ヒーロー
誰からも救われない
いつからかそう強く感じるようになった。
仮に私が地獄の窯の底に叩き落されたとしても、引っ張り上げるために精一杯手を伸ばす者は存在しないだろう。
そもそも白馬の王子様を待ち続けることが間違いなのだ。
どこまでいっても人はひとり、自分のことは自分で解決するべきだ。
そのはずなんだ
「6時ぐらいまでにはもどるから」
私はそう言ってつま先をトントンと地面に叩きつけ、少しちいさい靴に足を半ば強引に押し込む。
「いってらっしゃいね」
外へとつながるドアに手をかけた瞬間、気の抜けた声が後ろから響く。
一瞬ピタリと動きを止めたが、それを振り払うように曇天広がる空の下に足を運んだ。
「お母さん…?」
頭から鮮血を流しながら私の部屋で倒れる母を見たのが何年前になるか。
いつの間にか駆け付けた救急隊員。担架に乗せられて大人たちに囲まれながら救急車の中に運び込まれた。私は真っ赤な光と暗闇を交互に浴びながらその様を見つめていた。
母はそのまま入院した。その日、診察室の照明を眩しく感じながらその旨を伝えられたんだ。さらに、後遺症が残る可能性があるということ。
私は心臓が強く胸を打つ感覚を覚えながら無言で俯きながらそれを聴いていた。
それからしばらくは一人で生活して…お母さんが戻ってきて…脳に異常が残ったままで…そして…
とっても安心したんだ。
脳みそを目的もなく動かしながら歩いていると、今日のアルバイト先に到着する。
そのまま足を止めることなく大型ショッピングモールのスタッフ専用の入り口に向かう。幾度となく訪れた経験がある商業施設。スタッフとして踏み込むのは初めてで、好奇心に少し胸を躍らされる。
初めての空間に右往左往しながら、自動販売機でオレンジジュースを買って、やっとのおもいで目的の場所に着いた。そうして指定されたスタッフルームのドアをノックし、失礼しますという言葉と軽い会釈を交えて入室する。
「ああ、こんにちは。ありがとう来てくれて。これから3日間よろしくね」
大きな声でそう言ってひとりの男が笑顔で私に近付いてくる。綺麗な円を形作っている眼鏡をかけ、皺ひとつないワイシャツを小太りな身体に纏わせている。いかにも中年という見た目で、出で立ちからは清潔さにあふれて不快さを感じることはない。
「よろしくおねがいします…」
私はぺこりと頭を軽く下げて、小さな声であいさつをする。しまったと頭に後悔の言葉が浮かんだが無理やり思考の端に追いやった。
「これからもう一人来る予定だからさ。それまでゆっくり待っててよ。ほら、座って」
そう言って近くのパイプ椅子を差し出してきた。ありがとうございますと喉が震えない声で返して大きな音を出さないようにゆっくりと座る。
それからは、逃げるようにスマートフォンをポケットから出して、大して用もないのにせわしなく指と視線を画面に走らせた。
スマホに集中していなことを悟られないように目の玉だけを動かしてちらりと男の方を見る。男は少し残念そうな顔をしたかと思えば、飲みかけのペットボトルの水をグイッと一口飲んで、長机に置いてある資料に目を通し始めた。
そうして静寂の中、もう一人のアルバイトの子を待ち続ける。ひどい沈黙を苦痛に感じながらただ時間がすぎるのを待った。
「じゃあ二人は今日から二日間、イベントスタッフとして働いてもらいます」
私ともう一人のアルバイトの子が横に並んで座り、長机を挟んで眼鏡の男が座って説明を続ける。
「基本的にはお客さんの誘導とグッズの商品陳列かな。これからは会場設営して明日にはお客さんの対応、それに加えて撤収の作業もしてもらいます」
