窮鼠、猫を噛む
独自設定・解釈あり
1930年5月4日 午前4時過ぎ
フランス ブレスト
夜明け前のブレスト港ではゆっくりと艨艟の群が動き始めていた。
彼女らを見送る者はいない。
フランス海軍が世界に誇るダンケルク級戦艦、15インチ砲搭載のダンケルク級戦艦の廉価版として建造されたプロヴァンス級戦艦……
彼女ら大型艦は駆逐艦や巡洋艦といった多数の中小艦艇にエスコートされて、未だ闇に包まれた大海原へ進路をとった。
それから数時間後、港湾労働者に扮したドイツの諜報員がブレスト港が空になってることに気が付き、慌ててドイツ本国へ通報した。
フランス海軍本国艦隊――戦艦8、巡洋艦14、駆逐艦33、出港す
そして、このとき、諜報員は致命的なミスを犯した。
本国艦隊と並んで存在していた、40隻以上の多くの潜水艦が消え失せていることに気づかなかったのだ。
そう、本国艦隊出港と同時に潜水艦がゼロとなったことに諜報員は気づかなかった。
これら潜水艦は本国艦隊出港前から数隻ずつ、出港していたのだが、もっとも強大な戦力である本国艦隊の前には些細なことに過ぎなかった為、以前より報告されていたが誰も重視していなかった。
5月10日 午前10時過ぎ
ベルリン 空軍参謀本部
ヴェルナーは目の前の光景にうんざりしていた。
彼がいるのは空軍参謀本部内にある会議室の一つ。
広いとも狭いとも言えないこの空間で、むさっ苦しい軍人達が激論を交わしていた。
「空軍の仕事は陸軍の支援だけではありません! 我々が持つ4発爆撃機は更なる飛躍的発展を遂げ、ゆくゆくはドイツに敵対する国家を根こそぎこの世から消し飛ばすことができます!」
熱弁を振るうのはヘルマン・ゲーリングその人だ。
彼は実戦部隊から作戦部へと1年前に配置換えされており、空軍内でヴェルナー派の急先鋒と言われていた。
「だが、その前に本土が占領されては意味がないだろう! 敵陸軍の動きを阻害し、これに打撃を与えることが空軍のもっとも重要な仕事だ!」
相手はゲーリングの上司である作戦部の部長である大佐であったが、彼は反ヴェルナー派の急先鋒だった。
空軍内部はヴェルナー支持派と反ヴェルナー派、そして少数の中立派によって構成されている。
今回の会議は将来における空軍戦略という議題であったが、その実態はヴェルナー派と反ヴェルナー派の妥協点を見出すものであった。
空軍発足から10年、この会議を提案したのは参謀総長であるファルケンハイン大将であったが、当の本人は我関せず、という態度を貫いている。
結果が彼には分かっていたからだ。
「では問いますが……」
エアハルト・ミルヒがそう前置きし、自身に注目を集めた上で発言する。
「ゲーリング少佐が言った戦略爆撃もありますが、我々の支持するドクトリンにおいてはそれ以外にも戦術爆撃・防空戦闘・制空戦闘・近接航空支援・海上哨戒・輸送の合計7つが柱としてあります」
あなた方はいったい何が不満なのか、とミルヒは冷静に問いかけた。
そうやって理性的に問いかけられると困るのは反ヴェルナー派であった。
それぞれの名前からどういった任務かはだいたい予想がつく。
そして、それらがきっと重要となるだろうことも。
だが、感情的な面から認めるわけにもいかなかった。
早い話、彼らはヴェルナーのような若輩者の思い通りなりたくはない、彼のような若者が功績を上げるのは許せない、という嫉妬と反発であった。
とはいえ、それを素直に言うわけにもいかないので、もっともなことを大佐は返した。
「予算だ。我々が持つ予算は有限であり、そのように幅広くあちこちに手を出すわけにはいかない」
ゲーリングらは黙りこんでしまった。
予算問題は反ヴェルナー派の切り札であり、どうにもならない問題でもあった。
どうだ、という反ヴェルナー派の視線に晒されたゲーリングらはヴェルナーへと視線を向けた。
その視線にヴェルナーは溜息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「平時において多数の第一線機を持つ必要はありませんし、誰も許してくれはしないでしょう。現に今年度は空軍だけでなく、陸軍も海軍も予算を削られています」
彼の言葉に異論を唱える者はいない。
「ですが、戦時は別です」
ヴェルナーの続けた言葉に緊張が走った。
「残念ながら、我々の祖国は大佐らが仰る程に、経済的に弱くはありません」
彼はまずそう告げ、居並ぶ面々を見ながら、さらに言葉を続けた。
「近接航空支援機を2万機、戦闘機1万機、多発爆撃機を1万機、それらに加えて諸々の航空機を揃えてもなお、予算は余るでしょうし、様々な航空機メーカーは全機種合計で最低でも年産2万機を達成できます。戦時体制へと移行すれば年産10万機は確実に。あ、勿論これは陸軍・海軍にも十分な予算を回しつつ、国家運営に必要な予算も割いた上で補給本部が財務省などと協議して試算したものです」
反ヴェルナー派もヴェルナー派も黙りこんでしまった。
史実と比べて将校達は数字に強くなっていたが、それでもまだ不十分らしかった。
どちらの派閥も、補給本部に請求すればそういった予算関連の試算も手に入ったのだが、誰もそういうことをしなかった。
何故ならば、どちらの派閥もこれまでの経験から予算とは常に乏しいものである、とそういう認識があったからだ。
「ちなみに今年の財政収入は262億3282万マルクです」
ヴェルナーの言葉は追い打ちをかけた。
陸海空3軍合わせても予算は10億マルクそこそこだ。
なお、この財政収入は史実の同時期と比べておよそ5倍以上にあたる。
どれだけヴェルナーの改変がドイツにとって利益をもたらしたかが、分かるものであった。
戦時においては3軍とも予算は戦時国債の発行などにより、大幅に増えることを考えれば十分すぎた。
資源が植民地に依存している、総人口がロシアやアメリカと比較して少ないという弱点こそあるものの、この世界のドイツはアメリカ並の贅沢な戦争が可能であった。
「これで終わりだ」
ファルケンハイン大将が告げた。
「十分な予算が戦時に得られるのであれば最大限にやれば良い。ルントシュテット大佐はそのことがよく分かっていたからこそ、派閥抗争というつまらんことに手を出さなかったのだ」
その言葉に争っていた面々は誰もがとある言葉を思い浮かべた。
それは『金持ち喧嘩せず』というものであった。
当のヴェルナーはそういう意味はなかったんだけどなぁ、と思ったが口には出さなかった。
「他になにかあるかね?」
ファルケンハイン大将の言葉にゲーリングがおずおずと手を挙げた。
「私案があるのですが、この場で発表させていただいてもよろしいでしょうか?」
「許可する」
ファルケンハインの言葉にゲーリングは感謝を述べ、ゆっくりと告げた。
