昔の私を知る人~幼馴染ウィリアム~
あの後、私は馬車の中で気を失っていたらしい。瞼を開けたときには、自室のベッドの上だった。
窓辺には柔らかな陽光が差し込み、まるで何事もなかったかのように日常が戻っていた。
あの男性が、あれ以降どうなったのかは聞くまでもない。
王族に手を出そうとした者がただの軽い処罰で済まされるはずがないのだから。
襲われかけたのは事実なのに、あの人のその後のことを思うと、
不思議と心に残ったのは恐怖よりも、後味の悪さだった。
アルベルト様も、なかったことのように、事件のことには一切触れようとはしない。
デュークにそれとなく尋ねてみても、「いやあ、口止めされてるんで」とおどけたように笑うばかりで、真実を語ろうとはしなかった。
「はあ……」
庭の大きな木の下。私は本を膝に乗せたまま、深いため息をついた。
最近は、この木の下がすっかりお気に入りになっている。幹に背を預けると、不思議と頭が休まるのだ。
そして決まって、誰が置いているのかは知らないが、毎日霞草の花が小さな束になって供えられていた。
ふわりと白い花を眺めると、胸の奥がやわらかくほどける。
けれど今日に限って、そこには何もなく、少し拍子抜けしてしまった。
――少し楽しみにしていたのに。
「そんなため息ばかりついては、せっかくの綺麗なお顔が台無しですよ」
木陰から声がして、顔を上げる。
少し離れたところに控えていたデュークが、いつもの調子で軽口を叩いていた。
護衛が彼に代わってから、彼がそばにいることを条件に王宮内を歩く自由がいくらか許されるようになった。
それだけ、アルベルト様が、彼を信頼している証だろう。
彼の飄々とした態度は気楽で話しやすいが、時折、最初に会ったときのような鋭い眼差しを向けてくることがある。
私を値踏みするような、心を射抜くような――。
彼の本心はまるで霞の向こうにあるようで掴めない。
けれども、正直、必要以上に私を敬わないその態度は、正直そばにいて楽だと感じることもある。
だからこそ、余計な干渉をしてこない彼に、思わず弱音を漏らしてしまうことも多々あった。
「ため息をつきたくもなるのよ。自分の能天気さに呆れて。記憶なんて、ゆっくり取り戻せばいいと思っていたけれど……結局、それは甘えだった」
「でも、アルベルトは“思い出す必要はない”って言ってるんでしょう?」
「でも、あの時の男性が私を見る目は普通じゃなかった。まるで、肉親を殺された人のように、憎しみに満ちていた」
口にした瞬間、胸の奥にひやりとしたものが広がった。
デュークは一瞬だけ表情を曇らせ、けれど何も言わず黙っていた。
「やっぱり、思い出さなきゃ。以前の私が何をしたのか」
「……俺も、貴方は記憶を取り戻すべきだと思いますけどね。あいつが前に進むためにも」
「…え?」
「今の貴方は、自分のことを何も知らなすぎます。まるで、鳥籠の中に閉じ込められた鳥のようです」
「…じゃあ、その鳥籠の鳥が、また外に出たいって言ったら?」
「それは、無理ですよ。あんなことがあったばかりで、アルベルトが許すわけがないでしょう」
理屈は正しい。ただでさえ、記憶喪失で面倒をかけているのに、外に出て殺されかけるなんて。
私だって、無駄に心配をかけたいわけではないのだ。それでも、胸の奥で膨らむ焦燥感は抑えられなかった。
「……なら、王宮の中でできることを探すしかないわね」
幸いなことに、最近は少しずつ国政に復帰し始め、暇をすることも少なくなった。
まずは財源の整理から手をつけ、以前自分が使っていたという執務室に籠る日も増えていた。
「執務室に戻るわ。昔の招待状とかを探して、過去に交流していた人たちから探ってみようと思うの」
街に出かけることができないのなら、今ここでできることをやろう。
記憶をなくす前に親しくていた人と話せば、何か手がかりを見つけられるかもしれない。
ここで、できることも、沢山ある。
「いや〜。そういうのはアルベルトがとっくに処分を……」
