藤田シオン:距離感
「今から私があんたの勉強見るから。教科書とノート持ってきて」
冬休み初日の夜。塾から帰ってきた妹のアンナにそう言われ、俺はベッドから飛び起きた。
「は? やだ」
「嫌じゃない。お母さんに頼まれたの。塾に通うのも拒否したんでしょ。せめて私が教えるから。もう受験まで日にちないよ」
眼鏡の奥の瞳を吊り上げて俺を睨むアンナの顔は、俺とよく似てそれなりに目鼻立ちがはっきりしている。が、その分怖い顔をされると迫力がある。
それでも俺は首を横に振って抵抗した。
「やだって。俺が受ける高校、名前書いたら合格できるって噂だし大丈夫だよ。勉強いらなーい」
「噂でしょ。合格する定員は決まってるんだよ。シオンよりも頭いい奴が偶然、今年だけたくさんいたらあんたは落ちるの。わかる? 早く用意して。まずは数学にしよっか」
ガチで俺に勉強させようとしている。
同じ血が流れているとは思えないこいつは、学年でもトップの成績なのだ。もちろん志望校も、ここらへんで一番の進学校。俺みたいなアホが家族にいるのが許せないという思いもあるのか、かなり本気で分厚い問題集や筆記用具を俺の部屋に持ち込み、準備し始めている。
いやだ。こいつと二人っきりで勉強とか、あり得ない。
「……アンナー?」
「なに」
ベッドの上で三角座りをした状態で猫なで声を出すと、アンナは無表情で俺を一瞥した。
「みんなも呼んじゃだめ?」
「みんな?」
「みんなだよ。コウと夏芽と、茜と、さっくー」
幼なじみ組が全員集まっての勉強会なら、なんとか耐えられそうなんだけど。
アンナもそれならいいかと思ったのか、ため息をつきながら首を縦に振った。
「私、茜と桜子に連絡するから、シオンは光志郎と夏芽、呼び出して。光志郎と二人で騒がないでよ。あんたらほんとにうるっさいんだから……」
「はいはーい、わかってまーす」
全員来てくれたらこっちのもんだ。光志郎の学力は俺と似たり寄ったりだから当てにならないけど、残りの三人はそこそこ勉強できる。
アンナじゃなくてそいつらに教えてもらおう。
結局、呼び出して藤田家に来たのは桜子と夏芽だけだった。
「コウ、あいつぜってー寝てるわ」
勉強できない仲間がもう一人いれば、アンナのスパルタ指導が分散されて楽になると思ったのに。俺と同じ高校志望だから一緒に頑張ろうと思っていたのに、役に立たん。
俺が解いた数学の問題を丸付けしてくれていた夏芽が、そりゃそうだよと笑った。
「夜中に突然勉強会するからって急に言われてもね。茜ちゃんも寝てたんじゃない?」
「そう。返信はくれたけど、眠いからごめんって」
アンナが問題集をぱらぱらとめくりながら答える。次に俺に解かせる問題を吟味しているようだ。なんて恐ろしい。
真面目に採点を続けている夏芽をじっと見つめてみる。彼は茜と同じ、そこそこの偏差値の高校を志望しているから、アンナほどではないものの頭がいい。だけど頭の見た目はいまいちだ。なんだそのマッシュルームみたいな髪型。
小さかった頃はなんでも俺の真似をして可愛い弟みたいだったのに、いつのまにか全然違う頭脳やファッションセンスになってしまった。
次に、なんとなくさっくーこと桜子に目を移す。茜や夏芽はさくちゃんって呼んでいる。
俺に問題を出す係も俺の解答を採点する役目も任されなかった彼女は、自分用の社会の問題集を開けたままスマホをいじっていた。彼女はダンススクールに通っていて、高校もダンス部のスポーツ推薦をもらっているから、あまり勉強する必要がないのだ。うらやましい。
アイドルみたいに大きな瞳をじっと画面に向けている。何を見ているのか気になって、俺は彼女の腰まである長い髪を少しだけ引っ張った。
「いたっ……なにすんの」
「なに見てんの?」
「大したものは見てないよ。なんか、けっこう大きな、若手俳優の芸能界デビューオーディションがあるっていうネットニュース」
そう言って彼女は見せてくれた画面は、大手芸能事務所が十代の俳優を発掘するためにオーディションを開催するという情報だった。一般向けの公募で、日本に住んでいる十代の男女なら誰でも応募できるらしい。
「もう応募期間始まってるんだ。さっくー応募すればいいじゃん」
「なんでよ」
「なんかいけそうだし。スタイルいいしダンスっていう特技もあるしさ」
