*3*わたくしの罪
「あら、お姉様。こちらでお会いするとは珍しいですわね?」
「リーリエ。あなたのお母様を眺めていたところよ」
この”エスポワールの間”に、先客がいると思っていなかったリーリエは驚いた。
朝食と夕食を共にする彼女らは、公務や体調不良など特別な理由でもなければ毎日顔を合わせる事となる。
朝食から数刻ぶりの再会だった。
ここには、エメリア王妃の肖像画が飾られている。
腰のあたりまで描かれたその姿は、今にも彼女がこのパレットから生みだされるのではないかという錯覚を起こすほどに美しい。穏やかに微笑む彼女の表情は、何か大切なものを見つめているかのようだ。
「本当にそっくりね」
「ええ。わたくしの自慢ですわ」
リーリエとローザリカは、二人並んでそれを見上げた。
パレットの中のエメリアは、リーリエと生き写しな容貌をしている。双子といっても言い過ぎではないだろう。
彼女らを見分ける唯一の手段は、”瞳”だった。
「わたくしもお母様と同じ色の瞳が欲しかったです。この髪のような……」
リーリエは母と同じライトブラウンの髪を受け継いだが、草原を想わせるような若草色の瞳は、そこには無い。
「何を言っているの? わたしはリーリエが碧い瞳を授かって産まれてきてくれたことがとても嬉しいわ。わたしたちが”姉妹”である事の何よりの証でしょう?」
「お姉様……」
リーリエにとってローザリカは姉であり、母のような存在でもある。
エメリアは、リーリエの誕生した僅か数日の後に亡くなった。そのため、幼い頃実質的に彼女を育て面倒を見てきたのは、ほとんどが乳母や叔母のミゼリカだが、ローザリカはいつもリーリエの傍で彼女を見守ってきた。
そして、先程のような優しい言葉で彼女を包み込んでくれる。
「母の愛」を知らないリーリエにとって、彼女の美しい薔薇の様な唇から紡がれる慈愛に満ちた言葉たちは、リーリエの心をいつも温かく満たしてくれる。正しく母の愛そのものだ。
「ありがとうございます、お姉様。わたくしお姉様の妹として産まれてこれて本当に良かったですわ」
リーリエは、お世辞や誇張ではなく心からそう思っている。
ローザリカがいつも傍で支えてくれる、見守ってくれる。大切で大好きなお姉様。
――ずっと一緒にいられたらどんなにいいかしら……。
「お姉様。この度も本当に残念でしたわ……」
「そんな顔しないの。わたしは大丈夫よ。気にしていないわ」
リーリエは眉間に皺を作り、今にも泣きそうな表情になっていた。グッと堪えて我慢しているが、目頭が熱くなってきてしまう。
ローザリカは、リーリエの両頬に彼女の白く細く、しなやかなその手を添えて微笑んだ。
リーリエがローザリカを励ますつもりが、これでは逆に彼女の方が励まされてしまっているようだ。
「どうして、こんなに美しくて心の綺麗なお姉様が傷付けられなければならないのです? どうして……」
「ありがとう、リーリエ。わたしはあなたのその言葉で十分よ」
「でもあんまりです! 婚約を破談にした挙げ句、すぐに別の女性とだなんて……」
「リーリエ。わたしも殿下も正式に婚約したわけではなく、“婚約者候補“だったのよ。まだいくらでも機会はあるわ。あなたが気に病む必要はないのよ」
「だからって……皆、お兄様やお姉様のことを侮辱しておりますわ!! わたくし、許せないです……」
ぽろりと、リーリエの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。一度溢れたその思いは、止まる事なく彼女を満たしていく。
「……ふぅっ、っ……」
「泣かないでリーリエ。ありがとう」
ギュっと、ローザリカはリーリエを抱き締めた。
それに応えるように、リーリエも彼女を抱き締める。
