「最後のワルツでございます」と婚約破棄されましたが、私が去った後の王国が崩壊しているようなので知りませんわ
「この曲が終わったら、君との婚約は終わりだ」
王宮の大広間に響くワルツの旋律。その優雅な調べに乗せて、アルベルト殿下は私の耳元でそう囁いた。
……ああ、やっと。
やっとこの日が来ましたのね。
三年。三年と四十九回の侮辱。私はその全てを数えていた。殿下が私を無視した夜会の数、セラフィーナ様の前で私を貶めた回数、そして「君は冷たい」と吐き捨てられた言葉の数。
全て、覚えている。
「僕の心は聖女セラフィーナのものだから。君も分かっているだろう?」
蜂蜜色の巻き毛を揺らし、殿下は自己陶酔に満ちた微笑みを浮かべる。翡翠の瞳には、哀れな婚約者への同情すら宿っていない。
いえ、そもそもこの方の辞書に「同情」という文字は存在しないのでしょうけれど。
(殿下の頭の中には綿菓子でも詰まっているのかしら。いいえ、綿菓子に失礼ですわね。綿菓子は少なくとも甘くて人を幸せにしますもの)
「存じております」
私は完璧な姿勢を崩さず、ステップを踏み続ける。銀糸のような白金色の髪が旋回のたびにふわりと舞い、シャンデリアの光を受けて煌めいた。
周囲の視線が私たちに集まっている。社交界シーズン最後の夜、王宮の舞踏会。殿下はわざわざこの晴れ舞台を選んだのだ。
衆人環視の中で「可哀想な銀氷の令嬢を捨てる正義の王子」を演じるために。
なんて滑稽な茶番劇。
「セラフィーナは清らかで、心優しくて、僕のために泣いてくれるんだ」
殿下の言葉に、私は内心で盛大なため息をついた。
(私が泣かなかったのは、殿下のために北部交易路の管理をし、隣国との密約を締結し、三度の暗殺計画を阻止していたからですわ。泣いている暇などございませんでしたの)
「それは素晴らしいことですわね」
「……君は本当に冷たい女だな」
殿下が眉をひそめる。期待通りの反応だった。
この方は私が取り乱し、泣きすがることを望んでいたのだろう。そうすれば「やはり婚約破棄は正しかった」と正当化できるから。
残念ながら、私はもうこの茶番に付き合う気はない。
「三年も側にいて、何も感じなかったのか」
「ええ、存じております。殿下がセラフィーナ様をお慕いであることは、王宮中の誰もが知っておりますもの」
「……それだけか? 泣きもしないのか、僕に縋りもしないのか」
(まあ。縋ってほしかったのですか、殿下。それとも泣き崩れる私を見下ろして、優越感に浸りたかったのかしら)
「殿下は私に泣いてほしいのですか? それとも、縋ってほしいのですか?」
「……っ、そういう冷たいところだ! セラフィーナは僕のために涙を流してくれる。君は三年間、一度も泣かなかった」
「まあ。それは申し訳ございませんでした」
私は穏やかに微笑んだ。
「北部交易路の帳簿を整理しながら泣く方法を、私は存じませんでしたの」
「何を言っている? 帳簿など、財務官の仕事だろう」
「ええ、そうですわね」
ステップを踏みながら、私は殿下の翡翠の瞳を見つめた。
「……そういうことにしておきましょう」
曲が終盤に差し掛かる。ヴァイオリンの旋律が高まり、最後のクレッシェンドへと向かう。
「君は本当に可愛げのない女だ。だから僕は――」
「殿下」
私は完璧な微笑みを浮かべた。「銀氷の令嬢」と呼ばれ続けた仮面の下で、初めて本当の感情が湧き上がる。
解放の歓喜。
「ようやく解放していただけるのですね」
「――は?」
殿下の足が止まる。曲はまだ終わっていない。だが私は構わず優雅に一礼した。
「三年間、大変お世話になりました。どうぞセラフィーナ様とお幸せに」
「待て、待てリディアーヌ! 何故そんな顔をしている!?」
「どのような顔でございましょう?」
「笑って……嬉しそうに……っ、僕に捨てられるというのに!」
