Dance for you
いつだって、鬱屈した気持ちを抱えている。
高校に上がってからは特にそうだ。これは、ただ思春期なら避けられない感情なのか。
脳天気を装っているように見える同世代を見れば、そうも思う。だけど、本気でお気楽に見える同世代を見れば、鬱々してる自分の方が馬鹿だって気がしてきて、やりきれない思いと、ちょっとの羨望を覚える。
だから、というわけではないけれど、私が同年代とつるむことはほとんど無い。仲良しグループだとか、部活だとか、そういう“眩しいモノ”に対する、自分でも上手く解きほぐせない感覚、感情、それはあえて言葉にするなら『恐怖にも似た拒絶感』とでもいうもの。きっとそのせいだ。
だけど私という人間は、苛立ちのままにアウトローや一匹狼を気取ろうとしてみても、結局は“逸脱”を恐れて“無難”に逃げている。その程度のものだ。その事実(あるいはただの思い込みだとしても)がまた、より深い鬱屈の沼に私を沈めていく。
――いけない。独りだとこんなことばかり考えてしまう。こういうときの思考は悪い方向への一方通行だと、さすがにもう知っている。
夕食を外で済ませるために、繁華街にほど近い路地を歩いている。会社帰りだろうか、スーツに身を包んだ人も散見されて、それなりの人通りがある。空は夜の紺色が、夏の太陽の強靱さに抗い始めていた。
前に家族そろって夕食を食べたのはいつだったろうか?
両親は私が幼い頃から仕事に忙殺されていて、そんな家庭環境が、こんなめんどくさい私を形作ったのではないか、なんて思わないでもない。でも、例えそうだったとしても。その“答え”が、今更私の何かを劇的に変えてしまうわけでもないのだろう。
ふと思い立って、普段使わない道へ入ってみた。ぱっと見、どこも似たように思える都会の街並み、それでも、アパレル、アクセサリ、メガネ、テナント募集。そんな、見たことのない店構えは新鮮に感じられる。
そうして歩いていると、地下へ続く階段の手前、一つの立て看板が目に入った。
『クラブ風カフェ』
その下に書いてあるのが店名だろう。以下――全面禁煙。各種ノンアルコールドリンク、軽食ありマス。コーヒーやカクテル、軽食の写真。密を避けるため入場制限を行っております。ご理解とご協力をお願いします。
……未だ感染症の終息が見えない中、苦肉の策なのかも知れない。あるいは、クラブって風営法とかも関係あるかも知れないから、元からこういうコンセプトの店なのかも知れない。
ともあれ。その“風”の部分が、逸脱する勇気を持たない私には、どこかお似合いのような気がして。
入ってみようか、と迷いもためらいも無くそう思えた。
ビートを刻む重低音がアレグレットでフロアを駆けて、私の肌を震わせる。それに乗るのは聞き覚えのあるメロディ。言うなら、クラシック音楽のクラブミックス、といったところか。
エントランスの店員さんの挨拶に会釈を返して、奥へ入った。ダンスフロアに人はまばらで、リズムに合わせて思い思いに体を揺らしている。その向こうのステージ上では、DJがターンテーブルを操作(演奏?)している。人の数こそ少ないが、それは私にとっては、何かで見た“クラブのイメージ”ほぼその通りの光景だった。
フロアの手前、大型のアクリルパーティションで区切られた区画には、バーカウンタの他、四~六人がけテーブルが間隔を開けて設置されている。店員と思われる人がカウンタの内外に一人ずつ、客と思われる人は、カウンタで一組の男女がドリンクを手に談笑している以外に、その飲食スペースには見当たらなかった。
店員からチラリと見られたが、特に何かを言われることもない。一番奥まった席に座った。
メニューにある軽食はドリンクに比べれば種類は少なかった。特段食べたいものがあるわけじゃなかった私は、『オススメ』と書かれたクラブハウスサンドと、コーラ・モヒートを注文した。サンドは、普通は鶏肉などのところ、カニが使われているらしい。カニ、つまり、クラブ。……ダジャレだろうか?
