状況は淡く動く
何だろうこれ。
空前絶後において在り得ないと推断していた異常な光景に法子は当惑して押し黙っていた。
法子の目の前にあろう事か同級生のお見舞いがやって来ていたのだ。
「林檎食べる? 食べても平気? 怪我は重くないの?」
法子の前に切り分けられて皿に乗った林檎が差し出された。兎の形だ。
差し出された林檎を見つめながら、法子は食べても良いものか迷う。あっさりと手に取って食べては何だか卑しい気がした。誰も手を付けていないのに、自分だけが勝手に食べるのは止めた方が良い。かと言って、相手に示してもらった好意を受けずに無視するというのもまた傲慢だ。生意気だと思われるかもしれない。
法子が悩んでいると、摩子は小皿を少しひっこめながら、不安げに眉を寄せた。
「やっぱり怪我重いの?」
「そうでは、ない」
法子は緊張で身を固くして何とかそう答えた。そうして震える手を皿に伸ばし、林檎に刺さった楊枝を摘まんで手に取った。
ちょっと顔を上げれば、摩子が心配そうに法子を見つめている。法子は思わず目を逸らして林檎を齧った。林檎の味がした。
「怪我は重くない」
必死の思いでそう言った。するとまた摩子の質問が浴びせられた。
「ホントに? いつ位に退院出来そうなの?」
答えなくちゃと焦りながら法子は簡潔に答える。
「分からないけど、検査が終わったらすぐに」
「検査って何の? 何か悪い所があるの?」
「無いと思うけど、一応念の為にって。何があるか分からないから」
「そっか。そうだよね。大変だったもんね」
摩子は安堵した様で、息を吐いて笑顔を浮かべた。その時、摩子の隣に居た純が些か沈んだ様子で法子に詫びた。
「ごめんね、法子お姉さん」
何の事を言っているのか、法子には分からない。ただとても重大そうな顔をしているので、こっちが何かしてしまったのではないかと法子は不安になった。
「俺、ヒーローになって守るって言ったのに、守れなかった」
何だと法子はほっとして、それから申し訳ない気持ちになった。実際に守る手段を持っていたのに、法子は人々を守れなかった。いや、守らなかった。闘う事しかしなかった。結局全て、他のヒーローに丸投げして、自分は無様に負けて。そうして今、のうのうと生きている。それが申し訳なかった。だというのに今、かつて切り裂いた少年に謝らせてしまっている。
「えっと、その」
けど本当の事を言う事は出来ず、法子は何も言えずに口ごもった。
純が真っ直ぐな瞳で法子を見据えた。法子は目を合わせられず俯く。
「俺、もっと頑張って、早くヒーローになるから。それでみんなを守るから」
そう言った。真っ直ぐな瞳で。でも法子は目を合わせられない。
「もう少ししたら退院するし、そしたら俺、魔術の勉強するんだ」
「え? 退院?」
純が大怪我をしてからまだ一週間。法子は血に沈んでいた純の姿を思いだして、早く治り過ぎじゃないかと訝った。
「うん。何だか治るのが凄く早いって医者も驚いてた」
実の所、夜中こっそりと純の病室に忍び込んで怪我の治癒を行っていた者が居るのだが、それは治療を行った当人以外誰も知らない。
「だから早くヒーローになって、昨日のテレビに出てた二人のヒーローみたいに、俺もなるんだ」
テレビに出ていた二人のヒーローとは法子が何度か会った事のある魔法少女と騎士の事だ。法子は、その一躍有名になった二人を思い浮かべて、その後に自分の滑稽な様も思い出して、憂鬱な気分になった。世界中から嫌われても人々を守る英雄になろうと思った。けれど現実には嫌われている所為で人々を助ける事が出来なかった。
尚も二人のヒーローを称賛する純の横から、摩子が恥ずかしそうに口を出した。
「あのね、実はみんなを助けたのは二人だけじゃないんだよ」
「どういう事?」
「あのテレビに映ってた二人以外にもう一人、みんなを助けたヒーローが居たの」
法子は顔を上げた。
純が首を傾げる。
「でもテレビでそんな事言ってなかったけど」
「でも居たんだよ。危険を冒して、魔王と闘いに行ったヒーローが」
何でそれを知っているの? と法子は震える。何だか分からない衝動が身の内から込み上げてきた。
「みんな逃げる事ばっかり考えてたのに、その人だけはたった一人で皆を逃がす為に魔王に挑んだの」
「でもテレビじゃ何にも言ってなかったのになぁ」