周囲がざわめく。婚約破棄を宣告されたはずの令嬢が、まるで重荷を下ろしたかのように晴れやかな表情を見せているのだから。
「失礼いたします。お嬢様、お時間でございます」
静かな声と共に、私の横に一つの影が立った。
エレノアだ。私の忠実な侍女は、いつも通り目立たない茶色の髪を編み込みにまとめ、穏やかにそこにいた。
「ありがとう、エレノア」
「次のダンスのお相手がお待ちです」
殿下が目を見開く。
「次の……だと? 馬鹿な、今婚約破棄を言い渡されたばかりの女と踊る男など――」
「私だが」
低く、深みのある声が響いた。
大広間の片隅から歩み出てきたのは、漆黒の短髪と深紅を帯びた琥珀色の瞳を持つ長身の男性。鍛え上げられた体躯を夜会服に包んだその人は、私を見て静かに口角を上げた。
隣国大公、ヴィクトル・アレクセイ・ヴォルコフ。
「ヴォルコフ大公……!? 何故貴方がここに」
殿下が狼狽える。当然だろう。隣国の大公が、この舞踏会に出席していることすら把握していなかったに違いない。
「お待たせいたしました、リディアーヌ嬢」
ヴィクトル殿下は私に手を差し伸べた。
「いいえ。ちょうど自由の身になったところでございます」
「それは重畳」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「貴女の本当の価値を知る国で、もう一度踊りませんか」
(ああ、この方は知っているのだ)
(三年前の外交危機を救ったのが、この私だということを)
「待て! リディアーヌは僕の……僕の元婚約者だぞ!」
殿下が叫ぶ。だがその声は、もう私の心には届かない。
「ええ。『元』でございますわね」
私はヴィクトル殿下の手を取った。
「っ……!」
「殿下、最後に一つだけ申し上げてもよろしいですか?」
振り返り、私はかつての婚約者を見つめた。蜂蜜色の髪、翡翠の瞳。三年間見続けた顔。
だがもう、何の感慨もない。
「……何だ」
「来週届くはずの隣国との密約更新書類、私の署名がなければ無効になりますの。財務暗号の解読法も私の頭の中だけ。それから――」
私は微笑んだ。
「三度目の暗殺計画の黒幕、まだお伝えしておりませんでしたわね」
「何を……何を言っている……?」
「お気になさらず。きっとセラフィーナ様の涙が、全てを解決してくださいますわ」
「参りましょうか」
ヴィクトル殿下が私の手を取り直す。
「ええ。――さようなら、殿下。どうぞお元気で」
私たちは背を向け、人混みの中へと歩き出した。
「リディアーヌ……! リディアーヌ!!」
背後で殿下が何か叫んでいる。
「あらあら、殿下。大声を出されては、皆様に注目されてしまいますわよ?」
聞き覚えのある明るい声。マルグリット・オルレアン、私の幼馴染にして数少ない理解者が、にっこりと微笑みながら殿下の前に立っていた。
「……あ、もう遅いですわね」
薔薇色の巻き毛を揺らし、マルグリットは無邪気な顔で続ける。
「ああ、そうそう。聖女様の奇跡に使われているお薬、北部の希少薬草と同じ効能だと聞きましたの。偶然って、不思議ですわよね」
「何だと……?」
「その薬草を手配していたのがどなたか、殿下はご存知? ふふ、きっとご存知ないのでしょうね。だって殿下は、何もご存知ないのですもの」
私は振り返らず、ヴィクトル殿下と共に大広間を後にした。
バルコニーへ続く扉を抜けると、夜風が頬を撫でる。
「後悔はないか」
ヴィクトル殿下が問う。
「ありませんわ」
私は空を見上げた。満天の星が瞬いている。
「三年間、十分すぎるほど尽くしました。これ以上、あの方に費やす時間はございません」
「……そうか」
殿下は私の隣に立ち、同じように星空を見上げた。
「三年前、外交危機を救ったのは貴女だと知っている。あの時から、私は貴女を見ていた」
「ご存知だったのですね……」