注文の品はさほどの時間をおかずに運ばれてきた。正直、これだけで税込み千五百円弱は高いかな、とも思ったけど、サンドは思いのほかボリューミーなうえ、特にマヨネーズソースが私の好みに合っていた。その濃厚さに、コーラ・モヒートのほどよい清涼感もマッチして、結局はそれなりに満足感を得られた。たまになら悪くない、そう思える程度には。
サンドをすべて腹に収め、残りのコーラ・モヒートをちびちびと飲みながら、フロアをぼけっと見ていると、新しい曲が始まり、テンポがビバーチェにシフトアップする。同時に、ステージに新しい人影が現れた。
その中心に立つのは、一人の女性。
不思議と、私にはその存在感が、何と言うか“際立っている”ように感じられた。
そして、“それ”は、始まり、終わった。
……どれほどの時間が経ったのだろう?
一曲分なら、五分前後だろうか。でも、私にとって、その時間は、瞬く間に過ぎ去ったようにも思えるし、一つの映画を丸々見終えたほどにも思えた。
私がそれほど夢中に、そして濃密に感じたのは、彼女のダンスから伝わるパワーのせいだ。
それを正しく形容する言葉を、私は持たない。
圧倒された。
圧巻だった。
そう、彼女のパフォーマンスは、ストリート系ダンスの、ましてやその巧拙を理解するだけの知識の無い私にも、まさに圧力とでも言うべき力を伴って襲いかかった。
だから、私は身動き一つとれず、瞬き一つすら忘れるほどに、彼女から目が離せなかった。
長く、熱い、余韻の中で。世界が揺れていると錯覚するほどの動悸を体中に感じながら、頭の中に渦巻く感動を、なんとかそれだけ言葉に換えて。ようやく私は、現実に着地できた。
「あっ、あの!」
そして、内側に生まれた、知りたい、という欲求のまま、私は先ほど注文をとってくれた女性店員に声をかけていた。
「さっきの方は、どういう方なんですか!?」」
「さっきの……、ステージで踊ってた?」
「あっ、そうです!」
「あの子は……ああ、ちょうど今」
そう言って指さす先に、トイレの案内のある廊下への入り口から出てくる、先ほどの女性の姿があった。
廊下の向こうにスタッフがいるのか、おつかれー、と手を振って、そのままカウンタの方へ向かった。
私に対応してくれた店員さんは、笑顔で私に手のひらを示してから、そちらへ向かい、その女性と軽く言葉を交わす。
――目が合った。
その瞬間、私は全身で、今まで感じたことのないような緊張を味わった。
……ああ、憧れの人と直接相対するファンの心理というのは、こういうものなのかも知れない、なんて、ぼんやり思う。そして、『ファン』という言葉に納得している自分を遅れて自覚して。
私は、笑顔で私に話しかけてくれたその人――『ハルキ』という名前で活動しているそうだ――の、ファンになったのだなぁ、なんて、不思議な感慨を覚えていた。
「ユミさーん」
「はーい! 誰……って、ハルか。どうした?」
「ユミさん、この子雇ってあげてよ」
そう言ってハルキさんは私の両肩を押して、私を受付の奥から現れたその人の方へ押し出した。
あの後、ハルキさんに、「すごかった」とか「圧を感じた」とか「ファンになった」とか、興奮のままに自分の感動を上手く言葉にできないなりに伝えた。
そんな私に、ハルキさんは「ダンスに興味が出た?」と尋ね、私は考えもせずに「はい!」と答えた。
そうして連れてこられたのが、ここ、ハルキさんがインストラクタとして働いているというダンススタジオ。ユミさんというのは、そこのオーナだという。
「確かに、バイトは募集してるけど……」
「そいで、この子の仕事終わりにできるだけ私がレッスンつけるから」
「……あんた、まさか……」