「開戦と同時に敵国の工業地帯を1000機の四発爆撃機で急襲し、何度も反復攻撃すれば戦争はすぐに終わるのではないですか?」
誰もが皆、唖然とした。
それはヴェルナーですらも例外ではなかった。
ゲーリングの考えは史実の第二次大戦末期にアメリカ軍やイギリス軍によって行われる、地域爆撃そのものであったからだ。
そして、史実のドイツは航空機工場や人造石油プラントに多大な被害を受け、敗戦を早めることとなった。
「……戦争は数だな。まさに」
そう呟いたのは反ヴェルナー派の急先鋒だった大佐であった。
感情面から反発していた者が多数であったが、好き勝手できるだけの予算があるならその予算を使って自分達で考えた戦略・戦術に則って戦果を上げれば良かった。
「もっとも、戦争は当分起こらないでしょう」
ヴェルナーはそう発言した。
彼は現在の外交情勢から仏墺同盟がドイツに挑んでくるとは到底思えなかったし、ヴィルヘルム2世やドイツ政府もそれは予期していなかった。
情報省でもフランスの動きを探っているが、最近では演習と称してフランス軍がベルギー寄りの位置に集まっていた。
ここ数年、フランス軍――特に陸軍はその規模を大幅に増強し、演習を何回も行なっていた為にこの動きは重要視されなかった。
ドイツ軍と同じように戦車と自動車、装甲車を多数揃えていたが、どのようなドクトリンがフランス軍にあるのかはさすがに掴んでいなかった。
そして、陸軍参謀本部はエルザス・ロートリンゲン地方に主力を配置し、強固な陣地を構築しており、開戦となっても1年は持ちこたえられると判断していた。
国境で持ちこたえている間に戦時体制へと移行し、ヴェルナードクトリンに従って一気に敵を殲滅するつもりであった。
シュリーフェン以来の動員制度はより洗練されており、2週間もあれば常備兵力を除き現役兵のみで90万人、予備役兵は400万人、合計490万人を『陸軍だけ』で動員できた。
空軍に関してはパイロット、整備員など平時は民間航空会社や航空機メーカーで働いている30万人近い予備役がいた。
海軍も同様であり、20万人近い予備役がいた。
故に、国境を除いてドイツ本土はスカスカの状態だった。
唯一、まとまった定数を維持しているのはエルザス・ロートリンゲン駐屯の西方軍集団(歩兵師団10個)とベルリン駐屯の近衛軍団(1個装甲師団、2個自動車化師団)そして、ゲッティンゲン駐屯の第1装甲軍団(2個装甲師団、2個自動車化師団)であった。
フランスは独露・独英同盟が結ばれたあたりから、実質的に準戦時体制であるにも関わらず、ドイツ陸軍は常備師団を増やしたりはしなかった。
そうしなかった理由は予算でも人口でもなかった。
陸軍の予算は新規に師団を増設しても、耐えられないものではなく、またドイツの人口は第一次世界大戦が無かったことと飛躍的な経済発展、そして周辺国からの流入により、総人口は7500万人を超えている。
それでもそうしなかったのはフランスが攻めてくるわけがない、という思い込みであった。
確かに独仏国境にフランス軍は攻勢に出ることができるような兵力は存在しなかった。
だが、ヴェルナーは忘れていた――否、考えてすらいなかった。
第二次大戦におけるフランス侵攻で、そして大戦末期に行われたドイツ軍の反撃『ラインの守り』で。
そこでドイツ軍はどこを通ったのかを。
同日 フランス パリ
フランス陸軍参謀本部 12時50分
フランス陸軍参謀総長であるマキシム・ウェイガン大将は執務室のソファに座り、ゆっくりと深呼吸した。
彼はつい数日前、とある書類にサインしていた。
その結果が今日、返ってくる筈であった。
総動員は12時ちょうどから掛けられており、続々と兵力は集結していた。
「勝てるか、勝てないか、ではない。勝たねばならないのだ」
そう彼が呟いたとき、執務机の上にある電話が鳴った。
彼はゆっくりとその電話に近づき、受話器を取った。
相手は首相であった。
『たった今、ドイツ、イギリス、ベルギー、ルクセンブルクの大使へ手渡した。あとは君達の仕事だ』
それだけで電話が切れた。
ウェイガンは受話器を置き、通信本部へ電話をかけた。
出たのは本部長であった。
「ウェイガンである。全軍にヴェルレーヌを伝えよ」
その一言で本部長は理解し、慌ただしく電話は切られたのだった。
受話器を置き、ウェイガンは窓の外、初夏の日差しを眺めながら呟いた。
秋の日の ヴィオロンの 溜息の ひたぶるに 身にしみて うら悲し
「どうせなら、もっと別のものにすればよかったかな」
今更ながらに、どうでも良いことを思ったウェイガンであった。
同日 北フランス 13時20分
「急げ急げ急げ! クラウツ共に気づかれる前に侵入するんだ!」
シャルル・ド・ゴール少将は指揮装甲車の上で激を飛ばしていた。
彼の指揮車の横を次々と戦車が、歩兵を満載したトラックが通過していく。
彼はフランス陸軍第3機甲師団の師団長であった。
今年で38歳の彼が少将の地位につけたのはアンリ・フィリップ・ペタン大将の力と急激に拡大する陸軍でポストが大量に出たことにあった。
フランス陸軍はドイツに人口でも経済でも敵わない為、短期決戦で一気に決着をつける必要があった。
その為に彼らが取った戦術こそドイツに対抗して開発された戦車と自動車を有機的に使った浸透突破であった。
何よりも、フランス軍は速度を重視したのだ。
ド・ゴール率いる第3機甲師団はフランス陸軍の一番槍を任されていた。
それは彼自身が自ら望んだことであり、彼が考え、ペタン大将が同意したことから実現した自らが考案したドクトリンを実践する為であった。
ド・ゴールの視線はまっすぐに森林地帯に注がれていた。
部隊を動かすには悪条件が揃っているが、だからこそドイツ軍もこの動きを予期していない、と諜報活動の結果、判明していた。
「空軍の連中も来たか」
ド・ゴールが無数の爆音に顔を上に向ければドイツへと向かう、多数の航空機の姿もよく見えた。
その姿は史実の同時代ものと比較し、極めて洗練されていた。
低翼単葉、全金属製、引き込み脚、空気抵抗を極力少なくした尖った機首――
全て、ドイツの影響であった。
フランスの荒鷲は腹に爆弾を抱え、基地で惰眠を貪っているドイツ空軍を急襲するのだ。
「大陸軍の力を世界に示すのだ! 我らは雷の如く、進撃する!」
同日 14時30分 ベルリン
ヴィルヘルム2世は国会議事堂の議場にいた。
運命の時から既に1時間半が経過していた。
そして、たった1時間半で与党・野党含め全ての議員が国会議事堂に集ったことは称賛すべき事態であると共に、このような緊急事態でなければそうはならないだろう。
彼はゆっくりと壇上に上がる。
壇上には多くのマイクが設置されており、数年前から始まったラジオ放送でドイツ国内だけではなく、世界中にヴィルヘルム2世の声は届けられることになる。
