消えない火種
独自設定・解釈あり。
1908年10月中旬――
ヴェルナーは最大の窮地に立たされていた。
彼が同性愛者である、と『未来』という定期刊行雑誌の主宰者であるマクシミリアン・ハルデンにより雑誌上で暴露されたのだ。
史実でのハルデン・オイレンブルク事件というのはドイツにおける皇帝の権威の根本を揺るがすような一大スキャンダルであった。
まさかオイレンブルクではなく、自分がそうでっち上げられるとは思ってもみなかったヴェルナーである。
実際のところ、宮廷事情に疎い彼はオイレンブルクとヴィルヘルム2世がそういう関係であるのかどうか、知る術はない。
当のオイレンブルクは先の授賞式から数日後にヴェルナーを訪ねてきており、それ以来何度も会い、あるときヴェルナーは自らの考える列強の協調を話したことがあった。
オイレンブルクはその主張を絶賛し、ドイツは列強協調路線を取るべきだとこれまで以上にヴィルヘルム2世に進言した。
そう、外交的に列強協調路線は極めて現実的であり、正しい選択だ。
だが、常にその選択をとれるとは限らない。
マクシミリアン・ハルデンは急進的な帝国主義者であり、彼をはじめとした急進的な者にはヴェルナーの授賞式での言葉は極めて弱腰にみえた。
ともあれ、メディアの威力というものを21世紀においてよく知っているヴェルナーはこれを自分の人生における危機的状況であると考えた。
記事によればヴェルナーはオイレンブルクの仲介でヴィルヘルム2世に気に入られ云々と全く事実無根のことが書いてあった。
ここでヴェルナーのこれまでの行いがマイナスに作用した。
彼は100人近い女を囲っているのは広く知られている。
そんな色狂いの彼は同性愛をやっていても、不思議ではないのでは――?
そういった疑念を記事を読んだ人間に呼び覚ますのは十分だった。
ヴェルナーの下には記事発表以来、連日多くの軍高官や政府関係者が事実確認に訪れ、その度に彼は自分の身が潔白であることを証明せねばならなかった。
幸いにも味方はあった。
ヴェルナーと親交があった多くの新聞記者達がこの窮地を助けようと事実無根だという記事を掲載したのだ。
最近はすっかり楽隠居を決め込んでいた父のゲルトや軍人として先輩の兄のカールらはそれぞれ軍内部でヴェルナーの潔白を証言した。
更には4回目の受験で念願叶ってウィーンの美術学校へと進学していたヒトラーが駆けつけ、彼が男に手を出す筈がない、と持ち前の弁舌の才能を駆使して擁護した。
だが、嘘でも一大スキャンダルであることは間違いなく、彼の友人あるいは知り合いである、というヴェルナー本人は見たことも聞いたこともないような人物達が多数新聞社などに押し寄せ、ヴェルナーが同性愛者である証言をした。
彼らの多くは証言することによってもらえる少額の情報提供料目当てであった。
裕福といえるまでもないが、貧しいともいえない。
中流階級が大幅に増加したこの世界のドイツであっても、カネを求める者は多くいたのだ。
この一件を鎮火させる為、ヴェルナーはとにかく多数の証言が必要だと考えた。
そこで彼はまず本妻のエリカは勿論、囲っている女達およそ100人に証言をしてもらうことにした。
エリカは勿論、娼婦らもヴェルナーの風聞に傷がつくと安定な生活が送れなくなってしまう為に進んで協力した。
ヴェルナーはその証言を親交のある新聞記者達に取り上げてもらうことにした。
証言は実際に行われている非常に倒錯的な行為に関しては触れられていないが、それでも休日のときは毎日毎夜女を取っ替え引っ替えしていることが言われていた。
他にも彼がよく行く商店の店員やRFR社のフォード、ライト兄弟など大勢の関係者が似たような証言をした。
彼らは総じて、ライプツィヒの屋敷に行くとヴェルナーの傍に立っている女性は1時間毎に変わっているというものだった。
これらにより、ああ、やはり彼はただの女狂いだ、という良いのか悪いのかいまいち分からない評価となった。
