満月の夜~喪失~
その朝、目を覚ますと、いつも隣で眠っているはずのアルベルト様の姿がなかった。
でも、別にそれは、珍しいことではなかった。
彼は軍の司令官として忙しく、朝早くから軍へ赴くことも多々あったし、特に最近は、彼が王宮を離れる頻度も増えていた。
その理由はわかっている。
父がまた戦を起こそうとしていたからだ。
さらなる鉱山資源を獲得するために、侵略戦争を仕掛けようとしていた。
近年、長く続いた飢饉の影響で、国民が苦しんでいるというのに。
このまま戦争になったら、さらに苦しい日々が続くことになる。
それでも、私は何も言うことはできなかった。
あの日、父の冷たい目を見て以来、反抗する勇気をなくしていたのだ。
だから、私はいつも祈ることしかできない。どうか、全てが上手くいきますようにと。
――どうか、誰も死にませんように。と。
昼過ぎ、政務に没頭していると、執務室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、父の側近イザークだった。
いつも冷静沈着な彼の瞳が、珍しく揺れている。
「ソフィア様、突然で恐縮ですが……お父上の代わりに、隣国の王女への親善訪問をお願いしたいのです」
「私が……お父様の代わりに?」
「はい。お父上に外せない要件が入りまして。ですが、今から訪問を断ることはできず…」
イザークの声はどこか急いていた。
いつもなら、何事にも計画的で慎重な彼が、今は焦りを隠せていない。
「いつ出発すればいいの?」
「……今から、です」
「え、今から?」
「明日の朝にはエーデル国に到着する必要がございます。ですので、今すぐ出発し、国境前のホテルで一泊していただいて、その後港から出る船に乗って向かえればと」
あまりにも急すぎる。それに、彼らしくない仕事の仕方だと思った。
イザークは几帳面で、雑な仕事を嫌うタイプだ。父のもとで働いているのを長く見てきたから、よくわかる。
そんな彼がこのような対応をするなんてーー。
だが、彼にはいつもお世話になっている立場だ。拒む理由がない。
「わかったわ。すぐに準備をするわ」
イザークは深く頭を下げたが、その表情にはどこか言い知れぬ陰があった。
それが何を意味しているのか…。この時の私は、まだ知らなかった。
私は、すぐさまイザークが手配した馬車に乗り込んだ。
急ぎの出発だったが、数人の騎士が同行している。
馬車の中では、侍女のイザベラが窓の外を見つめながら笑っていた。
「楽しみですね、ソフィア様。花の都に行けるなんて!」
「……花の都?」
「ええ。エーデル国は四季の花が咲き誇る国。まるで楽園のようだと聞きました」
彼女の無邪気な笑顔に、私の胸のざわめきは少しだけ和らいだ。
彼女は、ホテルに到着するまで、そのまま話に花を咲かせていた。
国境付近のホテルに到着したのは、夕暮れ時だった。
部屋の窓から見える海には、夕陽がゆっくりと沈みかけている。
都心部から離れた場所で、辺りは閑散としていて、まるで現世から隔離されたような、そんな場所だった。
私は息を吸い込み、海風にあたりたくなり、冷たい風に誘われるように、浜辺へ足を向けた。
夏であれば港町として、もう少し栄えているはずだが、夏の終わりを迎えた港には、人の気配がなかった。
少し歩くと、一人の女性が立っているのが見えた。
黒い衣に身を包み、胸には白い花を抱いている。
彼女は、海の先を見ており、私には気づいていないようだった。
「あの……」
声をかけると、女性は驚いたように振り返る。その瞳は、悲しみを湛えていた。
「…旅行者の方ですか?」
「ええ、まあそんな感じです」
「珍しいですね。こんな時期にここに来るなんて」
自分の正体を明かすわけにいかないので、それとなく彼女の言葉に合わせる。
「こんな時間に、何をなさっていたんですか?」
「弔いです。祖国の女王が亡くなられたと聞いて……。私たちの国では、花を海に流して魂を弔うのです」
そう言って、彼女は花をそっと波間へ放った。花は波に揺られ、夜の海へ静かに消えていく。
「そんな慣わしがあるんですね。ちなみに、ご出身は?」
「エーデル国です」
「……え?」
一瞬、自分の聞き間違いかと疑った。
でも、彼女は間違いなくエーデル国と口にした。私は確かめるように続ける。
「女王が……、亡くなられたんですか?」
「ええ、一週間ほど前に」
私は頭の中が真っ白になった。
――亡くなっているのなら、なぜイザークはあんなことを言ったのだろう。
目的の人物がこの世にいないのだ。私が、エーデル国に出向く理由がない。
――何だか嫌な予感がする。
ひとまず、王宮に戻ろう。
急いでホテルに戻り、荷物もそこそこに馬車を手配した。
イザベラたちに伝える暇もなかった。手紙だけを残して、私は夜の街を後にした。
馬車の外の景色が段々と見慣れた風景に変わっていく。
――あと少しで王宮。そんな矢先だった。
――ゴトンッ!