やがてヴィルヘルム2世は居並ぶ面々を見回し、ゆっくりと口を開いた。
「余はたった1時間半程前までは昼食後の読書を楽しんでいた。ベルリン宮殿の庭園にあるベンチに腰掛け、噴水の音や小鳥のさえずりを聞きながら」
そこで彼は一拍の間をおいた後、再び言葉を紡ぐ。
「だが、フランスの宣戦布告により、それは霧散した。つい先程、軍部より入った報告ではドイツ空軍はその総戦力の30%以上をフランス空軍の奇襲により失った。また、アルデンヌの森を突破し、フランス陸軍が国内へ侵入したという報告もある」
議員達の間にどよめきが巻き起こる。
不安げな顔をする者が多数いる中でヴィルヘルム2世はその厳つい顔をより厳しくた。
「余は今このときをドイツ帝国存亡の危機と考える。宰相をはじめとした政府の諸君、そしてこの場に集う帝国議員諸君に至ってもそれは全く同じ考えであると確信する」
故に、とヴィルヘルム2世は告げる。
「余はドイツ帝国皇帝として命じなければならぬ。皇帝としての責務を果たさねばならぬ……そう、帝国と国民を護る為に」
静かに、だが力強い口調であった。
いつもならうるさい野党も静まり返り、真剣にヴィルヘルム2世の一挙一動を見つめていた。
「余は命じる。ドイツ帝国軍はその総力を挙げ、仇敵フランスを征伐せよ! 我らの父祖達と同じように、パリに帝国旗を掲げるのだ!」
瞬間、議場は割れんばかりの拍手と大歓声に包まれた。
この演説直後、ヴィルヘルム2世は動員令を発令し、総動員が開始された。
また、この演説後に開かれた緊急議会では国難を乗り切る為に、ありとあらゆる手段を講じることが承認された。
もっとも、ヴィルヘルム2世としては後継者問題もあり、戦争どころではなかったのだが、売られた喧嘩は買うしかなかった。
15時 ベルリン ヴェルナー宅
ヴェルナーは空軍での派閥抗争を予算はあるからどっちもやればいい、という誰も反論できないやり方で完全に静めた後、しばらく休暇をもらうことにし、ベルリンにある屋敷へと戻っていた。
そこでヴェルナーは出迎えたエリカをそのままベッドへと誘っていた。
彼でなくても、むさ苦しい軍人達と部屋に篭っていれば嫌にもなるというもので、要するにストレス発散であった。
そして、彼の性欲は確かに減退してはいたが、それは当時と比較してという意味であり、セックスレスという言葉とは無縁の生活であった。
また、ヴェルナーは40過ぎのおっさんが若い子を漁るのは見苦しい、と考えていた為に愛人を増やそうなどとは考えてもいなかった。
彼が不老で若い時の外見そのままならば積極的にいったかもしれないが、現実は当然甘くはなかった。
転生者だろうが何だろうが、時間の流れは等しかった。
もっとも相手から求められればそれは仕方がないよね、と考えているので、実際のところヴェルナーはあんまり変わっていなかったりする。
大きなベッドの上でエリカとヴェルナーは互いに全裸で横たわっていた。
室内はカーテンの為に暗くなっており、互いの呼吸もあわさって淫靡な雰囲気を醸し出していた。
情事後のエリカはヴェルナーにぎゅっとしがみつき、愛しい夫を体全体で感じていた。
そんな彼女に彼は腕枕をしてやり、その美しい金髪を優しく撫でる。
初夜から何度となく続けられた行為であり、互いにもっともリラックスした状態であった。
「あなた……」
「何だ?」
エリカの呼びかけにヴェルナーは問いかけた。
すると彼女はにっこりと笑みを浮かべ、告げた。
「愛しているわ」
その言葉にヴェルナーは詰まった。
彼が詰まったのはエリカを愛していないからとかそういう後ろめたいものではなく、単純に恥ずかしかったからだ。
エリカも当然、この何でもできる夫の数少ない弱点を知っていたが故の行動だった。
そして、その夫の答え方も。
「ん……」
ヴェルナーは言葉にする代わりにエリカに口付けし、そのまま耳元で囁く。
「俺も、エリカを愛しているよ」
エリカはこの卑怯な答え方が大好きであった。
彼女は再び体の火照りを感じ、おねだりしようと口を開いたそのとき、扉が激しく叩かれた。
「扉越しに失礼します、ゲーリングです。つい1時間半前、フランスがドイツに宣戦を布告しました。ただちに参謀本部へ出頭するよう、ファルケンハイン大将閣下の御命令です」
一息で告げられたその言葉をヴェルナーは信じられなかった。
「ゲーリング、それは本当なのか? 現実なのか? 太陽が西から昇ったに等しいことだぞ?」
上司の確認の問いにゲーリングは肯定した。
「完全に、全く、覆しようのない事実であります。私も最初聞いたときは大佐と同じ反応でした」
ヴェルナーは5分待て、とゲーリングに告げ、ベッドから立ち上がり、手早く脱ぎ散らかしていた軍服を纏った。
エリカもシーツを纏い、不安そうな顔でヴェルナーを見た。
それが、ヴェルナーにとって何よりも精神を安定させ、高揚させるものとなった。
彼は無言でエリカを抱きしめ、その首筋にキスマークをつける。
そして、短く告げた。
「ちょっとフランス潰しに行ってくる」
それは極めて軽い口調で言われた。
およそ、このような場面に似つかわしくない。
だが、それはエリカを勇気づけるのに十分であった。
「行ってらっしゃい、あなた」
エリカもまたヴェルナーを抱きしめ返した。
やがて彼は名残を惜しむように、彼女からゆっくりと離れ、踵を返した。
その背中はエリカがかつてベルリン宮殿の庭園で見たときと同じで、大きく勇ましかった。
「少佐、待たせたな」
部屋から出たヴェルナーは待ち構えていたゲーリングにそう言った。
ゲーリングはすぐさま敬礼しようとしたが、彼はそれを制止し、走りだした。
慌てゲーリングも後を追う。
屋敷を飛び出した2人はゲーリングが乗ってきたメルセデス製の公用車に乗り込んだ。
「空軍はどうなっている?」
一息ついたところでヴェルナーはゲーリングに問いかけた。
「現在、西部方面において展開する第2、第3航空艦隊、二重帝国への抑えである南部の第4航空艦隊は攻撃準備に、東部及び北部バルト海方面展開の第5航空艦隊と中部展開の第1航空艦隊は西部へ移動させるよう、総長閣下が命令されました」
ヴェルナーは予想以上にファルケンハイン大将が即応できたことに驚いた。
その様子を見たゲーリングは笑みを浮かべて言った。
「大佐の空軍基礎論のおかげですよ」
その言葉にヴェルナーは苦笑したが、欠点を告げた。
「どこの航空艦隊も名前は立派だが、定数割れの部隊しかいない」
「機体はありませんが、パイロットと整備員などの地上要員は大量にいますよ」
「だろうな、私がそうさせたのだから当然だ」
ドイツ空軍の編成はほぼ史実通りとなっていた。
航空艦隊が方面毎に配備され、その下に最大4個の航空軍団が配置されている。
この航空軍団は4個航空団で1個編成され、その航空団は4個飛行隊で編成される。
