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朝の始まりと追跡と買い食い

 法子に向けられた教室の視線はすぐに逸れ、気が付くとクラスはいつもの喧騒に戻り、法子には一瞥もくれなくなっていた。あまりの変わり身に法子は数瞬前の事が夢だった様な気がして、動く事が出来なかった。

 動かない法子を心配して将刀が声を掛ける。

「大丈夫?」

 法子は慌てて何度か頷くと、意を決して教室の中に踏み込んだ。

 それだけ。特に何も変わらない。ありきたりな教室、いつもの教室。けれどさっきの視線を思い出すと、法子は息苦しくて堪らなくなった。荒く息を吐いて下を向く。

「やっぱりどこか痛いのか?」

 これ以上心配を掛けさせては申し訳ない。法子が首を横に振って、顔を上げる。

 法子が顔を上げると、教室の内の幾人かから見つめられていた。珍しい物を見る様な視線、憎しみの籠った視線、面白おかしそうな視線、視線を送って来る者達の表情はばらばらで、法子には彼等がどうして自分を見ているのか分からない。法子と視線が合った瞬間、それ等はすぐに逸らされて、また元通りの日常に変じた。

 法子が恐る恐る席へと向かう。途中で将刀が別れを告げられ、ほんの数歩ではあったがたった一人で席へと歩く。それだけの道程が酷く重苦しい。

 席に辿り着いて疲れ切った心地で座り俯いていると、前から声を掛けられた。

「おはよ! 法子さん!」

 法子が意外に思って顔を上げると、摩子が笑顔を浮かべて法子の事を見つめていた。摩子の存在をすっかり忘れていた自分に呆れつつ、法子は口ごもりながらも挨拶を返した。

「お、はよう」

「うん! もう怪我は良いの?」

「もう治ったから大丈夫」

「良かった!」

 そう言って、摩子が晴れ晴れと笑った。他人の事なのに、本当に嬉しそうな笑いだった。

 法子は、改めて摩子の事を良い人だなと思った。自分であれば、他人の事なんてどうでも良いから、よっぽど身近な人でもなければ、きっと気遣う事も心配する事も出来ないだろう。それなのに摩子はまだ仲良くなってそこそこの自分を気遣ってくれる。

 私ってやっぱり性格悪いんだ、と法子は何だか悲しくなった。

「おはよう、摩子」

 突然横合いから声がかけられた。法子がそちらを向くとクラスメイトの一人で、そのセミショートに明るい笑顔のクラスメイトは法子の横を通り過ぎて摩子の席に手を突いた。

 摩子がそのクラスメイトを見上げて笑った。

「あ、おはよー!」

 クラスメイトの視線が法子に向いた。法子は震えて、怯えて、身をすくませた。

 クラスメイトはしばらくの間、法子を眺めてから、摩子に尋ねた。

「もしかして……」

「うん! ばっちり」

 法子は自分が話題に上がっている事は分かったが、何を言われているのかは分からなかった。馬鹿にされているのか、あるいは何か仕出かしてしまったか。びくびくしながら二人の会話を窺った。

「もしかして無理矢理……」

「違うよ! ちゃんと仲良くなったよ!」

「ホントかなー」

「ホントだよ!」

 そこでクラスメイトがくるりと法子に向いた。

「おはよ、法子さん!」

 突然挨拶されたので、法子は戸惑って、慌てて摩子を見る。摩子はにこにこと笑っている。法子が再びクラスメイトを見る。クラスメイトもにこにこと笑っている。挨拶を返さなければと思うのだが、名前が分からない。

 必死で考えて、思考の隅まで探って、何とか名前を思い出そうとするのだけれど、どうしても思い出せない。どうしようどうしようと焦っていると、クラスメイトがその困惑を読み取って微笑みかけてきた。

