変革への道
独自設定・解釈あり。
空軍と海軍と領土・利権分割と跡継ぎについて書いてたら、こんな長く……
あと、いい加減まともな会話を書きたい(´・ω・`)
欧州では表面上、平穏が続いていた。
各国の国民達は誰も彼もが外交関係の劇的な変化を知ってはいたが、戦争が起こるとは思ってもおらず、平和を謳歌していた。
それはフランスやオーストリア・ハンガリーの国民達も例外ではなく、口々にドイツの悪口は言うものの、本気で戦争をしようとは考えていなかった。
あるいはイタリア国民も領土問題解決を声高に主張したが、やはり戦争を考えていなかった。
戦争となれば一番最初に矢面に立つのが自分達、国民であることを分かっていたのだ。
その為、国民レベルでいえば誰もが戦争を嫌っており、この平穏はヨーロッパ・コンサートと称されることとなった。
しかし、国家レベルとなれば話は別であり、フランスはドイツの同盟を切り崩そうと動き、対するドイツはその動きを防ぐという熾烈な外交戦が行われていた。
そのような情勢の中、ドイツではヴィルヘルム2世の肝入りで国内や各国における総合的な情報収集とその分析を行う専門機関、帝国情報省が設立された。
これにより、陸海軍が独自に持っていた情報部もこの情報省の管轄に置かれることになった。
軍内部で反発がありそうなものだったが、ビスマルク体制を再来させ、イギリス・ロシアと同盟を結んだ皇帝の権威はかつてない程に大きくなっており、反対できる者はいなかった。
その一方でヴィルヘルム2世は新たな課題としてロシアとオスマントルコ間の関係修復に尽力していた。
さすがにこの問題に関してはどちらか一方に有利な判定を下すわけにもいかない為、非常に慎重に進められていた。
そして、オイレンブルクは思わしくない体調であったが、最後の一仕事と笑ってヴィルヘルム2世と共に奔走した。
また、1920年に世界で初めてドイツにおいて空軍が設立された。
陸海共同航空隊が設立されてからちょうど10年であった。
装備機種は様々であったが、全体的にグライダーと練習機が多く、実戦に耐えうる航空機というものは400機程度であった。
その400機の内訳は新興のアルバトロス社とユンカース社、RFR社など様々なメーカーのものが混在していた。
そして、これらの機体の共通事項としてエンジン馬力こそ300馬力程度であったが、空力学的に洗練されており、低翼単葉であった。
また、RFR社製の双発爆撃機、四発爆撃機も40機ずつ調達されていた。
ロシアにおいて1913年にイリヤ・ムロメーツという四発爆撃機を既にシコルスキー博士が開発し、1920年時点でロシア軍に20機程が配備されているので残念ながら世界初の称号は逃したが、このムロメーツと比較した場合、誰もがRFR社のものが洗練されていることに気がつくだろう。
この調達された四発爆撃機は長大な翼と細長い胴体、機体の側面、尾部、上部に設けられた機銃、ジュラルミン採用の全金属製構造……史実を知っている者が見た場合、史実におけるB17に似ている印象を抱くだろう。
とはいえ、幾ら機体が洗練されていてもエンジンが低出力であるならば意味がなく、さすがにムロメーツよりはマシであったが、それでも数年もすればあっという間に時代遅れとなってしまう機体であった。
双発爆撃機においても似たようなもので、こちらはユンカースJu88と何となく似ていたが、やはりエンジン馬力が低かった。
ヴェルナーは一刻も早く馬力を上げるべく、フォードに対して100馬力の出力向上を達成するごとにボーナスを2倍にするよう指示しつつ、1940年1月までに2000馬力クラスのエンジンを量産できるよう求めた。
ヴェルナーはエンジン技術者ではなかったので具体的に開発チームに指示することができず、技術者達が苦労しないように環境を整えたり、やる気を出させる為にボーナスを増やすくらいしか方法がなかった。
ともあれ、ヴェルナーがコストが掛かる割にすぐに旧式となる四発爆撃機や双発爆撃機をわざわざ空軍に導入したのはひとえに、将来の爆撃機乗りの養成とメーカーに製造経験を積ませる為であった。
戦闘機乗りと爆撃機乗りでは求められる技能が、またその製造においても求められる技術が違う。
経験は何事にも代え難いものであり、戦時で無駄を省く為には平時で何でも経験しておく必要があった。
ちなみに、そのJu88を開発することになるユンカース社はほぼ歴史通りに1911年にディーゼルエンジン会社として設立され、1920年時点では独自に航空機を開発し、空軍から輸送機などの受注を少数だが獲得していた。
しかし、その生産する機体はRFR社の影響を受けてか、史実の同時代に製造していたものよりも機体設計が洗練されていた。
史実の航空機メーカーで敢えて違いを挙げるならばハインケル社が史実よりも比較的早く設立されていることであった。
そして、空軍創設に際して幾つかのポストが新設されることとなった。
その為にモルトケとティルピッツは空軍の総責任者を誰にするか、と揉めることとなったが、最終的に空軍設立は陸軍内部から出た意見ということで陸軍の将官が総責任者である空軍参謀総長の役職に就いた。
ヴェルナーはというと、彼は1917年に少佐に昇進しており、正式に空軍発足と同時に中佐へと昇進した。
1920年時点で彼は35歳であり最年少の中佐であったが、これは提唱者であるヴェルナーにはある程度高い地位に就いてもらいたい、という意向であった。
これにはもう一つの理由があり、保守的な連中からいらぬ邪魔をさせない為でもあった。
大規模な改革を行ったヴェルナーであったが、いかんせん軍という組織は大きい。