そして1個飛行隊は4個飛行中隊で編成され、1個飛行中隊4個飛行小隊であり、1個飛行小隊の定数は4機であった。
このことから1個航空軍団は1024機定数であることから、非常に大きな単位であり、その航空軍団を複数配置される航空艦隊は最大で4000機以上の航空機が指揮下にあった。
だが、それらは戦略レベルでの話であり、戦術レベルでは航空団レベル、あるいは中隊レベルで動かせるようになっていた。
もっとも、フル編成であるならば全航空艦隊合計で2万機以上の作戦機があるのだが、現状では20分の1の1000機程度であった。
そして、それらの大半は1925年度に調達されたものであり、旧式と呼べる部類であった。
さらに間の悪いことに、30年度調達の新型機への機種転換訓練の真っ最中ということもあった。
これらは中隊単位で行われており、幾つかの中隊が本来の所属基地ではなく、ドイツ中部から東部にかけて点在する訓練基地にいた。
やがて公用車は空軍参謀本部の玄関前に横付けされた。
懐中時計をヴェルナーが見れば15時過ぎだった。
道中すれ違う将校達の顔色は総じて悪い。
そんなとき、反ヴェルナー派で知られていた作戦部部長の大佐とその副官とすれ違う。
医者に診てもらった方が良いのではないか、と思う程にその顔色が悪い。
「大佐!」
ヴェルナーがたまらず声を掛けると、件の大佐は足を止めて振り返った。
「使い切れない程の第一線機とパイロットと整備員を回すことを、主と皇帝陛下に誓って約束します」
ヴェルナーはそこで言葉を切り、彼の顔を見つめ、だから、と続けた。
「最高の作戦を頼みます」
そう告げ、彼は歩みを再開した。
ヴェルナーの姿が廊下の角に消えたところで大佐は苦笑いを浮かべた。
「私よりも5歳も年下の若造に激励されるとはな……」
それも、反ヴェルナー派として知られていた自分に、と心の中で続けた。
「いいだろう。貴様のような若造には思いもつかない、最高の作戦を立ててやる」
大佐はそう呟いたとき、気分が高揚してくるのを感じた。
それはまるで士官学校入学当時の、あの興奮を思い起こさせるようなものであった。
やがて、ヴェルナーはファルケンハイン大将の執務室に辿り着き、部屋へと入る。
ファルケンハイン大将は厳しい顔つきであった。
彼はヴェルナーを見るなり、告げた。
「悪い知らせともっと悪い知らせ、それと少しだけ良い知らせがあるが、どれから聞くかね?」
ヴェルナーは悪い知らせから、と答えた。
するとファルケンハインは深呼吸し、ゆっくりと告げた。
「ニーダーザクセン州にあるヴィットムントハーフェン基地をはじめ、西部方面の空軍基地や飛行場はフランス空軍により、その戦力の多数を地上で失った。第2と第3航空艦隊は壊滅状態だ」
「……もっと悪い知らせは?」
これ以上、悪い知らせがあるのだろうか、とヴェルナーは思いつつ問いかけた。
「もっと悪い知らせは……フランス陸軍はナポレオン以来の神速でもって、アルデンヌの森を突破し、ドイツ本土へ雪崩れ込んできたことだ」
ヴェルナーはその言葉を数秒掛けて理解した後、思わず倒れそうになったが、無理矢理踏ん張って耐える。
「予算は?」
その様子を見たファルケンハインは悟った。
ヴェルナーがよく陰で言われる成金軍人などというものではない、と。
「つい30分前のことだ。緊急に議会は招集され、全会一致で仏墺同盟を叩き潰す最大限の努力をすることが承認された。予算は2倍どころの騒ぎではないぞ。まあ、二重帝国は国境に部隊を貼りつけたまま、進軍する気配は今のところはないようだが……」
国家存亡の危機であるのだから、大盤振る舞いも分からないでもなかった。
「ただちに全ての航空機メーカーに既存機種の量産及び新型機の開発を急がせます。今年の7月までに月産5000機を達成してみせましょう」
その言葉にファルケンハインは鷹揚に頷き、言葉を紡ぐ。
「で、少し良い知らせだが……地上で潰されたのは航空機のみだ。パイロットや整備員などの地上要員のほとんどは無事だ。基地施設の破壊はどうやら不徹底らしい」
「ならば尚更急ぐ必要があります。彼らに、新しい翼を与えねば……失礼します」
その言葉と共にヴェルナーはゲーリングを連れ、部屋を辞したのだった。
そしてヴェルナーはゲーリングに自分の部署――彼は作戦部所属――へ戻るよう指示し、自らの仕事場へ向かった。
空軍参謀本部内にある補給本部は出入りが一際激しかった。
ひっきりなしに軍属や企業の担当者などがやってきており、実に騒がしい。
そのような中、ヴェルナーは本部内へと入った。
彼を見るなり、多くの部下達や企業の担当者が詰めかけてきたが、ヴェルナーはただ1回パン、と手を叩いた。
全員が注目していただけあって、その音に誰もが沈黙した。
その様子を見、ヴェルナーは問いかけた。
「諸君、何を慌てる必要があるのか? つい先ほどから平時から戦時に切り替わったのだぞ? 平時体制から戦時体制への移行計画は疾うの昔に作成済みだ。そのマニュアルに従い、1日でも、否、1分でも1秒でも早く戦時体制へ移行したまえ」
そう言い、部下達や企業の担当者達の顔を見回し、更にヴェルナーは続けた。
「私はコーヒーを飲むことにしよう。諸君らも眠気覚ましの1杯を飲んでから行動するように。暫くは眠れないぞ」
同じ頃、空軍参謀本部から少し離れたところにある陸軍参謀本部では参謀総長以下、主要な将官や佐官が集い、緊急の対策会議が開かれていた。
驚くべきことに、ドイツ陸軍には攻められたときの――それも予想もしないところから――防衛計画というものが存在しなかった。
唯一ある防衛計画というものはエルザス・ロートリンゲン地方で敵を食い止める、とそういうものであった。
ナポレオンがいた大昔ならばいざ知らず、普仏戦争でも普墺戦争でも常に攻めの姿勢であったプロイセン――ドイツ。
ドイツが常に攻めであり、フランスは常に守りである、とそういう思考が参謀本部内に蔓延していたのだ。
アルデンヌの森を利用した作戦といえば、ドイツ軍が突破する攻勢用のものが、作戦部部長のマンシュタイン大佐が立案し、検討されていたが、フランス軍が攻めてくるというのは予期しえない事態であった。
昨今の情勢からフランスが攻めてくることはない、と陸軍内でも結論が出されていたが、現実は斜め上をいった。
「西部国境は西方軍集団指揮下の歩兵師団を除いて兵力というものが無いに等しい」
参謀総長であるハンス・フォン・ゼークト大将の言葉に誰も彼もが頷く。
「総動員は既にかかっている。2週間もすれば我が軍は100個師団を超える戦力を構築できるが、その2週間を稼がねばならない」
そう言い、ゼークトはマンシュタインへと視線を向けた。
その視線を受け、マンシュタインはゆっくりと口を開いた。