「ああ。なぜ、あれほどの能力を持つ女性が、あのような男に仕えているのか。ずっと疑問だった」
殿下の声は相変わらず抑揚に乏しい。だが、その言葉の端々に確かな意志が感じられた。
「だから、あの夜。婚約破棄の場面を見た時、私は思った」
琥珀色の瞳が、私を捉える。
「――やっと、手を伸ばせる」
(この方は、ずっと待っていてくださったのだ)
(私が自由になる日を)
「隣国への招待状は、既にクレールモン侯爵家に届けてある。明朝、護衛と共に国境へ向かう手筈だ」
「……用意周到でいらっしゃいますのね」
「当然だ。三年も待ったのだから」
私は小さく笑った。
「では、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」
「ああ。貴女の新しい人生を、私の国で始めてほしい」
最後のワルツは終わった。
これからは――私の物語が始まる。
***
婚約破棄から三日後。
私が隣国へ向かう馬車の中で聞いた話によると、王宮の執務室はかつてない混乱に包まれているという。
「陛下、北部交易路の管理者が不在です。商隊が立ち往生しており、物流が完全に停滞しております」
「隣国との密約書類が行方不明です。リディアーヌ嬢の私室を捜索しましたが、何も……」
「財務記録が解読できません。全て暗号化されております」
報告が次々と舞い込む中、アルベルト殿下は執務机の前で蒼白な顔をしていたそうだ。
「お嬢様」
向かいの席でエレノアが言った。その膝の上には、王国の財務暗号解読の手引きと、重要書類の写しが入った鞄が置かれている。
「殿下は『呼び戻せ』と命じられたそうですが、既に大公殿下が正式に保護を宣言なさったため、手が出せないとか」
「当然ですわね」
私は窓の外を眺めた。故国の景色が徐々に遠ざかっていく。
「三年間、私が何をしてきたか。あの方々にはようやく分かっていただけるでしょう」
「殿下は呼び戻そうとなさるでしょうね」
「無駄ですわ。暗号の解読法は私の頭の中にしかありませんもの」
(そしてその暗号を解けるもう一人の人物は、既に私の味方についている)
オズワルド殿下――第三王子との文通は、三年前から続いていた。病弱を理由に社交界から遠ざけられていた聡明な王子は、私の功績を正しく理解してくださる唯一の王族だった。
毎月届けた報告書を、兄のアルベルト殿下は読みもせずに捨てていた。それを密かに回収し、保管していたのがオズワルド殿下だ。
『兄上が何をしているか、私は全て見ています。いつか必ず、貴女の功績は正当に評価される日が来ます』
そう書かれた手紙を、今も大切にしまってある。
「お嬢様」エレノアが小さく笑った。「初めて見ましたわ。そのようなお顔」
「……何のことかしら」
「いいえ、何も」
馬車は北へと進む。新しい国、新しい人生へ。
***
私が隣国へ渡って二週間。
マルグリットからの手紙は、王国の惨状を詳細に伝えてくれた。
『リディアーヌへ
大変!大変ですわ!王都は今、蜂の巣をつついたような騒ぎです。
まず、北部交易路の件。貴女がいなくなって三日で物流が完全に止まりました。商人たちが王宮に押しかけて「クレールモン嬢を返せ」と叫んでいるそうですわ。
殿下は「たかが令嬢一人いなくなったくらいで」と仰ったそうですが、財務大臣が卒倒なさったとか。
次に、聖女セラフィーナ様の件。貴女が取り寄せていた薬草が届かなくなって、「奇跡の治癒」ができなくなったそうです。そうしたら、城下の人々が「あれは薬草の力だったのでは」と疑い始めて……今では「偽聖女」なんて呼ばれていますわ。
お兄様のルシアン様が王宮に乗り込んで、殿下を一喝なさったそうです。
「俺の妹の価値も分からん男に、国など治められるわけがない」
ですって。素敵!社交界では大評判ですわ。
では、続報をお待ちくださいませ。
追伸:大公殿下とは上手くいっていて?詳細を要求いたしますわ!
