*33*ローザリカのfear Ⅰ
ローザリカ視点です。
※注意!
10年前に彼女が襲われた時のお話です。15歳未満の方、そのようなものに不快感を持たれる方は、閲覧をお控えくださいませ。
ただ、「襲われた=〇〇だった」というお話です。ですが、「襲われた」という表現は間違いではありませんので、念のためR15とさせて頂きます。
その日は、昨日の碧空が嘘のようにジトジトとした雨が降っていた。それはさながら、その場にいる者たちの心を天に映しているかのようだった。
穏やかな馬たちの生み出す律動的な振動が、眠りを誘うような心地良さを感じさせる。
けれど目の前の小窓には、絶え間なく水滴が当たっては垂れていて、その気分を台無しにさせる。それは、憂鬱な自分の感情を余計に膨らませるようだった。
自身の唇から漏れる息が、そこにもやりとした霞を作る。
「……」
きっと、皆わたしの話を聞いたのだわ……。
リーリエもクリスも、なんだか様子がおかしかったもの。
それにリオンも……。
今朝の食事は皆に会話は無く、重苦しい空気が流れていた。
以後も、その場を楽しむという雰囲気にはならず早々に帰途につくことになった。
すると、リオンあたりが大叔父へと頼んでおいてくれたのだろう。自分専用の馬車が用意されていたのだ。
「ふぅー……」
一度、気持ちを落ち着かせるために深呼吸した。
リーリエやクリスからは、昨日までの気安さがなく、どことなく余所余所しさを感じていた。その上、リオンに至っては避けられているような気さえしている。
この10年間、自分の事情もあって幼い頃のような親しい関係ではなかったけれど、「避けられる」という事は無かった。でも、今朝の彼は、あからさまに目を合わせようとさせなかった。
と言うよりも、わたしの方を見ないようにしていたような……?
「リオン……」
リオンは、きっと誤解しているのよ。
わたしが本当に恐れているのは……――――
――――「リオンの事を頼みますわね」
幼い頃、そんな事をエメリア様から言われた――
「ねえ、リオンのお父さまにたのんでみたら?」
目の前にはリオンの腕の中で泣き続けるリーリエと、それを戸惑い気味に眺める彼。
わたしは、その時ふとエメリア様の言葉を思い出していた。
それに、リオン自身もとても寂しそうにしていたんだもの。リオンとリーリエのお父様だったら、きっと助けてくれるって思ったのよ……。
けど――
「ローズ……」
あなたは、その後も、いつも寂しそうにしていたわ。
その度にわたしは、彼の涙を拭って、抱きしめて、手を繋いで、あの大切な場所へ向かうの……。
エメリア様にリオンの事を頼まれたからではないわ。わたしが、そうしたかったの……。
それにね、あの時リオンは、リーリエが”本当の意味”でお姫様だったって事に気付いていなかったのよ。
『リーリエは、もうお姫様だろう?』
それ程にわたしたち家族にとってリーリエは、「お姫様」だったの――――
――――あれは、忘れもしない10年前の出来事。
わたしたちの道を分けた、哀しい運命。
その日リーリエは離宮に遊びに来ていて、お母様がいつも通り世話を焼いていたわ。「今日は一緒に編み物をするのよ」と言って、嬉しそうに微笑んでいたもの。
お母様は常日頃から、「エメリア様の忘れ形見よ」と、リーリエをとても大切にしていらっしゃるから……。
そこで、わたしはこっそり離宮を抜け出して、リオンへのプレゼントを用意しようとしていたの。
明日は彼の10歳の誕生日。
リオンやお父様、伯父様は、三人で城下へと彼の眼鏡を買いに行ったとお母様から聞いたわ。だから私も、とびきりのプレゼントをあげたいと思っていたのよ――
「ふふっ、リオン喜んでくれるかしら」
口元に手を添え、そんな事を一人呟きながら、ある場所へと向かっていた。
空は、橙色から紺青色へと色づき始めている。
わたしね、あなたに「薔薇」と名付けてもらって、とっても嬉しかったのよ……。
あの日の事を想い出すと、胸の奥が温かくなる。
「ふふっ」
そして再び笑みが零れる。
一年前は、「リオン」の名入りの刺繍を施したハンカチーフをプレゼントした。
去年の誕生日は、もう刺繍を作り始めちゃっていたのよね。あの時のリオンったら顔を真っ赤にして、とっても嬉しそうにしていたわ。
――「よしっ、到着っ!」
そこには、それが変わらず存在していた。
棘があるから気を付けなくちゃね。
パチン! と、それを鋏で切る。
「これで良し、っと」
わたしの大切な薔薇よ。
リオン喜んでくれればいいけれど……。
でも、きっと彼だったら、去年のように「ローズ、ありがとう」って真っ赤になりながらも心を込めて感謝の気持ちを伝えてくれるだろう。
「うふふっ」
リオンの反応を想像して、またもや顔が綻んでしまった。
そんな事を考えながら「さてと、そろそろ戻らなくちゃ……」と、くるりと踵を返す。
その時だった――
「えっ……!?」
目と鼻の先に人のものらしき、二本の足があった。
ドクンっ!!
その気配に全く気が付かなかったため、一際大きく心臓が跳ねる。
誰……!?