そして、一連の騒動は12月初旬に一応収まっていた。
決着は事の発端となったハルデンを名誉毀損罪などにより大勢の支持者達が見守る中――まるでどっかの国の大統領選挙のように――ヴェルナーが刑事告発した。
告訴状が受理されると同時に支持者達は大歓声を上げ、様々な新聞は勝利――ハルデンのまったくのでっち上げであること――を報道した。
その後、恐ろしい速さでハルデンの有罪が決まり、彼はブタ箱に叩きこまれた。
また、この事件から急進的な帝国主義者達はその勢力を大幅に減じることとなった。
1908年12月下旬――
「全く、そなたもとんだ災難だったな」
ヴィルヘルム2世はそう切り出した。
「はい、この度は各方面にご迷惑をお掛けしまして……」
そう言い、軽く会釈するヴェルナー。
「構わないとも。だが、私は君を侮辱されたことに対し、陛下と同じく怒りを感じている」
オイレンブルクが告げた。
この三者会談は騒動決着と前後してヴィルヘルム2世直々のものであった。
彼らはベルリン宮殿の奥まった会議室に集ったのだ。
「余が思うに、そなたは我がドイツと同じく多数の企業を打ち破って今の勢力にまでなった。残念だが、相当な恨みを買っているのではないか?」
その問いにヴェルナーは押し黙った。
彼はあの事件の真っ最中、徹底的に背後関係を調べており、その黒幕というか黒幕達はRFR社の躍進によって破産した他国の投資家であったり、企業家であったり、と様々だった。
競争は発展の大前提とはいえ、そこから恨み辛みが生まれるのは仕方がないといえば仕方がなかった。
「私は君と何度も話合う機会があったが、君は国家レベルでは協調路線を取る割には経済レベルでは自分の会社が常に導き手でありたいような言動がある」
オイレンブルクの言葉にヴェルナーは答える術がなかった。
確かに彼は自らが常に経済を、技術を先導しなければならない、と考えていた。
それは未来人であるという傲慢であり、神の視点を持っているが故の無意識的行動だ。
「余はそなたと親しいシャハトという銀行家を招き、経済的な側面からこの国を見ようとしたが……」
そこまで言い、ヴィルヘルム2世は難しい顔となった。
「彼によれば各国は急成長するドイツを警戒する動きがあるそうだ。それは我がドイツの下腹部にある二重帝国とて例外ではない」
暗にRFR社のことを言われているヴェルナーは心臓を鷲掴みされた思いだった。
彼の視線は下に向けられたままだった。
その様子を見たヴィルヘルム2世はその厳つい顔に苦笑いを浮かべた。
「ああ、余はそなたを責めているわけではない。そなたのおかげでシャハトが言うにはドイツ経済は10年前と比べて飛躍的に発展し、粗鋼生産量……だったか? 何でも国力の指標となるこれはつい10年前は1700万トン台であったのが、2000万トンにまで跳ね上がったとか言っておった」
余はドイツの水先案内人だが、そなたは経済の案内人だ、とヴィルヘルム2世は告げた。
「私はつくづく思います。国内を発展させれば他国が連合して警戒する、かといって協調路線を取ろうとすれば経済が回らない……これは極めて難しい」
オイレンブルクの言葉にヴィルヘルム2世とヴェルナーは頷いた。
あちらを立てればこちらが立たない……どころか、列強によってどちらも叩き壊される可能性があるのが今のヨーロッパだった。
「そこで、余は思ったのだ。最近、余は参謀総長のモルトケから孫子なるナポレオンも愛読していたという兵法書を献上された。もっとも何千年も前に書かれたもので、通用しない部分も多々ある為、これに若干の編集を施したものらしいが……」
そこで言葉を切り、ヴィルヘルム2世は高らかに告げた。
「余の今までの軍事力を背景とした拡張政策は何千年も前に時代遅れのものだと言われていた。これから余はドイツの拡張においては軍事力によらない、外交によってのみ展開していきたいと思う」
