姿をしている。すぐに任務前に付与された魔術痕を解析してそれが双夜真央という個体名で魔検に登録されている人体だと確認する。入り口の人物が本物の真央だと分かった徳間は更に強く睨みを利かせる。人形の可能性が高い。
一方、入ってきた真央は驚きに目を見開いて、徳間の事を見つめた。
「真治、どうしてあなたが……」
途端に真央の目がすっと細まって、徳間の事を睨みつけた。二人の睨み合いで場の緊張がどんどんと高まっていく。
やがて徳間はゆっくりと噛みしめる様に、問いを発した。
「真央、どうしてお前がここに居る? 一体ここで何が起こっている?」
途端に真央が体の緊張を抜いた。
「知らないわよ、そんな事。それよりあなた地獄でも見てきたの?」
その合言葉を聞いて、徳間もまた体の力を抜いた。
「何処に行ってたんだよ、お前は」
「市民体育館。あんたが一向に調査に行かないから、私が行ってきたんじゃない」
「収穫は?」
「何も? いえ、何かありそうなんだけれど、私の魔術じゃ打ち破れなかった。相当不可思議な結界を張ってるわね」
それより、と真央は会場を見渡して、目を細めた。
「こっちはどうなってるの?」
「お前が知っている以上の事は恐らく知らん。部屋の血文字は見たか?」
「ええ。それでてっきりあなたと有黍君が」
そこで真央は言い淀んで言葉を切った。
「俺も同じ事を思った。そもそも携帯はどうしたんだよ」
「変な魔物に盗まれた」
「本気か? 間が抜けてるにも程がある」
「油断はしてなかったんだけどね。あれ、普通の魔物じゃなかったわ」
「怪文書に犯罪組織まで来て、その上魔物まで加わるのかよ」
真央が徳間の元へ近づいて、徳間の傍に倒れている死体を覗き込んだ。
「これは?」
「お前に似せた死体だな」
「引網が作ったものよね」
「恐らく」
「何の為に? そもそも引網はどうしたの? あなたが殺した? それとも逃げた? 有黍君の姿も見えないけど、あなたと一緒じゃないの?」
「引網にはまだ会ってない。推測だが、このホテルの魔術師達を人形にして満足して帰ったんじゃないか? 有黍とも……会ってない」
「じゃあ、この死体は?」
「次はお前だっていう宣戦布告だろうな」
真央の顔が苦々しく曇る。
「それじゃあ有黍君は、もう」
「まだ分からん。情報を引き出そうとするだろうし、人質に使おうとするなら、少なくとも生かされ続けるだろう。相手は組織的に動いている。秩序立っているなら、殺される可能性はぐっと下がるはずだ」
「引網はやっぱり組織に所属しているの?」
「みたいだな」
「何処でその情報を」
「今日その一人を殺した」
「捕まえた訳じゃないのね?」
「ああ、殺した」
「そう」
憮然とする真央を余所に、徳間は携帯を取り出してかけ始めた。
「とりあえず魔検に連絡を入れて、今後の方針を決めよう」
真央は何か言おうとしたが、結局口を開いた所で止まり、やがて悔しそうに頷いた。そんな悠長な事をやっていられないというのだろう。今すぐにでも有黍を探しに行きたいと思っているのだろう。徳間も同じ気持ちだった。
引網がビルの一室に入ると、会議室の中は妙に重苦しい空気が流れていた。まるで葬式の様だ。
「どうしたんですか? 折角徳間との決着を付けようとしていたのに、いきなり呼び戻すなんて」
会議室に入り、座る人々を横切って、会議室の一番前にある白い棺へと向かう。
「誰か、死んだのですか?」
棺の横に立つ遠郷が言った。
「モダンナレイティブはどうした?」
「彼は大変仕事熱心なので、自分のやるべき事を行う為に何処かへ」
「そうか。また町に不安を流し込みに行ったか」
棺の前に立った引網が軽薄な動作で中を覗き込むと、中には人の形だと辛うじて分かる炭の山があった。
「おや、もう火葬してしまったんですね。誰の死体なんですか?」
「羽鳥だ」
その名前を聞いた引網は一瞬驚いた様子で棺の中を覗き込んだが、すぐにくつくつと笑い始めて、遠郷に満面の笑みを向けた。
「何だ。だったら燃やさず俺にくれれば良かったのに」
「そう言うと思ったからお前が戻ってくる前に燃やした」
引網が笑う。
「私に操られた方が羽鳥だって幸せだと思いますけど?」
「俺が見たくない」
「友達甲斐のある奴だよ、全く。で、俺を呼び戻した理由は?」
引網の問いに、遠郷ではなく、棺を挟んで反対側に立っていた人間が答えた。羽鳥を最後に殺し、スナイパーの仲間達を壊滅させた青年だった。
