九三式軽戦車(甲)
図面の上では、戦争は起こらない。
それは分かっている。分かっているが、それでも私は今日も製図板の前に立っていた。三十七粍砲。口径三十七ミリ、砲身長五十口径。紙の上では、実に美しい比率をしている。
「やはり、やりすぎではないかね」
背後から声がした。技術本部兵器課の古参将校だ。階級は私より上だが、砲の設計そのものについては、正直、彼より私の方が深く潜っている。
「やりすぎかどうかは、用途次第です」
私は振り返らずに答えた。
「九三式軽戦車に積む砲だ。歩兵随伴が主任務だろう。ならば、五十七粍短砲身で十分だ。榴弾効果も大きい」
何度も聞いた言葉だった。事実でもある。五十七粍短砲身は扱いやすく、破壊力もある。だが――。
「十分、という言葉は便利です。しかし、それは“今日”に対してでしょう」
私は製図板の端を指で叩いた。
「三年後、五年後、相手が装甲を持ってきた時にも、十分でいられるか。私はそこに賭けています」
沈黙が落ちる。
欧州の情報は断片的だが、確実に伝わってきていた。装甲車、戦車、機動戦。もはや戦車は、歩兵の盾では終わらない。
問題は、日本の戦車がどこまでそれを受け入れるかだった。
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五十七粍砲を三十口径で研究する案は、私自身が出した。あれは礎だ。反動、装薬、砲身寿命。大口径化への基礎データを得るための、言わば犠牲的存在。
本命は、最初から別にあった。
三十七粍、五十口径。
小口径でありながら初速を稼ぎ、徹甲弾を実用とする。しかも榴弾も撃てる。理屈の上では可能だが、条件は厳しい。砲身鋼の質、閉鎖機構、反動吸収。どれか一つでも失敗すれば、戦車砲として成立しない。
だが――成立すれば。
「軽戦車が、軽戦車でなくなる」
それが、私の胸の内だった。
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車体設計班からは、別の議論が上がっていた。
「斜装甲はどうでしょう」
「履帯幅を広げれば、重量増を吸収できます」
若い設計者たちの目は輝いていた。私も、彼らの図面を見て胸が高鳴った。合理的だ。正しい。だが、会議の空気は冷たかった。
「複雑すぎる」
「製造ラインが追いつかない」
「現場が嫌がる」
一つずつ、却下されていく。
結局、斜装甲は一部のみ。履帯幅も最小限。装甲厚の増加は、数字だけが少し前に出る程度だった。
私は反論しなかった。
砲だけは、譲れなかったからだ。
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ある夜、工場の片隅で、試作砲身を前に一人立った。
細く、長い。三十七粍という数字から想像されるより、はるかに鋭い印象を持っている。
「これを、軽戦車に積むのか」
誰にともなく呟いた。
反動は大きい。車体は揺れるだろう。車長は驚くかもしれない。だが――当たれば、貫く。
私は戦場を知らない。だが、未来を想像することはできる。
敵の装甲に、砲弾が弾かれる光景。
「効かない」という言葉が、無線に乗る瞬間。
それだけは、避けたかった。
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正式な評価書には、こう記した。
「本砲は軽戦車搭載砲としては性能過剰と評される可能性あり。しかし将来の装甲化傾向を考慮すれば、研究・制限採用の価値は高い」
曖昧な書き方だ。だが、これが限界だった。
数年後、この砲がどう扱われるかは分からない。採用されるかもしれないし、忘れられるかもしれない。
それでもいい。
三十七粍五十口径という選択が、日本の戦車に「別の可能性」を与えたのなら。
図面の上では戦争は起こらない。
だが――図面の上でしか、未来は変えられない。
私は静かにペンを置いた。
ーー
私は試験官であって、設計者ではない。
その違いは決定的だ。設計者は理想を語り、試験官は現実を突きつける。夢を壊すのが仕事だ、と自嘲気味に言う者もいる。私はそこまで冷酷ではないつもりだが、結果については一切の情けをかけない。
昭和九年春。富士の裾野にある射撃試験場に、問題の軽戦車が運び込まれた。
「九三式軽戦車、三十七粍五十口径砲搭載型」
書類上の名称は長い。だが、見た瞬間に分かった。
――これは、ただの軽戦車ではない。
砲身が長い。異様なほどに。
「軽戦車に、これは……」
思わず声が漏れた。砲の存在感が、車体の性格を上書きしている。歩兵随伴? 違う。これは、撃つための車両だ。
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最初の試験は、静止射撃だった。
距離三百、五百、八百。徹甲弾。装甲板は、想定される外国製軽装甲車両を模したものだ。
「撃て」
発射。
反動は想定以上だった。車体が一瞬、後ろに跳ねる。だが――。
「貫通」
観測員の声が、乾いた空気を切り裂いた。
八百でも、穴は綺麗だった。破断も少ない。初速が効いている。
「数字は、確かだな……」
私は記録用紙に淡々と書き込む。初速、散布界、貫徹力。どれも、設計値に近い。いや、一部は上回っている。
問題は、次だった。
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機動射撃。
軽戦車は、止まって撃つものではない。走り、揺れ、泥を噛み、撃つ。
