*45*リーリエのIt OK to not know
「こちらが、リーリエ様の”お望みの場所”です」
ミリアが右手を差し出しながら、わたくしへと無表情で伝える。その瞳からは、「本当に、この先へ進むのですか?」というような覚悟を問われている気がした。
目の前に存在しているのは、何百年と手入れをされていないであろう、大きな木製の扉。観音開きのそれは、所々腐ってしまっている箇所があるにも関わらず、圧倒的な威圧感を覚える。
まるで、あちら側の方が、自分たちを待ち構えていたのではないのだろうかという錯覚さえ起こした。
「ここなのですわね。……あっ!」
その時、自身と繋がれているクリス様の左手が目に入ってしまった。カーっと、顔から火が出てしまいそうな程に体中が熱くなる。
ここまで一心不乱に走り抜けて来たので、気になりませんでしたけれど……。
「家族以外の男性と触れた」という事実を改めて感じ、急にとてつもない羞恥心が襲った。駆け抜けた時に上がった心拍数は、ドクドクと更に勢いを増していく。
とりわけ、繋がっている手に熱を感じる。それは「熱い」というよりも、「温かい」と表現した方が自然な気がした。
「あ、あのクリス様……。どうもありがとうございました……」
恥ずかしさのあまり、俯き加減で礼を伝える。
「ん……? ああ、リーリエこそ大丈夫だったかい?こんな風に走ったりする事なんて、ほとんど無いだろう?」
「はい、お気遣いありがとうございます。けれど、確かに少し息が上がってしまいましたわ」
クリス様は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていて、わたくしも徐々に気を楽にする事が出来た。彼に応えるよう、なるべく平常心を保ちつつ微笑む。
可笑しな表情になってしまっていないかしら……。
王女である自分は、「微笑む」という行為が得意なのだという事は自覚している。なのに、今は上手く笑えているか自信が無い。
「……あのー、お取込み中申し訳ございませんが……」
「え?」
「え?」
わたくしたちは、同時に声の主の方へと振り向く。
すると、そこには半笑い気味のミリアがいた。
「あっ……!!」
ここで、ようやく自分たちの置かれている現状を思い出す。
やっと落ち着きを取り戻しつつあったというのに、再びカーッと顔が熱くなる。心臓の鼓動は激しく波打った。
「ごっ、ごめんなさいクリス様!!」
慌てて繋がれていた手を離し、勢い良くバッと自分の方へ戻す。
わたくしったら……こんな事考えている場合ではございませんのに……。
「そんなに慌てて手を離さなくても……。僕、傷付いちゃうなー」
クリス様は口を尖らせ、眉間をハの字にさせていた。
「え? ……あっ! 申し訳ございません!! そんなつもりでは……」
本意では無かったにせよ、嫌な態度と取られてしまっても仕方の無い振る舞い方だったかもしれない。彼と視線を合わせられず、俯き加減となってしまう。
わたくし、クリス様を傷付けてしまったのですわね……。
「人を傷付けた」――そんな事実に、シュンと頭を垂れた。
これまで「人を傷付ける」という行為をした事の無い自分には、それは大きくわたくし自身へと圧し掛かった。
……いいえ、気が付いていなかっただけなのかもしれませんわね。
もしかしたらわたくしは、自分でも気付かぬうちに誰かを傷付けていたのかもしれない。
”王女”であるわたくしは、傷付けられる事などございませんのに……。
軽率な自分の行動に後悔する。
人を傷付けてしまうという事が、これ程心が痛むものだったなんて初めて知りましたわ……。
「あっ、冗談だよ、冗談!! そんな深刻そうな顔しないでくれ!」
「え……?」
冗談……?
一瞬意味が理解出来ずにいたわたくしは、数回目をぱちくりとさせてしまう。
当のクリス様は胸の前で両手をバタバタさせ、ひどく慌てふためいていた。
「ごめん、ちょっとからかっただけなんだ。妹たちとは、しょっちゅうこんな風に戯れているものだから、そんな反応されるとは思わなくてさ……」
「あ……」
妹たち……。
もしわたくしに妹がいたら、どんな”姉”になっていたのかしら?
