解放
――ああ、どうして思い出してしまったのだろう。
あのまま、優しい夢を見続けていられたなら、どれほどよかったか。
しかし、現実は、容赦なく私を引き戻した。
デュークが、こちらを窺うように見ていることに気づく。
いつもの飄々とした彼とは違い、今は明らかに焦りの色を帯びていた。
「ソフィア様…、もしかして…」
「……」
私は答えられず、ただ、彼の顔を見つめることしかできなかった。
頭の中に押し寄せる記憶の濁流に、言葉を失っていた。
やがて、馬車がゆっくりと止まる。王宮に、戻ってきてしまったのだ。
「大丈夫……。すべて、終わりにするから」
私の言葉の意味を悟ったのか、デュークは息を呑み、目を見開く。
私は、そんな彼を置いて馬車を降り、一人王宮に足を踏み入れると、どこか騒がしい様子だった。
「ソフィア様が!お戻りになりました!」という声が響くと、奥から慌ただしく足音が近づいてくる。
「ソフィ!!!」
アルベルト様が、安堵の色を浮かべて私のもとへ駆け寄った。
そして、ためらいもなく私を強く抱きしめる。
「戻ってきたら、貴方がいなくて……心配したんだ。一体どこに...」
「アルベルト”様”」
「……?」
その一言に、彼の腕の力がわずかに緩んだ。私はその隙に、彼の体から静かに離れる。
「ソフィ……?」
「もう、こんな茶番は終わりにしましょう」
覚悟を決めて、彼の瞳を見据えた。そこには、昔と変わらぬ優しい眼差しがあった。
かつて、私を包み込んでくれたあの温かさ。
けれど、それも今日で最後なのだと思うと、胸が締めつけられた。
「もういいんです。そのようなくだらない演技はやめてください」
私は、手にしていた新聞を彼の胸に押しつけ、自室へと歩き出した。
背後で、彼は動けずに立ち尽くしている。早くこの場を離れたい。息が詰まりそうだった。
怖かったのだ。あの冷たい彼に、再び戻ってしまう瞬間を見るのが。
私はいつも、傷つくことから逃げてばかりだ。
「ソフィ!」
背後から彼の声が響く。足音が近づく。
――なぜ、追ってくるの。
振り向かず、私は廊下を駆け出した。
いつもは慣れ親しんだ王宮が、今はやけに広く、重たく感じる。
自室までの道が、こんなにも長いなんて。
「ソフィ!待ってくれ!」
声の距離がどんどん近づく。もう、すぐ後ろにいる。
「話を聞いてくれ!」
「っ……!」
次の瞬間、大きな手が私の腕を掴んだ。
――わかっていた。彼から逃げ切れるはずがないことくらい。
それでも走ったのは、ただ少しでも現実から遠ざかりたかったから。
掴まれた腕は熱く、動けない。それでも私は顔を背け、必死に視線を合わせまいとする。
「こっちを見てくれ……お願いだから」
「離してっ……!」
だが、彼は強引に私の体を振り向かせた。
壁際に追い詰められ、両肩を押さえられる。逃げ場はなかった。
私の顔を見た彼が、一瞬だけ戸惑う。
――見られたくなかった。泣いている顔なんて、絶対に。
「内心、笑ってたんでしょう?また簡単に貴方に恋に落ちる私を見て」
「……違う」
「それとも憎かった?都合よく記憶を失って、呑気に笑ってる私が」
「違う!ソフィ、聞いてくれ!」
「聞きたくないわ!」
怒鳴るように言い返す声が、震えていた。
記憶を失っていた間、私は多くのことを見た。祭りに溢れる笑顔。活気に満ちた街。
――あの頃にはなかった景色だった。
父の治世の最後の数年、街に笑顔はなかった。
私は、ずっと民のために生きている、民の苦しみも理解していると思い込んでいた。
けれど、それは傲慢な幻想だったのだ。
どれほどの苦しみが、あの王宮の外に広がっていたか――知った気になって、結局何も知らなかった。
父に暗い影があることも、うすうす気づいていた。それでも、見て見ぬふりをした。知ってしまうのが怖かったから。
ーー無知は罪だ。
私も、家族も。
恩恵の中でぬくぬくと生き続け、幸せを享受し、何も見ようとしなかった。
「最初は理解できなかった。なぜ貴方があんな裏切りをしたのか。父を殺して、母や弟まで……そこまでして王座を奪う意味が何なのか」
「……」
「でも、今ならわかるの。貴方が王になって、この国は生まれ変わった。まるで別の国のように、皆が笑って暮らしている」
深く息を吸い、私は彼を見上げた。
彼の前で涙はもう、流さない。私が泣く資格などない。
「ごめんなさい。私がずっと貴方を苦しめていたのね」
彼の表情がかすかに歪む。私は静かに言葉を続けた。
「……終わりにしましょう」
肩に置かれた彼の手を外そうとした。だが、彼はさらに強く握りしめる。
「ダメだ!勝手に終わりにするな!また飛び降りようとでもするなら、王宮のすべての窓を塞ぐ。死ぬ隙なんて、絶対に与えない。君を部屋に閉じ込めて、食事の時も眠る時も、俺がずっと一緒だ」
彼は、どうしても私が死ぬことは阻止したいようだ。
それもそうだろう。元々、王族の中で私が生かされているのは、王族の血を残すためだったのだから。
「安心して。もう死のうなんて思わない。でも…お願い」
私は静かに息を吐き、言葉を紡ぐ。
「ここから、離れて生きることを許して」
「……え?」
「一人になりたいんです」
「ダメだ。俺の見えないところへ行くなんて、許さない」
「辛いの。貴方の顔を見ることも、この場所で息をすることも」
もう、自ら死のうとは思わない。
――「何があっても――、貴方を信じている人がいるってこと、忘れないで」
こんな私でも、生きることを望んでくれている人がいると知ったから。
もう、何の意味もなく、簡単に死に逃げて楽になろうとはしない。
それでも、もう、この場所では生きることはできない。
私の全てを奪った人。
それでも、心の奥にはまだ彼への想いが残っている。
だからこそ、ここから離れないと自分を保っていられる気がしなかった。
「お願いです……どうか」
声が震える。彼を見ていると、痛いほど分かってしまう。
彼は、今も苦しんでいる。そしてその苦しみの原因は――私だ。
だからこそ、もう解放しなければ。彼の幸せのためにも。
――これが、私にできる最後の償いなのだから。




