第一休み時間と電話と反英雄
授業が終わり、いつもの通り本を読もうとした法子に、前の席から声がかけられた。
「ねえ、法子ちゃん」
法子が驚いて顔を上げると、摩子が笑顔を浮かべて法子の持つ本に目を落としていた。法子は慌てる。すっかりと忘れていた。そう友達が居る事に。しかも敬称がさんからちゃんになっている。いつの間にクラスアップしたんだろうと、不思議に思った。同時に嬉しかった。
とにかく本なんか読んでいられないと、法子が慌てて本をしまう内に、他の三人も集まって来た。
法子の緊張が高まる。恐らくこれから会話が始まるに違いない。それにどこまで付いて行けるだろうか。流行に疎い。テレビもほとんど見ない。それどころか普通の女の子が知っている事をまるで知らない。それで会話に付いて行けるだろうか。不安に思ったが、もう後戻りは出来ない。
そう緊張していると、突然背後から抱き付かれた。
「どうした、法子」
陽蜜だった。目の前に飴が差し出される。
「飴舐める?」
「あ、止めなさい。陽蜜」
笑う陽蜜に止める実里。法子は訳が分からず、飴を受け取る。白色の簡易な包み紙を開くと、これまた白色の飴があった。匂いを嗅いでみたが、無臭で、何の匂いも無い。
「大丈夫大丈夫。変な物じゃないから」
「法子さん、舐めちゃ駄目」
法子は陽蜜と実里どっちの言葉を聞けば良いのか分からなかった。分からず迷っている法子に陽蜜が言い重ねる。
「大丈夫だって。美味しいよ。舐めてごらん」
そう言われて、法子は決心して飴を口の中に入れた。途端に口の中に磯の生臭い臭いが充満した。一気に吐き気が込み上げてくる。
「あ!」
実里が驚いた声をあげる。それに驚いて、法子は思わず飴を飲み下す。それが幸いとなった。飲み込んだ事で口内の生臭さが消え、後には腹から湧き昇る温かい不快感だけとなった。
「何これ」
法子が呆然として呟いた。その背後から陽蜜がおかしそうに聞いてくる。
「生魚味の飴、美味しかった?」
「美味しい訳無いでしょ」
実里が怒って陽蜜を睨んでから、法子の前に屈んだ。
「大丈夫? 法子さん」
法子は慌てて頷く。ここで否定的な事を言って、場を変な空気にしてはいけないと思った。
実里が苦笑した。背後では陽蜜が笑っている。
その時、微笑んでいた摩子が唐突に声を上げた。
「そうだ! 聞いて!」
「何だよ急に」
陽蜜がうるさそうに摩子を見た。
「あのね、聞いて、実はね、あのね、えへへ」
「早く言え」
陽蜜が摩子にチョップをくらわせると、摩子は呻いて頭を抱えてから、弱々しく言った。
「実はね、ノエミさんから手紙が来ちゃいました」
法子はその言葉の意味が良く分からず、友達から手紙が届いたのかなと思った。振り返ると陽蜜が呆けた顔をしていた。それだけでなく、実里も叶已も驚いた顔で固まっていた。
やがて実里が震える様な声で言った。
「本当に?」
摩子が晴れやかに笑って頷いた。
「あの、ノエミ?」
「勿論!」
「凄っ」
法子には良く分からない。何が凄いのだろうか。
法子の困惑を見て取った陽蜜が尋ねてきた。
「ノエミだよ?」
分からないので首を振ると、陽蜜が大仰に驚いた声を出した。
「知らないの? ノエミだよ? めっちゃ人気じゃん!」
途端に法子の体中を怯えが走った。怖かった。他の人が知っている事を知らない、そんな異常を知られる事が怖かった。だから法子が怯えて震えていると、摩子が一際明るく笑った。
「ノエミさんっていう歌手が居るんだけど、その人にファンレターを出したら返事を貰ったの」
歌手、ノエミ、その二つが繋がって、法子の中にイメージが浮かんだ。そう言えば、昨日見たアニメの主題歌を歌っているのがそんな歌手だった気がする。
法子の目に理解が湧いたのを目敏く見て取った摩子が嬉しそうに笑った。
「あ、やっぱり知ってるんだ」
後ろから抱き付いている陽蜜も大きな声を上げる。
