好きだった
時間軸的には、ソフィアが王宮を出た後の話です。
馬車の揺れに身を任せながら、私は窓の外に目をやった。
遠ざかっていく王宮の尖塔が、白い空の下に小さくなっていく。
――二十年。
生まれた時から、ずっとあの場所で過ごしてきた。
でも、もうあそこは私の居場所ではない。
あの宮殿には、幸福な思い出よりも、今はもう苦しい記憶の方が多い。
「大丈夫?」
向かいの席に座るウィリアムが、穏やかな声で問いかけた。
私が王宮を出て、一人で暮らすための手配をしてくれたのは、彼だ。
“あの時、助けられなかったから”と、彼は言っていた。
でも、もう十分すぎるほど私を支えてくれた。感謝してもしきれないくらいだ。
「寂しそうな目をしている」
「……まあ、幸せだった思い出も、少しはあるから」
あの穏やかな日々に戻りたいとは思わない。
あれは誰かの犠牲の上に成り立っていた幸福だった。
だからもう、懐かしむことはあっても――戻ることはない。
「そんな幸せが壊れるのが怖くて、私は暗い影に気づかないふりをした。それが……すべての原因だった」
「……でも、これからは、新しい場所でソフィなりに生きればいい。ただの“王女”じゃなくて、一人のソフィアとして。人は何度でもやり直せる」
「……ありがとう」
彼は静かに私の手を包み込んだ。
その温かさに、胸の奥がじんわりと痛くなる。
「いつでも、僕が助けになるから。僕は、ずっと君のことが――」
「……?」
ウィリアムは言いかけて、ふと口を閉じた。かわりに、柔らかな微笑みだけを残した。
その視線に気づき、私は初めて、自分が涙を流していることを知った。
「私ね、……好きだったの」
「……うん」
「私の体調が悪いと、すぐに気づいてくれるところ」
「うん」
「キザなことを言うと、耳が真っ赤になるところ」
「うん」
「メイドや執事にも、分け隔てなく優しいところ」
「うん」
「私のわがままにも、呆れながら付き合ってくれるところ」
「うん」
「慣れてないのに、薔薇の花束を持ってひざまずいたところ」
「うん」
「……あと、何より顔が好みだった」
「え、この流れで、顔っ!?」
それまで静かに頷いていたウィリアムが、思わず吹き出した。
私も、涙を拭いながら、つられて笑ってしまう。
「……でも、本当に。あの優しい眼差しで笑ってくれた時の顔が、一番好きだった」
「……」
「まあ、あれもこれも――全部、演技だったんだけどね」
そう言って、軽く笑う。けれど、胸の奥がほんの少し締めつけられた。
私の罪は、一生消えない。
けれど、それでも生きていかねばならない。償いながら、私なりの道を探して。
死んで罪から逃れようとすることは赦されないのだから。
彼は、きっとこの先、賢明な王としてこの国を導いていくのだろう。
そんな彼の人生に私はいない方がいい。
もう、彼との思い出に未練はない。
私は私の人生を。
彼は、彼の人生を――。
窓の外で風が流れた。王宮の塔は、もう見えなかった。