「ゲッティンゲンの第1装甲軍団は既に移動を開始しております。市民からの通報によれば敵の先鋒はケルンに迫りつつあり、とのことです」
「単刀直入に聞くが、どこで我々は防衛線を張るべきか?」
ゼークトの問いにマンシュタインは告げた。
「エッセン―コブレンツ―ザールブリュッケン……これらを結んだラインで堰き止めねば我々は西部及びルール地方を失うでしょう」
その為には、とマンシュタインは告げる。
「西方軍集団より2個師団を引き抜き、早急に防衛につかせるべきです。エルザス・ロートリンゲン地方の陣地群は2個師団が抜けたとしても、突破されるような生半可な造りではありませんので」
そして、とマンシュタインは更に続ける。
「近衛を動かさねばなりません」
その言葉にざわめきが巻き起こった。
近衛軍団は言うまでもなくドイツ陸軍において精鋭であった。
だが、通常の陸軍部隊と違い、近衛となれば政府と皇帝に許可を取らねばならなかった。
近衛軍団は皇帝の権威の象徴の一つでもあったのだ。
「……このような事態だ。許可は下りるだろう。それに、近衛軍団の司令官はルントシュテット中将だ」
ルントシュテット――
その苗字を知らない者はいなかった。
数年前の演習では空軍を効果的に使い、敵軍を打ち破ったことから、あの弟にこの兄あり、と言われていた。
「マンシュタイン大佐、君が現地へ行き、直接作戦を立案すると良い。中将とは面識もあっただろう」
マンシュタインは重々しく頷いた。
通信手段は飛躍的な進歩を遂げ、前線部隊と参謀本部の連絡は非常に円滑になったが、それでも意思疎通に不便な点もあったのだった。
18時 ライプツィヒ
RFR社 本社
ヘンリー・フォードは不思議な気分に囚われていた。
戦争が始まったことで陸軍・空軍からの――特に空軍のヴェルナーからの要求はすさまじく7月までに月産5000機体制を確立せよ、と本気なのか冗談なのか分からない無理な注文がきていた――大量注文により、膨大な利益が出ることは確実だった。
だが、戦争なんぞしなくても順調に利益を上げていた為に今回の一件は下手をすれば損失ばかりが増える可能性もある。
「……やれやれだ。アメリカだったら、唐突に攻められるなんてことはなかったんだがな」
そう言うフォードだったが、彼はとっくの昔にドイツに帰化しており、ライト兄弟や他国からやってきた技術者などもそれは同じ事であった。
「だが、いったいどうしてフランスはこの時期にドイツに挑戦することになったんだ?」
フォードの問いはドイツ人の誰もが知りたがっているものだった。
フランスとは対立しているものの、致命的な段階にまで至ってはいない。
またフランスの国民世論は好戦的とはいえ、実際に戦争をしたがっているか、というとそうでもない。
フォードはふと自社の財務諸表に目を向けた。
そこには数字が羅列されているが、それらは全て彼が見て満足できる水準であった。
「……もしかして、フランスの政治家や軍人達はこのままだと赤字になるばかりで、ライバル社に大きく差をつけられる一方だから、一か八かの賭けに出たのか?」
経営者らしい表現の仕方であったが、フォードのそれは的を射ていた。
確かに、ドイツの影響もあってかフランスはその国力を史実のそれと比べて大きく増大させている。
しかし、それでもまだ影響を受けた側であって、影響を与える側であるドイツには及ばなかった。
そして、フランス政府はフォードの予想した通りに、ドイツ本国の防備が手薄で、かつ、国力がそこまで差をつけられていないこの時期ならば、と考えたのだ。
イギリス・ロシアに関しても、フランス政府はドイツさえ倒せば何とかなる、と考えた。
イギリス・ロシアもまたドイツの影響を受けて、史実の同年代と比較した場合は強大化しているが、それでもドイツ程ではなく、ドイツ本国を占領した後、防御に徹し、甚大な出血を強要すれば講和できる、と考えられていた。
「フランスの思惑がどうであろうと、こっちも生活がかかっている。勝たせてもらおう」
フォードはそう言うと数年前に設立された生産技術開発部門に電話を掛けた。
この生技開発部門は単純にベルトコンベアによる工程設計などの機械的なものばかりではなく、単純作業を強いることになる労働者のやる気や疲労などに目をつけそれを研究することで、より効率の高い生産体制を確立させることを目標にしている。
「フォードだが、陸軍と空軍の生産需要を満たせるだけの生産体制を1ヶ月以内に確立させろ。金はいくらかかってもいい。需要は大きいぞ」
一方的にそう言って電話を切った彼に来客を告げる秘書がやってきた。
フォードはその来客が財務省の事務官と秘書から聞くなり、すぐに通すよう告げた。
「はじめまして、ヘア・フォード。帝国財務省のバルツェルと申します」
現れたのはスーツ姿の壮年の男であった。
挨拶をするなり、カバンから書類を取り出し、それをフォードへと見せた。
フォードはそれがすぐに陸海空軍の予算であり、同時に陸海空軍が要求している各種兵器や艦艇、航空機の数量を示したものであることに気がついた。
そして、それらが平時のものではなく、戦時――つい数時間前――に作成されたばかりであることにも。
「既に聞き及んでいると存じますが、皇帝陛下、帝国政府、そして議会は一致して今回の国難を乗り越える為にありとあらゆる手段を講じる必要があります」
「つまり?」
「帝国は裕福でありますが、無限に金を持っているわけではありません。陸海空軍の予算は優先されますが、絶対ではありません」
ですので、とバルツェルは続けた。
「あなたには無駄を省き、効率的に軍の要求するものを調達する軍需生産委員会の委員長に就いてもらいたいのです」
フォードはその提案に即答せずに問いかけた。
「どのようなことをするんだ? その委員会は」
「国家全体の生産体制を軍需へと振り向けることに力を注いでもらいます。主な仕事は企業や軍との協議や調整です」
なるほど、とフォードは頷いた。
「ちなみに、私はこれからダイムラー・ベンツへ行かなければなりません」
バルツェルの言葉にフォードは苦笑した。
自分が委員長の件を断ればライバルに話を持っていくつもりであることが容易に理解できた。
「わかった。その委員会の委員長に就こう」
「ご協力感謝します。では、私は委員になってもらう為、ダイムラー・ベンツ社に参りますので」
その言葉にフォードはしてやられた、と悟った。
どうやら主要企業の経営者達を全員、委員会に引き入れるつもりらしかった。
そして、一番面倒臭い委員長という委員を取りまとめる役を押し付けられたことも理解できた。
「差し当たってはこの空軍の要求が問題だな。戦闘機4万機、単発爆撃機3万機、双発爆撃機2万機、四発爆撃機1万機……これ考えたヤツは馬鹿だろう、絶対」
「それを考えた方はRFR社の最高経営責任者ですよ」
フォードは深く溜息を吐いた。
