*62*アレクシスとミゼリカのuntrue love story Ⅻ
エメリアがこの世を去ってから数日が過ぎた。未だ悲しみは癒えていないが、ずっと悲嘆し続けるわけにもいかない。俺たちには守るべき者たちがいるのだから。
そう思っているのは、自分だけだったのだろうか……。
兄上は葬儀を一通り終えた後、虚ろな顔付きをそのままに、ふらりとエスポワールの間へと閉じこもってしまったのだ。
あれから幾日過ぎたのだろう。
始めのうちこそ「兄上も辛いだろう」と、エスポワールの間へと向かう兄の背を見送っていたが、それもそろそろ限界が来ていた。
否、自分がもっと有能であったならば、思う存分に兄を悲しませてやる事が出来たのかもしれない。俺は、こんな状況になってから、やっと己の甲斐性の無さに気が付いたのだ。
俺は、ずっと「兄」になりたかった。「第一王子」になりたかった。
けど、結局”それだけ”でしかなかったのだ。
「なりたい」と思うだけで、「兄になろう」だなんて考えもしなかった。
いや、もちろん兄にはなれない。なれないのだが、近付く事は出来た筈だ。
そうすれば、目の前に広がる大量の書類と対峙したとしても、もう少しまともに兄の代わりを務める事が出来たのかもしれない。
日に日に増えていく紙の山……。それを消化するのに精一杯で、他の事にまで手が回らなかった。何度、自分の無関心さを恨んだ事だろうか。言葉には出さずとも、宰相や側近たちの苛立ちをひしひしと感じる。その度に俺は自分の無力さを呪った。
それから――
「これじゃ、王子としても失格だな……」
誰にも届かぬようにひとりごちた――
”いよいよ”という瀬戸際まで迫っていたアルダンを救ったのは俺では無く、幼く小さな王子――リオンだった。
リーリエを腕に抱き、リオンの手を引きながら執務室に現れた兄上を目にした瞬間、無意識に「良かった……」と呟いてしまう。そうして、またも自分の不甲斐なさを痛感してしまった。
その日から俺は、兄に師事し、これまでの時間を取り戻すように執務に打ち込んだ。兄も気持ちの整理が付いたのか、徐々に笑顔を見せる事が多くなっていった。ただ、以前よりもリオンやリーリエを気に掛けるようになった事は不思議だったが、良い変化だと思う。
その後、リオンは前以上にローザリカと共にいる時間が多くなった。そのうち、少しずつ柔らかい表情が見られるようになり、どこか安心する自分がいた。
リーリエは、ミゼリカや乳母によって大切に育てられた。何より、ミゼリカがそう望んだのだ。
すやすやと気持ち良さそうに眠るリーリエを見る度、赤子だった頃のローザリカを思い出し、いつの間にか口角が上がっている自分に気付くのだった。
それからは、自分にとって穏やかな日々が続いた。そして、平穏な毎日に心地良さを覚えていたのだ。
しかし、数か月後――エメリアのいない日々が日常となりつつあった頃。早朝、離宮へと意外な来訪者が現れた。
それは、どことなく険しい表情をさせた兄上だった。
玄関で兄を迎え入れた俺とミゼリカは、思い掛けない来客に面食らってしまった。朝食もとっていない時間にやって来るなど、初めての事だったのだ。
「兄上、こんな朝早くにどうされたのです? 何か急ぎの用件でしょうか?」
まさか、争いでも起きたのだろうか……。
ここ数十年も緊張状態にある二つの国が頭をかすめ、嫌な想像を巡らせてしまう。直後、自分を纏っている空気が、ぴんと張り詰めたような錯覚を味わった。後方で控えているミゼリカからも、同じ気配を感じる。
「……ああ、悪いな。直ぐに見せたいものがあったんだ」
「見せたい、もの……?」
「ああ……」
そう言った兄上の顔色は、心なしかいつもより青く見えた。声色には覇気が無く、迷いのようなものを感じる。
兄上は平静を装い、それを悟られないようにしていたようだが、俺は兄のささいな機微に気が付いてしまった。嫌な予感が徐々に膨らんで行く。
「これなのだが……」
そう言いながら、やおらに懐から取り出したのは、一通の文だった。公文書よりかは簡素であるが、上質な羊皮紙なのは一目瞭然で、差出人がある程度の身分の者である事がうかがえる。
王への書簡と言うよりは、もっと内輪なもの――近しい者同士のやり取りに使われるもののようだった。
「文……ですか?」
「そうだ」
誰から?