愛を込めて、マルグリットより』
私は手紙を閉じ、小さく笑った。
「お兄様らしいですわね」
「ルシアン様は、お嬢様の功績を三年間記録なさっていましたから」エレノアが言った。「陛下に提出された書類は、おそらくその写しでしょう」
兄は最初から、第二王子の器を見抜いていた。王命に逆らえず婚約を許したものの、いつかこの日が来ると予感していたのだろう。
だから記録を残していた。
コンコン、と扉がノックされる。
「リディアーヌ様、大公殿下がお呼びです」
私は立ち上がり、執務室へと向かった。
隣国の王宮は、祖国のそれよりも質素だが、どこか温かみがあった。北方の厳しい気候を反映してか、壁は厚く、暖炉の火が心地よく燃えている。
執務室の扉を開けると、ヴィクトル殿下が窓際に立っていた。
「来たか」
深紅を帯びた琥珀色の瞳が、私を捉える。
「お呼びでしょうか」
「二つ、報せがある」
殿下は机の上の書状を手に取った。
「一つ目。王国から正式な抗議が届いた。リディアーヌ・クレールモンを直ちに引き渡せ、と」
「まあ」
「当然、断った」
「……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。貴女はもう、この国の客人だ」
殿下の声は相変わらず抑揚に乏しい。だが、その言葉の端々に確かな意志が感じられた。
「二つ目」
殿下が私を真っ直ぐに見つめた。
「正式に申し込みたい。私の妃になってほしい」
時が止まったような気がした。
「殿下、私はつい二週間前まで他国の王子の婚約者でした。しかも婚約破棄された身。そのような者を妃に迎えては、殿下のお立場が」
「立場など、どうでもいい」
殿下が一歩近づく。
「三年前から、私は貴女を見ていた。なぜあれほどの能力を持つ女性が、あのような愚か者に仕えているのかと」
「……」
「だから待っていた。貴女が自由になる日を」
殿下の手が、そっと私の手を取った。
「即答でなくていい。考える時間を」
「いいえ」私は首を振った。「お返事いたします」
殿下が息を呑む。
「喜んでお受けいたします、ヴィクトル殿下」
その時、殿下の表情が変わった。寡黙で冷ややかなはずのその顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
(ああ、この方は、こんな顔で笑うのだ)
「一年後、両国和平の舞踏会を開く。その時、貴女を正式に大公妃として披露したい」
「両国和平……ですか」
「ああ。おそらくその頃には、あの国は和平を請いに来るだろう。貴女がいなければ、持たない」
殿下の予言は、恐ろしいほど正確だった。
***
一年後。
隣国の王宮では、両国和平の舞踏会が開かれていた。
「リディアーヌ」
夫となったヴィクトルが、私に手を差し伸べる。大公妃の礼装をまとった私は、その手を取って立ち上がった。
「参りましょうか」
「ああ」
大広間への扉が開かれる。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、私たちは並んで入場した。
「隣国大公ヴィクトル・アレクセイ・ヴォルコフ殿下と、大公妃リディアーヌ殿下のお成りです!」
場内がどよめく。私は真っ直ぐ前を見据えた。
そこに、彼がいた。
アルベルト・レオンハルト・ヴァルトシュタイン。かつての婚約者。
一年前の傲慢な姿はどこにもなかった。蜂蜜色の髪は艶を失い、翡翠の瞳は疲労と後悔に曇っている。
「リディアーヌ……」
殿下が私の名を呼ぶ。だがその声は、もう私の心には届かない。
「お久しぶりでございます、アルベルト様」
私は完璧な微笑みで一礼した。かつて「銀氷の令嬢」と呼ばれた仮面ではない。これは本当の笑顔だ。
「お元気そうで……いえ、お元気ではなさそうですわね」
「……っ」