ヴェルナーも階級が上がるに連れ、ほとんど会社業務に手を出さなくなったとはいえ、極稀に指示を出したりするので一応は最高経営責任者の地位にある。
とはいえ、既に実質的なそれはフォードであった。
「まあ、協議してみるか……」
フォードの戦いは始まったばかりであった。
20時 ケルン
ド・ゴール少将麾下の第3機甲師団はケルンに到達していた。
これまで抵抗らしい抵抗はなく、ドイツ人達は道路を駆け抜けるフランス軍に仰天しながら、道を譲った。
ドイツにとって災いしたのは各地に縦横無尽に走らせた道路や高速道路であり、そして数多のガソリンスタンドであった。
第3機甲師団は無人となったガソリンスタンドで給油しながら前へ前へと進み、ここまで到達したのだ。
そろそろ夕暮れであることから、今日はここで進軍を停止し、野営の準備であった。
とはいえ、ケルンは大きな街であるから、住民達は完全に逃げ出せたとはいえない。
また、ケルン市長は無防備都市を宣言し、警察や市民などに抵抗しないよう呼びかけた上でド・ゴールに降伏していた。
幸いにも、ドイツ軍が油断できるような相手では到底なかった為に将兵はピリピリしており、略奪や強姦などを働く――そもそも軍規で禁止されているが、戦場ではよくあること――者はいなかった。
市庁舎を臨時司令部としたド・ゴールは他の部隊の位置を把握することに努めていた。
当初の作戦ではアルデンヌの森を突破したフランス陸軍第1機甲軍集団(機甲師団5個、自動車化師団8個)及び第4軍集団(歩兵師団24個)はルール工業地帯を抑える部隊とイギリスからの増援を防ぐ為、ヴィルヘルムスハーフェン、ハンブルクなどの沿岸部へ向かう部隊に分かれる。
なお、同時進行でベルギー及びルクセンブルク攻略にも別働隊が出向いており、ルクセンブルクでは既に戦闘が終了していた。
元々、軍備があってないような小国であるルクセンブルクはフランス軍が国内に侵入するとすぐに降伏してしまったのだ。
一方、ベルギーは堅固な要塞が幾つもあることから、機甲師団3個、自動車化師団3個からなる第11機甲軍集団と歩兵師団10個で構成された第2軍集団が派遣されている。
「しかし、不気味だ」
ド・ゴールは司令部内で呟いた。
フランス軍の誰も彼もが、数時間は上手くいくが、必ずドイツ軍部隊が現れて死闘を繰り広げることになると予想していた。
だが、現実は開戦から7時間以上が経過しても、ドイツ軍は現れない。
また、開戦と同時に空軍がドイツ空軍の基地を潰したとはいえ、まだまだドイツ空軍は強大な筈であった。
空軍の連絡将校からはドイツ西部の空はもはやフランスのものだ、と景気の良い報告がもたらされていたが、どこまで本当か信じられなかった。
彼は窓から見える街灯に照らされた鋼鉄の獅子を眺める。
75ミリ48口径砲搭載のルノーB2戦車。
ドイツ軍の三号戦車に影響を受け、大慌てで開発され、2年前から実戦配備となった車両だ。
「……我が祖国は悔しいことに、ドイツの真似ばかりだ」
ド・ゴールはぽつりと呟いた。
彼の言った通り、フランス軍は陸海空問わず、その兵器や装備がほとんどドイツ軍と似通っていた。
ドイツ軍が1927年に登場させた空冷520馬力のワスプエンジンを搭載した、車高の高い三号戦車は75ミリ52口径砲を搭載し、軍艦でも採用された傾斜装甲を多用した戦車であった。
その転輪は大型転輪と小型転輪のいいとこ取りを狙った中型転輪であり、サスペンションも高速性を狙ったトーションバー式、そして幅が広く柔軟な履帯を装備していた。
その重量は陸軍参謀本部が予想した通りに50ミリ48口径砲搭載のニ号戦車と比較して5トン近く増加し、34トンとなっていた。
史実の三号戦車というよりか、ほとんどT-34であった。
T-34の登場は1940年代であるから、10年以上技術を加速させているドイツであった。
とはいえ、そもそも一連の戦車開発に関してはRFR社が深く関わっており、やはりというか原因はヴェルナーであった。
彼は史実のT-34やら5号パンターやらそういったものをイラストで提示し、大馬力のディーゼルエンジンが開発されるまでの繋ぎとして航空機用エンジンの装備をフォードと一緒になって主張したのだ。
フォードの場合は単純に航空機エンジンを共用した方がコストが低くなるから、というものであったが、それはそれで重要なことであった。
対するフランスのB2戦車もほとんど似たようなものであったが、エンジンが480馬力と弱く、三号戦車が最大で整地上にて時速56kmを発揮できるのに対し、時速50kmと遅かった。
「問題はドイツの成長速度だ。このままでは10年もすれば我々は完全にドイツに追いつけなくなってしまう……か」
ド・ゴールは再び呟いた。
その言葉は様々な角度から検討したドイツとフランスの比較における担当者コメントであった。
「夜のうちは大丈夫だが、明日の朝からは地獄だろう」
5月11日 午前0時過ぎ ニーダーザクセン州 ヴィットムントハーフェン空軍基地
日付が変わる深夜にも関わらず、この壊滅した筈の空軍基地は極めて騒がしかった。
西部方面最大の空軍基地であって、フランス空軍も3波、述べ400機近い空襲を仕掛け、複数の滑走路を始め格納庫や管制塔など目に付く限りのものは破壊されていた。
だが、地下に厳重に保管されていた燃料タンクや弾薬類は無傷で残っており、また第一次攻撃隊が駐機されていた航空機のみを狙った為、その後繰り返された基地施設を狙った空襲ではパイロットや地上要員達は防空壕に避難し、負傷者こそ出たものの、死者は1人もいなかった。
そして、急ピッチで復旧が進められていた。
「明日には受け入れができるな」
基地司令であるロベルト・フォン・グライム大佐は不敵な笑みを浮かべていた。
開戦劈頭で甚大な被害を被ったが、上はそれについての責任は問わないと言ってきていた。
上層部すらも予想していなかった事態であり、この油断を上層部も認めたからだった。
自分たちのことを棚上げし、現場のことをよく知る前線指揮官達を更迭するのは戦争に支障が出ると考えたが故のことでもあった。
その為、ヴィットムントハーフェン基地をはじめ、多くの壊滅した基地や飛行場では指揮官更迭などの無意味なことは行われず、大急ぎで復旧が進められていた。
確かに基地施設は破壊されたが、その施設復旧に必要な様々な建設機械は基地から少し離れた場所に保管されていた。
その為、空襲のリスクが比較的少ない――ドイツ空軍では航法飛行を前提とした夜間飛行訓練が毎日のように行われており、フランス空軍もそれくらいのことはするだろう、と考えられた――夕方から復旧作業は始められた。
そして、今や滑走路上の航空機の残骸は取り払われ、穿たれた穴は塞がれ、仮設の司令部や管制塔、そして通信施設が組み上がりつつあった。