誰も彼もがヴェルナーのドクトリンを受け入れたわけではなく、一部の、というよりか多くの中堅クラスの将校達はヴェルナードクトリンを机上の空論である、とみなしていた。
幸いなことに、その中堅クラスの将校達も兵站や装備、戦略といった面では驚く程に柔軟にヴェルナーの考えを受け入れており、その面では彼らもヴェルナーを評価していた。
新兵器開発に関してはモルトケら、参謀本部の高官達が強烈に推進していたこともあり、また開発した兵器が試験において極めて有用性が高いと判断された為であった。
ともあれ、中堅将校達が受け入れたのはひとえに、不十分な補給や装備、兵力で戦いたくはないというものだった。
元々、ドイツにおける参謀本部は兵站総監部から発達したものであり、その原点は行軍や戦闘による消耗に耐えられるよう、部隊の物的福祉を図ることであった。
この使命を達成してこそ、個々の部隊は参謀本部の作戦上の要求を耐えうるとされている。
強いて言うなら、軍隊の脈拍を感じながら指揮を取ることであり、基礎をつくったシャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツの3人や普仏・普墺戦争の大モルトケといった過去の偉人達は苦心しながら、それを常に達成させていた。
それ故に、プロイセン参謀本部は前線部隊に対し、困難を要求しても不可能を要求しなかったと称えられることとなったのだ。
そして、戦略であるが、空陸協同大規模縦深突破というのは簡単に言ってしまえば使える兵器・兵力を大量に集めて一気に敵に対してぶつけるというものだ。
これも戦争の大前提である数の優位に則っている為、反対する者はいなかった。
誰も好き好んでわざわざ自軍兵力を少なくして敵軍に挑むような馬鹿はいなかった。
問題となったのは個々の部隊の運用方法であり、浸透強襲戦術なる未知の方法が果たして機関銃で守られた陣地に通用するのか、というものだ。
日露戦争の戦訓はこれでもか、という程に研究し尽くされている。
何しろ、日露戦争以来、戦争というものが起きていないのだ。
必然的に、最近の戦争がどうなるのか、というのは最近起こった――といっても10年以上前の――戦争から想像するしかない。
機関銃とトーチカの恐ろしさ、そこに鉄条網が加わればもはや難攻不落ではないか、空から徹底的に空襲でもした方が良いのではないか、と。
この為に中堅将校達は協力して空軍の為に動いた。
この動きを利用し、モルトケとティルピッツは陸海軍共に空軍へはそれぞれの陸海の大学及び士官学校出の若手を優先的に回すこととなった。
また、中堅将校達もそこそこの数が空軍への移籍を希望した。
そして、彼らはこぞって飛行機の運用法に試行錯誤することとなった。
そんな反ヴェルナー派の中堅将校達であったが、当のヴェルナーは空軍参謀本部内で人事・主計課の課長となり、パイロットや整備兵といった空軍における兵士の拡充や装備の調達に取り組むこととなった。
これは空軍上層部は勿論のこと、反ヴェルナー派の将校達も歓迎した。
上層部は空軍の規模を拡大する為、反ヴェルナー派将校達は戦略や戦術に口を出されない為であった。
そんな思惑とは裏腹に、ヴェルナーは発足と同時に参謀総長であるエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン大将の真新しい執務室へ赴き、持論を展開した。
それは空軍も陸軍と同じく戦争においては大量に消耗されてしまう為、どんなに時代が過ぎようとも、また戦時平時問わず何よりも人材育成に主眼を置くべきである、というもの。
当たり前といえば当たり前であり、ファルケンハイン大将はすぐに承諾した。
これには理由があり、彼は飛行機というものをうまく扱える自信がなかった。
その為、彼は空軍創設の提唱者であるヴェルナーに対し、戦略・戦術など幅広い分野で意見を聞きたいので遠慮なく意見具申をするよう求めた。
これに対してヴェルナーは了承し、1ヶ月足らずで空軍における戦略・戦術・兵站から空軍司令官としてどのような知識を仕入れておくべきか、を記した空軍基礎論と題したレポートをファルケンハイン大将へと提出した。
この空軍基礎論をファルケンハイン大将は熟読しつつ、他の将官や佐官にも複写して読ませることとなった。
空軍というものをうまく扱えるのはヴェルナーしかいない、という確信があったからであり、その本人が記したものだからテキストとして最適だとファルケンハインは考えたのだ。
余談だが、このファルケンハイン大将は史実においては1922年、つまり2年後に61歳で亡くなっている。
だが、この世界においては多くの人物の神経に多大な負担を強いた第一次世界大戦が存在しなかった為、ファルケンハイン大将含め大勢の将官・佐官達は元気であった。
ファルケンハイン大将もこの世界ではより長生きすることになるだろう。
とはいえ、この空軍基礎論は兵站や必須知識などはともかくとして、反ヴェルナー派には戦略・戦術が受け入れられなかった。
反ヴェルナー派は陸軍への近接航空支援こそ空軍の役目だと考えたのだ。
さて、そんな動きに対し、ヴェルナーは人事も司っている為、空軍に複数名の人物を招き入れることに成功していた。
ヘルマン・ゲーリング、エルンスト・ウーデット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、エアハルト・ミルヒ、フーゴ・シュペルレ、アルベルト・ケッセルリンク、ヴァルター・ヴェーファーなどなど史実におけるドイツ空軍の将軍らをほとんど全員空軍に引き抜いていた。
そして、ヴェルナーは若かりしゲーリングと間近で会ったとき、彼を絶対太らせまいと決意した。
