これから始まる新しい日常
「どう? 変じゃない?」
朝、いつも通りの制服姿になった法子は鏡に全身を写しながら不安げにタマに尋ねた。
「うん、おかしい所は無いよ」
タマは何の気なしに答えたが、法子は深刻そうで、タマの答えに納得しなかった。
「そうじゃなくて、ちゃんとしてる?」
「うん、ちゃんとしてる」
「もう。タマちゃん全然分かってくれない」
タマは法子の不満が理解出来ずに黙り込んだ。
タマの感覚からして、法子に異常な点は何も無かった。強いて挙げるなら、いつも以上に身綺麗にしている事位だ。
梳かさない事すらある髪を念入りにセットし、制服は前夜の内に母親にアイロンがけを頼み、その上で仕舞い込んであった鏡を持ち出して、時間を掛けて自分を整えている。
それが異常といえば異常であったが、おかしいと言える程の異常でもなく、何か法子が張り切っている事に違和感を抱いたものの、法子の様子が常と違って活気のある事がタマには嬉しかった。
「タマちゃん、また何か余計な事考えているでしょ?」
「そんな事無いよ」
「嘘吐き」
どうして分かったのだろうとタマは疑問に思う。
法子はもうタマの心を読めない。タマもまた法子の心が分からない。タマが新しく掛けた魔術でお互いの思考は覗けなくなった。けれど心を読むまでには至らないが、ある程度の感情を知る事は出来る。今で言えば、法子は焦り、不安がり、そして楽しみにしている。だからタマもこれから起こる何かが楽しみになる。そんな繋がりこそが、何よりタマの喜びだった。
「タマちゃん、何か笑ってるでしょ。何? やっぱり変」
「笑ってないし、変でも無いよ。いつも通りの可愛い法子だよ」
法子は顔を赤くして、鏡から視線を逸らした。
「やっぱり信用できない。っていうか、考えてみればタマちゃんて昔の人だから今の事って良く分からないよね」
タマがむっとして言い返そうとしたが、法子はその前に鞄を持って一階へ降りた。
リビングに入るなり法子が、ココアを啜っている弟の前に立って、机に両手を叩きつけた。
「ちょっと聞きたいんだけど!」
「うわ、どうしたの、姉ちゃん。異様に元気だけど」
「ねえ! 私変な所無い?」
「やけに元気なところ。何か変な物でも食べた?」
「もう! あんたまで全然分かってない!」
弟が飲み終えたカップを置いて、不思議そうに尋ねた。
「俺もって? ルーマさんにも同じ事言われたの?」
タマの事を秘密にしている法子は焦って否定する。
「ううん、べっつにそういう訳じゃないよ!」
わざとらしい程に大げさな否定に弟はひっかかりを持ったが、元々普通とは離れた姉を思って、深くは考えなかった。
法子は弟が自分の言葉に疑念を持っている事を敏感に悟って、弟の矛先を逸らす為に話題を無理矢理戻そうとした。
「で! 私、ちゃんとしてる?」
「ちゃんとって」
弟は法子の全身を眺めて
「意味が分かんない」
そう言った。
「だからー……あ、でもそうだよね。あんた男だから、女の子の気持ちなんて分からないか」
弟はむっとして、女から駆け離れた姉ちゃんよりはきっと分かるよ、と言い返そうとした時には、既に法子はキッチンに入った所だった。
キッチンに入った法子は、そこで料理をしている母親に尋ねる。
「ねえ、お母さん、私変な所無い?」
母親は手を止めて、法子を眺めた。いつもよりも整えられた身だしなみに驚いたものの、娘の良い変化に少なからぬ感動を覚え、娘を安心させる為に、優しく微笑んだ。
「おかしな所なんて無いわよ」
法子はそう言われても、納得せずに、自分の体を眺めまわした。
「ホントかなー?」
そして、言った。
「考えてみれば、お母さん、もう年だから今の感覚は分からないのかも」
「なっ」
母親がむっとして、まだ若いわよと言い返そうとした時には、既に法子はキッチンを飛び出していた。
キッチンを飛び出した法子はそのままリビングを通り抜けて二階に上がり自室に戻り、もう一度鏡に自分を映して眺めまわして、きっと大丈夫と自分に言い聞かせると、バッグを持って階段を駆け下り、玄関を飛び出していった。
いつにない法子の奇行に、弟と母親はリビングで顔を見合わせ不思議がる。
「どうしたんだろう、あの子」
「何かやけに嬉しそうだったけど」
「もしかして」
母親はそこで言葉を呑みこんだが、弟がそれを引き取った。
「彼氏でも出来た?」
