ワイングラスの月
「1つ、コップにお月様を入れてみたい」
椅子に腰掛け、目の前のワイングラスに月に見立てた丸く透明な氷を入れる。カラン、と涼しい音がした。
[現実的ではありません。アナタのワイングラスは口径63cm、月の直径は3474kmです。コップに月を入れることは不可能です]
私一人の薄暗い書斎のどこかから聞こえる、落ち着いた女性の無機質な声。軽く息を吐き、声の主に言った。
「……まぁ、そう固い事言うなよ。現実じゃあ出来っこない事ぐらい知っているさ。ある一種の表現だよ。文学的で良いだろう?」
[『ある一種の文学的表現』とは、一体何でしょうか。月をコップに入れる事は何を表しているのですか]
「うーん、そうだなぁ……」
実際、コップに月を入れる表現の意味なんて全く考えていなかったものだから焦った。文学的と言えば大体は通ってきたのに、機械相手にはそうもいかないようだ。返答に困った私は本棚を見回した。背表紙がかろうじて読める明るさで、ある一冊が目に留まった。大きな窓から差し込む月明かりに照らされたその本の著者、夏目漱石。
「夏目漱石が英語の教師をしていた頃、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳した逸話があるんだ。それは君も知っているよね? このことから月=女性と考えて――」
と言いながらワイングラスを持ち上げる。
「『女性がほしい』……こういう事だ。理解できたか?」
[覚えておきます。しかし現在アナタには女性がいらっしゃるはずですが]
「ああ……アイツとはもう顔を合わせない事にしたよ」
窓の外に映る景色は宝石を散りばめたように美しい。あの中で今も変わらず彼女が働いている。今は気の合う男をひっつかまえて食事にでも行っているのだろう。その男は彼女に対し、どういった想いを抱くのだろうか。私は……疲れた。彼女は比較的――いや、真面目すぎるのだろう、一日に何度も連絡を取ってくる。悲しいのか? 寂しいのか? 辛いのか? 多忙な私の精神を携帯の着信音が圧迫してきた。私は着信を拒否した。すると彼女が私の家を訪れ、何故だと問い始めた。怒りをぶつけ、涙を流しながら垂れる言葉を黙って聞いていた。最後、彼女は一方的に切り上げ、顔も見たくないと言って出て行った。私はせいせいした気分になれた。その会話を聞いていた機械は何も言ってこなかった。
人工知能があると知ってから、私の暮らしは随分変わった。会話が出来るのは良い事だと気づけたのもその時。今は……もう一つの望みがある。
「――人間、だったらなぁ。お前が」
と言って、生身の人間に求めているものを今改めて知った。温かさではなかったように思う。その事に一番よく分かっている機械は終始無言のままでいた。