道化師の悪夢
狂っている。
狂っていた。
頭の破裂した男は手を鳥の様に羽ばたかせ、往来にぶつかりながら何処かへと消えていった。ぶつかられた一人の女性は、猿の様な声を上げながら、近くで店の呼び込みをしている男性に掴みかかる。それをはやし立てる男達が手に手に箒を掲げて踊っている。別の場所では電柱に掴まってけたたましく笑う女が居る。それをしきりに眺めながら何やら画用紙に絵を書きなぐっている男が居る。他を見れば、裸になって抱き合う姿も見えた。嘔吐しながら転げまわっている者も居る。
狂っていた。
狂っている。
恐ろしくなって逃げようとした時に、横合いから腕を掴まれた。さっき頭を破裂させた男だった。男は無くなった頭に満面の笑みを浮かべて、優しげに語りかけてきた。頭が無いはずなのに、何故かそこに笑顔が見える。
「さあ、君も一緒に」
法子は悲鳴を上げて掴む手を振り剥がそうとするが、力が強く引き剥がせない。男は蛆の湧いた瑞々しい首の断面を法子に近付けてくる。
法子がもがく。男は放さない。
助けて。思わず法子は祈っていた。浮かんだのは、自分に語りかけてくれた刀の優しい声。助けてともう一度繰り返す。だがタマは反応しない。男の傷口が迫って来る。
その時ひしゃげる音が響いた。乾燥した木の枝を複数まとめて押しつぶしたような音だった。目の前の頭の無い男の頭に、一本の矢が突き立っていた。
次の瞬間に、世界がひび割れ、崩れ落ちる。気が付くとネオンの灯った繁華街。ただ通行人は居ない。その代わりに道路には沢山の人が倒れている。そして法子の目の前にピエロが立っていた。頭には矢が突き立っている。
「ひひ、僕の邪魔をするのはだあれ?」
ピエロが奇妙にねじくれた動きで横手を見上げた。法子の視線もそれに釣られる。
ビルの上に誰かが立っていた。良く見えないが、人の様だ。黒い姿が闇夜に滲んで、おぼろげにしかその姿を把握できない。
その人影が消えた。法子がビルの上の人影を見失った瞬間、法子の体に衝撃が走った。続いて宙に浮く心地がして、気が付くと元居た場所から遠く離れていた。遠くにピエロが見える。訳が分からない。足がつかずに混乱した。
「大丈夫か?」
法子へ優しい声がかけられる。その声の出所は法子のすぐ前にあった。法子に技を教えた漆黒の騎士が法子を抱きかかえて西洋兜の合間から見える口元を微笑させていた。ようやく抱き抱えられている事に気が付いた。
「大丈夫……です」
熱に浮かされた様にはっきりしない頭で、法子はそれだけ答えた。
騎士は頷くと、法子を地面に下ろして呟いた。
「危ないからそこから動くな」
剣を構えてピエロへと向く。ピエロが腹を抱えて笑いながら、近くに転がる人間を蹴り上げた。その瞬間、騎士が消えた。
ピエロが宙に浮かぶ。一拍遅れて、ピエロが居た場所に、剣を振り切った騎士が現れ、大きな破裂音がした。
それが、剣で切ろうとした騎士と回避したピエロの一瞬の攻防だったと法子が気付いた時には、ピエロは近くのビルの中へと逃げ込み、騎士もそれを追って消えていた。
ビルの奥から笑い声と金属音と爆発音が断続的に聞こえてくる。しばらくしてビルの窓という窓から何かが流れ出てきた。血だ。鉄錆の匂いが外にまで充満する。
やがてビルの内部が光り輝き、しばらくしてから騎士が飛び出してきた。そうして法子の前に着地する。
「とりあえずあの魔物は帰した」
騎士がそう言った。法子は安堵して騎士を見上げた。人と面と向かえない法子だが、兜に隠れて目が見えないからか、平気でその顔を見る事が出来た。
「で、何で君はここに居るんだ?」
突然、騎士がそんな事を言った。法子はその意図が読み取れずに何とも答えられない。
「君はまだ学生だろう? 夜にこんな所に来たら危ない。早く帰……りなさい」
心配してくれてるんだ。厳めしい鎧を着たまるで物語に出てきそうな騎士が、そんな素敵な存在が、自分なんていう惨めな存在を心配してくれていると思うと、法子はそのちぐはぐさがおかしくて、そして嬉しかった。
「はい、帰ります。どうせ用事なんかなかったから」
「ならどうして」
「それはアウトレットに行こうとしたけど、どう行けば良いか分からなかったから、とりあえずここに」
高揚した気分の所為でそこまで言ってしまってから、自分がとても恥ずかしい事を言っている事に気が付いて法子は口を噤んだ。
笑われるかなと思った。けれど騎士は微笑を崩さず、そうかとだけ言って法子に背を向けた。
「とにかく早く帰った方が良い。じきに皆起きて混乱するだろうから」
その言葉を残して、騎士が闇夜に消えた。