「人が集まる前に何処かに行っちゃったみたい。きっと凄く慎み深い人なんだよ」
「へえ。人知れぬヒーローかぁ、カッコ良い」
二人が変身した法子の話をしている間、法子当人はずっと黙っていた。黙って顔を赤らめて胸を破りそうな程の動悸に苛まれながら、喜びと必死に闘い続けた。ここで嬉しがれば正体がばれてしまう。二人が褒めるヒーローが実は惨めに病院へ運ばれた自分なのだとばれてしまう。そう考えて法子はじっと耐えていた。
恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いている法子を見て、摩子はそっとほくそ笑む。
それから一時間ほどして、摩子と純は病室を去った。
「それじゃあね。また学校で!」
「またね、法子お姉ちゃん!」
この一時間、法子は口数少なく、相手の話題に応答するだけで、自分からは一切話題を振らなかった。他者から見れば不機嫌なのかと誤解されそうな態度であったが、単に会話に付いていく事が困難だっただけだ。法子の心境は大分和らいでいて、二人にかなり気を許していた。法子としては珍しい事に、去っていく二人に対して手を振って応じる余裕すら出来ていた。
二人が見えなくなった後、法子は感慨深げに溜息を吐いてから、頭の中でタマに向かって呟いた。
「疲れた」
「お疲れ。良かったじゃないか、友達が出来て」
面白がるようなタマの笑いを無視して法子は尚も言った。
「私、死ぬのかな」
「何だい、突然」
「だって」
途端に法子の心が溢れ出る。
「だっておかしいよ。私にお見舞いが来るなんて。家族ならまだしも学校の人だよ? 今迄誰かが話しかけてくれる事だってほとんど無かったのに。もしかして新手のいじめなのかな? もしかして私が喜んでるのを、私が焦ってどもってるのを、何処か物陰でみんなが見てて、騙されて馬鹿な奴って笑われてるのかな。そうじゃなくちゃおかしいよ。もしあれが本当なら。もし本当にお見舞いに来てくれてたなら、私、もしかしたら明日死んじゃうのかもしれない」
「馬鹿?」
タマがにべも無い返答をする。法子はそれを無視して、外を見つめた。今度は心の底のわだかまりを吐き出す様な溜息をした。
「本当に疲れた」
「こんな事じゃ先が思いやられるなぁ」
「これ以上学校の人がお見舞いに来たら──私、死ぬ」
「この上なく情けないけど、君にとっては良い死に方なんじゃない?」
タマが呆れてそう言った。
その時病室の扉が開いた。
法子が恐る恐る目を向けると、そこに果物の入ったバスケットを持った将刀が立っていた。
日が落ちて辺りは暗くなっていた。法子の居る病院から大分離れた路地を二十の半ば頃の男女が歩いていた。女は苛々とした様子で真っ直ぐ前を見て歩いていた。男は飄々とした様子で手に持った紙に目を落としていた。
男が紙から目を上げて前方の電灯に照らされた薄暗い路地を見つめる。
「どうだ? 願いを叶えそうな何か、あったか?」
「ある訳無いでしょ。そもそもどんなものだかも分からないんだから、あったとしても分からないわよ」
「ホントに何なんだろうな。願いを叶えるものって。物質なんだよな?」
「さあ。はっきりとは分からないけど」
女が鋭い視線を男に突き刺す。
「願いを叶える何かがこの町にあるっていう文面なんだから、物質なんじゃない?」
「そうかぁ。そうだよなー」
男が呆けた様子で女と視線を合わせた。女の目が更に鋭くなる。
「何よ」
「いや。で、お前はどう思ってるんだ。今回の件」
「どうって……怪しいと思ってるわよ」
「だよなー」
男がまた紙に視線を落とした。そこには男女の居る近辺の大雑把な住所と『願いを叶える何かがある。危険。調査を願う』とだけ書かれていた。冗談の様な文面だ。
「大体このメールを送って来た奴は何がしたいんだ? そんな大層なもんがあるなら、自分で手に入れて自分で使えば良いじゃねえか」
「そうね。でも理由はいくつか考えられる」
男が試す様な笑いを浮かべて女を見た。
「例えば?」
「一つ目はその何かで願いを叶えるには、強力な魔力を持った人間が複数人必要な場合」
「成程。だからその強力な魔力を持った人間と多くの繋がりを持つ魔検にメールが来た訳だ」
「私の友達が所属している魔術結社にもメールが行ってるみたい。メールの送信者はとにかく人を集めたがってる」
「ふん。で、二つ目は?」
