木下茜:シオンの幽霊
どうにもキリが悪くて分割できず、今回は文章量が多めです。
「……!?」
両手で口を覆って声にならない悲鳴を上げると、シオンは私の反応を半ば予想していたように苦笑した。
「びっくりした?」
びっくりしたどころじゃない。わけがわからなくて体中の力が抜けてしまい、その場にへなへなと座りこむ。するとシオンも同じように私の隣に座った。
「今日、俺が死んだ日じゃん? だからちょっとだけ、出てきた」
明るい口調でそう言うシオンを、私は恐る恐る見つめた。
見た目は普通に生きている人間みたいだ。おばけや幽霊みたいに足がないわけでもない。
なんだか、彼が死んだなんて嘘なんじゃじゃないかとでも思ってしまうような。
実はまだ私たちは中学生で、高校に通っているのも瀬戸先輩を待っているのも全部、夢なんじゃないのか。
「……生きてたの?」
「死んでるよ」
からからに乾いた声で尋ねた問いは、食い気味で否定されてしまった。で、ですよね……。
「死んでるのに、なんでいるの? 私の幻覚?」
「うーん。幻覚ではないけど。まあ、幽霊だよ、幽霊。茜に会いに来た」
「私に会いに来た……」
シオンが言うことを繰り返しつぶやき理解しようとしてみるけれど、頭がまだ混乱していてうまく呑み込めない。
ただ、そこにいるのがシオンで、会話もできるということだけはわかった。
「志望校、受かって良かったな。セーラー服だろ」
コートを着込んだ体を指差され、そういえばここを受験した理由のひとつがセーラー服の制服だったな、と思い出す。
マフラーと分厚いコートにくるまれた自分を見下ろし、小さく笑う。
「今は防寒しまくりだけど……どうせなら夏に来てくれたら、可愛い夏服を見せられたのに」
「そんなん言われても。命日が今日だから今日しか会いに来れないんだよ」
幽霊だか幻覚だかまだいまいち理解しきれていないけれど。懐かしい声を聞いているうちにどうでもいいやと思えてきて、少し落ち着くことができる。
「でも真冬なのに全然寒くないし、体が軽いのはすごくいいよ。茜はこんなとこにいて寒くない?」
「ちょっと寒い。でも人を待ってるところだから」
「さっき一緒にいた人?」
「うん。美化委員の先輩」
「優しそうな人じゃん。それに、茜のことが好きなんだな」
「……シオンすごい。そうなの、このあいだ告白されたんだ」
どうしてわかったのだろう。シオンの顔を見ると、彼は少し寂しそうに目じりを下げた。
「見てればなんとなくわかるよ。告白されたんだったら、付き合ってるの?」
私は首を横に振った。
「ううん。まだ返事してなくて。でもね、せっかくだから付き合ってみようかなって……」
シオンが突然現れるまで、一人で考えていたことを口にしながら、私の胸は締め付けられるように痛んでいた。言葉がしりすぼみになって消えていく。ずっと目をそらしてきたけれど、この痛みは中学生のときから知っている痛みだ。シオンに初めて彼女ができた、あのときから。
すぐ隣に座っている幼なじみの存在を確かめたくて距離を詰めると、そこに生きているかのように肩と肩が触れ合う。どうしようもなく切なくなって、喉が震えた。
「……なんで今来たの、シオン」
どうしてこのタイミングなのだろう。今日じゃなければ。瀬戸先輩に告白されるよりももっと早いか、もっと遅くて瀬戸先輩と付き合ってしまった後だったら良かったのに。
再会してしまうと、わからないふりや気づかないふりをしていた感情が湧き出てしまう。このまま封じ込めてしまいたかったのに。
「私、シオンが好き。シオンが生きてたときには自分でも気持ちに気づいてなかったのに、今さらって感じだけど、今も好き」
「……」
苦いものを吐き出すような告白を、シオンは黙って聞いていた。何も答えようとはしなかった。ただ、私の胸の痛みを感じているかのように、なぜか彼もつらそうに顔をゆがめていた。
