平易な文章とは何か
よく『平易な文章で書きなさい』みたいに言われることがあると思う。
漢字にルビを振るにしても、『小学校五年生が読めることを規準にしなさい』と聞いたことがある。
スルスルと読めて、サラサラと忘れられて、読み終えたらゴミ箱に捨てられるような小説が、『平易な文章で書かれた小説』なのだろうか?
某所で『平易な文章タヒね』みたいな主張を見かけた。たぶん、私がそちらで書いた『大したこともない内容をわざわざ難解な文章で書くのはかえってバカっぽい』という意見に対する反論だと思う。難解なことばで書かれていたので理解はできていないし、ほんとうに私への反論なのかどうかもわからないので、返答代わりにエッセイにしてみる。
平易な文章とは何か?
AIさんに聞いたところ、『やさしい、かんたん、わかりやすいの三拍子が揃っている、つまり読みやすい文章です』との答えが返ってきた。
その代表が『童話』であろう。
童話は幼い子どもでも理解できるように、『やさしい、かんたん、わかりやすい』ことばで書かれているのがふつうだ。
『平易な文章タヒね』のひとは、おそらく童話が嫌いだ。童話みたいにやさしいことばばかりで書かれた小説なんかも嫌いなのだろう。それはたぶん、『書き手が読者を見下している』感じがするからではないかと推察してみる。
そうすると、私もそれに同意である。
私は基本的に童話が嫌いなのだ。中には名作認定しているようなものもあるが、大抵の童話は読んでいて『子どもをバカにするな』と感じてしまう。なんというか、大人が子どもを『やさしい世界』に洗脳しようとしているような、いわば『教育っぽさ』を感じてしまうのである。産経新聞の『朝の詩』に掲載されるような詩も嫌いだ。こちらは大人が子どもを洗脳しようとしているというより、とっくに洗脳されたひとが書いているような匂いを感じる。
さてそれでは逆の、『難解な文章』とは何であろうか?
コチラもAIさんに聞いてみると、次のように返答された。
『文法的に間違っていなくても、読み手にとって分かりにくい文章には次のような原因があります。
①専門用語の多用:日常的に使わない難しい言葉や業界用語が説明なしに出る。
②一文が長い:一文の中に多くの情報や修飾語が詰め込まれ、話の主旨が見えにくくなる。
③主語や指示語の省略:誰が・何について話しているのか分かりにくい。
④表現の不統一:同じ意味なのに、違う言葉に言い換えられて混乱する。』
①以外は『文章が下手だからこその難解』といえるかもしれない。
しかし②は、たとえば野坂昭如さまなどは、一文がめちゃめちゃ長い。文庫本で五行くらいずっと一文なこともよくある。③は私がわざとよくやるし、④はキルケゴールさんの『死に至る病』の書き出しなんて、まさにそれだ。いや正確にいえば逆で、『同じ言葉なのに違う意味で使われる』のであるが──
この中で難解といえるのはキルケゴールさんだけのような気がする。そして私はともかくとして、野坂昭如さまやキルケゴールさんの文章が下手だとは思えない。
ちなみに『平易な文章タヒね』のひとの文章が難解だったと先に書いたが、それはまさに『自分にだけわかる術語を使い』、『短く区切れるところも続けて長い一文にし』、『私に対する反論なのかもよくわからなかった』からである。④はおそらくなかった。
ちなみに④は私がよくやる。一文の中にシニフィエの異なるシニフィアンを入れたりする。ちなみにこの文章はソシュールの術語を使ったので、①ということになる。
いつものように何が言いたいのかよくわからないエッセイになってきたので、まとめることにする。まとまればだが。
難解な文章も私は嫌いである。
簡単なことをわざわざ難しく書いてあると、『もっとわかりやすく!щ(゜д゜щ)』と思ってしまう。ネットの文章に慣れているためか、『三行で説明して!』と叫ぶこともよくある。難解というのは人によっても変わるもので、説明書などは私にとっていつも難解だ。すべて読み通すことはまずない。『炊飯器の使い方』など、できれば説明書なんて読まなくてもサクッと使えてほしいところだ。まぁ、読む者に無駄な労力を強いるのが『難解な文章』といえるであろう。
では、私が好きなのは、その中間なのであろうか?
適度に、読者をバカにしない範囲で『平易』であり、そして読み応えがあるがゆえにめんどくさい書き方がしてあっても読み通せて、読後になんか重たいものが残る感じの、いわば適度な『難解』が私は好きなのであろうか? なんか話が客観的なところから私の好き・嫌いに移ってしまった感はあるが……
結論──
そんな単純なものではない!
