全ての始まりの日~sideアルベルト~
アルベルトの過去編スタートです!
自分の両親の顔は、もう覚えていない。
父は、俺が生まれて間もなく戦場へ駆り出され、二度と戻らなかった。
母はその後、病に倒れ、薬を買う金もなく、薄汚れたベッドの上で静かに息を引き取った。
痩せ細った手の感触だけが、かすかに記憶の底に残っている。
だが、不思議と悲しみはなかった。母は決して優しい人ではなかったからだ。
いつも俺の目を覗き込み、同じ言葉を吐いた。
――「お前が生まれてから、私は不幸になった。お前の目は真っ黒で、悪魔のようだ」と。
母の死後、俺は独りになった。
頼れる者など誰もいない。ただ、生きるために、目の前のもので食いつなぐ日々。虫でも葉でも、道端に転がる残飯でも構わなかった。喉に通るものなら何でも食べた。
そのような暮らしをしているうちに、似たような境遇の人間が集まるスラム街に辿り着いた。そこで、俺はこの世界を生き延びる術を教えてもらった。盗みも、スリも、日常の一部。
幼いながらに悟った――。
この世界は決して平等ではない、と。
与えられる幸福の量は、生まれた瞬間に決まっている。ならば、奪うしかない。そうやってしか、生きていけなかった。
そんなある日、転機が訪れた。
今思えば、あれが本当の地獄の始まりだったのかもしれない。
白い装束をまとった神官のような連中、いかにも清潔で高貴そうな者たちが、スラム街に現れた。
そして俺を含む何人かの孤児を選び、無理やり貨物車に押し込めた。
行き先などわからない。けれど、食事がもらえるなら、どこへでも行くと思っていた。
連れて行かれたのは、豪奢な教会のような場所だった。
床は大理石、天井には神の絵が描かれ、ステンドグラスから光が差し込む。
その美しさに、最初は息を呑んだ。
身体を洗われ、真っ白な衣を着せられ、まるで新しい世界に生まれ変わったようだった。
そこで、一番偉いとされている教祖が言った。
「これから、あなたたちは神に祈り、神に仕えるのです」
意味がわからなかった。この世に神などいない。
だって、もし神がいるなら、俺たちをこんな不平等な世界に産み落としたりはしないだろう。
それでも、俺は従った。
祈り、掃除をし、与えられた日課をこなす。
そうすれば、食事にありつけた。肉も魚も果物も、スラムでは夢のような食べ物だ。
三年も経つ頃には、痩せ細っていた体も次第に人並みの姿になった。その時には、ようやく“神の恩寵”というものを少し信じかけていた。
そんなある日。
修道院の庭で運動をしていると、隣にいた少年がぽつりと呟いた。
「壁の外に、行ってみたいな」
この修道院には、奇妙な点があった。
外壁が異様に高く、上部には針金のような鉄線が張り巡らされている。
まるで、俺たちを“守る”ためではなく、“閉じ込める”ための壁のように。
それから一年が過ぎた頃。
俺は、あの壁の違和感の理由を知ることになる。
年上の子どもたちは次々と「里親に引き取られた」と言って、教会を去って行った。いつか自分も外へ出られるのだろうと、そんな淡い期待を抱き始めていた頃のことだった。
ある晩、俺は目を覚ますと、薄暗い知らない場所にいた。冷たい石の感触、見知らぬ天井。どこかの地下のような場所だった。
体が重く、痺れて動かない。周囲には、同じように横たわる子どもたち。
――ここはどこだ?
頭を必死に働かせると、階段の上の方から話し声と足音が聞こえた。
俺は咄嗟に目を閉じ、息を潜める。
「今回はこの子たちですが、いかがでしょう」
この声――教会の教祖だ。
だが、相手の声は聞いたことがない。
低く、乾いた声で応える。
「ああ、いいだろう。見目が良い者が多い。金持ちの奴隷として売りやすい」
――奴隷?