「いやいや、この子、私のファンになってくれたって言うのさ。それで自分もやってみたいって言うし、だったら私が直接教えてやんよ、って。他意は無いよ? 私だって節操なしじゃないんだから」
ハルキさんの言葉に、怪訝そうな顔をしたまま、ユミさんが私の方をうかがう。
「宜しくお願いします!」
ハルキさんの言葉に、要領を得ないような気分もあったけど、直接指導してもらえるチャンスとあって、私は反射的にそう頭を下げていた。
「……OK。やる気があるなら歓迎するよ。……だけど時間外なら、レッスン料はハル持ちな」
「……社員割引つけといてね?」
「はいはい。じゃあ、あなた……」
「あ、私は……」
「メイちゃん」
「じゃあ、メイちゃん、いろいろ説明するから、付いてきて」
ほとんどハルキさんとユミさんの間で話が進んでしまった気がするけれど、そうして私はこの夏休みから、このダンススタジオでバイトしつつ、ハルキさんからダンスを習えることになったのだった。
「えっ? あ……秋山さん……?」
横から戸惑う声が聞こえて、そちらを振り向く。
「ああ……田川さん、おはよう」
二学期が始まる教室。周りからチラチラ見られているような気がしていたけど、田川さんの様子を見ると、自意識過剰というわけでもないのかも知れない。
「どっ……どどどっ……、……どう、したの……?」
現実でこんな風にどもる人を初めて見た。漫画とかの表現はあながち誇張したものとは言い切れないらしい。そんな田川さんの様子は、申し訳ないけれど少し笑ってしまう。
まあ、田川さんや周りの皆が何を気にしているのかは分かる。
「髪のこと? 邪魔だから切っただけ」
そう。ダンスの邪魔だと思ったから、腰に届きそうなほど伸びていた髪を、肩に届くかどうかというくらいまでバッサリと切ったのだ。
「えぇ……? じゃあ、あの……失恋とかじゃ……?」
「無いから」
「……そっかぁ……」
そういう田川さんは、がっかりしているような、ほっとしているような、そんな印象ではあったけど、本当のところは分からない。
彼女とは、特別に仲が良いというわけでもない。社交的ではない私に、彼女だけは、おずおずというかおどおどというか、そういう感じではあるけれど、よく話しかけてくれる。私としては、それを邪険に扱うのもなんとなく気が引けるので付き合う。それだけの仲……だと思う。
まあ、大多数の女子は『コイバナ』が好物みたいだから、気になるのだろう。私は正直、髪を切ったくらいで気持ちが綺麗に切り替わるなんて思わないから、失恋と髪を切ることの因果関係が分からないけど。
ただ、一つ言えるのは、「楽だ」ということだ。洗う時間、乾かす時間、セットする時間、それだけで一日辺りに節約できる時間は三十分を下らない。ダンスを始めてすぐ、基礎のステップを反復している頃はそれほど気にならなかった(筋肉痛の方に意識が持って行かれていただけかも知れない)けど、ある程度動けるようになってからは、髪の重さも馬鹿にならないのだと、切った後は特に実感した。あとは、夏場だったことも、髪を切ったことを快適に感じられた要因かも知れない。そういう意味では、快適さが気持ちに前向きな影響を与えている、というのは無いとは言い切れない。
そんな、髪を切ってからの変化をぼんやり考えるともなく考えていると、こちらも何やら考えていた様子の田川さんが立ち直った様子で、こう言った。
「あ、あのっ。ショートも似合ってて……カッコいいと思いますっ」
「え……ああ、ありがとう」
彼女の言葉は思いがけないもので、私はただ反射的にお礼を言ったけど。
「いえっ、じゃあ……またっ」
そのまま慌ただしく自分の席へ向かう田川さんの背中を見ながら、
(いや、カッコいいって……喜んでいいの?)