「簡単ですよ。明日、フェリックスさんがやってきます。徳間と戦うのは彼に任せた方が良い」
「私では勝てないと? これでも大量の人形を手に入れて、少しは強くなったと自負しているのですが」
「いえいえ、そうではなく、私達の被害を最小限に抑えたいのですよ。引網さんがいくら強くなったとはいえ、相手はあの徳間。勝てるにしても大量の人形を失ってしまうかもしれない。それは私達にとっても痛手です。でしたら折角部外の人間が戦ってくれるというのですから、矢面に立っていただいた方が良いでしょう?」
「おやおや、フェリックスさんも我々の仲間でしょう?」
「あはは、確かにそうですね。訂正いたします。ですけれど、やはり、日本と海外という壁はどうしてもあるでしょう?」
見れば、にこにこと笑っている青年を遠郷が憎々しげに見つめている。引網は成程ねと心の中で呟いて話題を変えた。
「ところで羽鳥は誰に殺されたのですか?」
「分かりません」
青年が即答した。
「分からない?」
「ええ、そもそも徳間さんとの戦闘で死んでしまったらしいのですが、どうやら羽鳥さんは蘇生の魔術を行った様です。ですが探し当てた時には再び何者かによって殺されていました」
「ああ、そういえば」
死ぬ時は蘇生を試してみたいと前に言っていた気がする。本当にやったのか。馬鹿な奴だ。
それから青年を中心に明日以降の段取りが話し合われたが、引網は特に興味が無かったのでぼんやりと、やってくる三名、歴史の生き証人、三本刀の一人、魔女(三つとも遠郷が命名した渾名)を人形にした時の快感を想像して悦に入っていた。
話し合いが終わり皆が各々散っていく中で、遠郷が手招いていたので一緒になって外に出た。出るなり遠郷が言った。
「ありがとう」
「何が?」
「羽鳥を人形にしないでくれて」
「お前が燃やしたんだろ?」
「けれどお前ならあの状態からでも復元して操れたはずだ」
「それは俺の美意識に反する」
引網にとって人形とは美しいものでなくてはならない。
遠郷が、それでもありがとう、等と頓珍漢な事を言ってありがたそうに笑っているので、とりあえず引網は核心をついてみる事にした。
「で、羽鳥を殺したのは、水ヶ原なのか?」
水ヶ原とは先程の青年の名前である。
「十中八九」
「だから復讐するのか?」
「確証が持てたら絶対に」
引網は目を細めて遠郷を見つめた。遠郷が怪訝な顔で見つめ返す。
「何だ? 気味の悪い顔をして」
「いえ、羨ましいと思っただけですよ。友の為にそこまで、とね。私にはそんな感情生まれない」
「自分の為だ。自分の世界に含まれているものが殺されたからその仕返しに殺し返す。それだけ。結局どんな事も自分の為」
「私には友の為の感情に見える。それで十分です」
遠郷は決まり悪げに眼を逸らし、空を見上げて、その星のかかった夜空の下で、冷たい風を感じながら、大きく息を吐き出した。
「思ったより大事になったな」
「魔検を潰す算段が整うまではあと数年大人しくしているという話でしたね」
「徳間を潰せる機会だからか。あるいはボスが願いを叶える何とやらに魅せられたのか」
「魅せられるとしたら水ヶ原の方でしょう。彼は何を考えているか分かりませんから、何だか良く分からない物に惹かれたに違いありません」
「あいつもお前にだけは言われたくないと思うがな」
引網はくつくつと笑って、遠郷と別れる為に道を逸れ、暗い路地へと向かった。
「それでは、精々死なぬ様に祈っていますよ」
「死ぬ様にじゃなくてか?」
「ええ、私が友達の為に怒る事が出来る様になるまでは」
遠郷が呆けた顔をして固まるが、背を向けた引網はその表情を見ずに、楽しそうに笑う。
「まあ、いつの事になるか分かりませんが」
その背に遠郷の焦った声が聞こえた。
「お前、どうしたんだ?」
引網は首だけを捻じ曲げて、遠郷に横顔を曝す。その顔は酷く楽しそうにしている。
「いえ、特にどうも。安心してください。死ぬ事だけはありませんから。死ぬ事だけは絶対にね」
納得のいっていない遠郷を置いて、引網は路地の暗がりに消える。待たせておいた人形達に出迎えられて、引網は言葉の続きを呟いた。
「それ以上に醜い事になるかもしれないけどな」
そこは市民体育館の奥の奥。サッカーが出来そうな程広々とした空間には、真ん中に丸テーブルぽつんとあり、テーブルを挟んで男と女が一人ずつ座っていた。
女はスーツを着た怜悧な人物で、先刻法子と戦った女だった。男は如何にも朴訥そうな人物で、以前に市民体育館で信者達を相手に演説を行っていた教祖だった。