「でも先輩に告白されて、先輩のことはまだよく知らないけど、一緒にいたら好きになれるかもって考えてた。そんなときにさ、シオンが来るから。やっぱり先輩はシオンじゃないって思っちゃった。私は先輩じゃなくてシオンが好きだなって。こんな気持ちで他の人と付き合ったら、いけないよね……」
自分が好きなのはシオンだと改めて思うと、決心が鈍りそうになる。
パーカーに学ランという姿で現れた先輩に、シオンを重ねていただけだったのかもしれない。本当は先輩を見ながら、その向こうにシオンを見ていた。シオンと比べていた。瀬戸先輩のことを考えながら、シオンとの思い出に浸り続けていた。心の中にシオンがいるのに、瀬戸先輩とも付き合おうとしている汚い自分が目に見えてしまって、自分で自分が嫌になる。
こんなの瀬戸先輩に対して誠実じゃないし、相手を大切にする恋愛なんて、このままじゃきっとできない。
「俺を好きでいてくれてありがとう。でも俺はもう、茜の彼氏にはなれない」
しゃがみこんでうつむくと、横からシオンがぽつりとつぶやいた。
いつの間にかシオンを責めるような口調になってしまっていたことに気づき、私は口をつぐんだ。
「俺も茜が好きだよ。好きかもしれないって思ってるときに、死んだ」
期待していなかった言葉に驚いていると、うつむけていた頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。
「嘘だ。私以外の人といっぱい付き合ってたのに」
「だから、最後は誰とも付き合ってなかったろ。俺は俺なりに悩んでたんだよ。……今日茜に会いに来たのはさ、好きだって伝えなかったことが心残りだったから。俺の勝手なわがまま。けど、そのせいで余計に茜を悩ませたなら、ごめんな」
シオンが悪いのではないのは、私もわかっている。私が勝手に悩んでいる、だけなのに。
黙り込む私の頭上で、シオンがひっそりと笑う気配がした。
「死んだ奴のことが好きだからって遠慮してたらお前、ずっとひとりじゃん。俺はもう茜とは一緒にいてやれないんだからさ、早く他の奴を好きになれよ」
「……どうやって? どうすれば他の人を好きになれるの?」
シオン以外の人を好きになったことがないからわからない。これが初恋だから、二つ目の恋へどう進めばいいのかわからない。
「自分で言っただろ。一緒にいれば好きになるかもしれないって。それでいいんだよ。俺にも、告白されたっていうあの先輩に対しても悪く思うことなんかない。申し訳なく思うなら、付き合うのを断るんじゃなくてさっさと俺のことを忘れろ」
「忘れるとか、できない」
「そう思っててもそのうちだんだんと忘れていくよ」
そんな寂しいことを言わないでほしい。だけど、彼が何も間違ったことを言っていないのもわかる。
時間と共に、いつか薄れていくだろう。薄れさせなければいけない。心が拒否していても、頭ではわかっているのだ。
「大丈夫。できるよ、新しい恋」
「本当……?」
「本当」
忘れたくない。新しい恋なんかしなくていい。
だけど優しく諭すようなその声を聞いていると、少しだけほっとした。
本当はこうしてシオンに背中を押してもらいたかったのかもしれない。先輩と一緒にいてもいいよ、恋をしても大丈夫だよ、と。
矛盾する感情に揺れながらも小さくうなずくと、そっと頭からシオンの手が離れた。
「待ってた先輩、もう来るよ。俺はもう行くから」
「もう……?」
顔を上げると、シオンは静かにうなずいて立ち上がった。
「また会える?」
「会えない。悪いけど俺、他にも会いたい奴がたくさんいるからさ。幼なじみが多いと未練も多くて大変だわ、来年はあいつらのとこにも行かないと。でも一番最初に、今日会いに来たのは茜だけだから、文句言うなよ」
じゃあ今度は、他の人のところにこうやって現れるつもりなのだろうか。シオンやさくちゃん、コウちゃん、アンナや家族のところにも。
「ま、待って」
本当に背を向けて行ってしまいそうだから、思わず彼を呼び止める。何か、何か……言い残したことはないだろうか。
「あ、あの……誕生日おめでとう」