「司令、通信部から連絡です! 無線機の設置完了とのことです!」
重機の音に負けない為、大声で告げた伝令にグライム大佐は笑みを浮かべたまま、告げた。
「ただちに参謀本部に連絡! ヴィットムントハーフェンは基地機能を取り戻しつつあり、2時間以内には荒鷲を受け入れ可能!」
ヴィットムントハーフェン基地のこの通信を皮切りに、次々と各基地・飛行場から基地機能回復の報告が空軍参謀本部に入り始めた。
これを受け、参謀本部は基地壊滅の報告を受け、移動準備のまま待機していたドイツ中部などに展開する第1、第5航空艦隊へ西部方面への移動を命じた。
また、中部から東部にかけて点在する訓練基地にて、機種転換訓練を行なっている各飛行中隊に対し、スケジュールを8割以上完了した飛行中隊は新型機を装備したまま、西部方面への移動は命じられた。
1930年度にドイツ空軍が調達した機種は戦闘機・単発爆撃機・双発爆撃機・四発爆撃機。
これらは全て1000馬力から1200馬力の空冷・液冷エンジンを装備していた。
もはや史実はアテにならないが、一応比較しておくと1920年代後半から1930年代初頭は1000馬力にどちらの冷却方式のエンジンも届いてはいなかった。
1926年時点ではドイツでも1000馬力クラスのエンジンは存在しなかったが、猶予期間が十分にあった為、各メーカーは無理をすることなく、技術の成熟に努めることができ、それは着実な馬力向上となって現れていた。
そして、開戦時、調達され、機種転換訓練に使われていた数は戦闘機256機、単発爆撃機300機、双発・四発爆撃機それぞれ64機であった。
現状では数は少ないが、これから日を追うごとにこれらの機種は大幅にその数を増やしていくのは目に見えていた。
5月11日 午前1時過ぎ ヘッセン州 フリッツラー空軍基地
訓練基地の一つに指定されているこの基地ではゆっくりと駐機場から動き出した機体があった。
空冷14気筒1200馬力を発揮するRFRワスプエンジンは訓練時と同じように快調に回っていた。
四発のエンジン音が奏でる旋律はこれから戦へと向かう、自らを励ます為の陣太鼓のようにも聞こえた。
その機体はドイツ空軍機の中で最大の大きさを誇るものであった。
そして、数日以内にこの爆撃機はその造られたコンセプトを存分に世界に示すことになるだろう。
そのコンセプトとは敵戦闘機や対空砲の届かない高空を飛び、万が一戦闘機の迎撃を受けたとしても防御火器とその装甲でもって自力で排除しつつ、爆弾を降らせて帰還するというものだ。
まさしく要塞であり、その空軍正式名称もずばりB43ヒンメルフェステ――空の要塞であった。
史実を知る者が見た場合、アメリカのB17だと誰もが思うそっくりな機体であった。
ちなみに頭につくBは爆撃機、4は四発爆撃機を示し、3は3回目の調達時に正式採用された機体であることを示す。
B43は誘導灯を頼りに滑走路上へと進入し、やがてその速度を増していく。
滑走路を目一杯使い、やがてB43は空へと舞い上がった。
「高度1500まで上昇、後続機を待つ」
ベッカー大尉はそう指示し、肩の力を抜いた。
それはもっとも緊張する離陸を無事終えたことからの安堵だった。
彼は型落ちしたB42爆撃機と比べて遥かに強力となった防御武装や防弾性能は無論、速度・航続距離・爆弾搭載量とほとんど全ての点でこのB43に満足していた。
唯一、不満があるとすれば重くなったことにより機動性が鈍くなったことだが、それはさすがに諦めるしかなかった。
もっとも調達側からすればB42と比較して1.5倍にまで膨れ上がった価格に頭が痛いのだが、それも諦めるしかなかった。
「大尉、我々はヴィットムントハーフェンからどこを攻撃すると思いますか?」
副操縦士のボッシュ中尉が声をかけてきた。
彼らB43部隊はヴィットムントハーフェン基地への移動がつい先ほど指示されたばかりであった。
そして、彼らB43部隊は全ての部隊で機種転換訓練が終了していた。
ベッカーはその問いに数秒の間をおき、答えた。
「我々は単発機や双発機と比べて、地上部隊や橋梁、あるいは線路などを潰すには向いていない。とすれば目標は大きい」
ボッシュ中尉は笑みを浮かべ、ベッカーの言葉を待った。
「パリかそれとも工業地帯のあるダンケルク、フォス、トゥールーズか……」
「パリを叩きたいですね。連中、勝っているのに首都を攻撃されるなんて思ってもみないでしょう」
ボッシュの言葉にベッカーは笑う。
「数日以内に命令は下る。それまで各員は英気を養っておくように。我々はフランス本国をドイツ軍で一番最初に叩く部隊なのだからな」
そしてこの会話から2時間後、B43部隊はヴィットムントハーフェン基地に到着した。
空襲を受けたこの基地はほとんど復旧を完了しており、残すものは兵舎や格納庫といった後回しにされた、さして重要ではないものばかりであった。
これらの建設に追われる重機の音を聞きながら、B43部隊は第53戦略爆撃航空団として編成されることとなった。
午前4時過ぎ イギリス スカパフロー
イギリス海軍の根拠地は喧騒に満ちていた。
半舷上陸をしていた将兵達はフランスの宣戦布告と同時に緊急招集がかけられ、同時に物資の搬入が開始された。
このとき、本国艦隊にはネルソン級戦艦4隻、15インチ砲搭載のクイーン・エリザベス級戦艦4隻、防御を比較的弱め、高速と火力を追求した15インチ砲搭載の巡洋戦艦とでもいうべきフッド級戦艦4隻が存在した。
そして、彼女らをエスコートする巡洋艦・駆逐艦の中小艦艇は40隻以上であり、ロイヤルネイビーは未だ健在であることを示していた。
前日から続いた物資搬入作業はようやく終わり、姿をくらましたフランス艦隊を探すべく、イギリス海軍はまさに本国艦隊を出港させようとしていた。
スカパフローはメイランド島などにより港内と外海は細い水路で繋がれていた為、敵の侵入を防ぐ天然の良港であった。
だが、その水路の外海側に潜む者達がいた。
「駆逐艦が通過した。単縦陣だ」
静かに、アライス中佐は告げた。
彼はこの潜水艦、コルベールの艦長であった。
彼ら潜水艦隊に指示された任務はたった一つにして、最高の栄誉。
それは出撃するイギリス・ドイツ本国艦隊を港湾入り口で雷撃し、これを撃沈することだった。
彼のコルベールは水路に対して直角、すなわち敵艦が横腹を見せる位置についていた。
その為、コルベールが属するラ・ヴァリエール級潜水艦は前部に魚雷発射管を6門、後部に4門を備えていた。
また、ラ・ヴァリエール級をはじめ、フランス海軍の潜水艦は生産簡略化の為、備砲や機銃を備えておらず、浮上してのバッテリー充電時には身を守る術がない、という欠点があった。
そこで利用されたのがシュノーケルであった。