「え? やっぱ知ってんの? それはそうだろ。だってあのノエミだよ?」
そう言って、からからと笑う。
「でね、そのノエミさんから手紙が届いたんだけど」
「良いなぁ。どんな事書いてあったの?」
実里が羨ましそうに尋ねた。
「それがイタリア語でまだ分かんない」
「ああ、そうだよね。ノエミってイタリア人だし」
「うん、でね、それは後で翻訳するとして、それだけじゃなくてね、手紙だけじゃなくて何とプレゼントも貰ったの」
その瞬間、実里が思いっきり法子の机の上に両手をついた。
「ホントに? 良いなぁ! 良いなぁ! 良いなぁ!」
「ちょっと邪魔。法子が怖がってるだろ」
「あ、ごめん。でも良いなぁ。何貰ったの?」
「えっとね、何とかエッグ!」
摩子が嬉しそうに言ったのを、叶已が間髪入れずに訂正した。
「恐らくイースターエッグ」
「そう! それ」
実里が更に大声を出した。
「良いなぁ!」
教室中の視線が実里に集中する。それにも構わず実里が摩子に縋る。
「ねえ、どんなの? 私にも見せて! お願い!」
「うん、そうしたかったんだけど」
「何? 駄目なの?」
「ううん。っていうか、盗まれちゃった」
「はぁ?」
実里が素っ頓狂な声を出す。また教室中の視線が集まった。やり取りをしていない法子が恥ずかしくなった。
「何で? 誰に? 泥棒?」
「ううん、魔物」
「私、ちょっとバット買ってくる」
「何する気だよ」
「殺す」
「落ち着け!」
陽蜜が実里をチョップする。実里が呻いて蹲る。
「もう警察には連絡したんですか?」
叶已が尋ねた。
「えーっと、えっと、うん、一応したよ」
「なら警察に任せればいいでしょう」
蹲っていた実里が跳ね上がった。
「でもノエミの、ノエミのプレゼントが!」
陽蜜がまたチョップする。実里が頭を抱えて蹲る。
そうしている内にチャイムが鳴った。授業の始まりだ。
皆が席に着き始める。陽蜜も叶已も席に戻る。実里も、摩子に向けて、私がその魔物から絶対取り返すから、と言ってから席に戻った。摩子も授業の準備を始める。
法子は授業の準備をしながら思った。
休み時間、楽しかった。友達が居る、嬉しい。友達が酷い目にあった、助けたい。魔物なら、私の領分。
タマが法子の心に語りかける。
「良いんじゃない?」
「あ、タマちゃん。何が良いの?」
「友達の為に魔物を探す事」
「そうかな? そうだよね。頑張るよ! 絶対探し出して、取り返すんだから!」
「私もその魔物探し手伝うよ」
「ホントに?」
「ああ、友達が出来たお祝い、ってところかな」
「くそ、見失った」
長い路地の先に食い逃げ犯の姿が見えずに、徳間は苛立って地面を蹴った。その時、携帯が鳴った。画面を見れば、魔検からである。
「はい、こちら徳間」
徳間が出ると、電話の向こうから冷たい男の声が聞こえた。
「死んでいるのかと思いました」
「何だと」
「定時報告の時刻を五分過ぎています」
徳間が時計に目をやると、確かに状況確認の為に定められていた定時報告の時間を過ぎていた。
「仕方がねえだろ。こっちは大変だったんだ」
「真央さんから聞いていますよ。食い逃げ犯を追っていたんでしょう?」
「おう、その通りだ」
「おう、じゃありません。そんな事、任務に含まれていないでしょう」
「馬鹿言え。目の前で悪事を働かれたんだ。ヒーローとして追わざるを得ないだろう。それとも何か? 悪事を見逃して、魔検の犬になるのが本物のヒーローだとでも言うのかよ」
「そうは言いません。が、今回の任務は別格です。失敗すれば大変な事になる。誤解を恐れず言えば、今回の任務の前では一般の犯罪は些事です」
徳間の声が鋭くなる。
「お前、知ってるのか? 何が起こっているのか」
電話の向こうの男は溜息を返す。
「残念ながら。ただ大変な事が起こる事だけは知っています」