なんて思いつつ。だけど、私は自分の心の中に、自分でもよく分からないけれど、でも、なんとなく嫌ではないような気持ちを感じていた。
私がダンスを始めた影響は、特に体育の授業で覿面に現れた。
最初の授業が、明確な数字で分かる陸上だったから余計に分かりやすかったのだけれど、五十メートル走、幅跳び、棒高跳び、いずれもクラスの女子の中で上位五番手以内に入っていたのだ。
元々、運動神経はそんなに悪くはないとは思っていた(他人の評価は知らない)けれど、成績的には“可も不可も無く”といったところだったのだから、劇的な変化と言える。
べつに自慢したいわけじゃない。ただ、髪の件に加えてそれでも目立ってしまったせいか、田川さん以外の女子からもちょくちょく話しかけられるようになった。そっちの方が大きな(そして、手放しでは喜べない)変化と言ってもいい。
放課後に遊びに誘われるようなこともあった。だけど私は、そのたびにバイトを理由に断っていた。べつにそれは急場しのぎの言い訳ではなく、事実なのだから仕方ない。問題なのは、それで私がダンスをやっていることが広まってしまったことだ。
べつに隠すつもりもなかったので、最初は気にしていなかった。だけど、遠からず後悔することになる。
二学期も日が経つにつれて、近づいてきたイベントがあった。――文化祭だ。
そしてどういうわけか、私にそのステージイベントの中でダンスを披露してほしいということになった。聞いた直後は、どうしてこうなった、と、別の意味で踊ってやりたい気分だった。
推薦があった(それも、複数の)と言われ、私は何らかのやっかみを受けて、嫌がらせでこんなことをされたのかと考えた。実際、そういう人間もいるんじゃなかろうかという思いは今もある。
だけど、目をキラッキラさせた田川さんに「クラスの出し物の方は私たちに任せてください! 秋山さんの舞台、楽しみにしてます!」なんて、珍しいハイテンションで邪気無く言われてしまうと、私が疑心暗鬼なだけなのかも、なんて思えてもしまう(もしあれが演技なら、私は、それはひどい人間不信に陥るだろう)。
そんな状況の中、私は困惑すると同時に驚いてもいた。
田川さんやそれに同調するクラスメイト(主に女子たち)が、私へまっすぐな期待を向けてくれることに。そして、その想いに、不思議と「頑張ってみようか」と思えている自分自身に。
だけどそれは――やっぱり悪い気はしない、そんな驚きで。結局私はそれを、引き受けることにした。
ダンスを始めて、おおよそ三ヶ月が経った。自分ではそれなりにカッコはつくようになったのではないか、なんて思う。少なくとも、指先などが疎かになったり、早く動こうとして動き全体がこぢんまりしてしまったりといった、判りやすくダメな部分はかなり潰せていると思う(中間テストの点数を犠牲にした甲斐はある、と信じたい……)。
ハルさん(そう呼ぶのも、もう慣れたものだ)曰く、私は「リズム感が良いね」ということらしい。ピアノを習っていたことがある、と言えば、「それな」と言われた。それなのか。
私は小さい頃、仕事人間の両親によって、いろいろな習い事に通わされていた。とはいえ、私が嫌だと言えば無理に通わせたりはしなかったから、あの人たちなりに私への愛情はあったのだろう、とは思う(けど、心が納得するかは別問題なのだろう)。
でも正直、本気で楽しんで打ち込めたようなものはなかったから、あの頃のことは、私にとっては、無駄な時間、のように感じていた。
――いや。あの頃の、まだそれが『挫折感』だと知る前に、幼心に刻まれた“痛み”、それが今の自分の後ろ向きな部分を形作っているのなら、無駄より質が悪い時間だったとも言える。
だけど、あの苦みを伴って思い起こされるピアノを習っていた日々が。もしかしたら、挫折なんて感じる前にやめてしまったバレエさえ。今の私の力になっているというのなら。
そう思うと、なんだか胸がキュッと、ほんの少し泣きたくなるような、でも、それは悲しみや苦しみじゃなくて。歓びと言うにはささやかな、ちょっと温かな何か。幼い頃の自分を抱きしめてあげたいような、衝動にも似た感情が、心の内に湧き上がるように感じた。
ともあれ、だ。特にこの一ヶ月ほどは、文化祭で踊ることになった私のためにハルさんが考えてくれた振り付けに集中的に取り組んだこともあって、カッコはつくようになった。だけど、なまじ見られるレベルになったことで、私は、より力不足を痛感することにもなった。