応募の時に目にした内容を耳から吸収する。正直退屈だ。わかっているから早く準備して早く帰らせてほしいと思ってしまう。
いや、帰りたくはない。
業務内容の説明を反対側の耳に逃がしながら時間を過ごした。その後設営に取り掛かり、業務終了時間の17時30分を迎えた。
「ありがとう二人とも。明日も同じ時間に集合よろしくね」
そう男から言われその日は退勤となった。もう一人のアルバイトの子とはほとんど話さなかった。私はそういう人間なんだ。どこまでいっても人はひとり。そのはずだ。
そんなことを考えながら帰路についた。
ガチャ
帰宅の言葉も言わずに自宅のドアを開ける。鍵を玄関の棚に置いて、サイズの合わない靴を足の痛みと共に脱ぎ捨てた。上着をポールハンガーに掛けて洗面所にまっすぐ向かう。石鹸で丁寧に手を洗いながらこれから起こることに辟易してしまう。
「おかえり」
私の辟易の元凶が背後から声をかけてきた。私は顔をしかめながら石鹸を洗い流してタオルで手を拭う。そしてゆっくり振り返ると、縮れた白髪が特徴的な老いた女が目の前でニコニコと笑いながら立っている。私の母だ。白髪の隙間からかつての傷を縫った跡が嫌でも目に入る。
「ご飯出来てるわよ」
優しい声で母は言う。それを聞いた私は心の底から不快感がこみ上げたのがわかった。顔にも出ていたと思う。
「ご飯…つくったの…?」
NOの返事を期待しながらゆっくりとききかえす。
「うん!だって疲れてると思ったから!」
返事は私にとって残酷なものだった。それを聞いた私はすぐさま早歩きで台所に向かい、テーブルの上に並べられた食事を穴が開くまでじっくりと観察した。ひととおりの検査のち、次はゴミ箱のチェックに移る。これはもやしの袋で…こっちは豆腐の…これは豚肉の…アウトだ…。
ゴミ箱のふたを戻し、立ち上がって犯人の女に目を向ける。
「勝手に料理するなって言ったよね?」
怒りが抑えきれない。この女の顔を見るだけでイライラしてしまう。
「え…そうだったかしら…でもがんばったのよ」
「がんばったとかそういうことじゃない!」
最後の言葉に被せて押さえつけるように声を張り上げてしまう。こっちは必死なのにこいつはいつまでも花畑を脳内で栽培してると思うと腹ただしいんだ。
瞬間的に怒りのボルテージが上がってしまったが、それも長くは続かない。数秒すると少しずつ激情が私から離れていくのを感じた。
「これは私が食べておくから…こっち食べな。お弁当買ってきたから…」
一刻も早くこの女を寝かせたい。そのためにさっさと食事をさせて着替えさせるのが吉だ。弁当を電子レンジに叩き込み、この女をキャスター付きの椅子に座らせる。
長いのはそこからだ。とにかく食べるのが遅い。私に対する嫌がらせなのかと思いたくもなる。しかも片時も目は離せない。食事をさせて風呂に入れさせ、母が寝床につく頃には22時をまわっていた。
そこから私の時間が始まる。とは言っても何か有意義なことをするわけではない。ご飯を食べて風呂に入って寝るだけだ。ただそれだけ。
私が食べるために買っておいたお弁当を電子レンジに入れて温めスタート。それが終わるまでにあの女が作った料理の後始末をすることにした。
全て捨てる。コンビニでもらって保管しておいたレジ袋を取り出し、ボトボトと音を立てながら欠片も残さずにその中に突っ込む。
「もったいないな…」
そう口にして皿を空っぽにし、袋を縛って生ゴミとして処理をした。
「次からは腐ってるやつはすぐに捨てないと…」
過去の自分の怠惰を呪いながら半額で購入したハンバーグ弁当を頬張る。
明日のせわしない時間を想像しながら目を閉じた。
その日の夜、奇妙な夢を見た。