「そうかよ。なら本腰を入れなきゃな」
電話の向こうで男が微かに笑みを漂わせた。
「まあ、次からは気を付けて下さいよ。捕まえてしまったものは仕方ありませんが」
「どういう事だ?」
「ん? ですから捕まえたのでしたら仕方がありません。不問にします」
「いやつーか、犯人に逃げられた」
「ん?」
「いや、だからな」
「アホですか、あなた」
「何?」
「あなたが追っておきながら逃す訳無いでしょう?」
「馬鹿言え! 犯人は逃げながらそこかしこで迷惑をかけやがったんだ。それを収集しつつ追ったんだぞ。どれだけ大変だった事か」
電話の向こうの男が一瞬だけ黙った。徳間は、きっと電話の向こうで眼鏡を押し上げたな、と思った。電話の向こうの男が静かに言う。
「あなたが何を考えながら追っていたか、当てて差し上げましょうか?」
「良いぜ」
「夜になれば、強い奴と戦える。だから今は力を温存しておこうとか考えていたんでしょう?」
「……まあな」
「私の空無辺であなたの煩悩を消して差し上げましょうか?」
電話から聞こえた言葉に、徳間の目が鋭くなる。携帯を強く握りしめる。ひびの入る音がした。近くの小石がポップコーンの様に幾つかはじけ飛んだ。
「嫌な事を思い出させるな」
「……失礼いたしました」
「まあ、とにかく食い逃げ犯も逃がした事だし、そろそろ任務に戻るさ」
「ええ。次の定時報告の時間ですが」
「十五時だろ?」
「いえ、今そちらの町に続々と魔術師が集まっているそうです。状況がどんどんと混迷している」
「ほう」
「あまり嬉しそうな声を上げないでください。で、そういう訳なので、次は十三時で」
「飯食って人心地ついた後だな」
「何でも良いですが、ちゃんと仕事して下さいよ」
変身願望は誰もが持っているありきたりな願いの一つだ。誰かになりたい。何かになりたい。何かをしたい。何かを変えたい。現実への不満は多少なりとも変身に繋がる。
変えたい。変わりたい。努力の伴わぬそれらの願いは時に現実逃避と蔑まれるが、その愚かさが時に世界を変える。断じて言おう。何かに変わりたいと願うあなたの変身願望は崇高な物である。
ここにもそんな変身願望を持った者が居る。名を反頭広という。何処にでも居る中学生である。姓が些か特殊だが、それ以上に直したい自分が多すぎて気にしている余裕は無い。
彼は常日頃から自分を変えたいと願っている。名前もそうであるし、性格ももっと明るくなりたいし、背も高くなりたいし、力も強くなりたい、そして何より今起こっているいじめをなんとかしたい。そう願っている。ほんの少し珍しい、学校が幾つかあれば一人は居る少年だ。
前述した変身願望をこれでもかという位に持っている。そしてその変身願望を極端な形で叶える事になる。
そう彼は変身する。
町に魔物が出現した。そうニュースで報じていた。魔物は魔女っ娘を名乗る変身ヒーローに倒されて事なきを得たという。
広は朝ごはんそっちのけてそのよくあるニュースに聞き入っていた。長い前髪に目が隠れ、そこに浮かぶ感情は読み取り辛いが、少年は一心にテレビに食い入っていた。あまりにもテレビに集中しすぎて口に運ぼうとしたごはんが箸からこぼれて茶碗の中に落ちた。
「良いなぁ」
広の見る画面の中で女の子は丈の短いドレスの様な衣装を着て皆の喝采に頭を下げている。
羨ましかった。自分も同じ様に喝采を浴びたかった。人々に囲まれて褒められたかった。
だが現実は違う。学校に行けば、クラスメイトに囲まれていじめを受ける。家に帰れば誰も居ない。忙しく跳び回る両親と最後にあったのはいつだろう。いや、それどころか、まともに人と話した事がいつだったか。
テレビの画面には少女が喝采の中去っていくところ映っている。
「良いなぁ」
広は再度呟いて、後はいつも通りに黙々と朝の支度を済ませ、中学校へと向かった。