「は? なんだよいきなり。俺死んでるから年取らねーし」
彼に渡し損ねた物を私は急に思い出した。
両耳につけていた黒いビーズのシンプルなピアスを外し、シオンの手に握らせる。幽霊のはずなのにその手はしっかりと形があって、温かかった。
「使いかけでごめん。これ、本当は去年の誕生日にプレゼントしようと思ってたの。手芸部で作ったんだ。遅くなったけどもらってくれる?」
「マジで? 肉の代わりに用意してくれてたのって、これか! ありがと」
さっきから寂しそうに微笑んでいたシオンの表情が少し明るくなって、私もつられて少しだけ笑顔になる。
シオンはピアスの片方を右耳につけて、もう片方も左耳につけようとしてから、迷ったように手を降ろした。
「一個は茜が持ってて」
「え?」
「俺が茜と一緒に生きてた証拠」
ピアスの片方だけが、私の手の中に再び返される。
「やっぱさ、俺を好きな気持ちは忘れても、幼なじみだったことは忘れないで」
「……忘れるわけないよ」
私の手に戻ってきたそれを見つめる。今まで抱いたことのない、不思議な暖かい気持ちが心の片隅に芽生えた気がした。
「あ~、焼肉食べられなかったの、残念だったなあ」
「今さら何言ってるの……」
苦笑とともに顔を上げると、目の前に立っていたはずのシオンの姿はもうなかった。
こんな急に消えるなんて。現れてからいなくなるまでがあまりにも突然で、今のはすべて夢だったのではないかという気がしてくる。
呆然と彼がいたはずの空間を見つめていると、背後から「木下さん」と声をかけられた。
「お待たせ。寒いのにごめんね」
私は無理やり視線を誰もいない空間からはずして、声の主のほうを向いた。
走ってきたらしい瀬戸先輩は、少しだけ息が上がっていた。実はいいもの持ってんだよね、いる? とコートのポケットから四角いカイロを差し出される。
よくよく見ると先輩はコートからパーカーのフードが覗いているもののシオンとの共通点はそれくらいで、顔も声も、優しさの種類もシオンには似ていない。
私は先輩の何を見ていたのだろうか。シオンというフィルターが魔法のように消えた感覚に拍子抜けしてしまう。
お礼を言ってカイロを受け取るとその暖かさで、心の奥底の虚しい気分が少し紛れる。まだ手の中に残していたピアスを、耳ではなくてコートのポケットの中にそっと滑り込ませた。もう、耳につけることはない。つけなくても大丈夫になりたい。
「瀬戸先輩」
「ん?」
にこりと微笑んで首を傾げるその仕草に、他の人にはない彼らしさを感じた気がして、ちゃんと忘れないように目に焼き付けようとじっと見つめる。
「私、自転車に乗ってもカピバラには変身しません。好きな人が自転車で事故に遭って死んだから、怖くて乗れないんです」
瀬戸先輩の表情が真面目なものに変わった。
「話、聞いてもらえませんか」
「……聞いていいの?」
「はい。先輩に、知っていてもらいたい、気がして」
彼はシオンの代わりじゃない。私はこの人自身を見て私自身もさらけ出して、この人を好きになりたい。少しずつでいいから。
*
「変なこと言っていい?」
私の髪を触っていたさくちゃんと、クッションの上でマンガを読んでいた夏芽が同時に私を見た。
二月最初の土曜日。私は瀬戸先輩と初めて休日に出かける約束をしていた。着る服とかどうしよう、とあわあわしていたらさくちゃんが「初デートじゃん! 手伝うよ!」と私の家まで来てくれて、服選びから当日の髪のセットまで手を貸してくれた。夏芽はなぜかさくちゃんについてきた。聞くと、今から二人でスイーツ巡りに行くらしい。
「どうしたの?」
さくちゃんに「変なこと」の続きを促されて、私は少し迷いながら口を開いた。
「このあいだ、シオンに会ったの。シオンの誕生日……命日に」
二人が眉をひそめて私を見つめる。そうだよね、急に何を言い出すんだろうと思っているに違いない。私も夢だったんじゃないかと思う。けれど、ピアスは確かに片方だけなくなっていた。