ゲーリングも貴族というものに憧れていた為、貴族らしい貴族であるヴェルナーを当初から尊敬していた。
ヴェルナーはゲーリングと親しい関係を築きながら、彼に様々なことを教えこんだ。
その中でもっともよく言い聞かせたのは麻薬にだけは手を出すな、麻薬に手を出すヤツは貴族ではない、というものだった。
無論、彼はゲーリングだけに気を配ったのではなく、他の面々を集めて度々勉強会を開いた。
それは空軍の根本にある戦略であったり、戦術でのことであったり、あるいは補給・兵站であったり、航空機の生産体制や工業力であったりと様々であった。
また同じ頃、とある人物達がRFR社に入社した。
1人はクルト・タンク。
彼に関しては説明するまでもなかった。
彼は第一次世界大戦が無かった為、父親の勧めで2年程、軍隊に入り騎兵として軍務に就く傍ら猛勉強し、大学へ進学した。
当初は周囲の勧めから電気工学を学んでいたが、3年程電気工学をやったところで飛行機への熱が捨てきれず、航空工学へと専攻を変えていた。
また、在学中にグライダー研究会に所属し、民間飛行学校で操縦免許を取るなどしており、その熱意は本物だ。
彼がRFR社にきたのは単純に最大手であったからだった。
そしてエドガー・シュミュード。
ユダヤ系ドイツ人である彼は史実ではフォッカー社、ついでメッサーシュミット社で設計士として働くことになるのだが、この世界ではフォッカー社が存在しなかった為、その資金力や開発環境は世界最高レベルのRFR社へと入ったのだった。
最後の1人はウィリー・メッサーシュミット。
彼はミュンヘン工科大学で学びつつ、ドイツにおけるグライダーのパイオニアであったフリードリヒ・ハルトと親しくなり、グライダー製作を行なっていた。
そのハルトが経営するバイエルン航空機製造会社にて独自開発した航空機の製作を行なっていたが、RFR社の洗練された航空機に惚れ込み、RFR社へと入社した。
この頃になるとRFR社ではフォードによる開発効率化からフォッカーチームとライト兄弟チームに分かれていたものが統合されており、開発チームは一本化されていた。
ヴェルナーはフォードに対し、新たに入社した3人をすぐに開発チームへ加えるよう要請した。
たった3人の新人が加わった程度で揺らぐような開発チームではなかった為、フォードはあっさりと了承したが、この3人はその優れた才能を徐々に開花させていくこととなった。
ヴェルナーはこの3人にこっそりとイラストを渡していた。
それはクルト・タンクには史実のFw190とTa152を、シュミュードにはP51を、メッサーシュミットにはMe109であった。
これらのイラストは3人に閃きを与え、彼らは業務により力を入れて取り組みつつ、このイラストを参考に航空機の設計を密かに行い始めた。
また、彼らに対してヴェルナーはお互いに意見交換会をするように、と言われた。
3人共、いきなり開発チームへ加えたからにはしっかりと勉強しろという意味だと受け取り、これまでの経験や航空機に対する持論などを定期的に意見交換をすることとなった。
その一方でヴェルナーは他社――ユンカース社、ドルニエ社、ハインケル社に対しても働きかけていた。
それぞれ各社に対してヴェルナーが描けるだけ描いた航空機のイラスト、そしてドルニエ社のクラウディウス・ドルニエ博士にはそれらに加えてDo335のイラストもついでに手渡した。
幸いにも、ヴェルナーのこの動きは不自然なものではなかった。
彼は経営者としてこの3社に赴いたのではなく、空軍中佐として視察という名目で訪れたのだったから。
そして何事も無く5年が過ぎ去り、1925年。
この年、アメリカから遥々とRFR社に対してエンジンの売り込みにやって来た者がいた。
このような売り込みは珍しいことではなく、これまでの成功や発展からRFR社をはじめとした多くのドイツ企業は世界最先端・豊富な資金力というイメージを世界中に植えつけていた。
ともあれ、やってきた彼の名はフレデリック・ブラント・レンチュラーであった。
彼はエンジンの組立場所と融資を求めており、フォードは彼が持ってきたエンジン案を見、それが空冷であることからすぐに望むものを与え、1000万マルクという多額の資金を提供した。
RFR社をはじめとした各メーカーではその主流が液冷エンジンであり、空冷部門は弱点であったのだ。
それでもRFR社においては両部門に対して他の会社とは比較にならない程に資金と人手が集中されているのはさすがであった。
レンチュラーは半年程でエンジンを組み上げ、その空冷エンジンは425馬力を発揮した。
既存の空冷エンジンを凌ぐ大馬力にフォードは驚き、すぐにこのエンジンをライセンス生産させて欲しいと要請しつつ、レンチュラーを空冷エンジン部門の主任として迎えた。
レンチュラー曰く、RFR社で断られたらプラット&ホイットニーに融資を求めるつもりであったらしい。
このエンジンはレンチュラーによってワスプと命名されたのだった。
1926年10月のある日
ヴェルナーはベルリンにある空軍参謀本部の執務室であることに気がついた。
ちなみに、彼は41歳で大佐の地位にあり、人事・主計課を発展的させた空軍総合補給本部の本部長となっていた。
とはいえ、実戦部隊と比較すれば重要ではあったが閑職であった。
彼がよく教えたゲーリングらは実戦部隊配属となっていたが、そんな彼らからはよく反ヴェルナー派の存在を教えてもらっていた。
ヴェルナー個人とすれば派閥抗争なんぞしたくもなかった。
彼が求めたのは一世代も二世代も進んだ航空機であり、充実した補給体制、十分な数の予備パイロット・整備兵だった。
正直なところ、戦略・戦術というものに関してはヴェルナーはどうでもよかった。
