木下茜:ピアス
中学三年の一年間、同じクラスで美化委員をやっていたのは、坂口くんという男子だった。
あまり目立つタイプの生徒ではなかったし影も薄かったけれど、喋りやすいしなんとなく気は合うほうだったから、クラスの中でもそこそこよく喋る相手だった。
でも、ただそれだけ。たまに私たちの仲を勘繰る人はいたけど。
「木下さん、数学のノート写させてくれない?」
年明けの一月、坂口くんが申し訳なさそうに私の席までやって来て、顔の前で両手を合わせた。
彼はインフルエンザで先週から欠席していたのだ。
「いいよ。ていうか1日貸すよ。明日は数学の授業ないし」
「ありがとう……! ほんと助かる~」
「はい、どうぞ。インフル、受験のときにかからなくてよかったね」
ノートを手渡すと、彼は大きくうなずいた。
「うん、今かかっといてよかったわ。じゃあ、一日借ります。明日の朝には返すから」
「はーい」
坂口くんがいなくなってすぐに、私の後ろの席の女子がつんつんと肩をつついてきた。
「仲良いね」
「え? まあ、普通かな」
「そう? 付き合ったらうまくいきそうな感じに見える。坂口くん、茜ちゃんのこと好きなのかなっていう噂もあるよ」
「そうなの?」
そんなの私は初耳だ。勘違いされるなら、あまり一緒にいすぎないほうがいいのかもしれない。
「そうだよー。茜ちゃんは坂口くん、好きじゃないの?」
「好きかどうか考えたことないから……。ていうか、恋愛とかそういうのあんまり興味ないかな」
「えー」
彼氏いたほうが楽しそうじゃん、という彼女も彼氏や好きな人はいないらしい。
「まあ、高校行ったら出会う人も増えるし、今好きな人とか無理して探さなくていっかー」
「たしかにねー」
好きな友だちはいるけど、恋とかそういう好きはよくわからない。
私も周囲や坂口くんからは、坂口くんを好きなのかと思われていたりするのだろうか。
もしそうなら全然違うし面倒だな……と思いながら、私はその女子との会話を終えた。
だけど一度そんな話を聞いてしまったら、坂口くんのことを意識せざるをえない。
「ノート、ありがとう」
「あ、うん」
翌日の朝、登校してきて教室に入った私にさっそく坂口くんが駆け寄って来て、数学のノートを返してくれた。
受け取りながら、無意識にそっと気づかれないよう半歩ほど後ずさる。
けれどこっちの態度の変化に気づく様子もなく、彼はじゃあと私に片手をあげて、自分の席に戻っていった。
どれくらいの距離感がちょうどいいのかと、昨日までは気にしていなかったことを考え始めていることに、少し申し訳ない気分になる。
「数学……?」
「うわっ」
耳元から聞こえた声に驚いて飛び上がる。シオンが後ろから私のノートをのぞき込んでいた。
「今の人に貸してたん?」
「うん。インフルで休んでたから」
振り向くと、シオンは少し鼻を赤くして私を見ていた。今、登校してきたところみたいだ。まだ寒そうに顔の下半分をネックウォーマーにうずめている。
「そうなんだ。茜、字キレイだもんな。今度俺にも貸してよ」
「ええ? シオンのクラス、うちのクラスと数学の先生違うでしょ。私のノートじゃ役に立たないよ」
「それもそっか。じゃあ直接教えて。最近、アンナにスパルタ指導受けてるけどあいつ、マジで怖いからやだ」
シオンが心底困っているというふうに眉を下げる。
そういえばこのあいだ、シオンとアンナの家での勉強会に誘われたんだっけ。夏芽やさくちゃんも来るって言われたけど、夜遅かったから断った。
アンナはアンナなりにシオンの受験を家族として気にしているんだろうな。仲が良いとは言えない姉弟だけれど、仲が悪いわけでもないんだよね、この二人。
でも、勉強となると躍起になるアンナの姿は想像がつく。そこから逃げ回る勉強嫌いのシオンの姿も。
ていうか、勉強嫌いのシオンが勉強教えてって言ってくるのが異常事態だ。
