*8*リオンの”華”
リオンは私室に入るなり、部屋の中央の辺りにある愛用の3人掛けソファへドカッと座った。
「くそっ……」
その表情には、苦痛が滲み出ていた。
眉間には、深い皺が寄っている。
「くそっっ!!」
ダンっっ!!
彼は、目の前の骨董品のセンターテーブルを、右拳でものすごい力で叩いた。いくらテーブルが木造であるといっても、その強い力はテーブルを破壊させてしまいそうな勢いがあった。
あまりにも激しい力で握られた拳は、深く爪が食い込み、血が滴ってしまいそうな程だ。
ぎりっ
リオンは奥歯を噛む。
そうでもしないと、彼の精神は今にも崩れてしまいそうだった。
「何故だ……。何故こんな事になる……?」
彼の苦痛な表情に、哀しみが上乗せされる。
そして、寝所の隣のチェストに置かれたモノを力のない瞳で見つめる。
そこには、クライドの言っていた”あの花”が一輪挿されていた。
彼はゆっくりと瞳を閉じ、手を繋いでいた”あの頃”を想った――――
――――「リオーーン!! 早く!こっちだよーー!!」
「待ってよ、ローザリカ!!」
城の中の美しい庭園。
いたる所に、色とりどりの可憐な花々が咲き乱れている。
そこを楽しそうに駆け回る、金の髪が目を引く2人の少年と少女。
年の頃は7、8歳だろうか……。
彼らはベージュの半袖シャツに濃紺色の短パン、膝丈の赤いワンピースという、いかにも子供らしい動き易い格好でいる。
「遅いわよ、リオン! 今日もわたしの勝ち!!」
少女はニコッと笑って、Vサインを少年へと向ける。
「……」
対する彼は、それに納得がいかないのか、不満そうに口を尖らせている。
「もう! そんなに怒らないでよ」
「別に怒ってないさ。それにオレは、父上みたいな国王になるんだ。こんな事でいちいち怒っていられないんだから」
「ふ~ん。だったら、その瞳に光っているモノは何なのかしら?」
「え……?」
彼女は斜めから盗み見るように、わざとらしく瞳を見る。
彼の瞳には、薄っすらと光るものがあった。
必死に我慢したのだろう。それが、溢れ出てしまう事は無かった。
「あっ……!」
彼は、それがとても恥ずかしかったようで顔を真っ赤にする。
「もう。リオンったらホントに子供なんだから!」
彼女は「ふふっ」と笑った。
「なんだよ。ローザリカだって子供だろう?」
「そういう意味じゃないの!」
彼女は「はぁー」とため息をついたが、またいつものように「ふふっ」と微笑んだ。
「もう、リオンったらしょうがないんだから」
そう言って、ポケットからレースのふんだんに使われた、白く可愛らしいハンカチーフを取り出した。
そして、彼の目尻から光る雫を拭ってやる。
「あ……」
リオンは、ローザリカにこうされるのが好きだった。
そして、「リオン」と名前を言ってもらうのが嬉しかった。
辛い時、悲しい時……彼女は、いつも傍でリオンやリーリエを見守っていてくれる。涙を拭ってくれる……。
だからリオンは安心できた。
例え、どんなに寂しくても……母がいなくても……。ローザリカが傍にいてくれたから、心が安らいでいられた。
「……これでよしっ、と」
ローザリカはそれを拭うと、ニコッと笑った。
「そろそろリーリエのところに戻りましょ。きっと、リオンがいなくて寂しそうに待ってるわ」
「ああ」
けれど、リオンはもう少しこのままでいたかった。
それがどうしてかは、彼にもよく分からなかった。
涙を拭ってくれた、その余韻に浸りたかったのかもしれない。
彼は、唐突に話題を変えた。
「ていうかさ、”ローザリカ”って名前が長すぎるんだよ。オレが名前を呼んでる間に抜かされちゃうじゃないか」
「え~? なによ、その変な言い訳! だいいち、かけっこしてる時に名前を呼ぶ必要なんてないでしょ?」
「まぁ……そうだけど……」
リオンは、歯切れが悪そうに答えた。
「でもさ、オレは”リオン”だろ? オレは”ローザリカ”って5文字も使って呼ばなきゃいけないんだから、不公平じゃないか」
それは、いかにも子供らしい可笑しな発想だった。
「え~~? ……まぁ、そうね。リオンの言うことも一理あるかも!」
ローザリカも、その不可思議な理論に多少の訝しさは感じたが、彼の意見に同意する。
「じゃあさ、わたしは何て呼ばれればいいの? ”リオン”と同じにしなくちゃいけないから、3文字ね!!」
「え……? えっと……」
リオンは、自ら提案した理論であったのに、その肝心な部分を考えていなかったので狼狽える。
ローザリカは、新たな自分の愛称を教えてもらうのを、期待のこもった目で見ていた。
「えっと……」
――どうしよう……。何も考えてなかった。何か……何かないかな……?