激しい衝撃とともに、馬車が前のめりに大きく揺れた。
思わず体を支える。胸の奥で、ざわりと不安が波打つ。
ほどなくして、外からノックの音がした。窓を開けると、運転手が困惑した顔で立っていた。
「どうしたの?」
「すいません。車輪が抜かるみにハマりまして…。少しお時間いただくかと」
「…いいわ。ここで、降ろして」
「でも、お一人では危ないですよ」
「大丈夫よ。もうすぐそこだし。誰も私が王女だなんて気づきはしないわ」
ここで時間を取られることの方が惜しかった。
それに、王宮の近くの道は、幼い頃から何度と通ってきた。
大人には内緒で、ウィリアムと駆け回ったり、木に登ったりして遊んでいたのだ。
だから、知っている。王宮に近づく誰も知らない近道を。
この場所からなら、その道を使った方が速い。
私は裾をつまみ、林の中を急ぎ足で進んだ。
やがて木々の隙間から、王宮を囲む白い壁が見えてくる。
「…やっぱり、まだあった」
茂みに隠された大きな穴。
かつて、外に抜け出すために使った秘密の抜け道。
身体をかがめて中へ入り、裏口へと向かう。
その瞬間、ふと肌を刺すような違和感に気づく。
――何だろう。この静けさは。
裏門には、いつも立っているはずの護衛騎士の姿がいない。
あたりに、全く人の気配がしなかった。
――何かがおかしい。
嫌な予感を抱きつつも、私の足は王宮の中に向かった。
重い扉を押し開けた瞬間、鼻を突く鉄の匂いが流れ込んだ。
「…っ!!」
目に飛び込んできたのは、惨憺たる光景。
騎士たちは山のように倒れ、あたり一面には赤い血が飛び散っていた。
足が思わず怯み、恐怖のあまり息が詰まりそうになる。
すぐに引き返そうとした時、奥の方から、あの人の声が聞こえた気がした。
私をいつも安心させてくれる、あの穏やかな優しい声が。
震える足で廊下を進むと、玉座の間の扉がわずかに開き、
その隙間から柔らかな光が漏れていた。どうやら、あの部屋から、声がするようだ。
――アルベルト様がいる。
今、ここで何が起きているのかは、わからない。
でも、彼がいる場所に行けば、この胸のざわめきが落ち着くような気がした。
玉座の間に向かう私の足は、どんどん速くなる。彼に「大丈夫だ」と言って抱きしめてほしい。
その一心で、扉を押し開けた。だが、そこには思いがけない光景が広がっていた。
玉座へ続く階段の途中――父が、胸を真紅に染めて倒れていた。
血が絨毯を濡らし、ゆっくりと広がっていく。
「お、お父様…」
震える声が漏れる。そして、その上段、玉座の前に立っていたのは、血の滴る剣を握る、アルベルト様だった。
信じられなかった。どうか悪い夢であって欲しいと願った。
けれど、彼のこんなにも冷たい瞳を見たのは初めてで、それが、これは現実なのだと全てを物語っていた。
「…アルベルト様?」
私は、驚きのあまり、その場に立ち尽くすことしかできない。
―どうして、どうしてあなたがそこにいるの?
そう聞きたいのに、言葉にできなかった。
彼は、コツ、コツ、と階段を降りながら、私へと近づく。
その足音が、胸の鼓動と重なり合う。そして、私を見下ろすように立ち止まった。
「なぜ、戻ってきてしまったんですか」
唇の端に浮かんだのは、皮肉めいた笑み。
こんな風に笑う彼を私は知らない。まるで、知らない人のようだった。
「王女を監禁しておけ」
「…え?」
言葉の意味を理解する前に、背後から腕を掴まれた。
兵士たちが私を押さえつけ、扉の外へと引きずる。
「待って…!アルベルト様!説明して!どうしっ…!」
彼は私に背を向けて、どんどん離れていく。
そして、彼を取り囲む兵士たちに命令していた。
――「王族の血が流れている者は、残らず探し出せ」
私の叫びは、虚空に吸い込まれていった。
声は届かず、ただ冷たい沈黙が返るだけ。
「アルベルト様っ!!!」
いくら叫んでも、私の声は届かない。なぜ、どうして、と疑問ばかりが、頭の中に残る。
そして、彼の遠くなる背を見たのを最後に、扉は閉じられてしまったーー。
それから、私は地下室のような場所に閉じ込められていた。
灯りのない部屋で、時間の感覚はすぐに失われ、食事は1日に3度運ばれてきたが、どれも喉を通らなかった。
外では、何が起きているのか。ここでは何もわからない。
父上が殺された。それも、アルベルト様の手によって。
母は、弟は?他の親族たちは…、無事なのだろうか。この国の行先はどうなってしまうのだろう。
月明かりが小さな窓から差し込むたび、私はただ、祈るしかなかった。
――どうか、皆、無事でありますように。
しかし、その願いは残酷に砕け散った。
革命軍の名のもとに、アルベルト様は王族を一掃した。
私を除いて――すべて。
どうやら、王国の軍隊たちは、アルベルト様の手により、水面下で統率され、アルベルト派を確立していたようだった。
王を討った者が罪人ではなく、新たな王として迎えられた。
それは、つまり国民が革命軍を正義だと判断したという事だ。
父を倒したアルベルト様は、これまでの父の圧政に耐えかねていた国民の、英雄になったのだ。
極度な資本主義により、貧困層はその日食べる物にも不自由する生活。
そして、度重なる領地獲得のための戦争。
国民が苦しむのに反比例するように、王族は富を蓄えていた。
そして、何より父の大きな罪。それは、密かに孤児たちを集め、奴隷として他国に捌いていたことだった。
そこから巨額の富を得ていた。
ただでさえ、民たちを苦しめ、富を得ているというのに、なぜそのようなことをしていたのかは、今となってはわからないーー。
――私は、何も知らなかった
いや、正確には知ろうとしなかった。ふとした瞬間に見せる父の暗い影に。
反逆者であるアルベルト様は新しい王となった。
そして、王族は裁かれるべき罪人に、私はその唯一の生き残りとなった。
それが、この革命の答えだった。