母親と弟は顔を見合わせて微笑み合う。
「まさか」
二人してそう言って、弟がつまらなそうに呟いた。
「新しいゲームでも発売するんじゃないの?」
「んー、まあそんな所よね」
母親は納得して、手に持ったお弁当を持ち上げて、溜息を吐いた。
「お弁当忘れる位、舞い上がるなんて」
法子が外に駆け出すと、ここのところ快晴続きの空は爽やかに晴れ渡っていた。秋が深まり切って冷気を帯び始めた空気は白く透明に澄み渡っている。世界が変わったと法子は思った。境目を越えて、悲惨な世界から楽しい世界に変わったのだ。自分だけがこんなに幸せで良いのだろうかと法子は浮かれながら恐れた。
学校の正門を行き交う人々の群れを眺めて唐突に法子が言った。
「タマちゃん……帰ろっか」
「はぁ?」
一転した法子の言葉にタマは思わず聞き返した。
「何で急に」
「お腹痛い。今日はもうここに来るまでで幸せだったから明日にしよ」
「馬鹿な事言ってないで。さっきまであんなに嬉しそうだったのに」
「だってー」
法子が不安そうに校門を見つめ、そこで出入りする楽しそうな一団を見つめ、そして目を逸らした。
ああ、とタマは納得する。そう言えば、法子はショッピングモールの事件で、皆に顔が知られてしまった事を嘆いていた。何か法子を勇気づける事を言わなければとタマは悩む。悩むのだが言葉が思い当たらない。
校門を目前にして法子は立ち尽くし、タマは悩み尽くして、どうする事も出来ずにいた。その膠着が永遠に続くかと思われたが、唐突に法子の背後から声が掛かった。
「どけ!」
法子が振り返ろうとした時には、その声の主が法子の事を突き飛ばし、そのまま駆け抜けて、道の先に居る生徒達を突き飛ばしながら何処かへと駆け去っていった。
突き飛ばされた法子は不意を突かれた所為で自分が倒れる事に気が付く事すら出来なかった。大きく傾いだ体が倒れそうになっても法子は呆然として重力に身を任せていた。その時、誰かがその体を支えた。腕に収まった法子がその誰かを見上げると、将刀だった。
「大丈夫か?」
将刀が心配そうに覗きこんでくる。法子は咄嗟の事に対応できずに、口を開きっぱなしでただ将刀の事を見つめた。
「怪我は無い?」
将刀が重ねて聞いてくる。
法子は怪我をしていない事を伝えようとして、安心させる為に大きく首を横に振った。
けれど将刀は、それを怪我があるという意思表示だと勘違いして、慌てた口調で法子の体を抱え上げた。
「すぐ保健室に連れてくから」
抱え上げられた法子は唐突な両足の浮遊感を不思議に思い、次に自分の体が横倒しになっている事に疑問を抱き、最後に自分の体がたった二つの支えによって宙に浮きあがっている事に気が付いて、ようやっと自分がお姫様抱っこをされているのだと自覚した。自覚した途端に、思考が空白化し、そして次の瞬間顔が熱く火照って、何が何だか分からなくなった。
将刀が保健室に向かって走り出した。大きな振動が法子を襲った。
首が揺れる。将刀が走る所為で法子の頭が上下して、痛かった。何とか安定しようと、法子がすがる思いで腕を絡ませたのが将刀の首で、腕を引き寄せると将刀の顔が急に近くなり、驚いて顔を仰け反らせると、首が後ろに勢いよく傾いで、将刀までバランスを崩すので、これはいけないと安定を保つ為に再び将刀の首に腕を絡めて引き寄せると、やっぱり将刀の顔が近くに来て、また離れようとしたけれども、それをすればまた将刀が体勢を崩してしまうだろうと、どうする事も出来なくなって、法子は将刀に体を預けてしまった。
揺られながら法子は自分の姿を思い浮かべて恥ずかしくなる。ちょっと周りに目を向けると、皆こちらを見つめている。恥ずかしい。荒い息が聞こえる。将刀の口から漏れている。申し訳なく思う。もしかしたら重いのかもしれない。全体的に小さいから軽いはずだけど。昨日お菓子を食べ過ぎたのが原因か。将刀が一所懸命に走るので、法子は自分の為に辛い思いをさせてしまって申し訳なく思う。将刀の荒い息が聞こえる。もう一つ荒い息がある。自分の口から漏れている事に法子は気が付く。今日はいつもの千倍位、良く歯を磨いておくべきだったと後悔する。
自分の息と周囲の視線と、目の前にある将刀の真剣な表情に、法子が色々と気を急いている内に保健室に着いた。保健室に着くなり、法子はベッドに座らされた。
「怪我は何処?」
そう尋ねられ、法子は首を横に振る。