「……そんなにアンナ、怖いの?」
「鬼みたいだよ。がみがみうっせえし」
「鬼で悪かったね」
突如、怒った声音がして、私たちは背後を見る。通りがかったらしいぶちょう面のアンナがシオンを睨んでいた。
「あ……えーと……」
「茜、こいつ私じゃ嫌みたいだから、良かったら今度勉強見てやってよ。自分の勉強に支障がない程度にさ」
「あ、うん」
私が頷くと、アンナはよろしくねと言ってその場から去っていった。
「ああいう偉そうなところが嫌なんだよな。数秒だか先に生まれただけのくせにさー」
「あはは……」
アンナはちょっと自信家なところがあるのは確かだけれど、あそこまで偉そうなのはシオンに対してだけだから、私にはなんとも言えない……。
結局、シオンは数日後の放課後に、本当に数学を教わりに私の家にやって来た。
人に教える自信は正直なかったけれど、シオンは案外飲み込みがいい方で、私のつたない説明でもちゃんと理解してくれた。
「なるほどなるほど、ここはこの公式を使うのか」
「そう。このパターンの問題は基本的に同じだから」
「わかった。でも俺、そもそも公式を覚えるのが無理だわ。カンニングペーパー作りたい」
「それはだめ」
暗記できないのがアンナと俺の差なんだよな、とシオンが頭を掻きながらうなった。
「何回か問題解いたら覚えられるかもよ。……とりあえずいったん休憩する?」
「する」
シオンがシャーペンを放り投げてローテーブルの上に脱力するのを見ながら、私もその場で大きく伸びをした。
ついでにふと、確認しておこうと思っていたことを思い出す。
「そういえばシオン、明日誕生日だよ」
「ああ、うん」
シオンの家は、小さい頃から毎年誕生会を開くのが恒例となっている。私を含む四人の幼なじみがお客さんだ。
幼稚園くらいの年齢のときに始まったこのイベントは、なんだかんだでだらだらと続き、中学生になっても開かれている。
気が付いたら大人になってもやっているんじゃないだろうかと勝手に予想しているのだけど、みんなでケーキを食べたりするのは楽しいから続くならそれはそれでいいな、と思っている。
私は前からシオンに誕生日プレゼントにほしいものを考えておいてとお願いしていたのだけれど、
「……肉?」
彼は、前に聞いたときと同じことを今日も答えた。どんだけお肉が好きなんだ。
「だからそれは聞いたってば。明日の夜、焼肉パーティーでしょ。結局シオンたちのお母さんが準備してくれるっていうから、私たちは招待されるだけになっちゃった」
「ケーキは茜んとこが持ってきてくれるって聞いたけど?」
「うん。うちのお母さん手作りのだよ。それで、個人的にほしいものはないの? 何もないなら一応勝手に選んだもの用意したから……」
「じゃあそれを楽しみにしてる」
そういうなら、それでいいか。一応、シオンに渡そうと思って準備しているものがある。
誕生日じゃなくてもいいと思っていたけど、誕生日プレゼントとしてあげよう。
ラッピングちゃんとやっておかないと、なんて考えていると、視線を感じた。目線を上げると、シオンが妙に真剣な顔で私を凝視していた。
「やっぱさ、ほしいものっていうか教えてほしいことがあるんだけど」
「何?」
「好きな人いる?」
一瞬、思考が固まった。
好きな人……なんか最近よく聞かれる気がする。
「……いないよ」
「あ……そう」
シオンは明らかにほっとしたような顔をして、床に仰向けに倒れ込んだ。
「こないだ男子と仲良さそーに喋ってるのを見かけたから。茜と同じ美化委員とかいう」
「あー、仲はいいけど別に好きじゃないよ。友だち」
また、坂口くんか。そんなことをシオンが気にするのは意外なような、よくあることのような。
彼はときどき、私と仲良くしているクラスメイトのことを、誰? と確認してくることがある。大抵、名前を答えるとふうん、と返事をされるだけで終わるんだけど。