平易なことばで書かれたものは童話に限らない。(そして前述したように、嫌いなはずの童話の中にも私的名作はいくつもある)
武者小路実篤さまの小説は読んだことないが、詩ならよく読んだ。
めっちゃ平易である。
そのへんのおじさんが書いたのかと思えるほどだ。
そしてそれが歴史的名作として今に残っている。
谷川俊太郎先生の詩は平易なことばで書かれている。
ひらがなばかりで書かれることも多い。
それでいて宇宙的ともいえる深みをその底に湛えている。
平易なことばで書かれた名作といえば、私はいつも吉野弘さまの『I was born』を挙げる。まるで掌編小説のような詩だ。
何ということもない父と息子の会話の中に、息子のお年頃的な悩み、父の母親に対する愛、蜉蝣の悲哀、あるいは私が気づいていないようなものがずっしりと詰め込まれ、平易なことばなので誰にでも『ことばの意味』はわかるように書かれている。その意味はことばを離れ、人間を超えて広がっていく。
ふー……。まとまらない。
難解な文章にも私が大好きなものはいくらでもある。
先に挙げたキルケゴールさん『死に至る病』の書き出しなんて最たるものだ。まぁ、そのあとを読み進めようとして私は挫折したが……
難解にも色々な種類がある。ネット詩のサイトでは『難解っぽく書けばいいんだ』みたいな詩と、先に挙げた産経新聞『朝の詩』みたいに洗脳された感じの作品が多い。
しかし何が書いてあるのかさっぱり意味はわからないけど眺めているだけで面白いみたいな詩を書く方も少数ながらいらっしゃった。
プロでそういう詩を書く代表選手といえば、吉増剛造さまであろう。私が現在生きているひとの中でもっとも神だと崇める作者さまである。その作品は意味がわからないが、意味がわからないからこそ、意味などどうでもいい宇宙空間のような場所へ私を投げ出してくれる。ため息が漏れ、『生きてるって素晴らしい』とさえ思わせてくれる。
ニーチェ『ツァラトゥストラ』なども難解だとよくいわれる。あれは最初から最後まですべて暗喩で描かれているがゆえに難解なのである。私も最初読んだ時は「なんだこれ」「なんか知らんけど大袈裟な感じが面白い」としか思わなかった。しかし数々の暗喩が表すものを自分なりに読み解いた時、激しい雷が頭の上に「ピッシャアーン!」と落ちてきた。そしてその読み解くものが人によって違う。そんな書き方をされている。もちろん私はドイツ語がわからないので訳者の氷上英廣さまの仕事であるが。暗喩で書かれる理由は読者がそれを自分自身の身体で体験するためである。そしてニーチェお得意のパースペクティヴィズムによって、視点を変えるだけで違った景色が見えるように描かれている。ツァラトゥストラはこう言いたいのだ、『考えるな、体験しろ』と!
ふー……
このように──
私は論文を書くのが苦手だ。主旨をまとめられず、あれもこれもと頭に浮かんだことをぜんぶ書こうとしてしまう。
リンゴを文章で描くのも苦手だ。上からも下からも、中身の色とか味とか、四次元的なリンゴまでぜんぶいっぺんに描こうとして、リンゴではないものになってしまう。
ゆえに『なんか丸すぎるリンゴ』などと、平易な書き方をするようにしている。
他人の言葉に接して、その言葉を書いたひとと同じリンゴを頭に浮かべるなんてことは不可能であるからには、それでいいのだと思っている。
『平易な文章』にも色々ある。先に『洗脳済みのひとが書く文章』なんて乱暴な書き方をしたが、たとえば『愛』という言葉にみんなが同じ『愛』を思い浮かべるのなら、それが一番手っ取り早いのである。産経新聞『朝の詩』は長いこと茨木のり子さまが選者を務められていたが、私の大好きな詩人であった。私にはたぶん『朝の詩』の良さがわかっていないだけなのだ。
『うまい小説の文章は作者が消える』とよく言われるように思う。作者が出しゃばらないので物語が自然に、不純物を伴わずに入ってくるという意味であろう。難解なことばを使いたがる作者がいないという意味でもあろうから、それは平易な文章で書かれているということにもなる。
しかしそれならば作者がどーん! と個性を覗かせる、ミラン・クンデラさんや島田雅彦さん、筒井康隆さんの小説は下手なのであろうか? ちなみに私は島田雅彦さまの小説で色々と言葉を知ることになった経験がある。『枯淡の母』とか知らなかった言葉がばんばん出てくるのでそのたびに辞書等で調べ、勉強になった。
平易な文章で深遠なテーマを描くこともできる。難解な文章だからこそ個性が出る。そしてもちろん筒井康隆さまの小説は難解なものもあるが一般大衆が易易と読めるもののほうが多い。
終わります。
とりあえず、私に要点をまとめた平易なエッセイは書けないということがわかったエッセイであった。