私が台所でいつも通り料理をしていると、途端、後頭部に衝撃が走り、痛みへと変わった。それはすぐに脳髄を埋め尽くすように同心円状に広がり、瞬く間に私を地に伏せさせた。
気を失いそうになりながら震える手で後頭部を触ってみると、ヌメりと海藻を触ったような感覚。
恐る恐る手を眼前に持ってくると、真っ赤な液体がべっとりと掌に広がっていた。
なんでこんなことに。呼吸を乱しながら視線を上にやると、何度も見た白髪が生えた女性がこちらを見下ろしていた。
その目は人間とは思えない、縮小した瞳孔をじっとこちらに向けていた。
「こんにちはー」
翌日、来場者を淡々と誘導していた。
その客は子連れがほとんどで、子供は無垢な笑みを浮かべながら母親や父親と手を強く握り、てこてこと会場内に入っていく。
このイベントは今放送されている戦隊ものの特撮イベントだ。それゆえ男児が大半を占めているが、ちょくちょく女児もいる。
きっと楽しみで昨晩は中々寝付けなかっただろう。口角を上げて、これから目にするものに声を上げて、心を大きく弾ませる準備をしているように見える。
「真剣戦隊、セイバージャー参上!」
その声が大きく響いた瞬間、それに負けじと子供たちの歓声が会場を揺らす。
「また悪さをしているのか!怪人ピストルン!」
真っ赤なスーツを身にまとい、装飾が施された剣を右手に持ったセイバーレッドが片腕に大きな大砲のような銃を携えている敵役の怪人を指差した。
「今成敗してくれる!行くぞブルー、グリーン、ピンク、イエロー!」
そう高らかに叫んで五人のヒーローがピストルンに向かっていった。
「みんな!セイバージャーを応援してー!!」
司会のお姉さんが民衆に向かって大きく呼びかける。それと同時に
「セイバージャー!」
「がんばれー!!れっどー!」
「まけるなー!!」
子供とその親の黄色い声が響き渡る。
私はその様を一番後ろで気の抜けた表情で眺めていた。
戦隊もの、私も小さい頃は見てた。ピンチになった時に助けに来てくれるのが見てて爽快だった。
「キャー!」
突如、女性の悲鳴が上がる。司会のお姉さんに突き付けられる大きな銃。人質である。
「くう…悪党め…卑怯なり…!」
これにはさすがの正義のヒーローも動けない。
「ここでこのお姉さんを撃って、そこのみんなもやっつけてやる!」
ピストルンが聴衆に銃口を向けての威嚇。子供の怯える声が聞こえ、親たちもそれに合わせて「怖いー」と言う。
「そうはさせない!みんなは私が守る!」
レッドがそう言うと、ピストルンの脅威を遮るようにセイバージャー五人がステージから降り、聴衆を背に凛々しくピストルンの前に立ちはだかる。
「おっと!余計なマネしたらこのお姉さんを撃っちまうぞぉ?」
「くっ…みんな力を貸してくれ!」
そう言って観客に振り返る。
「みんなの思いが俺たちを強くするぞ!」
「みんな!もう一度!大きなファイトを送ってくれ!」
今までより一回り大きい子供の声援が衝撃波となってヒーローに飛んでいく。
ビリビリと空気が熱く重くなっていく気配を強く感じる。クライマックスだ。
「セイバースティーング!!」
大きくパワーアップしたヒーローたちが全員でそう叫ぶと、ステージに飛び乗り、ピストルンを剣で突き刺した。
怪人はそれに合わせて吹きとび、大きな声と共に倒れ込んでそれきり起き上がらなくなった。
「私たちの勝利だ!みんなありがとう!」
天に拳を掲げて力強く叫ぶレッド。
それと同時に会場から歓声と拍手が沸き上がり、この舞台はフィナーレとなった。
その後は私たちの出番である。客とヒーローの撮影の手伝い、物販のスタッフと、忙しいのはここからだ。
終わらない客の雪崩をひたすらにレジでさばいていく。