「え…、何て?」
「いえ、何でもありません」
わざとらしく咳き込む彼を一瞥し、執務室に行こうと立ち上がる。
「もう、戻られるんですか?」
「ええ、そうするわ」
「まだ14時か…。表だと人に出くわすな」
「…?」
「でしたら、今日はバラ園を通りながら戻りましょう」
デュークが懐から取り出した懐中時計を見ながら提案した。
「なぜ、わざわざ遠回りを?」
「珍しい品種が咲いたそうですよ。ソフィア様は薔薇がお好きだったとか。聞きましたので、ご覧になったら宜しいかと」
「……まあ、いいけど」
そういえば、以前アルベルト様も同じことを言っていた。
けれど、その時、私には、いまひとつ実感が湧かなかったのを思い出す。
そして、デュークに言われた通りに、歩き出そうとしたその時――。
「……ソフィ?」
聞き覚えのない声がして、その声に振り返った。そこには、初めて見る男性が立っていた。
二十代後半ほど、陽を浴びたブロンドの髪が風に揺れ、青い瞳が驚いたように見開かれている。彼の背筋の伸びた立ち姿からは、地位ある者だけが纏う気品が漂っていた。
――今「ソフィ」と呼んだ…?愛称で。
隣では、なぜかデュークが「ああ…」と呟きながら、この世の終わりのような顔をして頭を抱えている。
「ソフィって、私のこと?」
「……ずっと会いたかった」
その声音に胸がざわめき、一歩近づこうとした瞬間、デュークがさっと前に出て私を遮った。
口元には笑みを浮かべているが、その眼差しは鋭く、決して譲らぬ意志を秘めている。
「ソフィア様。執務室にお戻りになるのではないのですか」
その声には――“この先には行かせない”という固い圧があった。
「行くわよ。でも……」
デューク越しに、目の前の男性と視線を絡める。
彼の瞳は、懐かしさと痛みをないまぜにした色をしていた。
「デューク」
「はい」
「暫く、外してくれるかしら」
「……ソフィア様から目を外せば、私が罰を受けることになります」
「それなら私が見える場所にいてくれていいから。しばらく、その方と2人にして」
答えあぐねるデュークに、もう一度言葉をかける。
「これは命令よ」
「…っ!」
彼は護衛騎士である以上、上の者の命令には逆らえない。
こんな風に人を動かすようなこと、本当はしたくなかった。してこないようにしてきた。
けれども、今は事情が事情だ。
彼は「…わかりました。ただ、ソフィア様が表向きは療養中ということ忘れないでください」と言って、苦々しい顔をして、渋々一歩退いた。
私は改めて、目の前にいる人と向き合う。
「……あなた、私のことを知っているの?」
「それは、僕とはもう関わりたくないって意味かな…?」
「え…?」
「確かに、君を助けられなかった僕に、失望するのは当然だ。そういう風に言われても仕方がない」
何だか、言葉が噛み合っていないようなーー。
「いえ、貴方何か誤解してるわ」
「誤解…?」
「ええ。その…、何といえばいいか」
私が記憶喪失になっていることは、極一部の人しか知らない。
王妃たる人物が記憶喪失だなんて知れたら、これを好機にと、王室の品位に泥を被せようと、どこから批判の槍が飛んでくるかわからないのだから。
そんな状況で、無防備に全てを打ち明けることはできない。
彼が、どこまで話していいのか、信頼できる人物なのか見極める必要がある。
彼を観察するようにじっと見つめると、霞草が握られていることに気づいた。
私の視線に気づいた彼は「ああ、これ…」と呟くように言った。
「ソフィが好きな花だろ? 本当は、君が体調を崩していると聞いたから、お見舞いに渡したかったんだけど、それも許されなかったから。代わりに、あの木の下に置いていたんだ。君に届くといいなって」
彼は大木を見上げ、懐かしそうに微笑む。
「幼い頃、よく一緒に登ったよね」
「…」
「僕にとって、大切な思い出の場所だよ」
彼が差し出した霞草を、私は恐る恐る受け取ると、「やっと、渡せた」と彼が嬉しそうに微笑んだ。
――私が霞草を好きだった?