比較対象がハルさんだからかも知れない。でも、ハルさんだって他のプロダンサーと比較しても、ずば抜けて“上手い”というわけではない。それでもハルさんのダンスには何か、あの、私が一発で惚れ込むような“パワー”とでも言うべきものがある。
まだ始めたばかりの私が、そのレベルを目指すのは烏滸がましいのかも知れない。だけど、それを言い訳にして妥協したくないという思いもある。
だから自分なりに試行錯誤もしてみた。正確性、メリハリ、緩急。疲れても振りを崩さない体力、筋力。考えながら取り組む練習は、無駄ではないとは思う。でも、そうして練習を重ねても、あの“凄み”に近づけるような気はしない。地道な練習の先にブレイクスルーポイントは有るのかも知れない。でも、無いのかも知れない。
考えたところで、それは判らない。ハッキリさせたければ、やってみるしかない。でも、文化祭までもうあまり時間は無い。
――だったらハルさんに直接聞いてみれば良いじゃん。
追い詰められてようやくそんな考えが浮かんで、自分の迂闊さにちょっとだけ落ち込んだ。
「ドラマとか雑誌とか、世の中に溢れる、シモで物事考えてるようなヤツらの自己正当と、それに自分が肯定されたように勘違いして流されるだけの、自分の頭でモノ考えられないような同類ども。一緒にすんな、って話だよね。……あたしの“表現”に力があるって言うなら、そういったヤツらへの反骨心が九割九分だろうね。……私はダンスに出会って、そこに……自由、みたいなものを感じた。だから、下らない価値観に私は縛られないぞ、そんなもの、私のダンスで吹き飛ばしてやる、ってつもりでやってきたよ」
苛立ち含みに、ハルさんは言う。それは私が初めて見るハルさんの一面でもあった。
「あたしがレズビアンだって言うと、理解のあるフリしたって、結局はエッチのことに興味持つヤツらばっか。……あたしが出会う人間に恵まれてないだけかも知れないけどさ……違うんだよ。あたしにとっての恋愛ってさ」
さらっとカミングアウトされたことにも、急に恋愛観の話になったことにも、ちょっと驚いたけれど、内容自体は特に抵抗感もなく私の中にすっと入ってきた。
同時に、その攻撃的な口調の裏に、『晴季さん』という一人の女性の、内面が垣間見られた気がした。
それはきっと、言葉にして指摘したら否定されるのだろうけど、普段男前に振る舞う彼女の根っこは『純情』なのではないか? なんて思うのだ。それは『乙女』なんて言い換えてもいいかも知れない。……『潔癖』と言ってしまえばそれまでだけど。
でもきっと、本人が言うところの、反骨心で占める九割九分の、でも残り一分に、その純真さがあるからこそ、ただ攻撃的なだけで終わらない、心まで迫る“何か”を感じさせるのではないか、そんな風にも思った。
正直、私は『芸術』というものは“わからないもの”だと思っている。小学生の頃、遠足だか社会科見学だかで美術館に行った時のことは、退屈だった、という他は、目に痛いような原色がチカチカ瞬いていた印象しか残っていないし、フィギュアスケートなんかを見ても、すごい、とは思っても、その“芸術性”なんていうものは理解できる気がしない。
だから、結局のところ『表現力』なんていうのは『すごそうに見せる技術』程度に考えていた。“伝える”なんていうのはただの精神論で、たとえそれが“本当にすごいもの”でも、磨き上げた技術の“凄み”とでもいうものを、ただ受け手が美化しているだけなのではないか、なんて思ったりもしてた。
そう考えて、上手くなることを目指して努力を重ねてきた結果が、今の袋小路だ。もちろん、私にはまだまだ技術が足りていないのだろうけど、このまま頑張ってもその行き止まりを乗り越えられるような気がしない。
だけど。ハルさんの言葉は、共感、とまではいかないまでも、なんとなく理解できるような気がした。私の中にある苛立ちも、そういう世の中の、一部の(だけど変に目立つ)価値観に対する反発、というのも多少は有るように思えるから。
ハルさんの言葉も、精神論といえばそうなんだろう。でも、ハルさんのダンスから私が感じた衝撃が、どんな言葉よりも説得力を与えている。
だから、思うのだ。
技術的に圧倒的というわけではないハルさんが、内なる思いを力に換えることで、私をあれほど圧倒するだけのパフォーマンスを生んでいるのなら。
私も“表現せずにはいられない強い想い”とでも言うべきものを見つけることができたなら、私が今感じている停滞感のようなものも突破できるのではないか。
それは、(そう信じたいだけかも知れないけれど)予感とも言える思いつきだった。
