悪魔になった日~sideアルベルト~
――暖かい。
ああ、もう死んだんだな。これが天国か、それとも地獄か。
そんなことを思いながら、ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井があった。
視界が少しずつ明瞭になり、痺れていた感覚が身体に戻ってくる。
――おかしい。何かが違う。
「……?」
反射的に上体を起こすと、そこはどこかの一室だった。
清潔に整えられた白いベッド、隅では暖炉がやわらかく燃え、窓の外では雪が吹き荒れている。
ここは、どこだ。
もしかして――また、あの連中に囚われたのか?
「まあ、目が覚めたのね」
扉の向こうから、穏やかな女性の声がした。俺はとっさに身構え、その方向へ視線を向ける。
現れたのは、修道服を身にまとった女性だった。年の頃は四十代ほど。
優しい笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「……誰だ、お前は」
警戒の色を隠さずに言う。
もしかすれば、この女もあの教会の仲間か、あるいは売り先の人間かもしれない。
「ごめんなさい。驚かせちゃったわね」
しかし、女性は柔らかく微笑んだ。
「私はナタリー。ここは孤児院なの。森の中であなたが倒れているのを見つけて、連れて帰ってきたのよ。あのままじゃ、凍えて死んでしまうところだったわ」
ナタリーと名乗ったその人は、俺の手を取って体温を確かめるように包み込んだ。
「もう、ずいぶん温かくなったわね」
「……っ!」
瞬間、息が詰まった。男に触れられた記憶がフラッシュバックし、喉の奥が焼けつく。
反射的に、その手を振り払った。ナタリーは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにまた穏やかな微笑みに戻る。
「……あなた、お名前は?」
「……アルベルト」
「そう。アルベルト。いい名前ね。お家はどこ?」
「……」
「……?」
俺は黙ったまま、視線を逸らした。
「帰る家はもう、ない。ずっと前から」
短く答えると、ナタリーの表情がわずかに曇った。
けれど、それ以上は何も聞かず、しばし俺を見つめたあと、静かに言った。
「ここに住む?」
「……え?」
思わぬ言葉に、息を呑む。
「ここは孤児院で、親を亡くした子や、貴方みたいに行く場所のない子を育てているの。もしあなたが望むなら、ここで暮らしてみない?」
すぐには返事ができなかった。
あの教会の記憶が、警鐘のように頭の中で鳴り響く。
人の優しさなんて、もう信じられない。でも、外に出れば、また死ぬだけだ。
俺は、ゆっくりと頷いた。信じるわけじゃない。
ただ、生きるための選択だった。
もしまた裏切られるようなら、そのときは逃げればいい。一人で。
だが、幸運にもその必要はなかった。
この孤児院は、古くて継ぎはぎだらけの建物だったが、誰もが自分の役割を持ち、穏やかに暮らしていた。
食事は質素だが、腹は満たされた。何より、ここには“恐怖”がなかった。
俺は、少しずつこの場所に馴染んでいった。特に、同年代の少年・デュークとは、妙に馬が合った。
最初は生意気で胡散臭い奴だと思っていたが、気づけばいつも隣にいた。
性格が真逆だからこそ、話していると刺激があった。
ただ、今でも時折、夜になると、あの日の記憶が蘇る。
誰かが肩を叩くだけで、心臓が跳ねる。自分より大きな手が触れると、体が震える。
ナタリーは、そんな俺を察してか、決して無理に触れようとはしなかった。
抱きしめることも、頭を撫でることもなく、ただ“見守る”距離で接してくれた。
それが、とてもありがたかった。
しかし、ある晩のことだった。
寝る支度をしていると、突然背後から――
「だーれだっ」
耳元で囁く声。目隠しされる感覚。
思い出されるあの日の記憶ーー。
「やめろっ!!!」
気づいた時には、背中に飛び乗ってきたデュークを、全力で投げ飛ばしていた。
床に尻もちをついたデュークは、驚きと困惑の表情で俺を見上げている。
デュークにとっては、たわいも無い悪戯だったのだろう。
そんな彼の姿を見てはっと我に返る。
「……危ないだろ」
