115 決意の一口
「どうしたんですか。この人が階段で話をしたせいで、お姉様が倒れたんですよ」
下手したら死にかねない状況だったと、彼女が憤慨していた。気持ちはありがたいし、そう思ってくれる理由も分かる。けれども、あの状況になったのは、私自身の体の問題。階段側に倒れた事は、エミリー自身に非は無い。
「落ち着いて、陽子さん。エミリーもずっと私を支えてくれていた一人なの」
「支えた? ずっと孤立させようとしていたのはあの人ですよ」
ライカが死に、私が正気では無くなった後、エミリーと彼方が交わした約束がある。
私の心がまだ辛うじて保たれていた時の話だ。
「陽子さん。エミリーは私を守るためにそうしてくれていたの。一人になった私には、この学院の風は強かったから」
「光、その時の記憶があるのですか?」
「一応ね。二人が居なかったら、私は今頃病院の中だったかも。ううん、生きてなかったかもね」
気の振れた人間を一生養えるほどの財力は、私の家には無い。それに私は片親で、介護をしてくれるような人も居なかった。そもそも、学院の支援制度が無ければ、私は入学すら出来ていなかったほどの家だ。
そう考えると、病んでいる状態でもこの学院に居た事の方に驚きがある。きっと、学院側が配慮したか、二人が裏で手を回してくれたおかげだろう。
「すぐには気持ちの整理がつかないかもしれない。けれどね、陽子さん。彼方と同じように、エミリーも私の大切な友達なのよ」
私の膝元で、毛を逆立てる陽子さんを宥めようと、頭を撫でた。
「お姉様が言うのなら、今は……」
彼女はその敵意を消火し切れていないようだったけれど、トゲトゲした空気は和らぎ、この場では敵意を抑えてくれた。
「それじゃあ、エミリーが作ってくれた料理を食べようかな。あなたの料理は久しぶりね。ちゃんと食べられる物になってる?」
彼女には料理の特訓をした事がある。あの時は酷いものを最低限の形にする事しか出来なかったけれど、今はどうなっているか。
「た、食べるのですか?」
用意した本人が驚く。これはどう見るべきか。
「食べられない物でも入れたの?」
「そ、そんな事をする訳が無いでしょう。ちゃんと栄養のある物が入っています。ですが、あなたは……」
彼女が心配している理由は分かっている。彼方も心配そうな目で私を見ていた。
「彼方、それをちょうだい。食べてみせるから」
「分かった。無理しないでよ」
陽子さんは、私が食べやすいようにと動いてくれた。
求めに応じ、彼方が私の前にトレイを置いた。
蓋付きの容器と取り分けようのお椀にレンゲが用意されていた。蓋を開けると、中はお米を煮た料理、おかゆだった。けれど、ただお米を煮ただけの物ではなかった。食欲が刺激されるように、出汁か何かで煮たようだ。私の状態を考え、一手間加えてくれた事が嬉しい。
「良い匂い。腕を上げたみたいね」
「何時と比べているのですか。それくらい、今は簡単に出来ますよ」
「そう言えるようになったのなら、先生として鼻が高いわ」
彼女が一年程度の短い期間で、どれほど密度の濃い努力を積み重ねていたのかが分かる。
その成長を親でも無いのに私は喜び、レンゲを手に取った。
掬い取ったおかゆを零さないように、取り分けようのお椀をお皿の代わりにし、口元へ運ぶ。
鼻との距離が近くなると、生姜の匂いに気付いた。
「それじゃあ、頂くわ」
まるで、料理漫画のように間を開けていた。
自分には似合わない役だと考えると、おかしさがこみ上げてくる。
一舐め。すくい取った量よりも遥かに少ない量を口に運ぶ。
素直に、本当に美味しいと言える味だった。これほどに美味しいなら、私は全部食べられる。
けれど、それは以前の話。感覚的にも大丈夫と思っていたのだけれど、私の体がこれを拒み、咳き込んだ。
「お姉様っ」
陽子さんが背中を擦ってくれた。
口に含むと良く分かった。私が思った通り、おかゆの汁に、色々な食材が使われている事が。
それは、固形物を拒んでしまうようになった私の体を気遣う、エミリーの優しさだろう。
エミリーは、多少融通が利かない所があるけれど、相手を思い、そういう行動をする子だと私は知っている。
彼女の思いを無駄にしたくない。
食べ切れなくても、この掬った分だけでも、喉に通してみせる。
過去に浸らず、今を漂わないと決めたから、この一口を絶対に飲み込む。
意地でおかゆを飲み込むと、私の決意を皆に見てもらうため、レンゲに残っている分も口に運んだ。
また体が拒絶反応を起こしたけれど、私は負けるつもりはなかった。
「……良い味だったわ」
咳が収まり、話せるようになると、感想を伝えた。
「全く無茶をしますね。ですが、口に合って何よりです。では、私はこれで失礼します」
用事は終わったとばかりに、エミリーが背を向ける。
「ん? 私も部屋に戻るね。陽子さん、何かあったら何時でも呼んでね」
それに続いて、彼方も部屋を出ると言って背を向けた。
「二人とも、また明日。いえ、後で会いましょう」
声をかけると、二人は背中を向けたまま、静かに頷いて部屋を出て行った。




