*57*アレクシスとミゼリカのuntrue love story Ⅶ
ミゼリカの体調が多少落ち着きを見せた頃、俺たちはトマス叔父上の屋敷へと向かう事となった。彼女の腹は、そこに命が宿っているのだと実感出来るくらいには膨らんできている。
案の定エメリアは、「離れたくない」と泣いて別れを惜しんでいた。それを、「今生の別れではあるまいし、それ程遠くも無いのだから直ぐに会えるさ」と聡し、何とか城を去って来たのだ。事実、もう間もなく実現するであろう赤子の誕生の暁には、再び城へと足を運ばなければならないのだから。
だが、それよりも意外だったのは兄上の反応だ。
兄は、とても虚ろな表情で口数も少なく、長年共にいる自分でさえ何を考えているのか理解出来なかった。弟や義妹と離れるという”寂しさ”とは、どこか違う気がする。
ただ何となくだが、父上が亡くなった時と似ているような感じがした。
「……」
「……」
馬車の中で相対する俺たちは、ずっと無言だった。
よくよく考えてみると、ミゼリカとこんな風に密室で二人きりになるのは稀だった。これまでは兄やエメリア、兵士や侍女たちなど、誰かしらが周りにいる事が多かったし、寝所では”コト”が済んでしまえば、そのまま眠りについてしまう。彼女と、まともな会話らしい会話をした覚えが無かったのだ。
だから、何を話せば良いのか分からなかった。当のミゼリカは何を想っているのか、小窓から移ろい行く景色を眺め続けていた――――
――――やがて無言のままの密室から、色鮮やかな雛罌粟が目に映り始めてきた。そろそろ到着する頃だろう。
そんな事を思っていた矢先、ゆらゆらとした心地良い律動が止んだ。そして、カチャリと馬車の扉が開く。
「ようこそ。待っていたよ」
叔父上は穏やかな笑顔を湛えながら、俺たちを出迎えに来てくれていた。丸い眼鏡が、叔父を一層優しげに見せている。
「お久しぶりですね、叔父上」
「どうぞ、これから宜しくお願い致しますわ」
城で幾度か顔を合わせてはいるが、ちゃんと話をするのは久方ぶりだ。俺もミゼリカも、作り物では無い心からの笑みを浮かべた。
「ああ、宜しく。それにしても、随分と大きくなったな」
そう言いながら、叔父はミゼリカの腹をまじまじと見遣る。
「ええ。最近は食欲が出て来てしまって、少しは抑えないといけないとは思っているのですけれど……。この子が、たくさん栄養を欲しがっているみたいなのですわ」
彼女は、「ふふっ」と愛おしそうに自身の腹を撫でた。
「ふっ、お前が食べたいだけなんじゃないのか?」
「もう! アレクシス様ったらひどいわ」
俺が少しからかってやったら、ミゼリカはぷうと頬を膨らませて拗ねてみせる。俺は、彼女のこういう顔を見るのが好きだった。
こんな風に、その場で暫く談笑していた時だった――
「誰だ、お前はっ!!」
周囲を警護していた兵士の一人が、突然大声で叫び出したのだ。
「え……?」
それは、ミゼリカの後ろの方で聞こえた。俺たちは、咄嗟にそちらへと振り向く。
すると――
「どけっ、邪魔だ!! ……ミゼリカーーー!!」
一人の男が兵士たちを押し退け、何故かミゼリカへと必死の形相で喚いていた。いつの間に近付いたのだろうか。彼は、俺たちの直ぐ傍まで迫って来ていた。男の目は落ち窪んで頬は痩せこけており、オールバックにされた髪には艶が無く、くたりとしなだれてしまっている。だが、その瞳は彼女へと真っ直ぐに向けられていた。
「何なんだ、あの男は……」
叔父も知らないようだ。訝しげな面差しで警戒している。
兵士たちは、こちらへ突き進もうとしている男を懸命に押さえようとしていた。けれど、やせ細った彼の体のどこにそんな力があるのか……。兵士らは、形振り構わず暴れ回る男を取り押さえる事が出来ないでいた。
「なっ……どうして……」
ミゼリカは呆然とその男を見据え、ぽつりと呟いた。彼女の瞳は大きく開き、動揺しているように声は震えている。