「大丈夫……。次は頑張るわ。わたしは、そろそろ部屋で休むわね」
「はい。また後で……」
「ええ。また後でね」
そう言って、ローザリカは踵を返した。
しかし、数回歩みを進めた後、「あ……」と呟くと立ち止まり、再びリーリエの方へ体を向ける。
「そういえば、ミリアはどうしたの?」
「今は一人で参りました。ここは、わたくしの部屋からそんなに離れていないですし、大丈夫ですわ」
リーリエは、従姉を安心させる様に微笑んだ。
だが、その後の彼女の反応は、あまりにも想定外なものだった。
「ダメよ!! この間も言ったでしょう!? あなたに何かあったらどうするの? あなたと殿下は危機感が足りないの! 取り返しのつかなくなることが、この世の中にはいくらでもあるのよ!! 何故わからないの!? いい加減に理解してちょうだい!!」
彼女の眉間には深い皺が形作られており、ひどく早口で責め立てられた。その碧い瞳とは似つかわしくない、苛烈な想いを放っている。
それは、正しく激昂だった。
「お、ねえ……さま……?」
リーリエは、彼女の普段とは異なる、恐いくらいの勢いに呆然と言葉をなくす。
「……あっ……!?」
ローザリカは、胸の前で両手をギュっと握りしめて震える目の前の少女に気付き、正気に戻った。
「あの……ごめんなさいね、リーリエ……。でも今言ったことは本当よ。正式に降嫁することになったら、わたしはこの城から出ていかなければならないのよ。わたしがあなたを守ることはできなくなるの」
「はい、わかっております……。ごめんなさい、お姉様。これからもっと気を付けますわ……」
しゅん……と、リーリエは頭を垂れる。
「わかってくれればいいのよ。わたしも言い過ぎたわ。大きな声を出してごめんなさいね」
「いいえ。お姉様はわたくしを本当に心配してくれているのに、謝るのはわたくしの方ですわ」
そうして顔を上げると、そこにはいつもと変わらない慈愛に満ちた微笑みがあった。
「さてと。ではまた夕食の時にね。……はぁ……本当にちょっと疲れてきたわ……」
「お姉様大丈夫ですか? 少しお顔の色が優れないようですわ?」
「ふふっ、大丈夫よ。……あっ……」
ふらり、とローザリカは態勢を崩した。
「お姉様っ!!」
リーリエはローザリカを支えようとしたが、ローザリカは「大丈夫」と伝える代わりに右手で彼女を制した。寸でのところで態勢を持ち直し、そのまま倒れる事にはならずに済んだ。
口元を抑え苦しそうに喘いでいる。
「はぁ……はぁ……」
「お姉様……本当に大丈夫ですか?」
「……ええ。ちょっと疲れてしまっただけよ。少し休めば良くなるわ。でも今日は夕食はいいわ。シェフに伝えておいてもらっていいかしら?」
「はい、わかりましたわ。お姉様、心配ですからミリアを呼んでお部屋までご一緒致します」
「いいのよ。一人で戻れるわ」
「でも……」
「本当に大丈夫。じゃまた明日ね」
「はい……。お大事になさって下さいませ」
ローザリカは苦しそうにしながら、私室へと足早に戻って行った。
リーリエは彼女の後ろ姿を暫し見送った。
お姉様は、わたくしやお兄様のことをとても心配して下さる。
なのに、お姉様ご自身は何時も一人でいらっしゃるの……。
身の回りのお世話をする侍女たちでさえ、必要最低限でしか関わっていらっしゃらない。
お姉様、もっとご自分も大切にして下さいませ。
お姉様がわたくしを心配して下さるのと同じくらい……いいえ、それ以上にわたくしもお姉様が心配なのです。
お体の具合もあまりよろしくないようですし、またあの時のようになってしまったらと思うと、とても辛い……。
それに――――
どうしてあんな哀しそうなお顔をしていらっしゃったの……?
