目と目をつきあわせて考えよう
「へえ、あれが魔物かぁ」
弟が背伸びをして遠くの魔物を眺めながら、酷く気楽な様子で呟いた。
獅子の頭に、人よりも二回り大きい筋肉質な肉体、両手両足には鋭く長い爪が生え、如何にも危険な様子を漂わせている。唸り声を張り上げながら、敵意を漲らせて、辺りを睨みまわしている。
魔物の周りには囲む様にして沢山の人が集っている。遠巻きにして眺めている。何処か不安そうに、されど楽しそうに、猛る魔物を囲み、ある者は語らい、ある者は感嘆し、ある者は写真を撮り、ある者は笑っている。余裕に満ちた顔で不安げに楽しそうに魔物を眺めている。
そんな群衆を見ながら法子は呟いた。
「あいつ等、馬鹿じゃない? 危ないのに」
それは孤独な法子が良くやる、何の気兼ねも無い、誰に聞かれるともない呟きだったが、悲しい事に今日は久しぶりに家族以外の人間が近くにいた。
言ってから数瞬経って、初めて自分が暴言を吐いた事に気が付いて法子は身を固くする。法子の目が恐る恐る将刀に向くと、それを待っていたかのように将刀が笑った。
「じゃあ、弟を連れてあんたも逃げれば良いんじゃないか?」
その皮肉気な言葉に苛立って法子は顔を背けた。先程ちょっと良いなと思ったらこれだ。侮蔑の籠った言葉は法子にとって馴染みの言葉である。けれどいつまで経っても慣れる事は無い。恥ずかしさと悔しさの混じり合ったひたすら不快な思いが胸に湧く。やっぱり私は人と関わるのは嫌いだ。そう思って不満げな顔で俯いた。
一方、将刀はほんの軽い気持ちの言葉が何だか法子を気落ちさせてしまった事に気が付いて当惑した。
二人が押し黙る。傍から見ていた弟は、空気の悪くなった二人の間を取り持とうとして、明るい声を掛けた。
「なあ、もっと近くであの魔物を見ようよ」
その途端に二人は顔を険しくさせて諌めの言葉を吐く。
「駄目! 危ないって言ったでしょ」
「駄目だ。危険すぎる」
息の合う二人に、弟は微笑して、尚も明るい調子で言った。
「そんな事言ってもここだって十分危ないよ。だったら早く逃げようぜ」
弟としては二人を連れだして、後は自分がはぐれるなり何なりして、二人っきりにしてしまおうという作戦だったのだが、
「え? ……っと」
法子は気乗りがしない様で言い淀む。
法子は迷った。確かに危ない。二人には逃げてもらう必要がある。だが自分まで逃げてしまっては闘う事が出来ない。とはいえ、自分だけ残るとも言い辛い。
「ねえ、タマちゃんどうしよう」
タマに頼って尋ねると、タマは少し考える気配を見せてから、答えた。
「はぐれれば良いんじゃない?」
「はぐれる?」
「だから一緒に逃げるふりをして途中で抜け出せば良いんじゃないかな?」
「そっか。それもそうだね。流石タマちゃん!」
「ちょっとは自分で考えなさいな」
頭の中で会議を終えた法子は、途端に笑顔を二人に向ける。
「分かった。じゃあ逃げよう」
気乗りのしない様子だった法子が突然笑顔になった事で、二人は不審がり、特に弟の方は久方ぶりに見た姉のあまりにも晴れやかな表情に気持ち悪さを感じた。硬直している二人を置いて、法子は早速土手の上へと上がる。遅れる二人は一瞬顔を見合わせてから、法子の後を追った。
土手の上にも沢山の観客が居た。こちらの観客達はあからさまに余裕の表情を浮かべている。
法子は何となくそれらの顔が鼻についたが、それよりもはぐれる事の方が大事だと、機を見計らう為に集中し始めた。
一方で弟の方は法子と将刀のちょっと後ろを歩きながら、自分がはぐれる事で法子と将刀を二人っきりにする機会を窺っていた。それはすぐにやって来て、人口密度の高い場所に差し掛かった拍子に、弟は勢いよく別方向へと駆け出した。人にぶつかるのも構わずに駆け抜けて、しばらく経ってから振り返る。二人が一緒に歩いている所を見たかったのだが、視線の先には乱雑に立ち並ぶ人だかりだけで、姉と兄予定の姿は見えなかった。
「ま、いっか。上手くやってくれよ、姉ちゃん」
弟がそう呟いた時、全く別の場所で法子もまたはぐれていた。
「もう無理。もう走れない」
