今日のまとめ
「十!」
法子は力尽きて倒れ込む。
カーペットにへばりついて、荒く息を吐きながら力なく呟いた。
「ようやく腕立て十回いけた」
「凄いよ。最初の頃に比べたら随分な進歩じゃないか」
タマがそれを称賛する。
ルーマがそれに水を差す。
「非効率だと思うんだがなぁ」
タマがむっとして言い返す。
「これ以上激しくすると法子が潰れるんだよ」
「いや、筋力を付ける方法でなく、それを倍増させる魔術がだ」
ルーマが法子を指さした。
「こいつは変身した時に自分の運動能力を何倍にもしているだろう? だがそれだけだ。どうせ筋力が少ないのだし、掛け算だけでなく足し算も組み合わせた方が良いと思うんだが」
タマが勝ち誇る。
「今だけならそうだろうさ。けれど将来を考えたら別だ。戦闘中に変な癖を付けない方が良い」
「将来的か。だが今を見ても良いんじゃないか? 法子が弱いのは、その運動能力を上げる魔術に魔力を割き過ぎている所為だろう」
弱いという単語が法子の胸にぐさりと刺さる。
タマが笑った。
「法子は成長著しい。すぐにそんな心配必要なくなるよ」
ルーマが感心した様に尋ねる。
「ほう、じゃあ、しばらくするとどの程度になるんだ?」
「金剛石を素手で握り砕く位」
「無理に決まってるでしょ! ダイヤモンドを砕くなんて!」
ようやっと法子は割って入ったが、タマとルーマが同時に返した。
「いや、そう難しくはないだろう。意外と簡単に砕ける」
二人友本気で言っているので法子は項垂れた。常識が違いすぎる。だが、二人に何を言ったところで無駄な事は分かりきっていた。法子の立場は低い。
だから話頭を転じる事にした。
「それより何でルーマはそう平然とここに居る訳?」
法子の問いにルーマは平然とした様子で答える。
「ああ、実は今後の事についてちょっと話しておきたい事があってな」
途端に法子が跳ね起きて、ルーマの前で居住まいを正した。どうせルーマの事だからからかいにきたに違いないと思っていたのだが、どうやら当てが外れた様だ。真面目な話であるというのなら、おろそかには出来ない。
一体何の話だろうと法子は考える。
今、法子が持つ目的は二つ、友達の宝物を取り返す事と覇王の卵を取り返す事。友達の宝物はルーマにとってはまるで関係の無い事だから、恐らく覇王の卵についてだろうと結論付けた。覇王の卵、一度割れれば辺りを消し去るという危険な卵。何か進展があったのか。あるいは最悪の事態が近づいているのか。否が応でも法子は緊張した。
やがてルーマが一つ頷いて口を開いた。
「ああ、恋の魔法についてなんだが」
はぁ? と法子は心の中で盛大に疑問符を浮かべた。考えてみれば、ルーマがこの世界に来たという目的はそれであった。
「いつ頃マサトとは恋仲になれそうなんだ?」
何故かそこにタマが加勢した。
「ああ、それは私も気になっていた」
「どうにかせねばならないと思うのだが」
「そうは言っても、法子の今の態度では中々進展というのも」
何だかタマちゃんやけにルーマと打ち解けてない?