「え……? 知っているのか、ミゼリカ?」
「……」
だが、彼女は俺の声が聞こえているのか、いないのか……。放心状態のまま微動だにせず、男をじっと見つめていた。
「ミゼリカ、お願いだ! 今でも、お前の事を愛しているんだ! 戻って来てくれ、ミゼリカーーー!!」
その言葉で俺は全てを察した。この男は、ミゼリカの元婚約者だ。彼の目は真っ赤に血走っており、恐ろしい程の執念のようなものを感じる。
「今更……何を言っているの? あなたが、わたしを突き放したのに……。もう遅いのよぉ!!」
ミゼリカは涙を瞳いっぱいに浮かべ、カタカタと震える体を何とか抑え込もうとしていた。
「違う……違うんだ! とにかく話を聞いてくれー!!」
懇願するような瞳をミゼリカへと向ける男は、兵士たちを押し退け彼女へと手を伸ばした。その手がミゼリカへと一直線に向かってくる。
直ぐ様、「何をする!」と一人の兵士が彼の前に立ちはだかった。
「きゃあ!」
「ミゼリカっ!」
直後、兵士の真後ろにいたミゼリカは、彼に体当たりされるような格好になってしまう。そして、そのまま倒れていった。
それは、鈍重のように自分の目に飛び込んだ。ゆっくりと、彼女が前のめりに倒れていく……――
「いやあぁーー!!」
「ミゼリカーー!!」
俺は必死に腕を伸ばそうとしたが、あと僅かなところで手が届かない。
間に合わない!
何とか自分の子を庇おうと、ミゼリカは自身の腹をぐっと両手で押さえている。けれども、運悪く彼女の倒れ込む先には、美しい花々が咲き誇る花壇の煉瓦が待ち構えていた。例え子を守れたとしても、受け身の取れない彼女が大怪我を負う可能性は免れない。頭を打ってしまえば、命さえも危ういものとなってしまう。
「ミゼリカーーー!!」
もう駄目だ……!!
バクバクとした恐ろしい程の動悸と共に、半分諦めさえも感じてしまっていた折だった――
「ミゼリカ様っ!」
煉瓦へと倒れ込む寸前、彼女をガシっと力強く受け止めた者がいた。それは焦げ茶色の髪をした、10代後半と思しき年若い兵士だった。
「大丈夫ですか? ミゼリカ様」
「ええ……ありがとう……」
彼は、「はぁ、はぁ……」と未だ恐怖に襲われているミゼリカを、しっかりと抱きとめてくれていた。彼女は、その場にへたりと座り込んでしまう。それから「良かった……」と一言呟き、腹を抱えながらぽろりと一粒の雫を流した。
「平気か? ミゼリカ」
彼女の傍らに跪くと、「アレクシス様」と俺の名を呼び、ぐっと服の袖を掴まれる。その手は震えていて、徐々にぽろぽろと涙が溢れ出してきた。
「こわ、かった……。わたし、この子が、いなくなっちゃうんじゃないかって……恐かったの……」
「ミゼリカ」
彼女の辛そうな顔を見ていたら胸の奥がぎゅっと苦しくなって、たまらずミゼリカを抱きしめた。
良かった……本当に……。
それは、嘘偽りの無い素直な本心だった。
俺の腕の中で、彼女はずっと涙していた――――
――――滅茶苦茶に暴れ回っていたミゼリカの元婚約者――ヴェルナーは、その後、兵士たちによって取り押さえられた。そして、今は叔父上の邸宅に捕らえられている。今後の彼の処遇は、最終的に兄上に判断されるだろう。
それから俺たちは、このまま城へと戻る事となった。ミゼリカが、それを望んだのだ。叔父は幾分か寂しそうにしていたが、「こんな事があっては仕方無いだろう」と了承してくれた。
だが、当事者であるミゼリカは、ヴェルナーの処罰を求めていなかったのだ。「死ぬかもしれなかったんだぞ!」と俺が反論しても、「分かっているわ……」と理解は示すが納得はしなかった。
帰りの馬車の中は、行きと同様に沈黙が包んでいた。
只一つ違うのは、ミゼリカが声を押し殺し、涙を流し続けていた事だ。
彼女は、何を想って涙しているのだろうか?
子を失わずに済んだ安心感……?
それとも…………――――