実際、桜子は学校でも美人で有名でかなりモテる。男子たちのあいだにファンクラブもあるとかないとか。変に目立ったオーラもあるし、芸能人にも本気でなれるんじゃないかと思う。
「お芝居なんか無理、無理。ダンサーの募集ならともかくこれ、役者のオーディションだからね。あんたがやればいいじゃん。ヤンキーとか出てくるドラマ、超似合うよ」
「うるせえ、だまれ。じゃあ応募するなら道連れだ、二人とも申し込むぞ。えーとなんてオーディションだっけ。新人発掘……」
「ちょ、やめてよ!」
スマホを取り上げようとしてくる桜子と追いかけっこをしていると、困ったように夏芽がノートをかかげた。
「採点終わったよ~。半分くらい間違えてるよ~」
「はあ? あんなに頑張ったのに!?」
全部合ってると思って安心していたから面食らって大声を出してしまう。
「シオン、夜なのにうっさい」
アンナに思いっきり足を踏まれて俺はしおしおとその場に座った。
「じゃあ間違えたところ、正解するまで解きなおしね」
「うええ、いやだー」
「頑張れシオン」
「頑張れ~」
夏芽と桜子に励まされながら、俺は再び数学の問題に目を落とした。
勉強は楽しくないけど、みんなといるのは楽しい。
*
冬休み明けの一月。休み時間に廊下の窓からぼんやりと校庭を眺めていると、茜の姿を見つけた。体操服だから、体育の授業が終わったところみたいだ。
校舎に向かって歩く生徒たちに混じる茜は、他の人と同じ服装や背丈をしているのに、俺の目にはぱっと見分けがついた。なぜかちゃんと茜だってわかる。
「何見てるの」
俺のとなりにひょいと夏芽が並ぶ。
「茜がいるなーって」
「どこ」
「いるじゃん。今テニスコートの横を通った……」
「ああ、ほんとだ。シオン昔から茜を発見するの上手だよね。それにしても、こんなに寒いのに外で体育ってどうかしてるよねー」
「それな」
今、三年生の体育の授業は男子はテニス、女子はサッカーだ。テニスコート横で男子も女子も合流し、わらわらと昇降口に向かう姿が見える。
昇降口の前で、一人の男子が茜に駆け寄って話しかけた。そのまま二人で楽しそうに会話しながら、校舎の中に消えていく。
「夏芽、今の誰?」
「えーと、名前忘れた。クラスで茜ちゃんと一緒に美化委員やってるとか言ってたような。最近仲いいみたいだよ」
「へえ……なんかやだな」
「嫉妬? シオン、茜ちゃんのこと大好きだもんねー」
俺よりも少し高いシオンの声がからかい口調になった。軽く足を踏んづけてやる。
「痛い……」
「嫉妬じゃない。けど、ああいうの見るといらいらはする」
なぜか夏芽や光志郎が茜と一緒にいても平気なんだけどなあ。というかそれは、俺のほうが2人よりも茜と仲が良いという自信があるからか。
「嫉妬じゃん」
「……そうかも。でも俺、茜を異性として好きになりたくないから、困る」
「なんで?」
「うまく言えないけど、面倒見のいい兄貴的なポジションでいたいっつーか」
「ああ……茜ちゃんってちょっとぼんやりしてるとこあるもんね。シオンがいつも守ってあげる役回りになってるのは、なんかわかる」
「夏芽も俺ら幼なじみ組の中じゃ、ぼんやりしてるほうだけどなー」
「ええ~? まあ否定はしないけど。幼稚園とか小学校とかでシオンにはいろいろ助けてもらったもんなあ。俺をいじめてた上級生をぶっ飛ばしてくれたときはすかっとした」
「あとで先生と親にめっちゃ怒られたけどな」
茜と夏芽はどこか似ている。少しどんくさいところ。真面目なところ。優しい代わりに損をしがちなところ。
だけど俺が好きになりかけているのは茜だけだ。性別の問題じゃない。夏芽が女の子でも、茜だけだったと思う。
何が特別なのかはわからないけど、幼い頃から茜だけは幼なじみの中で俺にとって一番だった。その意味のわからない特別な感情がもうすぐ15歳の今、恋だと言われればしっくりくるような気がしてなんだか怖い。
「なあ夏芽ー。あの男子は茜のこと好きなのかな」
「知らないよそんなこと。気になるなら本人に聞いてよ」
「初対面のやつに?」
「じゃあとりあえず茜ちゃんに聞けば。茜ちゃんがあの人のことを好きかどうかはそれでわかるし」
夏芽がそう言い終わるのと同時に次の授業開始のチャイムが鳴り、茜と同じく生真面目な彼はさっさと教室に戻っていってしまった。