タマは昨日ルーマの事をまるで親の仇の様に憎んでいたのに、今日は何だかやけに打ち解けている。一体どういう心境の変化だろう。
いや、それはどうでも良くて、とにかく今は将刀の事だ。
「あのね、私は付き合う気持ちなんて」
「そんな事を言っている場合ではないんだ」
ルーマが法子の言葉を遮った。
「今日の様子だと恐ろしい倍率の様だからな」
別に付き合う気がある訳ではないけれど何となく気になって尋ねてみる。
「どういう事?」
「今日、お前が通りすがりに突き飛ばされて、将刀に助け起こされ連れて行かれた事があっただろ?」
ちょっと待って。
「あの後、そこ等に居る奴らが囁いていたのだがな」
「ちょっと待って! どうしてあの時の事をルーマが知ってるの?」
「その時、こんな話が持ち上がっていた」
「ねえ! やっぱりルーマ、覗いてたでしょ!」
詰め寄る法子の鼻先にルーマの指先が突き付けられた。
「お前の殺害計画が持ち上がっていた!」
「え?」
「将刀と仲の良いお前を消してしまおうという話が持ち上がっていた。一つだけはない。幾つもだ」
それは確かに怖い。
っていうか、やっぱりルーマはあの近くに居て聞き耳を立てていたんだ。
「それに何も感じないのか?」
「怖いと思うけど」
「そうではない。それだけ真剣にあれを手に入れようとする者が居る。つまりあれを獲得するのが難しいと思え」
そうは言っても、そもそも獲得する気が無い。とは何度も思ってきた事だ。
「どうやらお前には魅力が足りない様だ。その魅力を手に入れる必要がある」
そんなもの簡単に手に入れられたら、人と上手く関われない人生なんて送っていない。
「残念ながら俺にはその魅力というのが良く分からん」
じゃあどうしようもないじゃん、と思ったその時、窓が開いて声が飛び込んできた。
「こんばんはー、おや、お取込み中ですか?」
そう言って遠慮なく入ってきたのは、ルーマの部下のイーフェルだった。好青年の容貌に、何処か嘘くさく見える位に爽やかな笑みを浮かべている。
「おお丁度いいところに来た。お前ならこの問題についても答えが出せるだろう」
「何ですか? あまり期待しないで欲しいんですけど」
にこにことするイーフェルにルーマがその問題について語って聞かせた。要はどうしたら法子は将刀を振り向かせる事が出来るのかという事だ。聞き終えたイーフェルはくすくすと笑って、法子の事を見つめてきた。
「恋の魔法ですか。お伽噺だと聞いておりますけど」
「トレルの指輪の例を知らんのか」
イーフェルが更に笑いを強くする。
「だからこの人間についていたんですか」
「そうだ」
「別にこの人間である必要は無い気もしますけど」
自分の特別性が否定されて、法子はまたも傷ついた。自分が特別だなんて思っていた訳ではないけれど、面と向かってはっきりと指摘されると落ち込んでしまう。落ち込む法子を見て、イーフェルは嬉しそうにしている。
「理屈で言えば法子に限る必要は無いだろう。だが俺の勘が、法子こそ適役だと言っている。それで魅力を出すにはどうすれば良い?」
「んーそうですねー」
イーフェルがまじまじと見つめてくる。法子は自分の顔に血が集まるのを感じた。
「素材は悪くないと思うんですよね。まあ、そもそも僕と人間の美意識が同じかどうか分からないですけど」
「それで?」
「ちょっとした工夫を加えれば」
イーフェルの指が法子の元へ伸びてくる。法子は思わず身を固くする。
「すぐに見違えますよ」
イーフェルの指が固まった法子に段々と近づいてくる。
そして触れた。
法子は一瞬息が苦しくなった気がした。鼻に違和感があった。すぐに自分の鼻がイーフェルの指によって押しつぶされているのだと気が付いた。
「ほら、この通り! こうして少し顔面を崩すだけですぐに見違えるでしょう?」
イーフェルが楽しそうに言った。それにルーマが同意する。
「おお! 確かに見違えたぞ、法子!」
本当か? と法子は訝った。鼻が押し潰されて美しくなるとは思えない。
案の定ルーマは言った。
「俺には不細工になった様にしか見えんが、確かに変化している。これが魅力なのか?」
「ええ、とても可愛らしくなりましたね」
「成程。俺には全く分からん」
イーフェルが如何にも楽しそうに、ルーマは如何にも感心した様に笑っている。
馬鹿にされている様にしか思えない。法子は恥ずかしさに体を震わせて、如何にしてこの二人を殺そうか算段し始めた。
「そもそも美しさとは壊す為にあるのです。むしろ壊してこそ美しい」
「ほう」
イーフェルが勝手な事を言っている。その指先が法子の鼻を潰している。
「俺もやってみよう」