「何処か痛い?」
法子はその問いも否定しようとしたが、そうしてしまうと将刀に嘘吐きだと思われてしまうのではと危惧して、法子は曖昧に答えた。
「ぶつかられた所が少し」
将刀が心配そうに視線を落とした。
法子が自分の胸に手を当てる。押したところで別段痛くも無い。
「そんなに痛いのか?」
問われて返答に窮する。しばらく答える事が出来ずに法子は唸った。その唸りを将刀は痛みによるものだと勘違いする。
「もしかして骨折でもしてるのかも。とりあえず」
将刀はちょっと保健室の中を見渡して、保険医が居ない事を確認すると、法子に背を向けた。
「保健の先生、呼んでくるから」
それは困る。とは言えなかった。だが困る。もしもちゃんとした診察を受けてしまっては、自分が何の異常もない健康体だと見破られてしまう。嘘吐きだと思われてしまう。それで法子は大胆にも将刀の手を掴み、そして咄嗟の言い訳で急場を凌ぐ事にした。
「もう大丈夫だから。痛くなくなったから」
「痛くなくなった?」
「う、うん。えっと、もうほとんど」
将刀が訝しむ様な表情で法子を見つめる。
法子は慌てて自分の胸を叩き出した。
「ほらね。全然痛くないから」
咳き込みながらそんな事を言うので、将刀は慌てて法子を制止した。
「分かった。もう元気な事は分かったから」
分かってくれた事に安堵して、法子は自分の胸を叩く事を止めた。
「あの」
普段人と話慣れていない法子は、散々口ごもり、こういう時は何と言えば良いのだろうと悩んでから、結局ただの一言を口に出した。
「ありがとう」
「どう致しまして」
将刀は笑って答え、手を差し出した。法子が大分悩んでからその手を取って立たせてもらう。法子が立ち上がると、将刀は再び法子に手を差し出した。
「鞄持つよ」
法子は自分の鞄を見つめ、そして大きく首を振った。
「良いよ。そんな」
「でも辛いだろ」
「悪いから、良いよ」
将刀が何を言っても法子は頑なに断って、結局法子は自分の鞄を持ったまま、将刀と一緒に教室へ向かった。向かう途中、初めの内は何を話せば良いのだろうと悩んでいた法子だけれど、将刀が次々と話題を振ってくれるので、法子の心配は直ぐに消え去った。特に心をとらえたのが、とあるヒーローの話で、かつて将刀を助けたという良く聞く話だったけれど、将刀が本当に嬉しそうに話すので、法子も感じ入って、そのヒーローが将刀の憧れであるというから、話を聞いた法子にとってもそのヒーローは憧れの対象となった。将刀は、そのヒーローが今どうしているのか知らないけれど、いずれきっと会ってお礼を言うんだと笑っていた。それを聞いた法子は将刀がヒーローと出会う場面を想像して、何だか嬉しくなって胸が温かくなった。
一週間前の、ひいては今迄の暗い学校生活がまるで嘘の様な楽しい一時だった。加えて教室にはもう一人友達が待っている。法子はこれが本当の学校生活かと感動した。
そうして教室の前まで辿り着く。扉の向こうからざわつきが聞こえてくる。今からざわつきの輪に入って行くのだと考え、法子は不安と決心と喜びの溶け合った緊張に息を呑んだ。緊張する法子を余所に将刀が躊躇なく扉を開ける。
ざわついていた教室が一気に静まった。教室中の視線が法子に注がれた。その中に如何にも嬉しそうな表情の摩子も居た。法子は思わず微笑む。けれど法子の意識はすぐに摩子以外のクラスメイト達に向かった。
クラスメイト達は酷く驚いた表情をしていた。じきにクラスメイト達の驚きの表情の半分に何だか不愉快そうな色合いが浮かび、その内の数人があからさまな敵意で以って法子を睨みつけた。
法子はその視線に怯んで一歩下がった。
法子は自分が周囲に好かれているとは思っていなかったし、むしろ嫌われていると思っていたが、率直な敵意を向けられた事は無かった。将刀が転校してきた時や文化祭の準備をしていた時にも、馬鹿にされる事はあったが、敵意を向けられた事は無かった。だから急に向けられた敵意に戸惑って法子は立ち尽くした。
摩子は迎え入れる準備をして、嬉しそうに法子を待っている。
将刀が立ち止まってしまった法子を心配そうに見つめている。
教室は将刀と法子という不可解な組み合わせに驚いている。
教室の一部から発せられる敵意が更に濃くなっている。
法子は教室の前で立ち尽くす。敵意の理由が分からない。何だか泣きたくなった。