「えっと、苗字が難しい読み方だったよね。何て読むんだっけ?」

 問われたので、法子は反射的に答えた。

「ねごろ、です」

「そうそう。ねごろだ。ねごろのりこちゃんね。私は熊倉実里なんていう、全然普通の名前だから羨ましいよ」

「そんな事は」

 否定しつつ、偶然にも名前が分かった事で、法子は安堵した。くまくらみのり、後で何処かにメモをしておかないと。そうして先程の挨拶に対して返答した。

「あの、その、熊倉さん、その、おはよう」

 法子がそう言うと、一瞬実里は面食らった顔をしたが、すぐににっこりと笑った。

「うん、よろしくね」

 法子がそれに返答しようと思考を巡らせていると、また新たな人物が割り込んできた。

「おはようございます」

 今度は眼鏡を掛けた賢そうなクラスメイトだった。

「何かあったのですか?」

 そのクラスメイトは不思議そうに、摩子と実里に目をやってから、摩子の体の向く先に視線を滑らせ、法子に辿り着いた。

 クラスメイトは僅かに目を見開いてから一瞬だけ考える様子で下を向き、サブリミナル効果、薬物等と呟いてから、摩子に尋ねた。

「まさか洗脳を?」

「そんな訳ないでしょ!」

 また新しい人が現れた事に法子は戸惑った。話題はやはり法子の事らしい。となれば、やっぱりまた挨拶をする事になり、そうしてまた名前が分からないから困ってしまうに違いない。そんな分かり切った未来を予想して、法子はどうしようとまた悩み始めた。

 そんな法子を、実里はちらりと見つめ、そうして新しく現れたクラスメイトに言った。

「おはよう! 陣上叶已!」

「え?」

 叶已は不思議そうに声を上げたが、すぐに法子の困惑した顔を見て納得した。

 法子はそのやり取りが良く分からない。ただ偶然にも名前が分かったので、心の中でじんじょうかないじんじょうかないと唱え続けて、何とか忘れない様に努めた。

 摩子も分からなかった様で、

「何で、フルネームで呼んでるの?」

等と言っている。実里と叶已はそれを無視する。

「おはようございます、法子さん」

 叶已が法子に向かって挨拶をした。法子も何とか返す。

「陣上、さん。おはようございます」

 法子の挨拶に叶已が笑みを返す。

 ちゃんと挨拶出来たと法子は嬉しくなった。ほとんどどもる事も無かった。成長している事を実感して、何だか気が大きくなって、これならもう挨拶の時に戸惑わずに済みそうだと思った。自分は成長している、と思った。

 その時、体に衝撃が走り、そうして視界が盛大にぶれ、そうして頭の後ろから大きな声が聞こえた。

「おはよう!」

 法子は咳き込み、気持ちを落ち着けて、振り返ると、息がかかる程近くに、人の顔があり、驚いて息が止まる。

 その顔はすぐに離れ、法子の首に絡みついていた腕も離れ、解放された法子はよろめいて机に肘を突いた。そうして自分の傍らに立つ人物を見上げた。クラスメイトだった。やはり名前はわからない。

 中腰になって法子の事を覗き込んでいるクラスメイトを見て、法子は美人だなと思った。少し気の強そうな鋭い容姿は、くっきりとまるで外国人の様で、きっと漫画のキャラクターが現実に居たらこんななのだろうなと何だか感動した。