そもそも戦略も戦術も実際に血を流して見なければ良いものが生まれてこない。
ヴェルナーの理論は見た目は完璧だが、実戦証明が済んでいない為、どう言い繕っても机上の空論だ。
そして、出血するにしても血を流しすぎて戦争に負けてしまっても意味はない。
故に、ヴェルナーが求めたもっとも大切なものはちょっとやそっとの出血ではビクともしない、強固な補給体制であり、国家としての経済基盤であった。
具体的には独ソ戦初期のソ連並に大損害を受けても、数年で立ち直り逆襲に転じて多少の赤字で戦争に勝利できる国家であった。
当のヴェルナー本人がどうでもいい、としていたが、ゲーリングらは反ヴェルナー派達の唱える陸軍支援戦術は認めつつも、空軍の仕事はそれだけではない、と考えていた。
故に、近接航空支援一本槍の反ヴェルナー派とは戦略・戦術面でよく対立していた。
また別の面にも反ヴェルナー派……というか、反軍隊派とも呼べるべき連中が存在した。
それは議会だ。
一応、ドイツも議会制民主主義という形である。
この議会というものが曲者で、政治家の多くは危機を外交によって解決できた為に軍の大幅削減をしようと考えている。
さすがに非武装国家にしよう、という輩はいなかったものの、それでも三軍の予算と人員の大幅な削減は多くの政治家達で叫ばれている。
とはいえ、これまで議会に対してはヴィルヘルム2世も迷惑を掛けてきた手前、その言い分を無視できなかった。
ちなみに、政治家達はその空いた分の予算をより一層の公共事業に回し、ドイツ本土と海外植民地のインフラ整備を行うつもりだった。
フォードによる自動車販売以来、多く道路や高速道路が整備されてきたとはいえ、まだまだ足りない。
ちなみに、ちゃっかりとだがそのインフラ整備には三軍全てが絡んでいたりする。
インフラ整備と銘打って港湾の拡張や将来に出てくるだろう50トン超の重量級戦車が通行できるようにする為の橋梁整備、これまた同じく大型ジェット機を見据えた5000m級のコンクリート滑走路を4本備えた一大空港などなどだ。
特に空港に関してはヴェルナーの強烈な推進があった。
あって困るものではない為、この陸海空軍からの提案はインフラ整備5カ年計画に取り入れられていた。
そんなわけで、憂慮すべき事態は多かったが、とりあえずヴェルナーは今の仕事に満足していた。
定時に帰ることができ、補給や調達に関しては何かしらの大きな問題もない。
最近あった大きな仕事といえば4年後の1930年度に調達する新型戦闘機・爆撃機の性能要求書を各メーカーに提出したくらいだ。
この性能要求は補給本部の本部長であるヴェルナーが実戦部隊や作戦課などから要望書を受け取り、それを纏めて提出するのだが、彼は作戦課の要望書を見て史実のドイツ空軍だなぁ、と笑ってしまった。
一言で言ってしまえば、作戦課が求めたのは敵陣地破壊・敵軍撃滅の為の急降下爆撃機であった。
史実のJu87を彼らは求めていた。
とはいえ、その要求性能は1926年時点では非常に過酷なもので500kg相当の爆弾を抱えて時速400kmの速度で飛び、20ミリクラスの機関砲弾を受けても落ちない程度の防弾性能を備えることであった。
もっとも、エンジン馬力が1000馬力に届かない現状では到底無理な話であった。
また、急降下爆撃一本に絞ったJu87が史実におけるバトル・オブ・ブリテンでどうなったかも知っている。
特化した航空機は強いが、その特化した能力を発揮できなくなったとき、ただの鴨でしかなかった。
故に、ヴェルナーは作戦課と協議し、1930年度の要求性能はこのまま出すが、10年後の40年度要求性能は時速550km以上で飛び、500kg相当の爆弾を抱えて12.7ミリクラスの機銃弾を多数受けても落ちず、戦闘行動半径500km程度の単発・単座機とし、これを変更しないと定めた。
急降下爆撃機ではなく、戦闘爆撃機に変更させたのだ。
他にも多くあった戦闘機・爆撃機においても、40年度要求性能は作戦課の面々を驚愕させる程の過酷な要求であった。
一番過酷であったのは戦闘機であり、最大速度600km以上、戦闘行動半径500km、12.7ミリ以上の機銃ないしは機関砲を4丁以上装備、急降下性能は800km以上、そして12.7ミリクラスの機銃弾を多数受けても帰還できる程度の防弾性能を求めた。
ヴェルナーの気が狂ったか、と思う者がヴェルナー派・反ヴェルナー派問わずに出たが、当の本人はこれくらい当然だ、と涼しい顔をして公言していた。
彼はドイツの工業水準・生産力をよく知っていた。
この魔改造されたチートなドイツであれば1940年代半ばにジェット機が乱舞していてもおかしくはない、と。
ついでに言えば史実では活躍できなかった大戦末期の航空機がより早く出てきてもおかしくはない、とも。
あと、かなりマシになったとはいえ、凝り性なドイツ人の性から、変態的な兵器が出てくる可能性も多くあった。
他の細かいところでは天然ゴムに関して一応の調達目処が立ったことだ。
しかし、多額の資金提供による合成ゴムの改良・生産拡大、また用途別に様々な種類を生産できるようになったことで天然ゴムを確保する意味合いは大分薄れていた。
それでも万が一の保険ということで、イギリスと話をつけ、東南アジアにおけるゴムノキ栽培に一枚噛むこととなった。
書類仕事を終え、コーヒーを飲んで一息ついていたところに前々から感じていた疑問が浮かんだ。
「そういえばドレッドノート級が出ていないが、どうなったんだ?」
彼は陸軍と空軍に尽力していた為、海軍に関してはどうなったかさっぱり分からなかった。
仕方がないので彼は電話へと手を伸ばし、海軍省勤務の友人に連絡して問い合わせた。