「信じてもらえないかもしれないけど、会いに来たよって私の前に急に出てきた。幽霊だって。みんなのところにも未練があるから来年は会いに行くって、言ってた」
「……」
「……」
「……以上、変なこと、でしたー。ごめんね急におかしなこと言い始めて」
不審な顔をされてもいいから幼なじみの彼らには、シオンと再会できたことをちゃんと報告しておきたかった。いつかもし彼らの前にシオンが現れたとき、ああ茜が言っていたのはこのことだったのかって、なるべく早く納得して短い時間でシオンとたくさん話ができるように。
少しのあいだ黙り込んでいた二人だけれど、やがてふっとさくちゃんが微笑んだ。
「そっか。来年でも再来年でもいいけど、茜に言ったみたいに会いに来てくれたら嬉しいな……」
「そうだね。俺もちょっとだけでいいから会いたいなー」
夏芽が懐かしそうにつぶやく。信じてくれたかはわからないけれど、部屋の中にしんみりとした、だけどどこか柔らかくて居心地の良い空気が流れた。
「ま、シオンはいつか来てくれるかもしれないってことで、そのときはそのときよ。茜、髪できたよ。準備万端」
「ありがとう」
私のセミロングの髪は、さくちゃんの手によって可愛らしく編み込みアレンジがされていた。ちょっと普段とは違う自分の姿にテンションが上がる。今日は服もお気に入りのブラウスとスカートなのだ。先輩が可愛いと思ってくれたらいいな。
「なんか意外だったな。茜ちゃんは結局、告白断るんだと思ってたから、付き合うって聞いたときはびっくりした」
「確かに。……その、なんか悩んでたっていうか。付き合うかも、とは言いつつどこか後ろ向きな感じがしたからさ。だから無理して付き合わなくてもいいんだよって言ったんだけど、大丈夫なんだよね?」
心配してくれる彼らに向かって、私はしっかりとうなずいた。
「大丈夫。突然だったから、さくちゃんの言う通り悩んでたけど……付き合いながら好きになっていきたいなって。先輩もそれでいいよって」
傷つけてしまうかもしれないと思いながらも、私は瀬戸先輩に今の気持ちを打ち明けた。シオンの死をまだ引きずっていることも、だけどこれから先輩を好きになりたいことも、自分勝手かもしれないけれど先輩と付き合いたいことも。
心の中ではわがままな奴だと思われたかもしれないけれど、先輩は幼なじみの死については穏やかに話を聞いてくれて、告白の返事についてはOKしてくれてめちゃくちゃ嬉しいと笑顔になってくれた。
これから好きになってもらうように頑張るね、と。そうした彼の優しさが、これから私の中に積み重なっていくのだと思う。だから私もその気持ちを返していきたい。そしていつか返すだけじゃなくて、自分から自然と先輩に気持ちを向けられるようになりたい。
シオンが大丈夫と言ってくれたのだ。願望だけではなく、本当に少しずつそうなっていける気がしている。
「よーし。では、行ってきます」
私が椅子から立ち上がると、さくちゃんが慌てて夏芽の腕を引っ張った。
「ここ茜の家じゃん。茜が出るならうちらも出なきゃ。行こ行こ」
「あ、うん。えーと、今日は駅前に開店したケーキ屋に行くんだっけ?」
「そう! タルトが美味しいんだって! 茜は先輩とどこ行くの?」
「動物園。カピバラ見に行くの」
「へー。そういえば茜ちゃんってちょっとカピバラに似てるよねー」
夏芽にまじまじと見つめられ、私は思わず両手で頬を覆った。
「そんなにしまりのない顔してる?」
「夏芽は顔じゃなくて性格のことが言いたいんでしょ。のんびり屋だって。茜のいいとこだよ」
「なあんだ。実はうきうきしてるのが顔に出ちゃってるのかと思った」
ほっとして笑うと、二人から茶化すように肘で小突かれた。
「いいんじゃない。デートなんだし少しくらい浮かれちゃえ」
「楽しんできてね。可愛いグッズあったらおみやげよろしく」
一抹の寂しさを抱えながらも、恋の楽しみを知りつつある。そんな和やかな冬の朝だ。
茜の章、終わり。