このシュノーケルの歴史は古く、1894年にはアメリカ人技術者であるサイモン・レークが建造した潜水艦アルゴノートに装備されており、艦内換気用として各国の潜水艦は1900年代初頭から使用されていた。
これで潜水しながらディーゼルエンジンを駆動できないか、とフランスにて研究された結果、シュノーケルを用いた潜水しながらのディーゼルエンジン駆動が実現していた。
アライス中佐は事前にレクチャーされたスカパフローとヴィルヘルムスハーフェンの共通点を思い出していた。
イギリス海軍根拠地スカパフロー、そしてドイツ海軍根拠地ヴィルヘルムスハーフェン、自然が作ったか人工的に作られたかの違いはあるが、どちらも狭い水路を抜けなければ外海へ出られない点が共通していた。
ヴィルヘルムスハーフェン港は水門で仕切られた6つの港を陸地が取り囲んでおり、水門を通らねば北海へ出ることができなかった。
ドイツ海軍の前身、プロイセン海軍がわざわざここに軍港を造ったのは北海へ直接出撃するという目的を果たす為であり、探した中で一番ここがマシであったからだった。
ここら辺の海域はエルベ川、ヴェーザー川、エムス川、アイダー川の他に幾つかの河川によって造成された河口からなり、更にフリージア諸島付近は浅いワッデン海となっている。
複数河川の河口は複雑な海流を生み出し艦船の行動を阻害し、浅い海では大型艦艇の行動に不向きであった。
そんな特殊な条件下からようやく見つけ出した場所に造られたのがヴィルヘルムスハーフェンであったのだ。
「クラウツやライミーは我がフランスのブレストを羨んだことだろう」
そう彼は呟いた。
その呟きに副長以下、多くの乗員達が声を出さずに笑った。
そのとき、潜望鏡に大型艦艇特有の大きな艦首波が見えた。
アライスは慌てず、努めて冷静に注意深くそのフネを観察し、最大の特徴を見つけた。
月明かりに照らされて浮かび上がる前部に2つある三連装砲塔。
それを備えた戦艦はイギリス海軍でたった1つのクラスしかなかった。
「……ネルソン級だ。確認できる限りでは2隻、おそらく4隻が全部出てくるぞ」
呟きに、緊張が走った。
「艦長」
副長が呼ぶ。
すぐさまアライスは告げる。
「魚雷戦用意。僚艦に負けるな」
彼の指示の下、ただちに準備が開始された。
「距離7000、敵速18ノット」
アライスの読み上げはただちに水雷長へと伝えられ、魚雷の調定に組み込まれ、日頃の訓練の賜物か、すぐに準備は完了し、あとは発射を待つばかりとなった。
アライスは無意識的に十字を切り、静かに告げた。
「発射」
その命令は伝えられ、水雷長が前部発射管室にて発射レバーを押した。
ボシュっというくぐもった音と共に発射された6本の魚雷。
しかし、ネルソン級に向かった魚雷はこれだけではなかった。
集結していた他の11隻の僚艦からも発射されており、合計72本の魚雷が水路から出たばかりのネルソン級戦艦に時間差で向かうこととなった。
その頃、ネルソン級戦艦のネームシップであるネルソンは興奮と不安の入り混じった空気であった。
それは出撃による気分高揚と、フランス艦隊がどこにいるのか、今この瞬間にも襲い掛かってくるのではないか、という不安であった。
そのような空気の中、艦橋から張り出したウィングにいた見張り員の1人は空を見上げた。
空には満月があり、雲はない。
海上は明るく、これならば夜戦になっても大丈夫だろう、と少しだけ安心した。
海面はどうかな、と彼が下へと視線を移したそのとき、それは見えた。
迫り来る6本の白い航跡。
「左舷雷跡6!」
艦橋めがけて叫び、それを聞いた艦長は半ば反射的に左舷に舵を切った。
だが、5万トンを超えるネルソンはすぐには反応せず、見る見るうちに左舷へと吸い込まれ――
ネルソンは大きく揺れた。
左舷に立ち上る3本の巨大な水柱と振動。
この2つにより、就寝していた乗員の多くが強制的に叩き起こされるか、または負傷した。
だが、さすがに5万トンを超える巨艦であった。
各所でエマージェンシーコールが鳴り響く中、ダメージコントロール班は迅速に動き、また隔壁も次々と降ろされた。
命中した魚雷は大きな破孔を穿ったものの、ネルソンにとって致命傷とはならなかった。
しかし、彼女に休む暇はなかった。
今度は右舷側に2本の水柱が立ち上り、そこから数秒遅れで更に5本の水柱が左舷に立ち上った。
左舷側に8本、右舷に5本の魚雷を撃ち込まれたネルソンは急激に左舷側に傾き、横倒しとなった。
流入する膨大な水量に彼女は耐え切れなかった。
イギリス海軍が世界に誇ったネルソン級戦艦の一番艦ネルソンはただの一発もその自慢の主砲を敵に向かって撃つことなく、北海に沈んだ。
そして、彼女を皮切りにイギリス本国艦隊は次々と狙い撃ちされた。
エスコートしていた駆逐艦はただちに反撃に移り、怒り狂いながら爆雷を大量に投下したが、四方八方から迫る魚雷により、ハンターである駆逐艦や巡洋艦が逆に沈むこととなった。
史実より技術は進んでおり、ソナーもイギリス海軍の駆逐艦や巡洋艦は装備していたが、根拠地を出た直後に狙い撃ちされるなどの予想すらしていなかった事態であり、また幾つかの駆逐艦はソナーにより潜水艦らしきものを探知していたが、それを友軍のものと勘違いしてしまった。
イギリス本国艦隊はこの一方的戦いでネルソン級戦艦ネルソンとロドネイの2隻を撃沈され、残った2隻も中破された。
他に巡洋艦3隻、駆逐艦5隻を失い、フランス海軍は潜水艦を4隻失っただけであった。
同じ頃、ドイツのヴィルヘルムスハーフェン港も奇襲を受けていたが、こちらの方が被害はより深刻であった。
港湾から北海へ出るには第四水門を通らねばならず、この第四水門は港湾を取り囲むような陸地の真ん中辺りにあった。
この水門から出たばかりのバイエルン級戦艦のネームシップ、バイエルンが雷撃され、水門を塞ぐような形で斜めに横転してしまった。
このとき、フランスの潜水艦は水門に対して扇状に展開し、大物が出てきたと同時に一斉に魚雷発射という、飽和攻撃を行なっていた。
ブレスト出港前に決定された攻撃方法であり、僚艦がやられても、確実に水門を塞げるという効果的なやり方であった。
ドイツ海軍は史実と比べて潜水艦というものに対して理解が比較的薄かった。
確かに研究されてはいたが、戦艦や最近注目を集めている空母と比べた場合は裏方であり、またイギリス海軍と同じく友軍の潜水艦と先に北海へ出た駆逐艦や巡洋艦が誤認してしまったこともあった。
陸でも空でも、そして海でも負けたドイツとイギリスであった。
しかし、この手痛い経験から両国は潜水艦というものの重要性と厄介さを認識し、対潜術や戦術の向上と自らの潜水艦戦術や潜水艦関連技術の向上にも力を入れることとなった。
初戦はフランスが勝利したが、まだまだドイツもイギリスも余力は十分にあり、そしてロシアは手付かずでその兵力が残っていたのだった。