周囲の誰もが「王族の象徴である薔薇が好きだった」と言う中で、そう口にしたのは、彼だけだった。
「もし無理に笑っているなら、僕の前ではそんな必要はない。……逃げたいって言ってくれれば、今度こそ必ず手を差し伸べるから」
耳元に落とされた声に、思わず息を呑む。
「逃げたい?どうして、私が?」
「え?じゃあ、君は、今この状況を受け入れられるの?」
私は手渡された霞草を見つめ、迷った末に、打ち明ける決意をした。
この人なら信頼できる。この少ない時間で、そう判断した。
「あのね、信じられないかもしれないけれど…、私、記憶がないの」
「…え?」
「だから、ごめんなさい。貴方のことも、本当にわからない」
彼は短く息を呑み、目を伏せた。
「……そういうことか」
そして苦しげに続ける。
「なら、君はアルベルトがやったことも忘れているんだな」
「アルベルト様が、やったこと……?」
「ああ。ソフィは騙されてる。いいか、驚かずに聞け。あいつは――」
―――「探したよ、ソフィア」
冷え冷えとした声が遮った。
強い腕に抱き寄せられる。振り返るまでもない、その声は――。
「私の妻に何の用だ、ウィリアム」
アルベルト様だった。氷の刃のような声音に、背筋がぞくりとする。
ただ、少し息が上がっているようにも聞こえた。
私は、彼の腕の中から、「ウィリアム」と呼ばれた男性と目を合わせ、
「言わないで」という思いで、とにかく首を横に振る。
「…療養中と伺っていましたので。元気そうで安心したと、声をかけていました。それだけです」
ウィリアムは私の思いを察して、さらりと答えたが、アルベルト様の眼差しは一片も揺るがなかった。
「行くぞ、ソフィア」
「は、はい」
強く手を引かれるまま歩き出す。背後で「また必ず会おう!ソフィ!」という声が響いた。
その瞬間、掴まれた腕に、離すまいとでも言うようにさらに強い力がこもる。
顔を覗こうとしても、彼は前だけを見据えていた。
――私はいつも、彼の背中ばかりを見ている。
「アルベルト様、アルベルト様!」
私が呼んでも、彼はまるで声が届かないかのように真っ直ぐ前だけを見て歩き続ける。
大きな背中が遠くに行ってしまう気がして、胸の奥がざわついた。
「アルベルト様!」
もう一度強く呼んだ瞬間、彼の肩がぴくりと揺れた。
「……っ!」
ようやく足を止めた彼は、深く息を吐き、振り返る。
「すまない。……貴方が、あいつと一緒にいるのを見て、気が動転していました」
彼にとって、私が昔の知り合いに会うことは、やはり何か都合の悪いことなのだろうか。
私が不安に思っていると、我慢していたものが溢れ出たかのように、彼が話し始めた。
「貴方は覚えていないかもしれないが、昔からそうだった。ソフィアの周りには……好意や下心を抱く男ばかりで。なのに、貴方は無防備で、誰にでも優しく、笑顔を惜しまずに振りまくから……俺はいつも気が気じゃなかったんだ」
「……え?」
「大抵の男は遠くから眺めるだけで、近づく勇気もなかった。けれど、あいつだけは違った。あいつは特別で、平然と貴方を“ソフィ”なんて愛称で呼んで……俺ですら呼んだことがないのに」
思いがけない言葉が、彼の口から次々とこぼれていく。
私はただ瞬きを繰り返すばかりで、返す言葉を見つけられなかった。
彼は、そんな私を見て、はっとしたように我に返り、わざとらしく咳払いをする。
「あ、いや。今のは違くて…」
「何が違うんですか?」
「と、とにかく忘れてください」