殿下の顔が歪む。傍らには、誰の姿もない。
「セラフィーナ様はいかがなさいましたの?」
「……修道院に、入った」
「まあ。それは敬虔なことですわね」
白々しいと分かっていて言う。
セラフィーナの「奇跡」が私が手配した薬草のおかげだったと発覚した後、民の信頼は地に落ちた。偽聖女に王国を任せることはできないと、民衆が王宮に押しかけたという。
「リディアーヌ、僕は……」
「大公妃殿下、とお呼びください」
隣でヴィクトルが静かに、しかし有無を言わせぬ声で訂正した。
「私の妻に馴れ馴れしく呼びかけることは許さない。たとえ元婚約者であっても」
殿下が青ざめる。
「ヴィクトル殿下、和平の条件を……」
「条件は既に提示した。受け入れるか否かは、そちらの判断だ」
私は知っている。王国は今、瀕死の状態だ。
北部交易路は一年間停滞し続け、経済は疲弊。隣国との密約は失効し、国境では小競り合いが頻発。財務記録の暗号は解読できず、国庫は破綻寸前。
全ては、私が去ったから。
いいえ、違う。
全ては、彼らが私を追い出したから。
「和平の席には、オズワルド殿下にお越しいただきます」ヴィクトルが言った。「貴方ではなく」
「な……っ」
「アルベルト元王子は、既に王位継承権を剥奪されたと聞いている。交渉相手として不適格だ」
元王子。その呼称に、アルベルトがよろめいた。
「父上が……弟に王位を……」
「当然の判断だ。国を滅ぼしかけた愚か者に、王位を継がせる王はいない」
周囲の貴族たちが息を呑む。だが誰一人、元王子を庇う者はいない。
「ああ、そうだ」
私は思い出したように言った。
「マルグリットから聞きましたわ。殿下は辺境の領地に赴任なさるとか」
「……」
「北部の、冬は雪に閉ざされる小さな領地だそうですわね。私が三年間管理していた交易路からは、最も遠い場所」
皮肉を込めて微笑む。
「きっと静かで、ご自身を見つめ直すには良い環境でしょう。セラフィーナ様の涙を思い出しながら、長い冬をお過ごしくださいませ」
「リディアーヌ……!」
「では、失礼いたします。夫とのワルツの時間ですので」
私はヴィクトルの手を取り、背を向けた。
オーケストラがワルツを奏で始める。一年前、最後に踊ったあの曲と同じ旋律。
「いいのか」
ヴィクトルが低く問う。
「ええ」
私たちは踊り始めた。
かつて「最後のワルツ」を踊った時、私は仮面をかぶっていた。感情を殺し、侮辱を数え、解放の時を待っていた。
今は違う。
「ヴィクトル」
「何だ」
「幸せです」
夫が僅かに目を見開く。そして、穏やかに微笑んだ。
「貴女とのワルツに、最後の一曲など存在しない」
「……ええ」
涙が溢れそうになる。だがこれは、悲しみの涙ではない。
大広間の片隅で、オズワルド殿下が静かにこちらを見ていた。若くして王位を継いだ聡明な王は、私に向かって小さく頭を下げた。
『兄上が捨てた宝石を、隣国は正しく見出しました』
彼の言葉を思い出す。
エレノアが壁際で、珍しく目元を押さえている。マルグリットは両国を行き来する社交界の橋渡し役として、忙しそうに貴族たちの間を回っていた。
兄のルシアンは、クレールモン侯爵家の当主として、両国同盟の立役者となっている。
全て、あの夜から始まった。
「最後のワルツ」だったはずの、あの夜から。
曲が終わる。私は夫に深く一礼した。
「次の曲も、踊ってくださいますか」
「当然だ」
ヴィクトルが私の手を取り直す。
「永遠に」
新しい曲が始まる。
私、リディアーヌ・ヴォルコフは、もう「銀氷の令嬢」ではない。
愛する人の隣で、本当の笑顔で踊る。それが今の私。
あの夜の「最後の一曲」は、新しい人生の「最初の一曲」だった。
――これは、捨てられた令嬢の復讐と再生の物語。
――そして、二度と最後が来ないワルツの物語。
【完】