商品を受け取る、レジに通す、お金を受け取る、おつりを渡す、商品を受け取る、レジに通す、お金を受け取る、おつりを渡す。
五分も経たずに作業化された動きを無心でこなしつつ、この私にとっての怪人たちが去るのをひたすらに待ち続ける。
そうして雪かきも終盤に入り、列の終わりが見え始めた。最後尾に就業時間という文字まで見える。もう少しだ。あと少しだけ頑張ればここから脱出できる。
帰ったらまずご飯作って、あいつを寝かせて、久々に映画でも見よう。見たい映画があるんだった。外国のヒーローもの映画で…
「ん?」
思考を遮って目の端に小さな男の子が映る。見たところまだ未就学児で、付近に親と思わしき人物は見当たらない。
迷子なのだろう。同じぐらいの年齢の子もいるといえど、周りは知らない大人ばかり。彼の孤独と焦燥感は計り知れない。
でも…なんとかなるだろう…。親御さんが今探しているはずだ…。人は徐々に減りつつあるんだから焦らなくてもその内…見つかって…。
ひとりでも…。
「お母さんしばらく入院するしかないね」
嫌な記憶が蘇る。
「どこか住めるとこある?おばあちゃんの家とか?」
いない。そんなのいない。
「ないなら福祉施設とかに…」
「だいじょうぶです…」
「ひとりで…だいじょうぶです…」
「ひとりで何してるの?」
しゃがんで泣いている子と目線を合わせ、声をかけてしまった。その子は一瞬不思議そうな顔をして私の顔を見た後、ゆっくりと口を開いた。
「お母さん…どこか行っちゃった…」
目に涙を浮かべ、頬を腫らしてかすれる声でなんとかコミュニケーションを取ろうとしてくれる。
「そうなんだ…。じゃあ、お姉さんと一緒に探そっか!」
ぎこちない笑顔をなんとか作って笑いかけた。少年の顔は全く晴れない。ちょっとショックだ…。
でも…私が不安な顔したら…この子まで不安になってしまう。
感情は伝染するんだ。
なんとかその笑顔を保ったまま、立ち上がって少年の手をがっちりと握る。その笑顔は傍から見ても下手くそだとわかるだろう。しかたない、笑うのなんて久しぶりなんだから。
「とりあえず、ぐるっと回ってみようか!」
そうわざとらしく大きな声で告げて一歩目を踏み出す。少年はうんっと呟いて短い脚を弱々しく動かし始めた。
「お母さん、どんな人?」
「優しいけど…怒ると怖い…」
私が聴きたいのはそっちじゃなくて身体的特徴だった。探す手掛かりになるから。でもこれは私の訊き方が悪かった。
「そうなんだ。じゃあ、お母さん今日はどんな服着てるかな?」
「…忘れた…」
予想はしてたがこうなるとまずい。でも、向こうも探しているはずだからその内見つかるはずだ。きっと。
「…何歳なの?」
「5歳…」
「そっか…もうすぐ小学生かな…?」
「うん…」
「そっかあ…」
場を繋ぐだけの会話だが、私はこれが死ぬほど苦手だ。ましてや子供相手となるとどうすればよいのかさっぱりわからない。
刹那、絶対に飛びつくであろう話題が脳天に叩き落される。
「セイバージャー…好き?」
これは最適解だとわかった。セイバージャーが好きじゃないわけがない。これなら肉を食らう猛獣のように貪るはずだ。
「うん…好き…」
「んーどんなところが?」
「かっこいいから…」
「そっかぁ…」
思ったより食い下がらない。それもそのはず、この子にとっては私は一種の不審者だ。
内容どうこうというわけじゃない。
私が悪いんだ。
それきり話しかけることはしなかった。慣れないことをするものじゃない。愚行だった。
どうして声をかけたりなんてしたんだろう。私には重荷だった。
誰かを助けるってすごく難しい。
今日はダメな日だ…。