「うん、もう止まって大丈夫」
タマの言葉を合図に立ち止まった法子は、肩で荒く息をしながら、上手くいった事にほくそ笑んだ。丁度、人だかりの多い場所に差し掛かったのは運が良かった。弟の事が少し気になるが、将刀がきっと家まで送り届けてくれるだろう。そんな事を考えて、安堵すると、まだ息も整わぬうちに、タマへと尋ねかけた。
「それじゃあ、早速変身しよう」
「それは良いけど。良いのかい?」
タマが尋ね返してきた。法子にはその意味が分からない。
「何が?」
「辺りに結構な数の人が居るけど、魔法少女だってばれて良いのかい? 流石に変身するところを見られたら正体がばれるよ」
「あ」
法子が辺りを見回すと、確かに多くの群衆が居る。そのほとんどが魔物を見つめて、目を逸らす様子は無いが、中には別の場所を向いている者も居るし、いつなんどき注目されるか分からない。
「どうしよう。ばれたら恥ずかしいよ」
「自分で考えなって」
「でも」
法子はまた辺りを見たが、人目を阻めそうな、変身に適した場所は無い。
「どうしよう。人に見られない場所なんて無いよ」
「いやいや、あそこに丁度良い建物があるだろう」
タマの意志に促されてそちらを見ると、確かに小さな建物がある。だが法子はその建物をあえて無視していた。
「やだよ、あれトイレだもん」
「ああ、そうなのか。でも別に良いじゃないか」
「いーやー。汚い!」
「そんなに汚く見えないよ。うん、大丈夫」
「トイレで変身する魔法少女なんて嫌!」
「そんな事を言ったって他に無いだろう。減るものでもないし大丈夫」
「プライドが減る!」
「文句があるなら代案を出してくれ」
「うう。でもさ、例えば私がトイレに入って、その後に変身した私が出てきたら、それを見ていた人にばれちゃうかもよ?」
「その点は安心してくれよ。前にも言ったけれど、変身さえすればばれる事は無い。もっと言えば、変身する所さえ見られなければ、例えどんなに怪しい状況だろうと変身前と変身後が結び付けられる事は無い」
「むう」
遂に退路は極まって、法子は渋々と言った様子でトイレへと歩み始めた。
「魔法少女がトイレ……か」
「嫌なら魔法少女を止めるかい?」
「やだ。続ける」
法子がトイレに入って十数秒、トイレの中から魔法少女が現れた。突然の魔法少女の出現に人々は好奇と期待の視線をその魔法少女へと注ぐ。沢山の視線に晒された魔法少女の表情は晴れやかな笑顔だったが、少しだけ悲しげだった。
法子が恰好を付けて跳び上がり、人々の頭を越えて再び魔物の居るコートへ戻ると、事態は全く変化していなかった。
相変わらず魔物は唸り声を上げるだけ。観客達は楽しそうにそれを取り巻き、写真を撮っている。凄惨な様子はまるで無い。
「何だかほのぼのしているんだけど」
「そうだね」
「襲ったりとかしないの? あの魔物」
「まあ、魔物の考えは一つじゃないからね。あいつは別に人を襲おうと考えている訳じゃないんじゃないかな?」
法子の表情に微かに困惑が浮かぶ。
「じゃあ、良い奴なの?」
「良いも悪いも無いけれど。何にせよ、魔物は追い返さなくちゃいけない。前にも言っただろ? 魔物って言うのは居るだけで場を汚染するんだ」
「そういえば言ってたね」
「これ位、魔術に携わる者なら知ってて当然だと思うんだがね」
「だって学校で習ってないもん」
溜息を吐いたタマを無視して、法子は刀を抜いた。周囲からおおという歓声が上がる。
ちょっと気分を良くした法子をタマがたしなめる。
「気を付けろよ法子。あれは魔導師だ。どうやらこの辺りは大分汚染が進んでいたらしい」
「魔導師って、魔物が沢山出ると現れるっていう? 強いの?」
「少なくとも普通の魔物よりは。周囲の汚染された魔力を吸い上げるから、魔力の量は桁違い。前に黒い塊と戦っただろ? あれよりも強い」
「そっか。一筋縄じゃいかないんだ」
「ああ、けど今は出現したばかりでまだまともに動けないはずだ。だから倒すなら今」
「そうなんだ。じゃあ」
「その前に、とりあえず君の力で解析してみたらどうかな? それで大体分かるだろう」