どういう人と仲良くしているのか心配してる兄みたいなもんじゃないの、と前に夏芽が言っていた。
私は一人っ子だから兄弟というものがよくわからない。シオンはアンナがいるけれど、年下の弟や妹はいない。
お互いに頼れる相手と可愛がれる存在を見つけて一緒にいるようなところは、確かにある。
けれど、今のように真面目に好きな人を訊かれたことはなかった。
どうしたんだろう、急に。
近寄って、寝転ぶ彼の傍らにしゃがみ込むと、彼は大きなあくびをしていた。
「シオンはどうなの? 今めずらしく彼女いないよね」
「うーん。一個上の先輩と付き合ってたからさあ、高校でもっといい人見つけたみたいであっさり振られたわあ」
ちょっとおどけて嘆いてみせるシオンの大げさな声音に、思わず笑ってしまった。
シオンは明るい性格だし顔もかっこいいほうだから、どちらかというとモテる。初めての彼女である「麻衣さん」の他にも何人かと付き合っていた。
でも、どの彼女ともあまり長続きしていない。なんとなく相手の女の子がいい加減そうなときもあるし、シオンが相手のことをそんなに好きじゃないのに告白されたから付き合っているだけのときもあるから仕方がないのかもしれない。
私は、もっと長続きする恋愛がしたい。自分を大切にしてもらえて、相手を大切にできるような。シオンはそうじゃないのかな。
ふいにシオンが私に手を伸ばしてきたから掴むと、彼は私に引っ張り上げられるようにして上半身を起こした。
至近距離で目が合い、シオンの瞳の奥に戸惑いの色が揺らめくのをぼんやりと見つめる。
「……」
「……」
なぜだか急に怖くなって、私はシオンから顔を離して立ち上がった。
ときどき、わからなくなる。シオンが私をどう思っているのか。
本当に妹みたいな幼なじみだと、それだけの気持ちで私を見てくれているのかどうか。
そんな瞳で見つめられたら、おかしな勘違いをしてしまいそうになる。シオンは私なんかよりももっと可愛い女の子と付き合ってきたから、たぶん本当に勘違いなのだろう。
じゃあ私は? 同じ部屋にいて、すぐ近くにシオンがいて、胸のあたりがどきどきしているのは気のせい? これも勘違いでいいの?
*
「……木下さん?」
名前を呼ばれて過去の記憶から我に返ると、そこは駅前だった。横を向くと、私の隣には瀬戸先輩がいた。
「ちょっとぼんやりしてたみたいだけど、大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です」
「そう? じゃあ俺の家、この駅の向こうだから。気を付けて帰って。また学校で声かけていい?」
「はい。ありがとうございます。また学校で」
笑顔を作ってうなずいた瞬間、冷たい風が吹いて肩におろしていた私の髪がばさりと暴れた。
「ひゃー、さっむ」
慌てて荒れた髪整えていると瀬戸先輩と目が合って、つい笑ってしまった。先輩の髪も私ほどではないけれど、少しぼさぼさになっている。
「先輩も髪跳ねてますよ」
「え? まあ家帰るだけだし……ていうか木下さんほどじゃないと思うけど!」
そう言いながら笑ってがしがしと髪を触るから、さらに状況がひどくなる。
悪いと思いつつも、さらに笑ってしまう。お互いにくすくすと肩を震わせた状態で私が整えた髪を耳にかけると、それを見た瀬戸先輩がわずかに目を見開いた。
「そのピアス、似合ってるね」
髪を触っていた手が思わず止まる。
本当に? この人には、似合っているように見えるのだろうか。
私は、自分には似合わないと思う。そんな疑問を飲み込んで微笑む。
「これ、中学生のときに手芸部で作ったんです」
「そうなんだ。手作りすごいね」
黒いビーズの、安いピアス。耳に穴をあけるとき、緊張したのを覚えている。
ずっと、毎日、同じものをつけているけれど。
私に似合っているわけがないのだ。