これからの人生も…こんなことばっかり起きるんだ…。
私はいつだって…
「あ、ママ!」
私の心の声を遮って、心細い思いをした男児が私の手を振り切って一目散に走りだす。
向かった先には目に若干涙を浮かべ、大きく手を広げて男児を歓迎する若い女性がいた。
その親子はしばしの別れを嘆き、再開を噛み締めているようである。
見つかったなら…良かった。
私は踵を返して逃げるようにそこから離れた。
勝手に持ち場を離れてしまった。怒られるかな。大人しく与えられた業務だけこなしていればよかった…。
ネガティブに頭を働かせながらレジに戻ったが、何やら違和感がある。
目に移った光景に思考をストップさせられた。レジに目を移す。見慣れた白髪の老婆が何やら購入していた。
「嘘…」
なんでここに。家にいるはずなのに…。どうして。
私はすぐさまその老婆に駆け付けて、震えながら口を開く。
「何してんの?」
そいつはまるで自分は無罪だと主張するように理解が追い付かない顔を作り、頭の上にクエスチョンマーク浮かべていた。
「え!?どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだよ!」
こいつの脳内の花を踏みつぶすように声を荒げる。余計な仕事を増やしやがって…。
「あ、あの…」
傍のレジに立っているもうひとりのアルバイトがビクビクしながら声をかけてきた。
その一言で自分が仕事中であったことを思い出す。
心の中で深呼吸をし、燃え上がる情火の火種を素手で抑えつけて消化する。
「とりあえず、向こうにベンチあるでしょ…。あそこで座ってて…後で迎えに行くから…」
「え…どうして…」
「いいから…!」
まだ客が残っている。声のボリュームを下げて怒りのこもった返事をして、手を強く握って強引にベンチまで誘導した。
ゆっくりとベンチに座ったところを見届けると、私は業務に戻った。
客が全員会場から姿を消して、片付けの作業に入り始めたところでもう一人のアルバイトの子が声をかけてきた。
「あの…さっき…大丈夫でしたか?」
声は若干震えている。
「大丈夫ですよ…ありがとうございます…」
「知り合いなんですか?あの人」
一瞬戸惑った。しばらく
「…いや…知らない人です…」
「そう…なんですね…」
ばつが悪そうな顔をすると、そのまま業務に戻ってしまった。
知らない人…。…知らない人なんだ…。
「ありがとうございました」
終わった。2日間の労働がようやく終わりを迎えた。かなりめんどくさかった。早く帰りたかった。これで多少生活費が稼げた。早く就職しないといけないけど…。
脳内麻薬を少しだけ分泌しながらベンチに向かう。今日は穏やかな気持ちで帰れるかもしれない。映画見たいし。帰ったらゆっくりしよう…
「あえ?」
ベンチに着いたところで間抜けな声が出た。それもそのはず、そこにいなければならない人間がいなかった。
「どっか行っちゃった…」
また仕事が増えた。なんでこう上手くいかないんだ。でも、私が悪い。頭に血が上ってて適当な指示を出してしまった。
「探さないと…」
こういうことは今に始まったことじゃない。何回もあったのに、同じ回数過ちを犯す。
大抵は日付が変わったころに近くの交番に行くとそこにいる。恐らく今日もそうなるだろう。
それを想像した途端、気分が急降下するのが感覚として理解できた。明日も別のバイト入れてるから、映画鑑賞をすると言えど夜更かしは出来ない。
それを避けるためにとにかく探すことにした。多分見つからないと思うけど、わずかな希望に手を伸ばすのだ。
やっぱりこうなるのか。気分よかったのに…。
あいつのせい…じゃない…。