 そんな風に考える法子に、覗き込むクラスメイトが笑いかける。その笑いを見て、法子は何だか胸が高鳴って、ぼんやりとした。

「ちょっと、いきなり失礼でしょ」

 呆けている法子の代わりに、実里が文句を言う。

 それに対して、クラスメイトは笑って言い返す。

「何言ってんだ。友達に失礼も何もあるもんか」

 そう言われて、実里は言葉に詰まった。

 法子も驚いて固まる。友達。妙に聞きなれなくて、それが自分に向けられている事が何だか不思議で理解出来なかった。

 クラスメイトは何だか得意げに笑ってから、法子の前に顔をずいと突き出してきた。法子が思わず身を引く。クラスメイトの口が開く。

「で、名前なんだっけ?」

「ちょっと、あんた」

 実里が文句を言う。

 けれど法子はほっとしていた。相手が自分の名前を忘れているなら、自分だって忘れていて良いんだと考えて、気持ちが楽になった。

「十八娘法子です」

「そうだ、法子!」

 突然指を指されて法子は驚く。驚いて、その手入れの行き届いた指先を見つめる。その指が今度はクラスメイト自身を指した。

「あたしは名場陽蜜! よろしくね!」

 陽蜜がそう言って、晴れやかに笑う。絵になっていた。完全無欠な立ち姿に、法子はまたもぼんやりとした。頭の中で、なばひみつという意味を持たない音の群れが遠ざかったり近寄ったりして、訳が分からなくなった。そんな法子の様子を見て、摩子と実里と叶已と陽蜜はおかしそうに笑った。

 その時、教師が入って来た。授業が始まる。教室中が慌ただしく整頓される。人も席に着いて綺麗に並ぶ。厳かに授業が始まる。外は凪いでいる。鳥の声と教師ののんびりとした声だけが聞こえてくる。空は晴れている。法子は尚も呆然として、目の前の摩子、友達の後姿をぼんやりと見つめている。


 息が聞こえる。男の吐く規則正しい息が。

 閑散とした路地を徳間が走っていた。何故か手に箸を持っていた。

 徳間は走りつつ、ポケットから取り出した携帯を掛ける。すぐに繋がって、電話口に向かって徳間が叫ぶ。

「こちら徳間。現在追跡中。真央、悪いが手伝ってくれ」

 徳間の言葉が止むと、電話口から問い掛けられる。徳間がつまらなそうに答えた。

「食い逃げだよ食い逃げ」

 徳間が曲がり角を曲がる。その先に逃げる後姿が見える。

「うっせえ。小さくたって犯罪だ。目の前で見せられたら捕まえるしかねえだろ」

 再び曲がり角があり、逃げる犯人が右に曲がる。徳間もそれを追う。

「それにな、さっきあいつ、逃げる途中で女の子を弾き飛ばしてたんだぞ。十分危険な犯人だろうが」

 犯人が途中で躓いた。大分疲れた様子でふらついている。対して徳間は有り余る体力で息を上げずに走っていた。

「あのな、仮にもヒーローって呼ばれてるんだ。俺達がやる事は魔検の犬になる事じゃなくて、平和を守る事だろうが」

 曲がり角を曲がると、途端に人の往来が増える。両脇に小柄な店が立ち並んでいて、人々は楽しそうに歩き回っている。平日の昼間にしては賑わいがある。

 犯人はまるで速度を落とさずに通りを駆け抜けていく。徳間は往来に配慮して、上手く走れない。それでも何とか人ごみを縫って犯人を追う。少しずつ距離が縮まって、通りの終わりに差し掛かったところで、捕まえそうになった。

 その時、切羽詰まった犯人がなりふり構わず逃げようとして、若い男女を弾き飛ばした。弾き飛ばされた男女は体勢を崩す。男性の持っていたクレープが二つ、宙を舞う。女性はすぐに立ち直ったが、男性は立ち直れずにそのまま倒れた。徳間は舌打ちして、空中を飛ぶクレープを口で綺麗に受け止め、ついでに倒れかける男性を抱き留める。その間に犯人は逃げていく。