ヴェルナーもオイレンブルクもまじまじとヴィルヘルム2世を見つめた。
史実の1908年10月28日にはデイリーテレグラフ事件を引き起こしたカイザーと今のカイザーは違った。
なお、この世界の10月28日のデイリーテレグラフ……どころかイギリスのメディアはヴェルナーの同性愛疑惑でもちきりであり、休暇としてイギリスを訪れた際のヴィルヘルム2世へのインタビューもそれに関連したことのみだった。
ヴィルヘルム2世は当たり障りなくやり過ごした為、この世界ではデイリーテレグラフ事件というものは存在しない。
彼はその視線に対し、自慢のカイゼル髭を撫でながら尋ねた。
「何か問題でもあるのかね?」
ドヤ顔のカイザーにヴェルナーもオイレンブルクもただ首を横に振った。
そして、ヴェルナーはゆっくりと口を開いた。
「陛下、私は傲慢になっていました。自分ならば何でもできる、と」
ヴィルヘルム2世は悲痛な表情となるヴェルナーの言葉に対し、頷いた。
その肯定は彼自身に向けたものでもあった。
彼もまた自分ならばビスマルクよりももっとうまくできる、と確信していたのだから。
「国内企業だけではなく、他国企業ともある程度妥協せねばなりません。彼らもまた儲けさせ、どちらも勝者となれる構図……私はパイの独占ではなく、共有を選ばねばならない段階に来たのでしょう」
この三者会談はオイレンブルクの手記に記され、後の歴史書には『ベルリンの大転換』と記されることとなった。
会談後、ヴェルナーは早速行動を起こした。
彼はアナトリア鉄道会社というオスマントルコにおけるドイツ権益の会社に注目した。
具体的にはこの鉄道会社が持つ、トルコ~バグダード間の鉄道敷設権に付随する鉄道路線両側20km幅にわたる鉱業権だ。
困ったことにヴィルヘルム2世は過去、オスマントルコを表敬訪問した際、ドイツは世界3億のイスラム教徒の友という、ある意味トチ狂った演説をしており、これも列強を刺激する要因の一つとなった。
ともあれ、それと引換にオスマントルコとは極めて良好な交流が続いていた。
ここではこれがプラスに作用した。
ヴェルナーはルントシュテット石油会社を通じてこの鉱業権を購入した後、各国の石油会社――特にイギリスとアメリカ――と共同で1909年5月にトルコ石油会社(TPC)を設立し、油田探査及び開発を提案した。
各国の石油会社は我先に、とこの提案に乗った。
これにはシャハトを通じてドイツ帝国銀行もかませており、その出資比率はドイツ系銀行・企業が51%、ヴェルナー個人が7%、残る42%がイギリス・アメリカの石油会社であった。
この出資会社のうち、イギリスからは本来ならば1909年に設立される筈のアングロ・ペルシアン石油会社が既にイギリス石油会社(BP)としてこの世界ではカイザー油田発見の際、設立され、今回の中東開発にも出資することとなった。
他にもアメリカのスタンダード・オイルやオランダ・イギリス企業であるロイヤル・ダッチ・シェルであった。
余談だが、出資比率からヴェルナーはミスターセブンと渾名されることになった。
ともあれ、このトルコ石油会社(TPC)は史実では1912年に設立されることになるのだが、この世界では数年程早くなった。
このTPC設立を機に、ヴェルナーは自国植民地以外の場所では資源開発を目的とした合弁会社をイギリス・アメリカ企業と共同して次々に設立していった。
それらのうち、ほとんどがユダヤ系であった。
また、これらの動きにより、イギリスやアメリカでは親独感情が強まることとなった。
その一方、ヴェルナーは戦略資源として重要な銅やゴムの自給が不足していると考えた。
前者の銅に関しては比較的簡単に解決した。
銅は重要な戦略物資の一つであるが、同時に鉱山も多数存在する。
