*42*リーリエのanswer
リーリエ視点です。
――――馬車の中は、終始無言だった。重苦しい空気だけが流れ、馬たちが刻む心地よい律動さえも、今は煩わしいモノのように感じてしまう。
リーリエの直ぐ隣にはリオンが、目の前にはクリスティアンが座していた。
兄は、昨日と同様に両手両足を組み外を眺めていた。こちらからは、眼鏡の奥にある表情を窺い知る事は出来ない。
クリス様は、兄とは反対側の窓枠へと肘をつき、それに頭を乗せて何やら考え込んでいる様子でいた。じっと瞳を閉じ、常の明るい雰囲気を纏ってはいない。
そして――
お姉様……。
彼の隣には、一つの空間。
本来ならば、そこに居るべき従姉がいない。
ボーっと、何となしに小窓の外を眺める。
この冷たい雨の中、クライドやミリアたち兵士は尽力して王族たちを守ってくれている事だろう。彼らの姿を認めようとしたが、向こうに映っているのは窓から流れ落ちていく雨粒だけで、心寂しさが増しただけだった。
お姉様は、きっと”王女という身分の為”……いいえ、それ以上に”アルダンの為”に、ご自分の体に無理をさせていたのですわね……。
これまで、何も知らなかった自分。
何も知ろうともしなかった自分。
「知らなかったのだから仕方がない」――そう思うのは、簡単ですわ。
でも……
「……っ……」
昨夜、あれ程涙したというのに、再び胸の中から熱いものが込み上げてくる。
「……ぅっ……」
「リーリエ……」
先に異変に気付いたのは、正面にいたクリス様だった。優しい琥珀色の瞳を向けて、心配そうな表情をしている。
言葉には表されなくとも、その眼差しだけで彼の心遣いが十分に伝わってくる。より一層胸がいっぱいになってしまい、ぐっとドレスの裾を強く掴んで俯いた。
「大丈夫か? リーリエ……」
クリス様の呟きに気が付いた兄が、久方ぶりにこちらへと体を向ける。
とても嬉しいはずなのに、今は顔を上げる事さえも出来そうになかった。そのため、兄がどんな面持ちをしているのか目にする事はかなわない。
「お兄様……わたくし……っ……」
それ以上は、言葉にならなかった。
「リーリエ……」
兄は再度わたくしの名を呟き、そっと手を添え、ぎゅっと強く抱き寄せてくれた。
「……あっ……」
4日ぶりの兄の腕の中は、とても温かかった。
思わず、ぐっと兄の胸を掴み頬を寄せる。きっちりと皺の伸ばされた外套は、くしゃりとなってしまったが、気に留めようとはしなかった。
もう、わたくしたちの間には何もいらなかった。
ただ触れ合って、お互いの温もりを感じる……。それだけで安心できた。
「っ、お兄様……!!」
ぽろぽろと、涙が頬を伝っていく。
そして、真上にある兄の顔をゆっくりと見上げた。
――そこに在ったのは、わたくしを安心させてくれる、いつもと同じ穏やかな微笑みだった……。
「……っ、わああああぁぁぁ!!」
――――それからわたくしは、お兄様の腕の中で慟哭していました。
その間、ずっとお兄様は、わたくしをぎゅっと強く抱きしめていてくれました。
なのに、何故でしょうか……?
その碧い瞳の奥深くには、とても暗い陰が宿っているような気が致しました……――――
――――幼い頃、お兄様はお姉様といつも一緒でしたわ。
ずっと手を繋いでいる二人を見て、寂しい思いを抱いておりましたの。
それに、お兄様は妹であるわたくしよりも、従姉であるお姉様と一緒にいる方が楽しそうで、生き生きとされていて……。
けれども、いつもわたくしの傍には、お兄様とお姉様がおりました。
わたくしが寂しい時、辛い時、泣きそうな時……お兄様とお姉様は、そっとわたくしを抱きしめて安心させてくれました。
なのに泣き虫なわたくしは、常々お兄様たちを困らせてしまって……。
あの頃は、3人で心の底から笑い合えておりましたわね。
一緒にいるだけで、お互いの心が通じ合える。
大切で、失くしたくなかったもの。
けれど、この10年間、わたくしたちは真に心が通い合っていたのでしょうか……?