リオンは、手掛かりとなる物を探し、辺りをきょろきょろと見渡した。
暫く眺めた後、そして――――
「……あっ!!」
リオンは”ある場所”で目が留まった。
彼らが居る、その場所。その庭園の中。
鮮やかに咲き誇る花々の中、それは在った。
ピンクや黄色、白などの同種の中で、一際目立つ一輪の深紅の”華”だった。
「薔薇」
「ねぇ、ローズはどう!?」
「……ローズ……」
ローザリカは、それを確認するように呟いた。
「ローズ。……うん、とっても素敵。すっごく気に入ったわ! それに、とても綺麗な響きね……。ありがとう、リオン!!」
そして彼女は、薔薇が咲き誇るように笑った。
「あ……」
リオンは、頬が熱くなるのを感じた。
眩しすぎるその笑顔を、直視できなかった。
胸がドキドキして煩い。
「いや、別に……」
俯き加減に応えたので、無愛想な感じになってしまう。
けれど、彼はチラリと覗き見た。その笑顔を見たかった。
「……おにいさまーー!! おねえさまーー!!」
遠くの方で、リオンたちを呼ぶ声が聞こえた。
先に反応したのはローザリカだった。
「あっ、リーリエが呼んでるわ。ほんとにそろそろ戻りましょ。いこっ、リオン!!」
彼女は自身の左手と、リオンの右手を繋いだ。
リオンは、繋いだその手が熱いのを感じた。
先程よりもドキドキが増して、心臓がおかしくなってしまいそうだった。
――ずっと、ずっと……この手を握っていてほしい……。
彼はただ、そう願った――――
――――「ローズ……」
彼は、かつて呼んだその名を呟く。
そして、今にも倒れてしまいそうな虚脱感でいっぱいの体を、何とかチェストへと足を向けた。
そこにあったのは、一輪の深紅の薔薇だった……。
この部屋の主のため、庭師が丁寧に棘の処理をしてある。
「ローズ……」
『私の可愛いリーリエならともかく、ローザリカにはまかり間違ってもその様なことを考えたりしないさ』
オレは、馬鹿だ……。
大人になればなっていく程、表現できなくなる。
この想いを素直に伝えられなくなっていく。
『素直になりましょう、リオン様』
素直になったってもう遅い……。
国王の決めたことだ。
それに、じゃあリーリエを嫁がせるというのか……?
そんなの国王が許さないだろう。
きっと、母上に似ているリーリエを手放さない。
オレだって嫌だ。
リーリエは大事な妹だ……。
「王太子」なんて無力だ。
この国で大きな権力を持っていたって、この広い世界の中ではちっぽけな存在でしかない。
たった一人のアイツを、守ることさえできない……。
それに――――
『オレは、父上みたいな国王になるんだ』
オレは、皆を裏切れない……。
オレしか、父上の後を継ぐ者がいないんだ。
この国のために王となって、民を守っていかなければならないんだ……。
一週間後にはアイツは、不意に現れた男と共にオチェアーノへ行ってしまう。
けど……オレの方が絶対アイツを大事にする。
絶対アイツを、守ってやれる。
オレの方が、絶対アイツを……
「……ローズを、愛してる……」
彼の呟きは、闇に溶けた。
そして、一輪の薔薇を花瓶から取り出し、その繊細な花びらへと口付ける。
「……っ……」
先日、あれ程涙を流したというのに、リオンの”心”から溢れてくるものは止まらなかった。
そして彼は、その深紅の薔薇を大切そうに、愛おしそうに抱きかかえ――――
「傍にいて……。一人は、嫌だよ……」
彼の涙は、美しい花弁を濡らした――――