学校へ行くと、僕の席が逆さになっていた。
うんざりしつつ元に戻して、机の中を窺う。教科書が入っている。以前までは学校に置いておくと悪戯に遭うので、必ず持ち帰る様にしていたが、最近ではむしろ置く様にしていた。そうすれば、自分の体に対する被害が少なくなる事に気が付いたからだ。
覗き込んで確認すると教科書は全てあった。不思議に思った瞬間、鼻に異臭が漂った。教科書を取り出し開いて見ると、一部のページだけ妙に開きにくく、黒茶色の粘質な何かがページとページを貼り付けている様だった。糞便だった。他の教科書も確認してみると全てがそう。ざっと確認すると、どうやら教科書の4の付くページに糞便が塗りたくられている様だった。
いつの間にか、周囲から笑い声が聞こえていたので、持ってきたビニール袋に教科書を全て放り込んで、口を縛って鞄の中に入れた。更に笑いが強くなった。
「おい、くせえから捨ててこいよ。自分ごと!」
そんな声が聞こえた。教室中から爆笑が生まれた。仕方が無く、鞄を持って、ゴミ捨て場に捨てに行った。帰って来ると、既に先生がやって来ていた。遅れた事を注意されたので謝った。
授業が始まるとほっとする。授業中はそんなに酷い事をされないから。精々が物を投げられるのと笑われる事位である。
授業間の休み時間もそれなりに幸せである。十分という短い時間を耐え忍ぶのは、辛いものの難しくはない。
「おい、うんこ、ちょっとこっち来いよ」
まあ、僕の事だろうな。諦めた気持ちで呼ばれた方へ行くと、いきなり殴られた。そうして尋ねられた。
「おい、痛かったか?」
「うん」
「昨日の奴とどっちが痛かった?」
「今の」
「じゃあ、昨日の奴ならもう一発食らっても大丈夫だな?」
そう言われて、また殴られた。これ以上はごめんだなと思っていると、殴った方は仲間と共に格闘技の話に戻ってこっちを見なくなった。なので席に戻った。今日はそれ位で、他に特筆すべきところはなかった。
給食の時間は、教室に先生が居るので、過激な事はされないが、気を付けなければならない。頻繁に食べられない物が入っているから。今日は羽虫が幾つかに、石に、錠剤。いつもより多い。クリームシチューに入った白い錠剤に気付いたのは幸いだった。
昼休みは辛い。今日は裸にされて、手荷物を入れる小さなロッカーに入り、そこで脱糞した。臭いの元を片付けている自分が惨めで少し悲しかったが、それ以上に何も感じなくなり始めている自分が恐ろしくて涙が出た。すると小便を流すなと言われて蹴り飛ばされた。
昼休みの後、今日最後の授業が始まった時に、先生が臭いなと言った。僕はどきりとして下を向いた。教室からまた爆笑が起こった。
帰りは幸いな事にいじめが無かった。サッカー部がこの前の試合に負けた事で練習量が増え、放課後に僕をいじめるだけの暇を取れなくなった為だ。皆僕の事など気にせずに帰ったのでとてもほっとした。
たった一人で帰る帰り道。特にこれといった用事も無いので、真っ直ぐ家に帰る。今日は意外と楽だったと安堵していると、いつもの帰り道に違和を見つけた。
道端で犬が輪を作っていた。何だか唸り声を上げている。
犬同士の喧嘩だろうか。もしかしたら小さな子供が襲われているのかもしれない。見過ごして帰った後に、実は子供が襲われていたのだと分かったら、それで子供が死んだと分かったら。きっと嫌な気分になるだろうなと思った。
そう思って止めに入ろうとするが、犬の姿が凶暴そうなのを見て、怖くなった。どうせ犬同士の喧嘩だろうと思って、素通りする事に決めた。
しばらく歩くと背後で、いきなり犬が大声で吠えた。恐ろしくなって立ち止まる。脇を犬達が走り去っていく。
恐る恐る犬達の居た場所を見ると、犬達は居なくなっていて、代わりに別の生き物が落ちていた。犬に隠れていた所為で見えなかった生き物。きっと犬にいじめられたのだろう。蹲って震えている。