履帯はやや広げられているが、抜本的な設計変更はない。砲の重量増は、確実に前部に負担をかけている。
「走行開始」
凹凸のある地形を進む。照準手の肩が揺れる。車長が怒鳴る声が聞こえる。
発射。
当たらない。
いや、正確に言えば、「当たりにくい」。
散布界が広がる。停止射撃では優秀だった砲が、急に不機嫌になる。
「反動制御が追いついていないな」
私は呟いた。砲そのものは良い。だが、車体がそれを受け止めきれていない。
設計者の顔が、頭に浮かぶ。
――分かっていただろう。
――それでも、出してきた。
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榴弾試験も行った。
小口径の宿命として、破片量は限られる。それでも、信管の調整と初速のおかげで、塹壕や土嚢への効果は悪くない。
「五十七粍ほどではないが……使えるな」
歩兵将校の評価は、慎重ながらも肯定的だった。
一方で、こんな声も上がる。
「これ、軽戦車に必要か?」
「中戦車の仕事を奪う気か?」
私は答えなかった。答えは、数字の中にある。
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最も印象に残ったのは、耐久試験だった。
連続射撃。砲身温度上昇。閉鎖機の摩耗。
五十口径という長さは、無理をしている。鋼材の質が少し落ちれば、寿命は急激に縮む。
「量産したら、ばらつきが出るな」
それが、私の正直な感想だった。
優秀だが、繊細。
扱いを間違えれば、ただの重たい飾りになる。
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評価会議の日。
私は報告書を読み上げた。
「本車両は、従来の軽戦車概念を逸脱する性能を有する。対装甲能力は顕著。一方で、機動射撃精度および車体負荷に課題あり。全面採用には慎重を要す」
つまり、こうだ。
――良いが、怖い。
結論は「制限採用」。部隊配備は限定的。研究継続。
妥当な判断だと、私は思った。
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試験場を去る前、あの戦車をもう一度見た。
砲身は夕日に照らされ、細く光っていた。
「こいつは……使われ方次第だな」
歩兵支援としては、やや鋭すぎる。
だが、装甲目標に対しては、明らかに一線を越えている。
私は確信していた。
この砲は、過渡期の存在だ。
だが過渡期は、必ず次を生む。
三十七粍五十口径は、やがて――より大きな砲への問いを、現場に突きつけるだろう。
数字は嘘をつかない。
だが、戦争は数字通りには進まない。
それを知るのは、次は――机ではなく、現場の人間だ。
ーー
最初に気づいたのは、歩兵の視線だった。
九三式軽戦車。見た目はいつものそれと大きく変わらない。だが、砲身だけが違う。妙に長く、前に突き出ている。そのせいか、我々の車両が隊列に加わると、歩兵たちがちらりとこちらを見る。
「何だ、あの砲は」
声には出さないが、そんな顔だ。
私は車長席で双眼鏡を下ろし、前方を見た。北支の平野。低い土塁と、煉瓦で固めたトーチカ。相手は正規軍ではないが、装備は侮れない。
「装填、徹甲」
自然に、その言葉が出た。
これまでの軽戦車では、こういう場面で榴弾が選ばれることが多かった。だが、この砲では違う。私は訓練と試験で、それを叩き込まれていた。
当たれば、壊れる。
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「距離、六百」
照準手の声が落ち着いている。砲身が長い分、照準はむしろやりやすい。反動は強いが、癖はもう体が覚えている。
「撃て」
轟音。
車体が一瞬浮いたように感じた。だが、次の瞬間――。
「命中!」
双眼鏡越しに、トーチカの正面装甲が砕けるのが見えた。崩れる、というより、破れる。
「……抜けた?」
「抜けました!」
無線の向こうで、歩兵将校の声が裏返っている。
二発目は不要だった。
⸻
その日、我々は三つのトーチカを相手にした。
榴弾も使ったが、決定打は常に徹甲弾だった。短砲身五十七粍では、正面から壊せなかった角度でも、この三十七粍は仕事をした。
軽戦車だ。装甲は薄い。撃たれれば危険なのは変わらない。だが――。
「前に出られる」
それが、これまでと決定的に違った。
敵の火点に対し、横に回る必要がない。正面から、距離を取って、撃てる。歩兵の損害が、目に見えて減っていく。
戦車は、盾ではなく――
槍になっていた。
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夜、整備をしながら、砲身を見上げた。
煤で黒くなり、傷も増えた。それでも、異常はない。砲身寿命が短いだの、扱いが難しいだの、試験場では色々言われたが、少なくとも今は、文句なく働いている。
「車長、この戦車……評判いいですね」
操縦手が言った。
「歩兵が、また一緒に来たいって」
私は小さく笑った。
「そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
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ただ、一つだけ、胸に引っかかるものがあった。
余裕がない。
確かに壊せる。だが、ぎりぎりだ。装甲がもう少し厚ければ? 距離が伸びれば? 相手が戦車だったら?