そもそも、兄上は何故こんな時間に?
城へ行ってからでは駄目だったのか?
様々な疑問が脳裏を過ぎった。だが、とにかくこれを見ない事には解決しないだろう。俺は、兄上から文を受け取ろうと手を伸ばした。
しかし――
「いや、これはお前へのものではないのだ」
「え?」
返って来たのは、思い掛けない言葉だった。
俺宛では無い……?
早朝、こんな所にまでやって来たのだから、それなりに重要な文である筈だ。当然、自分へ送られたものなのだろうと思った。
「……あの、兄上? 俺宛でなければ、誰へ宛てたものなのです?」
「……。これは……」
暫くの間を置いた後、兄は俺から視線を外した。そして、それをついと横に逸らす。
兄上……?
兄の行動の真意が見えぬまま、目線の先を追った。それは俺を通り越したもっと向こう側――自分の背後へと向かっていた。
その視線の先にいたのは――
「ミゼリカ。お前への文だ」
ミゼリカだった。
「えっ……!? わたし、ですか……?」
「ああ、そうだ」
まさか、自分へ宛てたものだとは欠片も思っていなかったのだろう。彼女は、びくりと大きく肩を震わせた。銀灰色の瞳は大きく見開かれているが、気遣わしげに揺れている。
ミゼリカへの文を、どうして兄上が?
彼女が、家族や友人たちと文を交わしてるのは知っているが、それをわざわざ兄が持って来る事などある筈が無いのだ。ミゼリカならば、”その意味”を察しているだろう。
「これだ。悪いが、中を見させてもらった。渡すべきか迷ったのだが……」
兄上には珍しく、歯切れの悪い様相だった。そんな兄のただならぬ雰囲気に気圧されてしまったのか、ミゼリカは不安そうに立ち尽くしてしまう。
その場は暫くの間、しん……と静まり返った。重苦しい空気が広がっていく度、少しずつミゼリカの眉間の皺が深くなっていくのに気付いた俺は、彼女の方へ身を乗り出す。
けれど、それは杞憂だったようだ。歩を進めようとした直前、彼女は決心したように前を向くと、ゆるゆると俺の隣まで歩いて来た。それから、誰が見ても”作りもの”と分かる笑みを浮かべる。
「わざわざ、こちらまでお越し頂きありがとうございました。陛下のお手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
落ち着いた声色はいつものそれと変わらなかったが、僅かな震えは隠し切れていなかった。文を受け取ろうと伸ばされた細い腕も、微かに震えているような気がする。
兄上は、一瞬差し出すのを躊躇うような仕草を見せたが、それを振り切るようにミゼリカへと手渡した。
何が書いてあるんだ?
可笑しな兄の様子から、良い内容で無い事くらい察しがついている。
「……ん?」
その時、真っ赤な封蝋が目に留まった。そこには、家系を表す紋章が印璽されている。
あの紋章、どこかで見たような……?
見覚えのあるそれに、どうしてか胸がざわついた。記憶を辿るが思い出せない。
何故だろう。嫌な予感がする……。
だが、俺の気持ちとは裏腹に、ミゼリカは中から一枚の紙を取り出した。そして、四つ折りになったそれを恐る恐るといった風に開いていく。
ざわざわと落ち着かない胸騒ぎは、収まるどころか、より一層うるさく耳の奥で響いていた。