ちなみにその友人はエーリッヒ・レーダー少将。
史実ならば既に中将に昇進しているのだが、第一次世界大戦が無かった為、戦功を上げる機会が無く未だに少将であった。
彼との接点は定期的に開かれる三軍合同パーティーであり、そこで知り合ったレーダーはヴェルナーよりも年上であったが、世代を超えた友人の関係に落ち着いていた。
電話交換手に海軍省へと繋いでもらい、数回の呼び出しの後にレーダーが出た。
「ルントシュテット……ああ、弟の方だ」
最近、ヴェルナーの兄であるカールが陸空軍の共同演習において、空軍に対して効果的なタイミングで支援要請をし、相手方を打ち破ったとかで話題になっていた。
そんなカールは少将の地位にあった。
彼はヴェルナーを間近で見ていた為、空軍というものに対して理解が深かった。
「やぁ、ヴェルナー。どうかしたのか?」
「ちょっと最近の戦艦事情について知りたくてね」
「戦艦事情?」
ヴェルナーの言葉にレーダーは意外な声を出した。
彼はヴェルナーが航空主兵論者であり、航空機で戦艦を撃沈可能であると主張していることを知っていたからだった。
ヴェルナーはただ主張するだけに飽きたらず、つい2ヶ月前に行われた海空軍共同演習において標的艦に改造されたかつての戦艦を雷装した爆撃機12機を左右両舷から突っ込ませ、あっさりと沈めていた。
これに誰もが驚愕し、空軍はその自信を深め、海軍に恐怖を植えつけた。
他の者であったならばともかく、あのヴェルナーが発案してこうさせたのだ。
もはや彼は一種の魔法使いのような扱いであった。
面子を潰された形になった海軍だが、彼らは面子よりも結果に目を向けた。
ドイツ海軍は第一次世界大戦が無かった為に健在であったが、反面列強の海軍と比べて実戦を体験しておらず、その実力は未知数だった。
その為、疑心暗鬼に陥っており、必要以上に相手を過大評価する癖があった。
故に海軍はイギリスやアメリカ、日本などで実験段階にある空母というものに注目した。
空母から航空機を発進させ、遠方から敵を叩く、そして逆に自らが敵機の空襲を受ける。
そのような戦闘形態が将来起こりえると海軍は考えた。
ヴェルナーはこの合同演習時、最新鋭のバイエルン級戦艦を見て違和感を感じたのはその主砲配置であった。
ちなみにバイエルン級戦艦全艦が就役して2年余りが立っており、どれだけ彼が海軍に無頓着であったかがよく分かる。
「ちょっと気になることがあってな」
「わかった。お前さんは魔法使いのように何でもお見通しだからな。何かあるなら何かあるんだろう」
ヴェルナーはこれまで言ったこと全てを実現させてきていた為に魔法使いの異名があった。
「忙しいところ悪いな。今度、良いワインをプレゼントしよう」
「それは楽しみだ。若いのに資料をもたせて1時間以内に出発させる」
電話が切れた。
ヴェルナーはレーダーの言葉を脳で反芻させた。
「いつのまにか自分も40過ぎの中年か……」
あっという間だった、とヴェルナーは思う。
だが、自分が動いたおかげで両親は繁栄するドイツ帝国を見ながら逝けた。
自分の論文を採用してくれたシュリーフェンもレヴィンスキーも、そして自分に良くしてくれたモルトケも最近逝った。
外交における功労者であったオイレンブルクやベートマンも逝った。
彼らは最後の一仕事と称してロシア・オスマントルコ間の関係改善にヴィルヘルム2世と共に奔走し、今日ではロシア・オスマントルコは可もなく不可もない関係に落ち着いていた。
オスマントルコはロシアのバルカン地域における権益を認め、その代価として中東に手を出さないことをロシアに約束させたのだ。
そして、ティルピッツも既に海軍大臣の職を辞しており、今では回想録の執筆に取り組んでいると聞いていた。
「時間は……嫌なものだな」
そう呟いた時、扉がノックされた。
レーダーの使いか、と思ったヴェルナーが入るように許可を出すとそこにいたのは碧いドレスを纏った女性であった。
本来ならば無関係の民間人が入ることは禁じられているのだが、不幸にも彼女は無関係の民間人ではなかった。
一応、お飾りであるが空軍少尉の階級を持っていた。
そんな彼女の仕事は新聞や雑誌などに対する空軍の宣伝であった。
彼女を見て、ヴェルナーは深々と溜息を吐いた。
「ゾフィー、何の用だ?」
「お父様に会いに来ましたの」
花の咲くような笑顔のゾフィーにヴェルナーはもう一度溜息を吐いた。
彼は長女であるゾフィーの下に息子と娘を合わせて14人の子供がいる。
彼ら以外にも庶子として100人以上の囲っている女達との間にできた子供がおり、こちらの中でもっとも年長の者は20歳を超えていたりする。
ヴェルナーはとりあえず産まれた子供達に関しては誰1人例外なく英才教育を施しつつも、好きなことをやらせている。
また、彼は最初から子供達に色々とオープン――例えば愛人いっぱいいるぞーとか本妻がいるぞーという漢らしい宣言――であった為、嫡子と庶子という違いにも関わらず子供達の関係は良好であった。
「……誰だこんなファザコンに育てたヤツ……ああ、自分か」
ヴェルナーは三度目の溜息を吐いた。
比較的仕事量が落ち着いた辺りからヴェルナーは子供達に構いだし、親馬鹿なことを多数行なっていた。
例えばギムナジウムに通っていた息子の1人がいじめられたとき、マンシュタインやグデーリアンに頼み、完全武装の陸軍1個中隊を動員し、いじめた相手を物理的に消滅させようとしたが、マンシュタインもグデーリアンも笑って親としてしっかりとした行動で示すように、とアドバイスした。
結局、ヴェルナー本人が息子を連れてその相手の両親宅へ赴いて穏便な話し合い――というか、相手の両親がヴェルナーに怯えて一方的に謝罪して終わった。