「願いを叶える何かがあるっていうのが、嘘の場合。嘘を吐いてどうしたいのかは、メールからは分からないけど」
男が紙の文面に目を走らせてから、また女に目をやる。
「まあ、願いを叶える何かがあるってだけじゃな。絞り込めねえな。パッと思いつくのだと、テロとかか? ここに人が集まって騒ぎが起こってる間に、警備が手薄になった別の場所をってな具合に」
「どうかな。それなら願いを叶える何かなんていう荒唐無稽な理由を付けないで、もっと現実的で警察なんかも信用する様な危機感を煽ると思うけど」
「問題はそこだ」
男が女の顔へ向けて人差し指を突きだした。女がそれを払い落とす。
「指差さないで。問題っていうのは?」
「明らかに冗談なんだよ。これ」
男が紙をひらひらと振る。
女が頷いた。
「そうね。でも」
「実際に俺とお前が派遣された。つまり魔検のお偉いさんは一分でも可能性があると思ってる。そう思う何かを掴んでいる」
「そうね」
「けど、俺もお前もそれを知らされていない」
「キナ臭い」
「そうだ」
男と女は角に行き着き右に曲がった。
「まあ、詮索しても仕方がねえけどよ」
「今の情報じゃこれ以上分かる訳無いしね」
「そう言う事だ」
角を曲がり切った男は女に尋ねた。
「で、他に気になる事は?」
「願いを叶えるってのが分かり易いのよね」
「どういう意味だよ。俺は分かり易い方が好きだね」
「何ていうか、狙ってくださいって言ってるみたい。ほらほらここにあるから取りに来いよって」
「つまり?」
「好餌を撒いて争い合わせようとしているんじゃないかって事」
「同士討ちしろって事か?」
男がにやりと笑った。
女はそれを無視して辺りを見回した。
「そう。こんな風に」
物陰も何も無いはずの路地から湧き出た様に突然人影が滲み出始めた。黒い忍び装束を着ていてその姿は輪郭が映るだけ、ただ人だとしか分からない。男と女は背中を合わせて敵に備える。
「そういや知ってるか?」
「何よ、この状況で」
「黒より柿色の方が闇に隠れるらしいぞ」
「はぁ?」
「つまりあいつ等は素人って事だ」
「あっそう。その寝言にどんな意味があるの?」
「手加減しろって事だよ」
男が両の袖から細長い針の様な短剣を取り出した。それと同じくして、女が懐から静粛を促す際に使う木槌を取り出した。
「とりあえず殺さなければ良いでしょ。動かない様に痛めつければ。幸い近くに大きな病院もあるみたいだし。『それではこれより開廷致します』」
女が左足を上げて右足だけで立つ。
その動きを合図に影達が男女へ襲い掛かった。
「それよりあんたこそ大丈夫でしょうね? あんたのは加減が利かないんだから」
「相手が素人だって分かったら一気にやる気なくなった。お前一人でやっといてくれよ」
影が男女に近接し拳を突きだす。男女はそれを避け、男が蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた影は後ろの陰達に当たって、全員倒れ伏し呻き始める。
女が呆れた様子でそれを眺めていると、男が欠伸をした。
「弱すぎ。めんどくせえ。さっさと終わらせるか」
男が双剣を水平に掲げ、真っ直ぐ影達へ突き付けた。実際に何かした訳ではないが、その一連の動きが常人であれば動けなくなる様な怖気を与える。だが、影達はまるで感じた様子も無く、男へ向かってきた。
男が笑う。
「その度胸だけは買ってやる。良いか、素人忍者共、『この世が如何に残酷か。その身を以って教えてやる』」
男はその言葉を終えるや否や、疾風の様に影達へ突っ込んだ。
十分後、倒れて呻く影達の間に立って、男女は顔を見合わせた。
「誰も殺さなかったか?」
「そっちはどうなのよ」
二人は辺りを見回して確認を図る。全員息も意識もありそうだ。
「それじゃあ情報を聞き出すか」
「連れ去る?」
「必要ねえよ。ちょっと痛めつければ吐くだろ。人払いよろしく」
男が女に向けて笑いかけた時、路地中に幾重もの鋭い絶叫が走った。影達が弓形にしなって叫んでいた。
男女が敵の攻撃かと辺りを見回し構える。次の瞬間、泡立つ様な音と共に全員の絶叫が途切れた。
全身を黒い布で覆う影達は一見、何の異常も見られないが、男女は辺りに強い血の匂いが漂い始めた事に気が付いた。経験から悟る。全員死んだのだと。
男は舌打ちをして、短剣をしまった。