でも、予感なんて曖昧なもので、だからこそ、そう簡単に見つけられるものではない。――結局、私は文化祭までに、自分が表現したい想い、伝えたい想い、そんなものを見つけることは叶わなかった。
だから、開き直りというわけではないけれど、「都合がつきそうだから見に行くよ」そう言ってくれたハルさんに、私は恥ずかしくないだけの、今できるだけの最高をただ目指そうと決めた。
そう決めて、私は久しぶりに精神的に落ち着けた気がした。自分で自分が頑張りすぎていることが分からなかったくらい必死だったことにようやく気づけて、なんとなく笑いたいような気持ちにもなった。
だからなのだろうか。当日の午前、田川さんたちと回った文化祭は、思いのほか素直に楽しめた。ほんの数ヶ月前まで、こういった行事を斜に構えた態度で見ようとしていた自分が馬鹿らしく思えるくらいに。
そして午後、いよいよ出番が近づいてきた。何故だか、私のマネージャみたいなことになっている田川さんと一緒に体育館へ向かう。
私は、精神的に落ち着けた気がしていた。――そう、気がしていた、だけだったみたいだ。田川さんがあまり話しかけてこなかったのも、端から見たら私が緊張しているのが判ったからなのだろう。
舞台袖で私は、全身で緊張を表現していた。そこでようやく、緊張している自分を自覚した。
いや、今でも心は凪いでいるように感じる。なのに、体が震えるのを止められない。自分の心が他人の体に紛れ込んだような気持ちになる。冷静な頭の中が、滑稽なほど震える自分の体を笑っている。
――不意に、悔しい、という思いが、胸の奥から全身に駆け巡った。
ここに来てビビっている自分の弱さに? ままならない自分の体に? ハルさんに習ったことを十分に発揮できないであろうことに? クラスメイトたちの期待に応えられないことに?
考えずとも思い浮かんでくる、悔しさの理由。鼻の奥に涙の気配を感じて、弱気が襲ってくる。舞台の上で全く身動きできない自分の姿が思い浮かんで、膝から力が抜けそうになる。
――その時、私は右手に温もりを感じた。
驚いて見れば、田川さんが両手で私の右手を包み込むように握っている。彼女の目には、零れそうなほどの涙が湛えられていた。
(……どうして、あなたが泣きそうなのよ……)
笑いながらそれを言葉にしようとして、できなくて。
「……入学式のこと、覚えていますか?」
言葉は田川さんの口から紡がれた。
それが今、どういった意味を持つの? 入学式? 彼女との思い出? 何かあっただろうか?
「秋山さん、私が落としたハンカチ拾ってくれて、私、勢いよく頭下げて、バッグの中ぶちまけちゃって」
そんなこともあったと思い出す。思い出してみれば、その相手の顔は、目の前の顔と一致した。
「慌てる私に、秋山さん、大丈夫、落ち着いて、って、すごく優しく、笑いかけてくれて……」
笑いかけた、という自覚はないけれど、少なくとも彼女にとってはそう映ったのだろう。
「ごめんなさい。私は、あのとき秋山さんがしてくれたみたいに、秋山さんを勇気づけてあげられない。……私はこんな……、秋山さんを追い詰めたかったんじゃなくて。……ダンスを始めてからの田川さんは前よりもっとかっこよくて、だからダンスをめいいっぱい楽しんでる姿を見てみたかったんです。ただ、あのときみたいに、笑ってほしかったんです」
――ダサいな、と思う。
直前になってビビって、田川さんを泣きそうなほどに思い詰めさせて。
舞台でどんな失態を見せたって、これ以上ダサくはならない。――そう思って、笑えるほど心が軽くなったように感じた。
体はまだ少し震えているけど、これくらいなら武者震いだって強がれる。
「ありがとう、田川さん。十分勇気づけられた。もう大丈夫」
今の私は、彼女の望む通り、笑えているだろうか?
舞台の向こうから拍手が聞こえて、幕が下りた。コーラス部の人たちは反対側の袖に捌けていく。
「見てて。田川さんが見ていてくれたら、私は最高に踊れるから」
言って、幕が下り、照明のしぼられた舞台へ向かう。
思えば、今だけじゃない。私は今まで、彼女が話しかけてくれることで、どこか救われていた。
(だから、見ててね)
私が袋小路だと思っていた行き止まりは、目の前にある幕のようなものでしかなかったのかも知れない。――そんなことを、ふと思う。
そして、私の時間の始まりを告げるブザーと共に、ゆっくりと幕は開いていった。
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