この砲は、軽戦車にしては強すぎる。
だが、戦車砲としては、まだ足りない。
それを、私は現場で理解し始めていた。
⸻
ある日、他部隊の九五式軽戦車を見た。
短い三十七粍砲。歩兵支援には向いているが、同じ敵に対して、必要以上に接近している。
「変わるな、これは」
私は呟いた。
この砲を知ってしまった以上、もう戻れない。
軽戦車は、ただの随伴兵器では終われない。
三十七粍五十口径は、問いを突きつけている。
――次は、何を撃つ?
答えは、まだ先だ。
だが、その先で待っている名前を、私はもう聞いていた。
ノモンハン。
ーー
ノモンハンの空は、広すぎた。
地平線という言葉が、これほど現実味を持つ場所は他にない。草原は波打ち、風は遮るものなく吹き抜ける。隠れる場所はなく、誤魔化しも効かない。
戦車乗りにとっては、正直すぎる戦場だ。
私は九三式軽戦車の車長として、独立戦車部隊に配属されていた。車両は例の三十七粍五十口径砲搭載型。数は多くない。だが――噂は、すでに広がっていた。
集結地で待機していると、視線を感じる。
八九式の乗員。九七式の乗員。九五式の若い兵たち。
好奇心、疑念、あるいは期待。
「あれが、例のやつか」
声には出さないが、そんな空気が刺さってくる。
私は慣れていた。北支でも同じだった。
「珍しいものを見る目だな」
照準手が苦笑する。
「すぐ慣れるさ」
そう答えながら、私は前方を見た。
草原の向こうから、必ず来る。
今回は、戦車が。
⸻
中隊長の説明は簡潔だった。
「敵は機械化部隊だ。数は多い。速度もある。八九、九五は歩兵支援を意識しすぎるな。距離を取れ。九三は――」
一瞬、言葉が止まる。
「九三は、撃てる距離で撃て。無理に前に出るな」
それだけだった。
だが、その一言に、全てが詰まっていた
乗車。
エンジン始動。振動が腹に伝わる。
戦車は一斉に散開し、持ち場へ向かう。草を踏み、土を噛み、履帯が回る。
分かっていた。
来る。
そして、初めて本当の相手と撃ち合う。
待機中、戦車内は静かだった。
誰も無駄口を叩かない。
ただ、耳だけが外を追っている。
「車長……」
操縦手が言う。
「前方、砂煙」
双眼鏡を上げる。
遠い。だが、確実だ。
来た。
「距離、八百以上!」
無線が飛び交う。
ソ連軍の戦車群。BT。速い。隊形も整っている。
最初に撃ったのは、八九式だった。
砲声。
だが、当たらない。
当たっても、効かない。
「跳弾!」
「効いていない!」
次に九五式。近づきすぎる。
――撃ち返される。
炎。
黒煙。
無線が途切れる。
「……やられた」
私は歯を食いしばった。
「距離、五百!」
「徹甲装填!」
九三式は、違った。
「撃て!」
発射。
反動。
衝撃。
「命中、撃破!」
BTの側面が裂け、止まる。
二両目。
三両目。
距離三百から五百。
こちらが、先に届く距離。
短砲身では、届かない距離。
「次!」
「次、来ます!」
砲声が連なる。
九三式だけが、戦車として戦っていた。
戦闘は、長くは続かなかった。
ソ連軍は引いた。
こちらも、無傷ではなかった。
集結地で、戦果報告。
「九三式軽戦車、撃破多数」
中隊長の声は、低く、だがはっきりしていた。
「他車種は……健闘したが、火力不足が目立つ」
誰も反論しなかった。
事実だからだ。
私は戦車の砲身を見上げた。
煤と傷。
だが、まだ真っ直ぐだ。
この砲は、届いた。
だが、同時に分かった。
次は、もっと遠い。
もっと厚い。
この戦争は、ここでは終わらない。
三十七粍五十口径は、答えではない。
だが――問いとしては、十分すぎるほどだった。
次に来るのは、四十七か。
あるいは、それ以上か。
草原の風が、静かに吹き抜けていった。