イーフェルの腕をルーマが払った。そうして法子の正面に構えて、ルーマはその端正な顔をぐっと押し近づけてきた。
法子は思わず身を引くが、法子の顔が両側からルーマの手によって押さえつけられる。逃げられない。目の前の息がかかる程近くにルーマの顔がある。法子の心臓が高鳴り始める。
「こんなのはどうだ?」
ルーマが言葉と同時に両の掌をゆっくりと押し近づけて、法子の顔を潰した。頬が寄せられて、表情が崩れる。豚の様な表情になる。ルーマが満足そうに頷く。その後ろで、イーフェルが床を叩きながら笑っている。
「その調子ですよ、ルーマさん! 法子さんもとても綺麗になりました!」
イーフェルが笑いながら、ルーマを応援する。それに呼応して、ルーマが更に両の掌を狭める。法子の表情が更に潰れる。押し寄せられて窄んで突き出された口から震える息が漏れ出てくる。
この二人、絶対、絶対殺す。
そこに闖入者が現れた。
「何か楽しそうだけど、どうしたの?」
弟だった。
ルーマが法子を解放する。解放された法子は不味いと思った。
今、部屋には法子とルーマだけでなくイーフェルが居る。弟からすれば突然現れた見知らぬ者だ。不審者だと思われるかもしれない。
そんな不安を抱いたのだが、
「おお、弟! イーフェル、こいつは法子の弟だ。弟、こいつは俺の友人でイーフェルという。今回日本に来たのは友人に会う意味もあってな」
ルーマがさらりと嘘を吐き、
「どうも」
イーフェルが邪気の無い笑顔で挨拶をした事で、弟は全く疑いを持たなかった様だ。
「あ、そうなんだ。いらっしゃい。で、何してるの?」
弟が部屋を眺め回して不思議そうにした。
「そうだ、弟! 今、お前の姉の魅力を引き出そうとしているんだ」
ルーマが叫んで法子の顔を掌で挟み込み、押しつぶして、弟に向けた。
「どうだ? お前から見ても魅力的に見えるか?」
弟はその不細工な姉の顔を見て、しばらく呆けた様にしていたが、突然顔を赤くすると、一気に笑い始めた。
「何それ! 面白い!」
「どうだ? 魅力的か? 美しくなったか?」
「うん、綺麗綺麗!」
どう見てもそう思っていない笑い方で、弟は激しく笑い、激しく咳込んでいる。
ルーマが法子の顔を自分に向けて、潰れた表情をじっくりと眺めている。そうして自分は端正な顔のまま満足そうな顔をして頷いている。
その後ろでは再びイーフェルが床を叩きながら笑っている。
殺す、三人とも殺す。
そこに階段を踏みしめる音が聞こえてきた。母親に違いない。
思った通り、弟が言った。
「あ、母さん」
「どうしたの、さっきから」
「何かルーマの友達が来てるみたい」
「あら、そうなの?」
そうして足音が近づいてくる。来ないで。
「それにしても何笑ってるの?」
「あ、そうだ。ルーマが姉ちゃんを綺麗にしてくれたんだよ」
弟が何だか誤解を受けそうな言い方をした。
途端に母親が、酷く面白そうな声音を上げて、小走りの足音を響かせる。
「綺麗に? それどういう意味よ」
ルーマが法子の顔を部屋の入り口に向ける。入り口に立つ弟が噴き出す。
そこに母親が顔を覗かせる。
母親の視線が部屋中を彷徨って、すぐに法子に行き当たり、そうしてほんの一瞬だけ時が止まる。
途端に母親が馬鹿でかい哄笑を上げ始め、母親と弟とイーフェルの上げる哄笑の三重奏が空高く響き渡った。
滅べ世界。
法子は哄笑の渦に曝されて、そう唱えた。
蓄積された憤懣をせめてジョギングで発散しようと、法子はいつも以上に大地を踏みしめて道を走っていた。
失礼な奴らである。人の顔を押しつぶして笑うなんて酷すぎる。誰だって不細工になるに決まってる。
初めの内こそ苛々していたのだが、一定した足音と疲労によって段々と頭がぼんやりとしてきて、思考は次第に逸れていく。思考は将刀の事へ。
将刀君か。
好きな訳ではないはずである。けれどあれだけ将刀将刀言われると気になってしまう。
今日の朝、保健室に連れて行ってもらった時の事を思い出す。今日の昼、パンをもらった時の事を思い出す。良い人だ。それに話し易い。もしも付き合えるならそれは幸せなのだろうと思う。
でも、
「将刀君かぁ」
「何?」
「え?」
見れば、将刀が丁度十字路の横から出てくる所だった。突然想像していた相手が現れたので、法子は酷く驚き、足を止めた。
「いつの間に?」
たった今十字路から出てきた事など分かりきっている。
「今だけど?」
当然、将刀はそう答える。
「法子さんは今、何やってるの?」
「えっとジョギングを。その、運動して体を鍛えようと思って」