全身が凍りついた。夢であってほしかった。
だが、これは紛れもない現実だった。
「ただ、次はもう少し若いのを頼む。今は幼い子どもの方が高く売れる」
「……かしこまりました」
その言葉で全てを悟った。俺たちは“神の子”などではなく、“商品”だったのだ。
次々と子どもが抱え上げられ、階段の向こうへ運ばれていく。
――逃げるなら、今しかない。
俺を担ぎ上げた男の腕に、力の限り噛みついた。
「っ……てめぇ!!!」
怒声が響く。男が怯んだ隙に、俺は痺れた足を引きずりながら、階段を登って走り出した。
足が思うように動かない。息が荒く、視界が揺れる。
――これは、何か盛られたな……。
どこかに身を隠すしかないと、近くの部屋に転がり込んだ。心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴っている。
――この部屋で隠れられるところは…。
部屋を見渡したその時、背後から声がした。
「……お前は誰だ」
低く冷たい声。思わず凍りつく。
気づかなかったーー。
こんな時間に、こんな場所に人がいるとは。
部屋の奥に立っていたのは、見たこともない男だった。
威圧的な雰囲気。そして、その目は、まるで人間を見る目ではなかった。
――怖い。
なぜか、わからない。でも、身体が全身で「危険」だと言っている。
「お前、この教会の子か」
男は俺を軽々と抱え上げ、部屋の外へ出ようとする。
――まずい!外に出たらあいつらに見つかる!
俺は咄嗟にその腕に噛みついた。
「ぐっ……!」
男が苦悶の声を上げる。
その隙に逃げ出そうとしたが、薬のせいで力が尽き、膝から崩れ落ちた。
「――陛下!」
教祖の声が響き、駆け寄ってきた。
「例の件は、すべて終わったのか?」
「それが……この子が逃げ出しまして。今、ちょうど探しておりました」
「逃げ出す?」
その言葉に、男は、俺を値踏みするように見下ろした。そして、不意に笑い出した。
「ははは……実に面白い。そんな小さな体で、麻痺した足で、それでも逃げようとするとはな。私の腕を噛んでまで」
男は俺の髪を掴み、顔を上げさせた。
「――悪魔のような目をしているな、お前」
「…」
「でも、大層美しい顔だ」
その瞬間、背筋を冷たい刃でなぞられたような悪寒が走る。
これまでの人生、蔑みの視線は浴び慣れていた。だが、この目は違った。
獲物を見る目。――舐め回すような視線。
そして俺は、その夜、地獄を見た。
一晩中、抵抗できなかった。
恐怖で身体が動かない。息を殺し、ただ天井を見つめ、窓の外に浮かぶ月に祈った。
――早く、この地獄が終わりますように。
男は事を済ませて、部屋を後にした。
ベッドに横たわる俺の姿を見て、とても逃げられるような体力は残っていないと判断したのだろう。
俺に、残ったのは痛みと虚無だけだった。
けれど、まだ終わりではない。
今しかない。逃げなければ、俺は殺されるか、売り飛ばされる。
幸運にも、薬の効き目が切れ始めていた。
俺は血の滲む手で壁を掴み、高い柵をよじ登った。
針金が腕に食い込み、肌を裂く。
痛みはもう、感じなかった。そして、外へ飛び降りた。
「っ……!!」
足に激痛が走る。それでも走った。
どこへ行けばいいのかもわからず、ただ走った。
雪が降り積もり、真っ白に覆われた世界では、寒さが骨に染みる。
「……寒いな」
唇が震える。指も足も感覚を失い、息が白く散る。
空腹で、頭がぼやける。それでも、前へ。
だが、ついに力が入らず足が止まった。
そして、視界がぐわんと歪む。
――ああ、俺はこんなところで死ぬのかな。
冷たい雪が頬に触れる。
もう、呆れて笑う力も残っていなかった。
やっぱり、神なんていない。
もし本当にいるのなら――どうして俺を、こんな世界に生かしたんだ。
そして、意識は静かに闇に沈んでいった。




