「物」になりたい男
小説家になろう初投稿です。今まで物書きをろくにしたことがなかったので、(特に戦闘シーンやアルシアの中二セリフ中に)稚拙な部分が多々あると思いますが、楽しんでいただければ幸いです。
研究室、就活、学会発表。どれもこれもが面倒だ。
俺はとある大学の四年生。いわゆるボッチである。ボッチにとって、学部四年生のスタートというのは、自分の社会性と真正面から向き合うことを意味する。田舎の高校から都心のそれなりの大学に入り、自分の社会性の無さに初めて気づいた俺に、仲間と呼べる人などいない。常に昼はボッチ飯。教室の前から二列目、一番端が俺の定位置だ。隣に座る人など誰もいない。後ろで騒ぐ奴らが鬱陶しい。いつ頃からだったか精神科に通うようになり、投薬暮らしの日々。そういえば昔は、博士を取って研究者になるのが夢だったっけ。今では研究者どころか、まともな職業で働ける自信もない。
「来世は物になりたい……」
これは最近の俺の口癖だ。物は未来に絶望することもないし、自分で判断を下す必要もない。自分のせいで他人に迷惑がかかるわけでもない。何かすごい物になって、それを扱う人が称賛される……それだけで俺は満足だ。そう、俺は「物」になって、そして俺を扱う者のストーリーの「観測者」になりたい。
そんな馬鹿らしく非現実的なことを考えながら、俺は湯船に浸かった。43℃のお湯に温泉の素を入れて肩までつかる。これが一日の中で一番の楽しみである。
突然だが、あなたは「突然死ぬ」ということにどれほどの確率を感じているだろうか?そもそもあなたって誰のことだろうか、というのはさておき、俺はその確率が決して零でないということを断言できる。とてつもなく低いだろうが。突然第三次世界大戦が勃発して核ミサイルが首都圏に落ちて、などといったスケールの大きな話には予兆があるだろうが、単純に心臓麻痺とか脳卒中とかだったら今この瞬間に起きてもおかしくないはずだ。それなのに、我々はそれを危惧したりはしない。考えても無駄な事であるので。
話が横に逸れたか。つまり、人間いつ死んでもおかしくないものである。それは必然ではなく、偶然なのだから。そのことを実証するがごとく、今まさに、重力に従って、浴室のタイルが途方もなく近づき、鈍い衝撃が頭から全身を包み、俺は無になったのだった。