言ってから、可愛くなかったかなと思った。体を鍛えると言うよりは、ダイエットだとか、美容の為だとかそう言った方が、女の子として見てもらえるんじゃないかと後悔した。
失敗を覆ってしまおうと、法子は相手が言葉を発する前に質問し返した。
「将刀君は何をしているの?」
「俺?」
将刀が手に持っていたコンビニの袋を持ち上げた。
「ちょっと買い物」
「そう」
何かそれに反応を返そうとしたけれど、結局そんな感想しか出てこなかった。話を広げたいのに広げられない。
「法子さんはこの辺りに住んでるの?」
「うん。すぐそこ」
「俺も近くに住んでるんだ」
「え? そうなの?」
法子は辺りを見回した。当然将刀の家が何処かなんて分かる訳が無い。
「ここからじゃちょっと見えないけどね」
将刀が苦笑する。法子は恥ずかしくなる。将刀が歩き始めた。法子はそれについてく。
失地を挽回しようと法子は口を開いた。
「将刀君て一人暮らしなんだっけ?」
「うん。一応ね」
一応? ちょっと引っかかった。
「それより良いの? こっちについてきて」
「うん、こっちがコースだから」
「そっか」
将刀が楽しそうに笑った。
優しそうな笑みである。さっきまで浴びていた、意地の悪い哄笑とはまるで違う。優しさに溢れている。
「どうしたの?」
突然、将刀に尋ねられて、法子は驚いた。ぼーっとしていて心ここに在らずだった。慌てて取り繕う。
「あ、あの、今日、保健室、ありがとう」
将刀が笑う。
「どういたしまして」
「パンも美味しかった」
「本当に? 良かった。あの購買で一番美味しいと思うんだ」
そう言ってから、将刀は突然思いついた様に、そうだと言って、袋の中を漁って、何かを取り出した。
パンだった。
「これ。これはコンビニの中で一番美味しいと思う。良かったら上げるよ」
「でも、それ、将刀君が食べるんじゃ」
「二つあるから大丈夫」
袋の中を見せびらかしてきたので、見てみると、確かに同じパンがもう一つあったので、法子はしばらく迷ったけれど受け取った。当然法子は、そのパンが、将刀の家に突然転がり込んできた居候から依頼された物だという事を知らない。
受け取って、何となく暖かい気持ちになって、法子は揚々として道を進む。その背に将刀の声が掛けられた。
「あ、そっちなんだ。俺の家、こっちだからここでお別れだね」
振り返ると、将刀は既に立ち止っていて、手を上げ、別れの態勢を整えていた。もっと話したいのに。けれど口実が無い。
「うん、お別れだね」
法子が手を振ると、将刀が手を振り返してくる。それでお終い。将刀は去って行った。
家、向こうなんだ。法子は来た道を少しだけ戻って、将刀の去って行った道路を覗き込んだ。向こうはあの公園の方角だ。公園を囲むマンションのどれかに住んでいるのかもしれない。いつも通るのに全然気が付かなかった。知らなかった。知らない事、沢山あるんだなと思いながら、将刀の去る背中を眺め続けた。
当然法子は、その背の主が家に帰った後、居候に、パンが二つ無い、二人で一緒じゃないと食べない、と駄々を捏ねられ、再び買いに出る運命にある事を知らない。
何も知らない。あの背について何も。
将刀は段々に小さくなってやがて消えた。後には欠片も残滓も残っていない。寒風が吹いて急に寒気を感じて身を震わせると、手の内だけが妙に暖かい。目を落とせば、先程将刀から貰ったパンを握っている。パンを見つめて法子は思う。
何も知らない。けれど何となく分かる事がある。将刀君は優しい。
優しい。だからこそ、きっと私に話しかけてくれている。優しいから。惨めな私が気になって。別に特別な感情なんて何も無く。
再びの寒風に身を震わせて法子はその場を後にした。
ジョギングを終えて家に戻ると、自分の部屋にまだルーマとイーフェルが居て、その上サンフまで加わって何か言い合っていた。
イーフェルが法子に気が付いて顔を上げた。
「おや、もう帰ってきたんですか?」
サンフもまた法子を見て、ルーマに非難がましい視線を向けた。
「ほら! ルーマ様が要らぬ脱線をするから」
「脱線したのはそっちだろう」
「原因を作ったのはルーマ様です!」
「別に良いだろう。こっちの世界の協力者は必要だ」
「もうそれは良いです。とにかく明日の方針を」
「だから俺が探しに行くと」
「それだけは止めてください!」
とにかく私の部屋から出て行って欲しいなぁと法子は思ったが、三人を相手にする事なんて、まして相手を不機嫌にさせない様に追い出すなんて出来ず、どうしたものかと悩みながら戸口に立って待ちぼうけた。ふと明日の事を思う。明日はまた友達に会えるんだなぁと考えると、その待ちぼうけているだけの間がとても幸せな時間に変わった。