あいつは悪くない…。悪いのは脳だ…。脳で…私で…。
私がだらしないからこうなって…。
いつも寝る前に考えることをまだ日も降りていないのに頭に巡ってしまう。これも全部…。
こんなことを考えながら探しても見つけられやしない。
びっしょりと濡れて重くなった脳みそを絞って余計な情報を落とす。
「とにかく探さないと…」
モール内の隅まで目をギョロリと光らせる。早歩きで歩いているものだから足に疲労が溜まっていくのが感覚として理解できる。
いない。いない。どこを探してもいない。何千回も見てきた姿だ。見落とすわけがない。既に外に出たのか。
最悪だ。
結局モール内では見つけられなかった。今は帰路についている。一回家に戻っていないかだけ確かめて、いなかったら警察に来てもらおう。
足取りが重い。頭がスムーズに働かない。今日はいい日になると思っていたのに、やっぱりだめだった。
これからのことを思うと深いため息をついてしまう。
猫背をただすことなく住宅街を抜けていく。もう周辺に飲食店などの店はなく、民家しか見えない。
迷路のような道のりを歩き続け、ここを曲がれば家まであと少し―
「え…」
目の前にいたのは何千回も見た老婆だった。なんでこんなところに。吃驚と安堵が交じり合った螺旋状の感情が芽生える。
よく見ると、彼女はちょこんと立っている男児と、女性にしては背の高い母親と思わしき人物と向かい合ってっている。
女性は何度も頭を下げており、私の親は終始笑顔。少々距離が開いているため、会話の内容を正確に聞き取ることは出来ない。
なんだか今出て行くのはダメな気がする。いわれもない不安に駆られてバレないように影から見守ることにした。
「本当にありがとうございます…ほら、お礼…!」
「ありがとーございます!」
「子供って目離すとすぐどこか行っちゃうし仕方ないわよね。とにかく無事でよかったわぁ」
「きちんと言っておきますので…本当にありがとうございました…」
…。そっか…。
やっぱりそうなんだ。
最後に深く頭を下げて親子はその場を離れて行った。家に帰って温かい食事を摂るのだろう。それと入れ替わるように私は老婆の前にしゃなりしゃなりと後ろから忍び寄った。
「ねえ」
その勢いで声をかけ、振り返ることを促す。こちらの思惑通りに振り向いた。一瞬不思議そうな顔をしてまたデフォルトの笑顔に戻る。
「ああ、こんなところに!探したのよ!」
探しただろうなあ。
「うん、ごめんね勝手にいなくなって」
「昔からそういうところあるんだからぁ」
「うん、もう帰ろっか。母さん」
何その顔。鳩が豆鉄砲を食ったような顔っていうのかなそれ。
「あ、そうだ」
おもむろに財布を取り出して中身を確認する。たくさんはないがこれなら足りるだろう。
「なんか、食べて帰ろっか」
「ええ、でももうこの辺にお店なんてないわよ。それとも戻る?」
「うん、わざわざ戻ろうよ」
「…たまにはそういうのもいいわね…なに食べたいの」
私の提案は快く承諾された。
家に帰ったのは日が落ち切り、辺りが黒く染まった後だった。
母さんを風呂に入れ、着替えさせ、寝かしつける。満足そうな顔をして就寝していた。
私もそろそろ寝ないと。食べ過ぎてちょっとお腹痛いし。もう眠い。パチッと電気を消して布団を大きく被り、体を丸める。
おやすみ
カチッカチッっと時計が鳴る音だけがこだまする。
いつもそうだ。中途半端な時間に起きるんだ。最後に熟睡したのはいつだったかな。暗い。秒針の音以外は何も感じない。自分の部屋なのに不気味だ。
まるで別の空間みたいな。
とりあえずもう一度寝よう。起きてたら目が覚めてしまう。そう思って布団をまた大きく被ろうとした。
あれ…?