助けてあげたかったが、幾ら小さくても野良の生き物だ。怪我でも付けられて変な病気にかかったら堪らない。
やっぱりこのまま通り過ぎた方が良い。何よりあの生き物はすでに助かっているのだから、後は自分で何とかするだろう。いや、何とかしなければ、どうせ一匹では生きていられずいずれ死ぬ。
その時、ぐぐと地の底から響く様な低音がその生き物から発せられた。全身錆に塗れた蜥蜴の様な生き物が、唸り声をあげ、歯を軋らせ、僕の事を睨んでいた。
魔物だ。
咄嗟にそう判断して、逃げた。怖かった。魔物だなんて初めて見た。それが自分に敵意を向けてきている。怖かった。怖くて逃げた。近くには公園がある。とにかくそこまで逃げようと思った。公園まで行けば、そこには人が居る。助けてもらえるだろうし、それが無理でも囮にして逃げられる。
幸いにも魔物の足はそこまで早くなかった。公園にまでは何とか逃げられた。
ところが逃げ込んだ先の公園に人の影がまるで無かった。いつもであれば、意味が分からない位に人が居るのに。
絶望的な気持ちになっていると、背後からどたどたと魔物の走る音が聞こえる。振り返ると、いつの間にか巨大になった錆た蜥蜴が大きく口を開いて迫って来ていた。
殺される。
そう思った時、心の内にある思いが宿った。
それの何が悪いんだろう。今ここで死ねば、これ程楽な事は無い。
だがその時、別の言葉が唐突に響いた。
「いいや、待て待て、少年よ。あたらに命を散らすなら、その前に世界を変えないか?」
声は足元から聞こえて来ていた。下を向くと、ブローチがあった。不思議に思って、手に取ると、それが銃に変わる。突然地面が遠のいた。逆の手にもいつの間にか銃が握られていた。体を見れば、燕尾服にフロックコートを着ていた。
「さあさ、ヒーロー、初陣だ。目の前をしっかり見て。穿つ銃弾の準備はオーケー? 弾込めしてなきゃ笑えない」
頭は分からないまま付いていけなかったが、体はまるで習慣の様な流れる動作で両手に握るオートマチックの拳銃を確認し、顔を上げた。鼻先に魔物の口内が迫っていた。
その口が閉じられる前に、垂れ下げたままの銃を手首だけで上に向け、魔物の腹に銃弾を放った。魔物が上に吹っ飛んだ。それに向けて、両手を掲げ、何度も銃弾を発射した。魔物の体を削ぎ落していく。
弾切れになったので、銃の弾倉をいつの間にか握っていた弾倉と交換しようとすると、更に声が響いた。
「おっと少年、それじゃない。込める弾にはフィナーレを」
体が勝手に動きだし、両の銃で宙を落ちる魔物に狙いを付けた。
躊躇なく発射された銃弾は過たず魔物に着弾し、瞬間、魔物の体がばらばらになって空に消えた。
魔物は消え去ったが、僕は動けない。理解出来ない事象が延々と続きすぎて、完全に頭が付いていかなかった
「うむ、素晴らしい、合格だ。私の名前は、リーベ。ヒーローたる君の相棒だ」
そんな声が聞こえたが、僕はそれでも呆然として空を見続けた。
それが僕のヒーローになった始まりの時。
そうして、変身した広は、リーベと名乗るブローチの言われるままに、嬉々として魔物退治とクラスメイトへの復讐に興じ、そうして今回、騒動が起こる事を聞きつけて、ヒーローらしく事件を解決する為に、この町へとやって来た。私生活の全てを捨てて、ただヒーローとしての生を選ぶ為に、この故郷から遠く離れた町へ。
広の胸の中で、己は雄々しいヒーローとなって、爛々と輝いていた。
だが今、広は必死になって逃げている。追跡する何者かから必死に逃げている。
きっかけは単純で、財布を忘れてきた広は有り金が全く無かった。遠く離れた家に帰るには、お金と魔力が足りなかった。だからこの現代の町で飢えに苦しんでいたのだ。空腹を抑える魔術を行使する為に変身していたが限界だった。むしろ変身して大人の姿になっているので、消耗が早まっていた。そんな時リーベが言ったのだ。