わたくしは10年前から、お兄様とお姉様の「涙」を見た事が無いのです。
守ってもらっているだけで、お兄様たちの気持ちに目を向けた事がなかったのです。
お兄様、お姉様、お父様、叔父様、叔母様、それから、わたくし……。
わたくしたちの間にあったものは、”本当の”家族の姿だったのでしょうか……?
それとも――
今となっては、もうわかりませんわ。
お姉様は、明後日にはアルダンを発ってしまう。
家族たちは、お互いの心を理解しないままに……。
――でも、わたくしは本当にそれでいいの……?
『リーリエは、リオン殿の妹として、何か協力出来る事はあるんじゃないかな?』
そこで、ふとクリス様の言葉を思い出す。
わたくしにも、何かお兄様の為に出来る事はあるの?
いいえ……「出来る事」ではなく「したい事」。
それは、何……?
自分の胸に問い掛けてみる。
――わたくしが、お兄様の為にしたい事……――
暫し、兄との記憶を辿った。
「……あ……」
そして、ハッとする。
どうして、今まで気が付かなかったのかしら?
わたくしが、”したい”のは……
「……お兄様」
温かい胸から僅かに顔を外し、兄へと視線を交わす。
未だ涙は乾ききっていないが、そうせずにはいられなかった。
「ん……? どうした、リーリエ?」
兄は口元に笑みを浮かべながら、わたくしをしっかりと見据えてくれている。それは、わたくしの大好きなお兄様の笑顔だった。
その笑みを目に焼き付けながら、自身の両手を緩りと兄の背中に回す。
それから、わたくしは生まれて初めて、自分からお兄様をぎゅっと強く抱きしめた。
とても温かくて、落ち着きますわ……。
「え……?」
あまりの驚きに、兄は目を大きく見開く。
「お兄様」
わたくしは、真っ直ぐお兄様の瞳を見つめた。そして、続ける。
「今まで、わたくしの事を守って、抱きしめて下さってありがとうございました」
そう告げた後、「ふふっ」と無意識に笑みが零れた。
「あ……」
兄は、わたくしの思い掛けない行動に言葉を失い、固まってしまっている。
「わたくしは、お兄様にこうやって抱きしめてもらうと、とても安心できるんですの。ですから、わたくしもお兄様を抱きしめたいと思ったのですわ」
「……リーリエ」
お兄様は、わたくしの想いを受け止めると、微かに眉間に皺を寄せ瞳を閉じた。
それから、わたくしの事も一段と強い力で腕の中に閉じ込めた。すぐ真横に兄の顔がある。
「ほんとにリオン殿とリーリエは、仲の良い兄妹だね!」
「ははっ」と、クリス様の明るい笑い声が聞こえる。けれど、それは決して冷やかすような声色ではなかった。
――――この世に生まれてから、ずっと傍にはお兄様がいた。
そしてお兄様は、いつもわたくしを見守っていてくれた。抱きしめてくれていた……――――
――この時のお兄様の温かい腕は、ほんの少し震えていたような気が致しました。
それは、「あの時」のような――
『触るな!!!』
クリス様へ向かって睨んだ、氷のように冷たい瞳。
それから――
『大丈夫だ……』
お姉様が倒られてから抱きかかえた時の優しそうな瞳と、昨夜のとても苦しそうな表情。
それらは全て、わたくしが初めて知る、お兄様の「顔」でした――
けれど、わたくしは、ずっと昔から、お兄様の本当の「顏」に気付いていたのかもしれません。
知っていたのに知らないふりをして、お兄様に傍にいて欲しかったのかもしれません……。
兄の温もりを感じながら瞳を閉じて、幼き日の兄や従姉の事を想う。
いつもこの目に浮かぶのは、お兄様やお姉様の心の底から溢れ出す笑顔。それは、いつだって二人だけの笑顔でしたわ。
それに、お兄様の視線の先には、いつでもお姉様がいらっしゃいましたわ。お兄様が大好きだったわたくしは、幼いながらも「ソコにある何か」を察していたのだと思います。
きっと、それが……その偽らざる笑顏が、全ての「答」なのですわね……――――
answer=答え、反応、正解
 