他にも別荘を多く持っていることを自慢された上に別荘を持っていないことを馬鹿にされたある娘の話を聞けばベルヒテスガーデンに山荘を造ったのをはじめとして、ドイツ各地やイギリス、果てはアフリカやハワイ、アメリカ本土、ロシアに多数の別荘を造ったが、フォードが目をつけてヴェルナーと交渉の末、多くをRFR社の保養施設にしてしまった。
ヴェルナー自身も造った後に冷静になって考えてみれば使い切れないことが分かった為、毎年レンタル料をRFR社が支払うという形に落ち着いた。
そのようにヴェルナーは性欲が落ち着く一方で庇護欲が旺盛であった。
「ともあれ、私は仕事中だ。あとで買い物に付き合うから……」
ヴェルナーはそこで壁にかかった時計を見、3時過ぎであることを確認する。
定時は17時だ。
「17時に玄関前に来るように」
「分かりましたわ」
ゾフィーは機嫌良く執務室から出ていった。
「……もうちょっと何とかする必要があるな」
とはいえ、貴族令嬢となればゾフィーのような感じが普通であることもヴェルナーは他の佐官や将官から聞いていた。
「だが、ウチのは行きすぎだ。結婚相手はお父様とか19にもなって本気で公言するなんて……」
元々、広告モデルというのもゾフィーがやりたい、と言い出したことであり、その理由はお父様の傍にいたいから、というものだった。
嬉しいというよりも、素直に長女の将来が心配になるヴェルナーだったが、その思いも再び叩かれた扉により頭の片隅へと追いやられた。
今度こそやってきたのはレーダーからの使いであった。
ヴェルナーは彼から渡された多くの資料を読み、疑問が氷解した。
資料から彼が読み取ったのは技術の進歩と戦術の進化からドレッドノートに準じた主砲配置となったようだ。
この世界でドレッドノートが建造されていないのは事実である。
だが、アメリカ海軍やイギリス海軍、果ては日本海軍やロシア海軍でも最近建造された戦艦は史実のドレッドノートと同じ主砲配置を取っていた。
そして、一番最初にこの主砲配置を取ったのはアメリカで建造されたサウスカロライナ級戦艦だった。
とはいえ、このサウスカロライナ級は前級のコネチカット級を発展させただけであり、ドレッドノートのような革新的な設計思想に基づいているわけではない。
その為、この戦艦があちこちを訪問した際も各国海軍関係者は変わった主砲配置をした戦艦という程度の認識であった。
さて、そんな変わった主砲配置をアメリカだけでなく、各国海軍がやり始めたのはひとえにそれは斉射の有効性が各国海軍で強く認識されたからだった。
また技術が発展――それもドイツのおかげで史実よりも早く――しており、昨今の戦艦は15インチ(=38.1センチ)は当然であり、より高い火力を求める列強の戦艦では16インチ(=40.6センチ)の艦砲を搭載していた。
これらの火砲は射程距離も長い為、必然的に長距離砲戦の可能性が高くなった。
とはいえ、史実のようにたった1隻の戦艦が全てを変えた、というわけではなかった為に弩級戦艦という言葉は生まれなかった。
そして、世界に目を向ければアメリカのコロラド級戦艦4隻、イギリスのネルソン級戦艦4隻、日本では長門級戦艦4隻、ロシアではイヴァン・グローズヌイ(=イワン雷帝)級戦艦4隻、フランスのダンケルク級戦艦4隻そしてドイツのバイエルン級戦艦4隻と16インチ砲搭載戦艦が目白押しであった。
史実との相違点としてワシントン海軍軍縮条約が存在しないことが戦艦の数と性能となって現れていた。
コロラド級は初めから16インチ砲搭載戦艦とされた為に防御も史実の15インチ対応ではなく、16インチ対応であり、機関も強化され最大25ノットを発揮できた。
またネルソン級戦艦も史実のように3連装砲塔を前部へ集中しておらず、前部2基、後部1基というある意味普通の配置であり、同じく機関が強化され最大で26ノットが可能であった。
さらに長門型であったが、こちらも機関が若干強化され最大で27ノットが発揮できた。
なお、この頃になると日本も1917年から着手していた工業力増強の成果が現れ始めており、史実の同時代と比べて国力は多少はマシ程度になっていた。
また、アメリカやイギリスといった列強との対抗上、4隻の16インチ砲搭載戦艦を配備するよう海軍が強く主張した為、長門型の建造と相成ったが、どこの国もワシントン軍縮条約が無かった為に各国とも手を加えており排水量は史実のものよりも増大していた。
もっともこれらの代艦建造で一番の痛手を被ったのはやはりというかイギリス海軍であった。
イギリスは史実でいうところの前弩級戦艦クラスの全てをスクラップ処分にし、維持費削減を達成していた。
とはいえ、大規模な建艦競争をしていたわけではなかったので史実と比べればその処分された数は遥かに少なく、代艦建造が経済に与えた影響も少なかった。
そして、史実には存在しない帝政ロシア海軍のイワン雷帝級戦艦。
この艦は16インチ砲を3連装で背負式に3基配置しており、ドイツのバイエルン級やイギリスのネルソン級とこれは同じであった。
それもその筈で日露戦争で多くの主力艦を失い、また革命騒ぎと国内開発の為に海軍に予算を割けるような状況ではなかったロシアは同盟国のドイツやイギリスに支援を求めた。
その支援からドイツとイギリスの造船会社は多くの設計案を出し、結果、ブローム・ウント・フォス社の案が採用された。
当初はこの多くの設計案を踏まえた上で新設計しよう、という動きもあったが、長いこと戦艦を建造していなかった為に下手に新設計すれば不具合が多数出る可能性があった為、立ち消えとなっていた。
ともあれ、このイワン雷帝級はドイツ戦艦の特徴である防御力に重点を置いた設計であり、それでいて25ノットの高速を発揮できるものであった。