「順調にいっていますか?」
教祖の問いに女は無表情で答える。
「はい、思っていた以上に魔術師が集まりました。これなら信徒を集める必要は無かったかもしれません」
「良い事です。何も知らない人々を必要以上に犠牲にしたくはありません。それで、巫女の方は?」
「こちらも平穏です。巫女様は何も知らず過ごしております」
「重畳です。出来れば最後まで何も知らないで居て欲しい」
「それは難しく思います」
「分かっています」
教祖が笑みを浮かべる。まるで操られている様なとても模範的で演技じみた笑みだった。
「願いを叶える巫女が病院に居るという事はもう知れ渡っているのですか?」
「いいえ、そこまではっきりは。ですが、病院に何かあるという事は少なからぬ者が気付き始めたようです」
「そうですか。ではそろそろ決行ですね」
「いつになさいますか?」
「金曜日、いや平日だと集まりが悪いかも知れません。では土曜日に。今日が水曜日ですから三日後に」
「畏まりました」
女が立ちあがって出て行こうと広々とした空間を歩き始める。その背に教祖が声をかけた。
「あなたには感謝しています」
女は振り返らず、歩みも止めずに、平坦な声音を返した。
「私も教祖様には感謝してもしきれません」
女の背を教祖は眺めている。だが視界に映っている光景と教祖の見ている光景が同じなのかは分からない。
「あなたは死ぬでしょう」
教祖が言った。
「はい、幸福な事です」
女が言った。
教祖が再び言った。
「私も死ぬでしょう」
「はい、幸福な事です」
「ええ、そうかもしれません。そうなのかもしれません。巫女は生き残るのですから。ですが」
教祖は寂しげに俯いた。
「せめて終わった後の事を一瞬だけでも良いから見てみたい」
微かに音が鳴った。女性が外に出て扉を閉めた音だった。広い空間で一人っきりとなった瞬間、教祖は呼吸すらも忘れた様に動かなくなって、寂しげな表情のまま俯いた状態で固まった。
赤みを持ったシャンデリアが仄かに照らす店の中で、きんげんやは椅子に腰かけテーブルに置いた算盤を弾いていた。何かを計算している訳ではなく、何となく無為に弾いているだけで、珠の動きに規則性は無い。
弾く算盤の隣にはイタリア語で書かれた手紙が広がっている。その更に横には手紙の冒頭そのままの内容が日本語に直された紙が一枚置いていある。それをちらりと眺め、きんげんやは笑う。自分であれば一瞬で訳せる文章であるが、摩子は一時間かけても冒頭を何とか訳し終えただけだった。馬鹿にしているのではない。懐かしくて笑ったのだ。自分にもそんな時があった。必死に学んでそれでも僅かにしか進めなかった時が。それが懐かしくておかしくて笑った。
「何を笑っているの?」
それを咎められてきんげんやは顔を上げた。
店の入り口に黒い三角帽に黒いローブを纏った異国の女性が立っていた。
「おや、師匠。お久しぶりです」
三角帽から覗く射竦める様な視線も何処吹く風で、きんげんやは尚も算盤の珠を弾き続けている。
「白々しい事を言うわね」
算盤の珠が弾かれていく。乾いた音が辺りに響く。
「師匠がその姿で来るなんて、一体何の用でしょう?」
「あなたが企んでいる事に釘を刺しに来たのよ」
「企んでいるなんてそんな」
「何を企んでいても良い。昨日見せた手紙と、今日あの子に訳させた手紙が別物でも構わない。ただしもしもあなたの所為で、跡が残る何かがあの子に起こったら、その時は覚悟しておきなさい」
「三日間ご飯抜きですか?」
「未来永劫何も口に出来なくしてあげるわ」
きんげんやが笑い声を上げる。珠の弾く音が一層高くなった。
「随分大切にしてらっしゃいますね」
「弟子は大事にする方なの」
「それは良く存じていますよ」
師匠は鼻を鳴らすと背を向けて店を出た。扉が閉まる瞬間、隙間から女性の声が漏れてきた。
「私は弟子を大切にする方なの。あなたの事も出来るなら殺したくないわ」
そうして扉が閉まり、後にはシャンデリアの赤い微かな光に照らされた闇が深々と降りて、身じろぐ事が勿体無い様な静寂の中できんげんやはおかしそうに呟いた。
「相変わらずお優しいですね」
テーブルの上は既に綺麗さっぱりとして何も無くなっている。何も無いテーブルの上に手を置いて立ち上がると、きんげんやはシャンデリアの明かりを消した。完全な闇の中で足音を響かせながらきんげんやは謳う。
「僕が願ってやまないのはいつだって周りが平穏無事でいる事ですよ、師匠」