促されて法子は魔物を見た。敵として認識する事で、解析が始まる。
『ウォークキャット
魔界のキュートな子猫。今流行のレトロなガーリースタイルは女の子必見。
ちょっと長いこの爪で遠恋中の彼のハートを引き裂いちゃいます。
Style:ガーリー&キュート
性格:おちゃめ
彼氏:遠距離恋愛中
基本:正統派女の子』
解析が終わった法子は呆然とした。
「何これ?」
「いや、そう言われても」
「意味は分かるけど、意味わかんないよ。っていうか、女の子なの? あれ」
「それはそうだろ。法子は異種族の性別はあまり分からないのか?」
「分かんないけど。それより今のは何? また妨害されたの?」
「中途半端に妨害されたんだろう。前の魔法少女みたいに滅茶苦茶な情報にならなかったって事は、恐らく君よりやや格下の実力なんだろうな」
その言葉で法子の顔が輝いた。
「じゃあ、あいつ私より弱いの?」
「ああ」
「よっし! そうと決まれば」
法子は刀を腰に据えてウォークキャットへと向かう。
「あ、おい、ちょっと待て」
諌めようとするタマの言葉も聞かずに法子は走る。
ウォークキャットは腕をだらりと下げて、尚も雄叫びを上げている。法子を見る様子すら無い。
行ける。と確信した法子は刀を力強く握り、ウォークキャットの目前で力強く大地を踏み締め、その刃に魔力を通して、ウォークキャットの胴を目掛けて振った。ウォークキャットの胸に傷が入り、血が流れ出る。
法子は様子を見る為に一度後ろへ跳んだ。
ウォークキャットは胸から血を流しているのに、まるで気が付いていない様子で突っ立っている。完全に隙だらけだった。
これなら行ける。
ふと弱い者いじめという言葉が頭に浮かんだが、法子はそれを否定して、けれど出来るだけ傷付けない様にしてあげようと誓って、また刀を構え、跳びかかる体勢に入った。
その時、周囲から歓声が湧いた。
どうやら法子とウォークキャットの戦いを面白がっているらしい。呆れる思いだったが、悪い気はしなかった。今、自分はみんなから尊敬される英雄になっている。何だか心が浮き上がる心地だった。思わず手を振っていた。更に歓声が高まる。浮かれているのが自分でも良く分かった。
これがヒーローなんだ。
周囲から応援の声が聞こえてくる。何だか夢を見ている様な気分だった。初めて人の為に何かをしている。初めてみんなから期待されている。初めてみんなに認めてもらっている。
嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
「いつまで浮かれているんだい?」
タマの言葉が頭に響く。
「分かってるよ」
興を削がれて少し不機嫌になりながらも、腰を落として刀を構え直した。刀を握る手が緊張で震えていた。みんなから期待されている。是が非でも無様なところは見せられない。そう思うと、妙に力が入ってしまう。敵はほとんど動かない。だったらそう緊張する必要は無い。そう思うのだけれど、失敗できないと思うと変に手元が狂いそうで怖かった。
また応援が聞こえてくる。
これ以上棒立ちしているのも、期待に背いている様で、法子は急かされる様に駆け出した。
ウォークキャットの目の前に迫る。そして再び刀を振るい、
「防げ!」
タマの思念に反応して法子は咄嗟に刀を止めた。刹那、巨大な衝撃を受けて法子は跳ね飛ばされた。
攻撃された。
着地した法子は理解して戦慄する。法子がウォークキャットの目前に迫った瞬間に、ウォークキャットが垂れ下げていた腕を振り上げて法子を跳ね飛ばしたのだ。体よりも先に、刀に当たったお蔭で飛ばされるだけで済んだが、そうで無ければ爪によって切り裂かれていた。
「大丈夫か?」
タマの言葉に法子は頷いた。
再び周囲から喝采が湧いた。法子は自分に注目が集まる事を嬉しく思う反面、危険な戦いなのに楽しむ観客を忌々しく思った。たったの一撃でさっきまでの余裕が消え去っていた。
法子が苛々としていると、頭の中にタマの小言が響いた。
「あのな、戦いの最中なんだ。相手が攻撃してこないなんて思い込むな」
「分かってるよ、そんな事」