この空気に耐えきれず、部屋の明かりを消して、ベッドに入った。
心臓が痛いほどに鳴っている。
ショックだったのだ。まだ、俺は、あの日から逃れられていないのかと思い知らされる。
眠ろうと必死に目を閉じたが、眠気は訪れなかった。
「なぁ……」
隣のベッドからデュークの声が聞こえた。俺は背を向けたまま、黙って耳を澄ます。
「起きてる? もう寝た?」
寝たふりをして返事はしなかった。
今はもう、彼の相手をする気力もなかったのだ。だが、彼は続けた。
「……さっきは、ごめんな」
その声が、どこか寂しそうに震えていた。
それを聞いて、俺は、結局無視を続けることができなかった。
「……いいよ。俺こそ、悪かった」
「……!起きてたのかよ!」
「うん」
俺は、背を向けたまま答える。短いやり取りの後、沈黙が落ちた。
「アルベルトさ、何か悩みがあるなら、俺に言えよ。俺たち、親友だろ?たまにさ、お前が1人でいなくなるような気がして不安になるんだ」
その言葉が胸に響いた。誰かに“親友”と呼ばれたのは、生まれて初めてだった。
だからかもしれない。
「……もう、昔の話なんだけど」
俺は、気づけば話し始めていた。
ずっと心に封じていた過去。
誰にも言わず、墓まで持っていくはずだった記憶。俺は、背を向けたまま話始める。
「俺、両親を亡くしたあと、ある教会に引き取られたんだ。でも、そこは……孤児を集めて、奴隷として売ってた。俺も……売られそうになって……それで……」
「……それで?」
息が震える。言葉が喉に詰まる。
でも、デュークになら話せる――そう思った。
「……その時、大人の男に……強姦されたんだ」
部屋の空気が凍った。デュークの息づかいが止まるのがわかった。
――ああ、やっぱり言うべきじゃなかったかもしれない。
すぐに後悔した。
「……まあ、昔のことだから、気にしてないけどな」
こんな空気にしたかったわけじゃない。
俺は努めて、明るい声で言った。
布団の中で背を向けたままでよかった。今は到底、笑顔を作れる気がしない。
けれど、その瞬間――
「何だよ、それ!!」
突然、布団が剥ぎ取られた。
後ろを振り返ると、デュークが、泣きそうな顔で立っていた。
「気にしてないって、何でそんな嘘つくんだよ。平気なわけないだろ。お前の声、震えてるじゃねぇか!」
「……っ」
「お前は傷ついてるんだよ。今も。そのことに気づかないふりをするな。もっと怒れよ!お前を傷つけたやつのことを、憎めよ!」
言葉の熱に、息が詰まった。
ーーそうか、俺は傷ついていたのか。
今初めて、自分が傷ついていることを自覚した。
デュークは拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「そんな奴ら、許せねぇ。弱い子を利用して、笑ってる連中なんて。俺が代わりに殺してやる!」
「お、おい、待てって!」
慌てて立ち上がり、彼の腕を掴んだ。
「どこ行く気だよ」
「決まってんだろ。お前がいた教会に行くんだよ」
「無理だ。あそこはただの施設じゃない。……相手は、この国の誰も逆らえない存在なんだ」
「……は? そんなの、神様か、この国の王くらいだろ」
沈黙のあと、デュークは目を見開いた。
「……まさか、本当に?」
「ああ。そのまさかだ」
「……」
「だから、諦めるしかないんだよ。そういう運命だったって。だって、元からこの世界は平等になんかできていないんだ」
長い沈黙の後、デュークは静かに言った。
「なあ、アルベルト。復讐する気はないか」
「……何?」
「王を殺す。この国を奪うんだ」
「……お前、それ、本気で言ってるのか」
「本気だよ。だって、お前は本当に、それでいいのか?あんな奴を許せるのか?」
「……許せるわけ、ないだろ」
「だったら、やるしかねぇ」
――神様なんていない。
なら、自分の手で奪うしかない。もう誰にも踏み躙られないために。
例え、悪魔になろうとも。
「ああ……やってやるよ」
その夜、俺は決意した。
後から知ったことだが、デュークの父もまた、王の戦争で命を落としていた。報奨も、名誉もなく。彼も、この世界を恨んでいた。
こうして、俺たち二人の孤児が、運命に抗うための“悪魔”になることを選択したのだった。