何か得体の知れないモノと対峙するような感覚に陥り、ドクドクと耳の奥の方にまでひびく程の脈動が体中を駆け巡る。
怖い……でも……
勇気をふり絞り、恐る恐る、ゆっくりと顔を上げていく――
――すると、その視線の先には、顔中を赤らめ、目を真っ赤に充血させた男の面があった。
バチッと視線がぶつかり、再びドクンと大きく脈打ってしまう。
彼は、胸元の開いた白のシャツに茶色のズボン、膝丈までのブーツという、非番の兵士が好んで着ている典型的な服装だった。
また、彼の右手には、自分の手の中にある薔薇そっくりの絵柄が描かれている一本の瓶があった。
兵士、かしら……?
それに、あの瓶の絵柄。この薔薇によく似ていて、とっても綺麗だわ。
未だ心臓はドクドクと早鐘を打っているが、目の前の人物が、よく見知っていた者であることに一先ず安堵する。
「あの……」
「何か用かしら?」と続けようとしたが、それは、あまりに悍ましい行動に遮られる事となった。
「ルイーズっ!!!」
「え……?」
その男はこちらへと両の手を伸ばし、気が付いた時には既に彼の腕の中に完全に収まっていた。彼の顔が、すぐ傍らにある。
自分の背には、嫌悪を感じる二本の腕。衣装越しとはいえ、触れられている部分にぞくりと鳥肌が立つ。
何? 何なの……? 怖い……!!
しかも、彼は事もあろうに頬をすり寄せてきたのだ。ぶるりと、生理的な震えが襲う。
ドクドクドクと自分の鼓動が、その恐怖感をますます増長させていく。
あの瓶は、どこかへ投げ捨てたのだろうか……。既に彼の手の中からは消え失せていた。
怖い……怖い……!! 怖い!!!
「ルイーズ」ってどういう事?人の名前……?
それに何なのかしら、この臭い……気持ち悪いっ!!
あまりの恐ろしさに声を出す事も出来ない。
しかも、この男からは不快な臭気が放たれていた。それは、父が嗜む葡萄酒であったり、夜会の時によく漂っている臭いだった。思わず吐き気をもよおす程の不快感を抱く。
「ルイーズ!!」
彼は、尚もその言葉を繰り返し、更にぐっと腕の力を強めた。
「……っ……」
ひどい圧迫感で、息が出来なくなってしまいそうな程の苦しさに見舞われる。
やだ……くるしい……
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
くるしいよ……
恐怖と苦痛が体中に迫る。その上、胸の中の不快感はより一層膨れ上がっていき、それは今にも逆流してきてしまいそうだった。じわりと目頭が熱くなっていく。
けれど、突然に男がふっと、その力を弱めた。
直後――
「あっ……いやあっ!!」
ダンっ!!
男の重みに耐えられず、背後へと倒れてしまった。
ずきりとした痛みが背中を襲う。その勢いで、幾らか頭も打ちつけてしまった。
彼は気を失っているのか、ぴくりとも動く様子はない。
「ぃった……。あっ!」
倒れた折に、思い掛けず手の力を弱めてしまったようだ。大事に握っていた薔薇が、そこから離れてしまっていた。
どこかしら……? わたしたちの大切な薔薇が……!!
可能な限りで頭を左右に動かしてみる。
すると、それはすぐに見つかった。
「あっ、良かった……」
美しい姿をそのままにしたそれが、右手側の方に落ちていた。
ホッと胸をなで下ろす。けれど、自分の腹の辺りに焦げ茶色の男の頭があり、恐怖と嫌悪感を拭い去ることは出来ない。
「んんっ……」
なんとか右手を懸命に伸ばし、薔薇を掴もうとする。けど、あと僅かなところで空を切ってしまう。
あと、もう少しなのに。
どうにか体を動かせれば……。
「よしっ!」と気合を入れ、もぞりと体を動かしてみる。
けれど、彼の下敷きになっている下半身はびくともしない。それならばと上半身を起こしてみると、背中にずきりと鋭い痛みが走った。
「っ、……ぃった……」
もう、嫌よ……。
大事な薔薇に手が届かない上に体中の痛みと不快感、それに加えて、自分の上には見知らぬ男がのしかかっている。
なぜ、こんな三重苦に遭わなければならないのかという悔しさを感じる。
リオンのプレゼントを用意したかっただけなのに。
じわりと目尻から熱いものが溢れ、それは雫となってぽろぽろと流れ落ちていった。
「うぅっ……ひっ、く……」
どうして、こんな怖い目にあわなければならないの?
いつも王族たちを守ってくれている兵士が、なぜわたしにこんな事をするの……?
いくら考えても答えの出ない疑問が、ぐるぐると頭の中を堂々巡りしている。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
やがて、その兵士に対する気持ちは自分の「心」を侵していった。
それは、「恐怖」というよりも「不信」という感情だった。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
くるしい……。
意識が遠くなっていく。目を開けている事さえも、億劫になって来た。
助けて……
お父様……
お母様……
――「……お前っ!! そこで何をやっている!?」
遠くの方で声が聞こえる……。
きっと他の兵士たちが、わたしたちに気付いてくれたのだろう。
ばたばたと複数の足音が近づいて来る。
良かった……。
ホッと気が抜けて、自ら意識を手放そうとした直前だった。
ぐしゃっ
……あっ……
私たちの大切な薔薇は、誰かもわからない兵士によって踏み潰されてしまった。
「……っ……そんな……」
再び、ぽろりと大きな一粒の雫が零れ落ちた。
助けて……
リオン……
わたしが最後に見たものは、ぐちゃぐちゃに引き裂かれた薔薇だった――――
fear=恐れ、不安、気遣い