法子が空を見上げていると、辺りからうめき声が聞こえてきた。確かに騎士が言った通りの様だ。混乱する前にと、法子は急いでその場を離れた。
家への帰り道、法子はぼんやりと空を見上げながら、騎士に助けられた事を思い出していた。カッコ良かった。悪党から人々を守るヒーロー、まさしく法子がなりたい理想の姿だ。
あんな風になれたら良いなと思った。その為にどうすれば良いのかは分からない。けれど何となく具体的な目標が見つかって、法子は満足していた。いっそあの騎士に弟子入りしようかと考える。
人を守るヒーロー。誰かが危険な目に遭っていたら、真っ先に駆けつけて守ってあげる。数あるヒーロー像の内の最も単純で最も普遍的な姿だ。けれどその見飽きたヒーロー像が今の法子にはとても新鮮に感じられた。心の底に確かに灯る英雄の形が出来た。
次の朝、昨日の事がニュースでやっていた。意識の混濁や怪我等の軽症者が多数に、重傷者が幾らか。最近の魔物の事件ではかなり大規模な被害だったと告げている。魔物の出現は加速度的に増加するので一帯に住む人々は注意するよう呼びかけている。
そんな大事件だったのかと今更ながらに恐ろしくなった。だが法子の顔はにやついてしまう。騎士に助けられた事と明確なヒーロー像が浮かんだ事を思い出して。
準備をして外に出ると、寒さが昨日よりも一段と強まっていた。寒さに体を縮こまらせると、さっきの嬉しさは何処へやら法子は今日の事を思って憂鬱な気持ちになる。
クラスの出し物における法子の役割は裏方だ。料理を作ったり配膳したり。外に出て接客をするウェイターやウェイトレスに比べれば随分マシだが、それでも自分に務まるとは思えなかった。何なら良かったのかと言われても、出来ると思える事は何も無く、結局の所、文化祭に参加する事自体が嫌なのだ。
そして仕事以上に自由時間が問題だった。友達が居ないので文化祭を楽しむという選択は難しい。文化祭の賑やかな雰囲気の中をたった一人でうろつくというのは、自分の孤独な惨めさが際立って、想像するだけで吐き気がした。ましてその様子をクラスの誰かに見られる可能性が非常に高い。その事を種に笑われると考えると地獄以外の何物でもない。何処かに隠れようかと考えたけれど、何処に隠れて良いのか分からない。多分何処にも人は居るだろう。出入りが多いから学外に逃げてはどうか。けれど皆が学校で文化祭を楽しんでいる時に、外でさぼっているのも気が引ける。。
どうすれば良いか。法子の今日の当番は正午から。つまり文化祭開始と同時に暇という災厄が降ってかかる事になる。時間は無い。どうにか身の振りを考えなくちゃと法子は無闇に気合を入れた。
「駄目だった」
「やっぱりねぇ。代わってもらおうなんて無茶だよ」
「今日になって時間変更するのはきついでしょ。みんな色々約束があるだろうから」
「分かってるよ! でも、もしかしたらって思ってさ」
「ま、諦めなよ。わざわざ法子さんと一緒の時間にしなくたって、三交代の内の二つが自由時間なんだから、結局三時間は自由時間が被るでしょ? だからその時にさ」
「駄目。きっと法子さん、もう片方の三時間がすごく寂しいと思うもん」
「法子さんていつも一人ですし、あまりそういうの感じないんじゃないですか?」
「そんな事無いよ。いつも寂しそうだし。昨日だって文化祭嫌そうだったし。やっぱり文化祭は誰かと一緒に回らないと楽しくないもん」
「幾らなんでも余計なおせっかいだと思うけどなぁ」
「それでも良いよ。私は私が嫌だから、法子さんを一人にしたくないんだもん。自分勝手に法子さんと一緒になりたいの」
「別に良いけど、何かその言い方いやらしいな」
「こっちは真剣なの!」
「分かった分かった。何でそんなに入れ込んでるのか分からないけど、摩子の為にお姉さんが一肌抜いてござんしょう」
「どうするの?」
「代わってやるよ。朝からだから」
「代わるも何も私と同じ時間でしょ?」
「そうじゃなくて、私と法子さんが代われば、法子さんがお前と一緒の時間になるだろ」
「あ、そっか」
「法子さんは多分他の人と約束とか無いだろうし、時間が変わっても大丈夫だろうから」
「分かんないけど、法子さんに伝えてみる」
「頑張りな、お節介な摩子さん。それから後で何か奢れよ?」
「任せて!」
法子が装飾された教室のドアを開けると、駆け寄ってくる人影があった。勿論自分に用事がある人なんて居ないので、法子が身を引いて道を譲ろうとすると、あろう事か目の前に立ち止まり満面の笑みを浮かべてきた。
「おはよう!」
法子は突然の事に訳が分からず何も考えられなくなる。クラスの人が自分に話しかけてくるなんてありえない。あまりの事に法子は挨拶すらも返せない、
