その裏側で~sideアルベルト~
珍しく、苛立ちが抑えきれなかった。
迂闊だった。かつて使われていた書斎をあのまま放置し、あの絵をソフィアに見られてしまうとは。
彼女の目に触れてはならない過去の痕跡は、すべて処分させていたはずなのに。
「――あの護衛騎士を外せ。代わりを配置しろ」
常に傍らに控える宰相イザークへ命じ、深く椅子に身を預けてため息を吐く。
「しかし、結果的にソフィア様には何も……」
「それは記憶を失っているからだ。もし以前の彼女だったら――。よりによって、バルコニーから降りるなどあり得ない。王妃の護衛でありながら気づかぬとは失格だ」
「……承知しました」
イザークの眉間にわずかに皺が寄る。
だが、俺が懐から煙草を取り出すと、それ以上は言わなかった。
最近は滅多に吸わなくなった煙草――ソフィアと婚約して以来、彼女に嫌われまいと断ち切ったはずの習慣。
それでも今、火を灯す。心を鎮めるために。
「となると、今の護衛以上の適任は一人しかおりません」
「……デュークか。問題ない」
デューク――現騎士団長にして、かつて共に“計画”を遂行した共犯者。
この世で最も信頼できる男だが、ソフィアに対して良い感情を抱いていない可能性もある。
それでも、彼以上の人材はいなかった。
「それと、アルベルト様。もう一つ……ソフィア様の件ですが」
「何だ」
「侍女イザベラより報告が。ソフィア様が新聞を読みたがっていると」
「新聞、か。前にお前が選んで渡した本では足りなかったのか」
「はい。記憶の“フック”になりそうな歴史や王族関係の本はお渡ししましたが、さすがに最新の新聞は……。イザベラが上手く誤魔化しましたが、いつまでも続くとは」
正直、ソフィアの記憶を刺激するものは彼女から遠ざけたい。
何が記憶のフックになるかわからないのだから。だが…、書斎で見せた彼女の笑顔が脳裏に蘇る。
このまま鳥籠に閉じ込めては、あの笑顔を曇らせるだけだ。
「……王室寄りの新聞社に手配しろ。ソフィアに関する記載は削除させて」
「承知しました」
イザークは深く頷き、退室しかけて、ふと足を止め、振り返った。
「アルベルト様。私は、あの時の選択は正しかったと、今でも自信を持って言えます」
その目は、憂いを帯びた色をしていた。
眉を八の字にして悲しげな顔で見つめてくるが、何をそんなに心配しているのか。
「ですが……、これで本当に、良かったのですか?」
「……っ!」
胸の奥を突かれる。己の感情を悟られないように視線を逸らし、短く答える。
「ああ。後悔などするものか。これは俺が望んで始めたことだ」
言葉を吐き捨てるようにして、短くなった煙草を咥えた。
イザークは一歩近づき、静かな声で告げる。
「幻の中で永遠に生きることはできませんよ。幻にすがれば、いずれ貴方を蝕むだけです」
そう言い残し、深々と礼をして去っていった。
彼はいつもそうだ。必要以上に人の心を見透かし、痛いところを突いてくる。
有能すぎるのも、こういう時に困るものだ。
「幻の中では、生きられない……か」
そんなことは、とうにわかっている。
それでも、束の間の幻が永遠に続くのではないか、と願わずにはいられない。
「……ソフィア」
この世で最も愛しく、そして本来ならば決して手にしてはならなかった存在。
その名を呼んでも、返事はなく、静寂だけが部屋に満ちていた。