法子はタマの諫言に不機嫌な調子で答える。
「分かっているなら良いんだけどね。それでどうするんだい?」
「どうすれば良いの?」
法子が更に不機嫌な調子になって尋ね返した。
「は?」
タマが唖然とする。
「私は戦いの事なんて分からないもん。タマちゃんの方が詳しいでしょ? どうすれば良いの?」
「いや、もっと自分で考えてくれよ」
「分かんないよ。良いから教えてよ。どうすれば良いの?」
タマは一度溜息を吐いて、
「甘やかしすぎたかな」
沈んだ調子で答えた。
「良いかい? 今度だけだよ」
「はいはい」
「まあ、見た所、相手は接近戦が得意みたいだ」
タマがそう言った途端、ウォークキャットが腕を振り上げた。タマの言葉が止まる。
続いて、ウォークキャットは腕を振り下ろした。タマが怒鳴る。
「避けろ! とにかくこの場から離れろ!」
タマの叫び声に、一拍遅れて法子はその場から飛びのいた。途端に、法子が一瞬前に居た場所がひずんだ。何も無い空間に爪痕状のひびが入り、まるでガラスでも割れるみたいにはじけ割れた。
「何? 今の」
「おそらくあの魔物の能力、というか技だろうね。離れた空間に自分の爪を届かせるんだ」
ウォークキャットがまた腕を振り上げた。法子は狙いを定めさせない様に動き回りながら反撃の機会を窺う。
「それで? 向こうは接近戦だけじゃなかったみたいだけど」
「ああ、そうみたいだね」
「どうすれば良いの」
「はあ、ホントちょっとは自分で考えてくれないかな」
「良いから」
「君さ、昨日覚えた事も忘れたの?」
「昨日? あ」
昨日教わった遠距離まで届く剣撃。確かにあれを使えば近寄る事無く相手を切り裂ける。
「でも相手も同じ様な事やって来るけど勝てるかな」
「実力は君の方が上なんだ。同じ事をすれば勝てる」
「そっか」
法子は笑って刀身に魔力を込め始めた。新技のお披露目だ。出来れば派手に、カッコ良く決めたい。そう、漫画で良くある様に見開きの大ゴマを使う位のど派手さで。
「良いかい? 狙いは正確に。辺りには人が居る。絶対に当てちゃいけない」
「分かってる。一昨日たくさん練習したもん。はずさないよ」
法子は尚も笑って魔力を込め続ける。だがほんの僅かに緊張がよぎった。当てる自信はある。はずすとは思えない。けれど失敗してはいけないと思うと、何だか薄ら寒い気持ちになった。
法子は走り回り、跳び回りながら機を窺う。しばらくして狙いをつけ損ねたウォークキャットの腕が止まった。好機と見た法子は込めた魔力を斬撃に換えて、ウォークキャットへと打ち放つ。
ウォークキャットに横一文字の筋が入る。遅れてウォークキャットは完全に切り裂かれ、胸と腹が分かたれ、体の右端が辛うじて繋がっているだけとなった。ウォークキャットの体はずれ落ちながらゆっくりと倒れていく。
「やった!」
「良い訳あるか!」
法子の喜びに、タマの怒鳴り声が被さった。
「な、何で?」
困惑する法子の視線の先で、ウォークキャットはゆっくりと倒れ伏す。倒れた瞬間に土埃が舞い。すぐに風に運ばれていく。土埃が消えた向こう、血を噴き出して倒れるウォークキャットの向こうに、観客が居る。
「強く打ち過ぎだ、馬鹿者」
観客の中に子供が居る。血を流して倒れている子供が居る。
「あ」
倒れた子供の血だまりはどんどんと広がっていく。泣き声が聞こえる。母親らしき人物が泣きながら子供の傍らに座って何かを叫んでいる。周りの人々が子供の元へ集まっていく。
やがて子供は担架に乗せられた。緊張した空気の中、群衆が割れて、子供は輪の外へと運ばれていく。まだ救急車は来ていない。どこかで応急処置をするのだろう。
運ばれていく子供の傍を母親が泣きながらついていく。そのまま子供と共に群衆の向こうに消えるのかと思いきや、ふと母親が顔を上げて法子の事を見た。燃える様な目付きだった。怒りと悲しみと悔しさと恨みの籠った母親の痛々しい視線に晒されて法子は思わず目を逸らした。
逸らした先の観客達もじっと法子の事を見つめていた。
視線を逸らす、そこにもまた目が。目が。目が。目が。沢山の目が法子の事をじっと見つめていた。