 徳間は男性を助け起こすと、クレープを急いで食べて言った。

「悪いな、あんまりにも上手そうだから食っちまった」

 そう言って、お金を手渡して、クレープの包み紙を近くのゴミ箱に捨ててから、再び犯人を追いかけ始めた。


「本当に大丈夫?」

 そう聞くと、

「勿論、今日こそは大丈夫だから安心してくれ!」

そう言われた。

 その力強い返答に、海音は本当に大丈夫か心配になる。何せ、目の前の敦希は昨日牛丼の一つも奢れなかったのだ。

「で、何を奢ってくれるの?」

 海音がそう尋ねると、

「ここ等にちょっと有名なクレープ屋があんだよ。そこ」

そう返ってきた。

 クレープ。決して高くはないはずだが、それでも敦希が本当に払えるのか海音は不安でならなかった。何たって牛丼も奢れないのだ。

 海音が悩んでいると、敦希が言った。

「てか、良かったのか?」

「何が?」

 敦希の言っている事が分からず、海音が尋ねる。

「名前」

 そう言われて、海音はむっとした。

「何? うみねって名前、そんなに変?」

「いや、そうじゃなくて。教えてよかったのかって事だよ」

「敦希だって教えてくれたじゃん」

「そりゃあ、そうだけど。俺はどうでも良いんだよ」

 海音には良く分からない。

「何が悪いの?」

「そりゃあ、まあ俺が言うのも変だし、お前に言うのも変な話だけど、あんな集まりに参加してる奴に名前なんか教えちゃやべえって思わねえの?」

「何で?」

 海音には分からない。

「何でって。普通そう思うだろ。人を殺す為に集まってる奴等だぞ」

 海音には分からない。何故なら、

「だって正義の為でしょ?」

「は?」

「正義の為に悪人をやっつけてるんだから別に良いじゃん」

「いや、何だよそれ」

 そこでようやく海音は、敦希との間に考えの違いがある事に気が付いた。

「お前、そんな風に誘われたのか?」

「うん。そっちは違うの?」

 敦希が少しだけ言い淀む。

「俺は……良い暇つぶしがあるって言われて」

「へえ、そうなんだ」

「そうなんだってな。お前、騙されてるぞ? 良いのかよ」

「別に良いよ」

「ホントかよ。実は後悔してんじゃねえのか?」

「だって、ターゲットの人達は本当に悪い人達だったし」

 クレープ屋があった。並んでいた。

「実際、誰かを襲ってたりしてる人達だったから。もしも私が殺さなかったら、きっと別の誰かが死んじゃってたから」

「おい、ストップ。人が居るからこの話は一旦止め」

「うん。でも私は間違ってないし、騙されたとも思わないし、後悔もしてない。私は自分のやってる事が正しいって信じてる」

「分かんねえ」

 敦希の言葉が終わると、二人は黙り込んで静かになった。

 列が進み、クレープを頼み、受け取って、通りに出た。敦希が再び口を開いた。

「正直、俺は後悔してる」

「そうなんだ」

「こんなやべえ集まりだとは思ってなかったし、人を殺してへらへら笑ってる奴等も理解出来ねぇ。誘った友達とも縁を切りたい」

「そう。じゃあ、早く私から逃げたら」

 海音が低く言った。

 敦希が微笑む。

「お前は正義の為にやってんだろ。なら別だ」

「別?」

「人殺しを楽しんでる奴等がいかれてるっつってんだよ」

 敦希の言葉が終わる前に、二人の背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、切羽詰まった表情の男が汗だくで走って来た。咄嗟の事で二人は反応できない。為す術も無く二人は男にぶつかった。

「いたっ」

「うお」

 海音は倒れなかったが、敦希は手に持ったクレープを投げ飛ばして転ぶ。

 その時、敦希の体を支える者が居た。

 昨日海音が仕留めようとして仕留められなかった高得点の標的、千ポイントだった。クレープを咥えていた。

 千ポイントがちらりと海音を見る。

 昨日の仕返しをされるかと思って、海音の体が固まる。

 だが千ポイントは、敦希を立たせ、クレープを平らげると、

「悪いな、あんまりにも上手そうだから食っちまった」

そう言って、立ち去った。

 海音と敦希は敦希の手に乗せられた一万円札を見る。そのクレープ代としては高すぎる支払いを見ながら、二人は呟いた。

「千ポイントさんだったね」

「何だったんだ、あれ」

「一万円貰ったね」

「どうすりゃ良いんだ、これ」

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