きっと、お姉様のような“姉“にはなれなかったのでしょうね……。
「悪い事をしちゃったな。リーリエは、こういうのに慣れていないんだろうから……。レオパルド王やリオン殿たちから、とても大事にされてる生粋の箱入り娘のようだしね」
クリス様は、わたくしへと心底申し訳なさそうな面差しを向けた。
「あっ、いいえ! お気になさらないで下さいませ。わたくしが、冗談の通じない者であるのがいけなかったのですわ!!」
「へ……?」
わたくしは、自分の行動が招いてしまった誤解を急いで言い改める。
けど、彼は何故か大きく目を見開き、間の抜けたような声を出した。
あら?わたくし、何か可笑しな事を言ってしまったのかしら……?
再び不安が襲う。
城の者たち以外の人物にほとんど接した事の無いわたくしは、「人付き合い」というものが苦手なのだと思う。
「王女」としての自分は、国王の娘として穏やかに微笑み、淑やかに振る舞う。でも、「リーリエ」としての自分は、世間知らずで守られるだけの存在……。
それを、この二日間で嫌と言う程に思い知らされてしまった。
「あははっ!! リーリエって面白いんだね!!」
けれど予想に反し、彼はお腹を抱えて思い切り笑い出した。
「え……? 面白い、ですか……?」
「ああ、すっごくね!」
どうして、あんな楽しそうに笑っていらっしゃるのでしょうか?
彼の心中が分からず戸惑ってしまう。
「あの、面白いとはどのような意味なのでしょうか?」
彼は相も変わらず「あははっ」と笑っているが、わたくしの頭の中は疑問符だらけで困惑してしまう。彼の考えを理解出来ない自分が、情けないようなもどかしいような、そんな思いに駆られる。
それに、何となく寂しい気がした。
「リーリエ様は分からなくても良いのですよ。それが、“リーリエ様“なのです」
その時、わたくしたちの遣り取りを見ていたミリアから突然に話し掛けられた。彼女も何が可笑しいのか、「ふふっ」と笑みを浮かべている。
「ああ、僕もミリアと同じ思いさ。“今は“分からなくてもいいんだ。いつかきっと、分かる日が来るだろうから」
二人はそう言いながら、わたくしに温かい瞳を向けてくれている。
“今は“分からなくてもいい……。
いつかきっと、分かる日が来る……。
クリス様の言葉を心に刻み込んだ。
どうしてかしら……?
クリス様のお言葉は、いつの日か、必ずわたくしにとって大きな意味を持つものとなる……。
そんな風に感じるのですわ。
「……わかりましたわ。今は考えない事に致します」
「ああ、それでいいんだ」
「ええ」
わたくしたちは、お互いの顔をしっかりと見据える。このような場にはそぐわない筈なのに、わたくしは何故か心地良さを抱いていた。
「では、改めて気を引き締めて参りましょう」
わたくしは、自分自身への決意も込めて彼らへと居直る。
「……では、最後に念の為お伺い致します。本当に、この先へお進みになられますか?」
ミリアは、ひどく真摯な瞳を、こちらへと真っ直ぐにぶつけてくる。
しっかりとそれに応えるように、わたくしは彼女の視線を受け止めた。
「ええ、わたくしは知りたいの。この先に待っているものを。お兄様やお父様が、抱えているものを……」
「……わかりました」
ミリアは一度頷いた後、側に吊るされている蝋燭を燭台ごと外した。
それはひどく簡素で、両手でしっかりと握りしめていなければ、直ぐに壊れてしまいそうなほど粗末に見える。
「では、リーリエ様はこちらをお持ち下さい。この中は暗闇に包まれています。些かも光が当たらぬ所なのです。これでも心許ないくらいですが、何も無いよりは良いでしょう」
「ありがとう、ミリア」
それから彼女は、二つ目、三つ目と燭台を外し、そのうちの一つをクリス様へと手渡した。
「では、参りましょう」
そして「ふぅ……」と一度息を吐くと、観念したように環状の鉄製のノブへと手を掛けた。漆黒のそれは、仄暗いこの場であってもギラリと異様な光を放っている。
否、それは自分の心が見せる眩惑なのかもしれない。
「クリスティアン様も宜しいでしょうか?」
「ああ」
ミリアは、クリス様にも最後の意思確認を行う。彼は頷きながら、それに即座に反応した。
手練れの護衛騎士であるミリアでさえ、この先へ進むのには大きな心構えが必要なのだろう。
けれど、わたくしは一人じゃない……。
クリス様とミリアが共に……傍にいてくれる。
――だから、わたくしはきっと大丈夫――
そして、彼女はノブを引く。
ギィィィ……という年季の入った木の音色を響かせながら、そこはゆっくりと開いていった――――
It OK to not know=分からなくても大丈夫