ちなみにこの戦艦の機関はMAN社製、主砲はクルップ製であり、各国海軍関係者は所属国が違うだけでドイツの戦艦だ、と言われることとなった。
また、フランス海軍のダンケルク級戦艦も史実のそれではなく、3連装3基の16インチ砲をドイツやイギリスと同じように装備しているが、速度性能は勝り28ノットであった。
反面、イギリス・ドイツのものと比べて防御が幾分か弱かった。
そして、ドイツ海軍のバイエルン級戦艦はというと、クルップ社製16インチ50口径砲を3連装で前部2基、後部1基の背負式配置であった。
また、航路の安全確保・敵海軍の撃滅の為に大西洋・太平洋といった外洋での艦隊での作戦行動が重視された為、これらの地域における長距離砲戦を想定し、装甲に関してもそれまでのドイツ戦艦と比較にならないものになった。
その防御力は変態的な領域に達しており、水密区画は史実の大和型よりも多い、1238区画、水平防御は170ミリであり、少しでも重量を軽減する為、開発された傾斜装甲方式を採用し、これまでの全体防御方式から集中防御方式へと変更していた。
この努力のおかげで巨体にも関わらず、速力は最大で27ノットが可能であった。
バイエルン級はどの列強戦艦よりもその排水量は多く、満載排水量は6万2100トンにも達した。
参考までにこの世界のネルソン級で満載排水量5万4000トンであることから、どれだけのものか分かるだろう。
さらに、ドイツ海軍についていえば、海外植民地からもたらされる膨大な資源は陸路では輸送できず、海路のみであった。
それらはドイツという国家そのものを維持する為に必要不可欠なものであり、海軍は必然的にこの輸送路の確保が最重要課題となった。
輸送路確保の為の手段の一つとして敵海軍そのものを潰してしまう艦隊決戦や巡洋艦や駆逐艦などによる輸送船団護衛といったものが考えられていた。
そのようなことからかつてのイギリスのようにドイツ海軍は戦艦は当然として、それ一辺倒ではなく巡洋艦などの中小艦艇を殊更重視していた。
特に沿岸防衛に手軽な戦力である魚雷艇や砲艦は安くて大量に配備できるということから各地に多く配備された。
他にも、海上交通路重視を逆に言えば、海上交通路破壊は有効な戦術である、とみなされた為に潜水艦もそこそこの数が建造・配備されていた。
さすがに通商破壊に高価な巡洋艦以上の艦艇を使うのは勿体なかった為だ。
その為、航続距離が長く、魚雷という大きな武器を持っているが建造費が安い潜水艦にその役目が回されたのは当然であった。
ともあれ戦艦についてまとめれば、各国共に第一次世界大戦の戦訓が無かったが、それでも遠距離から飛来する主砲弾や副砲弾が艦橋などに命中すると倒壊する為に艦橋構造を耐震性に優れたものに変えたり、水平防御を厚くしたり、少しでも沈みにくくする為に水密区画を増やしたり、最近急速に発達した魚雷への対策としてバルジを設けたり、と巨額の費用を掛けるだけあって少しでも長く使えるよう各国の努力は大きかった。
その為、攻撃力・防御力・速力がバランス良くまとまった高速戦艦の時代となった。
ヴェルナーはしみじみと呟く。
「海軍さんも苦労しているようだなぁ……」
最近では空母建造に関することで話を聞きたい、とティルピッツの後任で海軍大臣となったラインハルト・シェーアが相談を持ちかけてきていた。
餅は餅屋、航空機はヴェルナー、という図式が軍においては定まっていた。
そんなシェーアに対してヴェルナーはアメリカ海軍のニミッツ級空母のイラストと大雑把な特徴の解説を記したノートを手渡した。
魔法使いの知恵をもらったシェーアは早速各造船所や海軍の技術研究部門でそのイラストとノートについて検証し始めていた。
史実では見られなかったドイツ海軍空母機動艦隊が見られる日も近そうだ。
「……ふむ、そろそろか」
ヴェルナーは壁にかかった置き時計を見、17時10分前であることに気がついた。
定時に帰り、残業代を出させない者が優良社員と考えるヴェルナーにとって、この10分前の時間は帰り支度を始めるものだった。
そして、ゾフィーが玄関前で待ち構えているだろうことを思い、彼は苦笑したのだった。
1927年5月
ヴィルヘルム2世の機嫌は良かった。
窓からは初夏の日差しが注いでいるおり、その陽気が彼の機嫌を余計に良くさせた。
彼にはかつて大きな悩みがあった。
それは同盟国間の利益調整。
一応、同盟国であったが、所詮はドイツを仲介としたものであり、ロシアは隙あれば地中海への進出を狙い、イギリスは地中海へロシアが進出することを牽制する。
そのような構図が何度も続いたのだが、独英、独露間では来るべき対仏対墺戦争における利権・領土分割が決まったとき、それらは解消された。
それらは英独秘密協定、独露秘密協定と称され、それぞれドイツ・イギリス・ロシアがその2協定の内容を知り、そして互いに承諾していた。
英独協定ではフランスの海外領土と本国領土の全てをいただき、フランスという国家をこの世から無くすことが骨子であった。
ドイツはいつまでも残しておいては永遠に恨まれ続け、挑戦され続けると考え、これをイギリス側に提案し、イギリスはこれを承諾した。
イギリスがドイツ提案のフランス併合案を承諾したのは100年戦争以来の大陸領土を持つことでドイツの更なる拡大を抑制する為であった。
イギリスが獲得する大陸領土は英仏海峡に面するフランス北西部と海外領土では地中海に面した北アフリカ、ジブチ、マダガスカルを獲得する。
そして、それ以外の領土がドイツのものとなる。
非常に気前の良い提案であったが、ドイツ側はイギリスが他の領土を要求しない良心的態度の代価として400億マルクを支払うという罠があった。