顔を背けようとする彼の前に回り込み、無理に視線を合わせる。
彼が逸らせば、私もまた回り込む。その小さな攻防を繰り返しているうちに、彼はとうとう声を荒げた。
「ソフィア!」
「いいですよ。“ソフィ”って呼んでも」
「……え?」
「呼びたいんじゃないんですか?」
「そ、それは……そうですけど」
「じゃあ、どうぞ」
私は小さく胸を張って「さあ」と促した。
「……ソ、ソフィ」
「はい!アルベルト様」
耳に届いたその響きは、いつも聞き慣れている名前なのに、どこか甘くくすぐったい。
思わず頬が熱くなるのを隠すために、わざと元気よく返事をした。
満足した私は、手にしていた霞草を花瓶に挿そうと背を向ける。
けれど、その腕を突然掴まれた。
「ソ、ソフィも……“アルベルト”と呼んでほしい。俺だけじゃ、不公平だ」
「……え!」
「まさか、人に呼ばせて、自分は呼ばないつもりですか?」
確かに、これまで自然に「アルベルト様」と敬称をつけて、口にしていたけれど……。
それで、違和感を感じたこともなかった。けれども、夫婦なのに、その呼び方は、距離があるのかもしれない。
「そ、そうですね。じゃあ……アル…ベルト」
「ん?」
「アルベルト」
「ん?」
「……聞こえてますよね」
彼は口元を押さえ、笑みを堪えている。
「聞こえてる。けど、もう一度」
「いい加減にしてください!」
堪えきれない笑顔が彼の顔に広がる。
こんな表情が見られるのなら、何度でも名前を呼びたいくらいだ。
そんな彼を横目に、「もう……」と呆れたふりをしながら、霞草を花瓶に挿す。
「その花は……?」
「さっきの、ウィリアムって人から貰いました。なぜかこの花を見ていると、心が安らぐんですよね」
「貴方は薔薇が好きだと思っていましたが……」
霞草の小さな白が光を反射し、きらめく。その素朴さに、なぜか胸が落ち着く。
「……ところで、あいつと本当は何を話していたんです?」
しかし、その一瞬で、部屋の空気が変わるのを感じた。
唐突な問いに、花瓶を落としかける。
「……え?」
鋭い視線が私の心を覗き込む。私の動き一つでも見逃すまいとするように。
それでも、私がどうにか誤魔化しの言葉を並べる。
「彼も言ってたじゃないですか。“元気で安心した”と声をかけられただけです」
「本当にそれだけですか?」
「それだけです」
「……そうですか」
私は、罪悪感から視線を逸らすしかなかった。
彼と視線を合わせれば、この嘘がすぐに見透かされてしまうような気がした。
それでも、私にはどうしても尋ねたいことがあり、気を取り直して、彼と正面から向き合う。
「私からも、1ついいですか?あのウィリアムという方は、一体誰なんです?」
「彼は、名門のアルバート公爵家の長男です」
「彼と私は、どんな関係だったんですか?」
「……」
「また、教えてくれないんですか」
「いや、……彼は貴方の、その……元婚……」
「元婚……?」
「元、いや、……幼馴染です」
「幼馴染…?」
「昔は交流があったそうですが、最近は暫く疎遠になっていたと聞いていました」
なるほどと、妙に腑に落ちた。
だから初めて会った人なのに、あんなに懐かしい安堵感があったのだろう。
霞草の好みを知っていたのも、長い時間を共にしてきたからに違いない。
――やはり、彼が私の記憶を解く鍵を握っている。
夢中で考え込んでいた私は、アルベルト様がこちらをじっと見つめていることに気づかなかった。