今からちょうど10年前だ。
ローザリカは体調を崩し、アレクシスやミゼリカと共に暮らす離宮で半年ほど療養していた。
その間、リーリエもリオンも彼女に会うことは叶わなかった。
体調を崩す前のローザリカは、今の落ち着いた雰囲気とは違い、もっと明るく溌剌とした少女だった。リオンとも仲が良く、リーリエと共に毎日一緒に遊んでいた。
しかし、半年ぶりに再会した彼女は、どことなく雰囲気が変わっていたように見えた。
あの頃、わたくしは6つでしたわね……。
微かに覚えていますわ。
やっとお姉様と会えると、前日からとても嬉しくてなかなか寝付けませんでした。
けれども、お兄様は何故か嬉しそうではありませんでしたわね……。
お二人はとても仲がよろしくて、わたくしはちょっと疎外感を感じるほどでしたのよ。
お兄様とお姉様は同じキラキラした金の髪と碧い瞳をもっていて、二人一緒にいらっしゃるとわたくしよりも本当の兄妹のように見えていましたの。、
今思い返せば、お兄様をとられたくないという単なるヤキモチだったのだと思いますわ。
3つという年齢の差はたった3つですけれど、幼いわたくしにとってとても大きいものでしたわ。
お兄様とお姉様に比べて体が小かったわたくしは、二人のお背中をいつも追いかけておりましたわね。
お勉強もわたくしだけ別のお部屋でございましたわ。
お兄様たちと一緒にお勉強したいと、家庭教師たちへ駄々をこねた事もございました。
けれどいくらわたくしが泣いて喚いても、それが叶うことはございませんでしたわね。
今ならその理由がわかりますけれど、幼かったわたくしはいつもお兄様と一緒にいるお姉様が羨ましかったのです。
だから不思議でしたのよ。
久しぶりに再会したお兄様とお姉様は、目も合わせることはありませんでしたわね。
けれども、その後は今まで通り、わたくしたち三人でいつも一緒でしたわ。
だからわたくしはホッとしておりましたの。
お兄様とお姉様は、何か大きな喧嘩をしてしまって、このままわたくしたちはバラバラになってしまうのではないかと不安でしたの。
それでも、わたくしは気付いておりましたのよ。
お兄様とお姉様との間には、大きな溝が生まれてしまっていたことを――――
けれどもね、白状しますわ お姉様……。
わたくしは醜い女、浅ましい女。
お兄様とお姉様の距離が離れれば離れていく程、わたくしは幸せを感じてもいましたの。
お兄様はお姉様よりもわたくしを大切にして下さる、お傍にいて下さると……。
お兄様がわたくしのことを溺愛していることは、今では城中の者が知っておりますわ。
わたくしはそれを喜んでおります。
嬉しいと、思ってしまっておりますのよ……。
『わたくしお姉様の妹として産まれてこれて本当に良かったですわ』
この気持ちは、嘘ではないのです。
わたくしは、お姉様が大好きです。
かけがえのない、大切な家族です。
――けれどできるならば……、この”願い”が叶うならば……
「……っ……」
再びリーリエの瞳から綺麗なガラス玉が零れた。それはやがて洪水となって、彼女の心を溢れ出す。
立っていられない程の空虚感に襲われ、リーリエはペタンとその場に座り込んだ。
――わたくしは、お姉様の”本当の妹”として産まれたかった……。
「ああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
リーリエは泣き叫んだ。
涙が枯れてしまうのではないのかという程に……。
やがて体中の水分という水分が、その碧い瞳から流れ落ちてしまったのではないかという頃に――――
「お母様……」
リーリエは、顔をあげ母の姿を見上げた。
このライトブラウンの髪は、お母様の娘である何よりの証……なのですわね……。
リーリエにとってそれは希望でもあり、同時に――――
白状しますわ、お姉様……
わたくしは……お兄様の可愛い可愛い”妹”は……
「お兄様を”男”としてみているのです……」
――――絶望でもあった……。