「なら、そこの店に入れば良い」
そこは牛丼のチェーン店で、入った事は無かったが、名前だけなら知っていた。
「でも、お金がかかるよ」
「そんな事は無いさ。入ってみれば分かる。善は急げだよ、広君」
良く分からなかったが、広が店内に入ると、リーベが広の意識を無理矢理カウンターの上に向かわせた。
「ほら、あそこに置いてある赤い物なんかは無料で食べて良いみたいだ。それにほら、飲み物は無料でもらえる様だ」
本当だろうかと訝しみながらも、空腹で死にそうな広はカウンターに付いて聞いてみた。
「水もらえますか?」
そう言うと、元気な応答と共に水が出された。
本当なんだと嬉しくなった広は、箸をとって、今度は紅生姜に手を付けた。紅生姜はすぐに底をついて、おかわりをしようとすると店員が言った。
「ご注文をしていただけますか?」
そうしてメニューが差し出された。
途端に広が焦る。
「どうしよう、やっぱり勝手に食べちゃまずかったんじゃ」
「注文をすればいいのだよ、広君」
「でもお金が」
「何を言う。相手が注文しろと言ったのだ。こちらがお願いする訳じゃないんだ。向こうの勝手。ならばこちらが金を払う道理はない。そうだろう?」
そうかもしれない。もう何でもいいや。広はもう空腹で自暴自棄になっていて、思考を打ち切って、注文した。
そうして一気に平らげて、外に出ようとすると、食い逃げだという声が上がった。
「失礼じゃないか。広君、君もそう思うだろう? 頼めというから頼んだのに、それで金を払えとは。あまつさえ泥棒扱いか。まして君はまだ店の外に出た訳じゃないのにね。広君、早く出よう。こんな失礼な奴に金を払う必要なんてどこにもないんだ」
そう言われたので、広は一度振り返って騒ぐ店員に対して言った。
「そっちが頼めというから頼んだんだ。どうしてその頼みを聞いてやった僕が金を払わなくちゃいけないんだ」
そう言って外に出た。追いかけて来るなら追いかけてこい。こっちは変身ヒーロー、並みの奴に負けるつもりは無い。
ところが、追って来た相手が悪かった。追って来たのは日本魔検最強、すなわち確認されている日本の魔術師の中で最も強い男だった。
店から出てきた追っ手の姿を見た瞬間、広はそれが誰だか分からないながらも何故だか全身に鳥肌が立ち、一目散に逃げ出した。そうして今に至る。
広は必死になって逃げている。何とか捕まらずにはいるが、捕まるのは時間の問題だ。
しかも、
「広君、さあ次は右に曲がろう」
「おっとそこは左じゃない。真っ直ぐだ」
「左に──そこで止まって、反対側へ」
リーベがそんな風に好き勝手に命令してくるので、精神的にも参っていた。どんどんと苛々が募っていく。それが爆発した。
「さあさ、そこの路地を右」
「うるさいんだよ!」
激昂した瞬間、唐突に広の全身から吐き気が沸き起こった。
「何を言う。私は広君、君の為に助言をしているんだ」
これである。広が文句を付けると、リーベの魔術によって酷い吐き気が込み上げ、それを我慢していると、頭皮を引き剥がしたくなる様な頭痛が沸き起こる。
広は舌打ちして、言われた通り右に曲がった。吐き気はすぐに治まった。
「ようし、そこで止まろう、広君」
広が止まる。
次の瞬間には、見知らぬ場所に居た。辺りには深い森。前と後ろに一本道。町の様子が遠望できた。山道の様だった。
「転移の魔術だ、これで安心」
そんなリーベの言葉に、広は安堵して崩れ落ちる。同時に変身も溶けて、元の中学生の姿に戻る。
「良かった。ヒーローなのに逮捕されるところだった」
「おっと安心するのは早い。お金が無くちゃ同じ事。まずはその手でお金を得るんだ」
「どうやって?」
「方法なんて幾らでも。望む手法はどんなだい?」
「悪い事だけはしないからね」
リーベが笑う。
「仰せのままに」