「あのさ、ちょっと法子さんにお願いがあるんだけど良い」
法子が首を傾げる。その首を傾げるという行為が相手の言葉に対する反応なのか、緊張した体が痙攣した結果なのか、法子自身にも分からない。
「法子さん、12時から3時までキッチンだったでしょ? でも変更して欲しいの。9時から12時までホールに。良い?」
法子が頷く。
法子にとって相手のお願いを断る事は相手にいずれ復讐されるという事であり、そんな事は御免なので、承諾しないという選択肢は無い。だから無意識の内に頷いていた。
「良かった! じゃあ、私も同じ時間だからよろしくね」
そう言って、駆け寄って来た生徒は忙しそうに何処かへ行ってから、今のやり取りが非常に重たいものだと気が付いた。
つまり自分に接客をやれという訳だ。でも、自分が接客なんか出来る訳が無い。不可能だ。まともに人と喋れないのに、どうして接客なんて出来るだろう。法子に悪意を持つ者が、きっと務まらないであろう接客役にわざと据えたに違いない。しかも一番早い時間にして、心の準備も何もさせない様に。
一瞬視界が暗く陰った。倒れそうになった体を踏ん張って支えながら、法子は泣き出したいのを堪えて、キッチンに入る。シフトを確認すると、自分の名前が書き直されて、朝のホールになっていた。絶望の表情を浮かべた法子は空っぽの頭で、キッチンとホールを隔てるカーテンを潜った。教室の中は机と椅子が整然と並べられている。生徒達が思い思いの場所に座り、立ち、だらけた調子や高揚した様子で文化祭の始まりを待っている。
法子はその間を通り、教室の外へと向かう。目的は無い。一人になりたかった。だが外に出る為の引き戸に生徒が数人、まるで塞ぐ様にして立ち話をしていた。以前法子の事を大声で批判していた者達だった。法子は途方に暮れて、立ち止まる。
その時、教室の戸が開かれた。
登校時間で出入りの多い今、誰もそんな事気にしない。目もくれない。戸の前に立っていた者達と戸を見ていた法子だけがそれを見た。
ピエロが立っていた。それはまさしくピエロ。何処からどう見てもピエロ。そして、昨日大量の負傷者を出したピエロの魔物と同じ姿をしていた。
昨日の事を思い出して法子はすくみあがる。逃げる事も、周囲に避難を促す事も、魔物に立ち向かう事も出来ずに、法子はただその場ですくみ上って動けなかった。
一方で扉の前に立っていた生徒達は入って来たピエロを見て、文化祭の出し物だと思った様で、おかしそうに笑いながらピエロの事を取り巻いた。
「笑うな」
甲高い声が響く。ピエロの言葉だった。その言葉を聞いた周りの生徒達は更に大きな笑いを響かせた。
次の瞬間、ピエロの前に立っていた一人が吹き飛んだ。ガラス窓に激突して突き破り、ベランダに飛び出した。ピエロが生徒の腹を殴り飛ばした所為だった。
唐突な非日常に、教室中のざわめきが止まる。ピエロの周りに集っていた生徒達が後ずさりをし始めた。客席側に居る生徒達がピエロに視線を送り始めた。キッチン側の生徒達が物音を聞き付け、客席側を覗き始めた。
そして悲鳴があがった。波が引く様に教室から人が消えていく。最後の最後に法子が、客席とキッチンを区切るカーテンを急いでくぐる。
カーテンをくぐる瞬間、背後を振り返ると、ピエロは法子の事など気にせずに、ベランダに倒れた生徒へ近付いていくところだった。きっと酷い事をしようとしている。きっと酷い事になる。
怖かった。見ていられなかった。
法子は振り切る様にして廊下に通じる扉を目指す教室にはもう誰も居ない。みんな逃げてしまっている。
法子が急いで戸に向かおうとした時、甲高い金属音が響いた。音の出所は足元で、見れば刀の形をしたブレスレットが落ちていた。紐が切れて手首から落ちたのだ。だがそんな事に構っていられない。今は何よりも逃げる事が優先だ。ブレスレットは後で取りに来ればいい。
ふと頭の中に英雄という言葉が閃いた。法子の足が止まる。逃げなくちゃと頭の中で繰り返しながら、体だけは無意識の内に立ち止まっていた。
背後から何かを引きずる音がする。きっとピエロが生徒を引きずっている。それが分かって、法子の中に言いようのない焦りが湧く。英雄という言葉が更に強く頭の中に響いた。
そして法子の足が動く。
教室の外へ向けて、法子は再び走り出した。今の自分に何が出来る? 何も出来ない。助けに行っても返り討ちに遭うだけだ。二人共死んでしまう位なら、一人だけでも生き残った方が良い。誰だって同じ様にするはずだ。だから、だから逃げても悪くない。法子はそう心の中で念じながら、背後の物音を聞かない様に必要以上に足音を立てて、教室の外へと逃げ出した。