プロローグ
濃紺のインクを流したような夜空に浮かぶ三日月を、たなびく雲が隠していく。
堅牢な二重の城壁に囲まれた広大な敷地の中に、壮麗な城とともに中世の面影を残した石造りの無骨な一画がある。その中で最も高くそびえる尖塔の中にある殺風景な部屋の中には、ほのかに青白い蝋燭の明かりがゆらゆらと広がっている。
*
「鏡よ鏡、この国で一番美しいのはだぁれ?」
その時雷鳴がとどろき、金の意匠で縁取られた豪華で大きな鏡の中に、ぼんやりと人のような影が現れた。
《それは女王陛下、あなたです。……と言いたいところですが、なぜ白雪姫が帰ってきているのですか?》
鏡の中の人ならざぬ者が言う。
「それよ…。」
女王は深いため息をつきながら額を指で押さえた。
「王子と喧嘩したらしい。」
《はい?》
「それはいいのじゃ。わらわもあの王子のことは良く思っておらぬからの。」
《姫も大概ですが?》
鏡が禁句を口にする。
ヴィルドゥゲン王国女王は、憂えた顔を長い指で覆った。黒いドレスの裾に縫い留められた小さな宝石が、月の光に照らされてキラキラと輝く。
そのいでたちは女王という立場にしては控えめで、それがかえって色白の細面に切れ長の青い目をした美しい顔を引き立てている。
女王は衣擦れの音をたてながら鏡の前を過ぎて、そばにある椅子に深く腰掛けた。
*
三日前、白雪姫が突然帰ってきた。
小人の家で過ごしていた時に隣国バード王国のヘッセン王子に見初められ、王子の国へ連れ帰られていた。それはほとんど誘拐に等しいものであったが、なんやかやあって白雪姫と王子は無事婚約した。
しかしあれから六年経ち、なにやら大げんかをして飛び出してきたらしい。
姫は帰ってから部屋に閉じこもり、理由も言わずわんわん泣くばかり。
女王が問うてみても『お母さまには関係ないっ、ほうっておいてっ!』ととりつく島もない。
*
《王子から迎えはまだ来てないですよね。》
「手紙は来ているようだが、王子本人からかどうかわからない。姫が破り捨てているのだ。ただバード王国の国王夫妻から私には手紙が来ている。」
《なんと?》
「白雪姫が納得するまでそちらに置いてほしいと。」
《それはていのいい……、いえ、なんでもありません。》
女王が深いため息をつく。
女王は肘掛けにもたれかかり、指に頬を乗せて眉間に皺をよせ、また深いため息をついた。
正式に婚約はしているものの、まだ白雪姫がまだ十四才と年若いため六年経っても婚姻はしていない。だから国と国の事情が変わったとして婚約を解消し、我が国に戻ってくるのも不可能ではない。
実をいうとその方が我が国としても好都合。
この国には跡取りとなる息子のディルク王子がいるがまだ幼く、国王が崩御した後は王妃が女王として跡を継いでいる。しかしそれもディルク王子が成年するまでのこと。成年すれば譲位するつもりでいる。
バード王国のヘッセン王子が白雪姫と結婚し、ディルク王子にもしものことがあれば、ほかの王族から後継を選ぶことになるだろうが、ヘッセン王子も名乗りを上げる可能性がある。
ちなみにヘッセン王子は立太子していないが第一王子であるので、いずれはバード王国の国王となる。
ヴィルドゥゲン王国はバード王国よりも大国なので、バード王国は涎を垂らしてヴィルドゥゲン王国を掌握することを待っている状態だ。
事実、ディルク王子はまだ十才に満たないのに何度も命を狙われた。
すべては白雪姫が突然家出し、偶然(?)にヘッセン王子と出会い婚約したことから始まった。
女王にとっては頭の痛いことである。