要するに先に挙げた領土だけもらって、他の領土はくれてやるから金払え、とそういうことであった。
ヴェルサイユ条約における賠償金のおよそ3分の1に相当するが、その支払いは非常に良心的であった。
1年20億マルクの無利子で20年支払い。
たった20億マルクの20年支払いでフランスの多くの海外領土――それも開発すればきっと資源が出る――を得るのならば認めない手はなかった。
とはいえ、コレ以外にも罠があった。
イギリスは非常に狡猾だった。
彼の国はドイツがフランス本国領土や海外領土を得たとしても、抵抗運動が極めて強く、結局手放さざるを得ないだろう、と予想していた。
そして、そのとき、イギリスはドイツを宥め、フランスの独立を援助し、恩を売り、万が一の場合にはフランスをドイツにけしかけるつもりであった。
無論、イギリス側はフランス支援と銘打って自らは大陸領土や海外領土を保持したままで。
それを成し遂げるだけの力が自国にはある、とイギリス側は確信していた。
このように独英協定はイギリス側が実質的な主導権を握った形で結ばれたが、独露協定はドイツが主導権を握っていた。
ドイツはまずオーストリア政府が統治する地域は一部を除きドイツに併合するとし、ロシア側もこれを了承した。
オーストリア統治地域はドイツ本国へ多く戻ったとはいえ、それでもまだ多数のドイツ人が特権階級として残っていた為だ。
そんなオーストリア統治地域は合計15地域あったが、このうち、ロシア領と接しているガリツィア・ロドメリア王国領、ブコヴィナ公爵領の2地域はロシア側に帰属する。
そして、ロシア側は上述した2地域に加え、ハンガリー王国領、クロアチア・スラヴォニア王国領のハンガリー政府統治地域に加え、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域を領有する。
これにより、ロシア側は地中海への出口を獲得できなくなった。
オーストリアが統治するバルカン地域のうち、地中海へ出るにはダルマチア地方かイストリア半島のどちらかを獲得する必要があった。
しかし、その2地域はドイツによって抑えられてしまい、これによってロシアは地中海へ進出する術を失った。
ロシア側としては念願の不凍港を得られないのは痛手であったが、得られるものがあるだけマシ、と考えなおした。
なお、この独露協定がイギリス側にも伝えられたとき、イギリスはロシアの地中海進出を防いだドイツを高く評価したが、フランスにおける策略をやめるわけがなかった。
ちなみにイタリアとは戦争終了後に未回収のイタリア問題について協議するとドイツ政府内で決定されていた。
イギリス・ロシア間でも利益調整に手間取ったのに、そこにイタリアなんぞ加えては到底纏まりそうもない、というのがドイツ首脳部の正直な言葉だった。
ともあれ、機嫌が良かったヴィルヘルム2世であったが、やがて彼は表情を曇らせる。
「……跡継ぎが問題であるな」
跡継ぎである皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンと皇太子妃ツェツィーリエは国民に非常に人気があるが、その実、ヴィルヘルムは非常に女癖が悪く、おまけにアヘンの常習者であった。
今年で45歳となったヴィルヘルム皇太子はアヘンからは抜け出していたが、女癖は変わらずであった。
女癖の悪さで言えばヴェルナーも相当なものであったが、最近ではかなり落ち着いており、一時期は別人説も流れたくらいであった。
また、ヴィルヘルムがマトモに政務をこなせるか、という問題もあった。
一歩間違えればイギリスかロシアが同盟を破棄し、フランスと協同して襲い掛かってくる状況だ。
情勢は極めて厳しかった。
「……祖母に習うか。だが、それには優秀な政治家と知的な国民が必要だ」
ヴィルヘルム2世は決意した。
彼はこれまで議会制民主主義というよりは絶対君主制に近いことをやってきていた。
そうした方がドイツの発展に都合が良かったからだ。
そして、それは今日の結果となって返ってきていた。
だが、ヴィルヘルム3世がかつての自分と同じような愚行を繰り返す可能性があるならば、それはドイツ帝国皇帝の責務として防がねばならなかった。
ヴィルヘルム2世は近衛兵に命じ、宰相であるグスタフ・シュトレーゼマンを呼ぶよう指示した。
そして、シュトレーゼマンはきっかり2時間後にヴィルヘルム2世の下を訪れた。
彼がベートマンの後任となったのはひとえに、現実的な外交でもって拡張するべきだ、という彼の持論の為であった。
その成果は今もなおドイツがイギリス・ロシアと同盟を結んでいることが如実に表しているだろう。
やってきた彼を前にヴィルヘルム2世は問いかけた。
「暗君による政治と衆愚政治ではどちらがマシか?」
シュトレーゼマンはその問いに直感した。
ヴィルヘルム2世以後の皇帝が象徴的な皇帝となることを。
帝政支持者でもある彼からすれば悲しむべきことではあったが、次代の皇帝である皇太子の実態は政府内においてよく知られていた。
「……答えは歴史にあります、陛下」
古くはローマ、最近ではアメリカやイギリス。
民主主義的な国家は比較的成功しやすいと、とシュトレーゼマンは判断していた。
「余はヴィルヘルムを帝位に就ける。だが、その頃にはイギリスと同じでなければならぬ。彼の国の、政治体制を見習わねばならん」
「しかし、帝室の権威は保持されねばなりません。また、国民も同盟国も誰もが認めるものでなくては……」
うむ、とヴィルヘルム2世はシュトレーゼマンの言葉に頷き、告げた。
「シュトレーゼマンよ。余が退位するその瞬間までに、必要と思われる事柄を全て成し遂げるのだ」