目が少し暗闇に慣れた頃合いに奇妙な影が視界に映った。部屋の隅にある、四角くて、小さくて、見覚えがある。でも、私の部屋にそんなものはなかったはずだ。
なにあれ…。
電気を付けよう。リモコンが、ない…。あれ、なんで。いつもここに置いてるのに。床に落ちた?そう思って床をまさぐってみるが、なんの感覚もない。なん、で。最近リモコン操作式に変えたのに…もう失くした?…仕方ない。明るくなったら探そう。暗いけど、先にこっちを解決しよう。
背中に形容しがたい感覚を背負いながら、布団を体から剥がし、ゆっくりとその物体に近付く。なんか怖い。足元は暗くて見えないが、重い足取りで感覚を頼りに歩を進める。
その物体の下に辿り着いたころには目は完全に慣れていた。これは…
「テレビ…?」
テレビだ。それもアナログ式にひと昔前のタイプ。こんな古いテレビを使ってる家庭なんてないだろう。なんで…私の部屋にはテレビなんてない…はず…。
違う…昔…私の部屋にはテレビがあった。これで良くアニメを見てた…。でも、時代の流れで使えなくなって…捨てたんだ…。捨てたのに…
「なんで…あるの…?」
全身の毛が逆立った。ないはずのものがある。その感覚に強い恐怖を覚えた。
夢かな…。でも、夢って感じがしない。意識ははっきりしてる。
テレビ…付けてみよう…。スイッチ…ここだ…
カチッ
「…戦隊!…ジャー!参上!」
音声が途切れてる…。もう古いからかな。画質も悪い。でもこれ、見覚えがある…。
「くう…悪党め…卑怯なり…!」
私が記憶の糸を辿っている間にもテレビショーは続く。この武器を使わず素手で戦うスタイル…
思い出した。
私が子供の頃にやってたヒーローものの特撮…。なんで今やってるの…。これはとっくの昔に終わったはず…。
あれ、このカーペット…私が子供のころに使ってたやつ…。これももう捨てたのに…。
おかしい、この部屋。
「この正義の鉄拳で二度と悪さが出来ないように成敗してやる!」
怖い。夢であってほしい。体がぞわぞわする。寒い。どうして…
「あ…ああ…」
誰の声?後ろから聞こえる…うめき声…苦しそう…。怖くて振り向けない…。脚が震える。でも…振り向かなきゃ…ずっとここで立っててもだめ…。ゆっくり体をひねれば大丈夫…。
ゆっくり…
ゆっくり…
「もう少しだ!相手は弱っているぞ!」
ゆっくり…
「え…?」
暗くてはっきりとは見えない。でも…
「お母さん…?」
黒い髪から何やら液体を垂れ流している女性が床に横たわっていた。その液体は頭を伝い、カーペットをひどく汚している。顔は母親そのものだった。
「あ…あ…あ…あう…」
え、え、え、え…?血?なに、これ…。
その時
「あ!?」
ギィンとしたひどい頭痛が私を襲った。思わず頭を抱えて目をぎゅっと瞑る。
な、いっ…。うう…。目を瞑っているのに、部屋は暗いのに、鮮明な景色が視界を奪う感覚。
暗がりの灯
羽の生えた小さな犬
じっと向かい合う二人の少女
大きな王冠とそれを両手で力強く握る少女
それをもう一人の少女の頭にそっと飾る
真っ赤なワインをがぶ飲みする長髪の女
快晴の空
影からこちらをじっと覗く影
「悪党を倒したぞ!正義の鉄拳は必ず勝つ!」
必ず勝つ
必ず…
「そうだ…」
「そういうことだったんだ…」
「あっ…え…」
長らく意識を失っていた気がする。
目を覚ます
私の部屋じゃない
でも匂いは私の家だ
立ったまま気を失ってたのか…?
いよいよおかしい…
状況を整理しようと周りに目を…
「え…」
「母さん…?」
足元に目をやると、白髪が生えた母親が床に横たわっていた。胸からはさきほど見た光景と同じように液体を垂れ流している。
「え、え…」
パニックになる。その時、自分の手のひらに違和感を覚えた。
手を震えさせながら手のひらを目の前に持ってくる。
「え…あ…え…?」
ヌルヌルとした液体を塗りたくったような手。私がいつも料理で使っている包丁がガシャンと床に落ちる。
母親は暗い虹彩とぴくりとも動かさずに散大した瞳孔をこちらにじっと向けていた。