また、世界最大級の銅山であるバングナ銅山のあるブーゲンビル島がドイツ領であった為、RFR社だけでなく、他の国内企業を多く誘って南洋に浮かぶちっぽけな島やニューギニア島北東部を開発すべく、ニューギニア総合開発会社を立ち上げた。
ブーゲンビル島においてはそこまで難易度は高くはないが、ニューギニア島北東部に関しては現地環境が非常に劣悪(未舗装、密林、風土病など)で非常に難易度が高かった。
しかし、そこを開発すればカネになる、と分かっているのならば飛び込んでいくのが企業というものである。
また、採掘や運搬における技術的な問題も、必要に応じて技術は失敗と共に開発されていくものであると企業は考えていた。
おまけに呼びかけたのがあのヴェルナーだ。
これまで誰も信じていなかったことを全て実現させ、巨万の富を築いた彼が開発しようというのならば、そこには富がある筈であった。
故に、ニューギニア総合開発会社は測量技師をはじめとした多くの専門家達を次々にニューギニア島へ送り込み、これを政府が後押しした。
他にもドイツ陸海軍は遠方での作戦行動のちょうどいい練習と考えたらしく、ニューギニア島へ陸軍2個連隊、海軍はその護衛として戦艦2隻を含んだ小規模な艦隊を派遣することとなった。
しかし、これがアダとなった。
1910年8月に現地に到着した陸軍部隊は次々と風土病に倒れ、密林地帯での演習どころではなく、病に罹った者は次々に後送され、3ヶ月もすれば2個連隊は2個大隊程度になっていた。
海軍に関しては特に何もなく、精々が燃料や食糧の補給で苦慮した程度であり、太平洋での活動拠点としてカロリン諸島全般――特にトラック諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島を海軍基地として大規模に開発することとなった。
このカロリン諸島開発はニューギニアからドイツ本国への輸送航路の確立という、色々な意味で海軍の先走った計画であった。
ニューギニアに派遣された開発会社の専門家団の団長は開発するのに最低10年はかかるという見積りだったからだ。
そして、大変な状態に陥った陸軍であったが、報告を聞いたモルトケはただちにヴィルヘルム2世に直訴し、南方での作戦活動に必要な医薬品を取り揃えることとなった。
その代表的なものとしてマラリアの特効薬のキニーネを大量輸入し、またこのキニーネを工業的に量産する試みが行われることとなった。
他にも基礎レベルから医療技術を高めるべく、医療関連会社に対して多くの補助金が投入されることとなった。
そして、ゴムに関しては当面各国から輸入量を増加させつつ、ドイツ領土であるニューギニアや内南洋でブラジルなどからゴムノキの種子を購入し、試験栽培することとなったが、専門家によれば何事もなくうまくいったとしても10年はかかる、という予想であった。
10年も待てなかったヴェルナーは天然ゴムではなく合成ゴムの開発に注力することとなった。
幸いにも、1909年にフリッツ・ホフマンというドイツ人化学者により合成ゴム製造への道が開かれており、ハノーヴァーにあるコンチネンタル弾性ゴム・グッタペルヒャ社が今年(1910年)から合成ゴムで作られたタイヤを製造し始めていた。
ヴェルナーはこのコンチネンタル社とフリッツ・ホフマンが属するバイエル薬品会社に多額の資金を提供することにした。
さて、資源開発に邁進するヴェルナーであったが、彼はフォードと共謀して軍用車両や軍用機の開発費用の削減を狙った。
結局のところ、戦争が起きなければこれらの軍事製品は大量注文が無い。
その一方でいざというときは大量注文が見込めるのでいい加減に進めるわけにもいかない。
しかし、民生品と違って求められることは多く、開発費用は膨らむ一方だ。
それらから導き出された答えは共同開発であった。
ヴェルナーとフォードが音頭を取り、とりあえず軍用車両として小型四輪駆動車――いわゆるジープ――と大型輸送トラック・トレーラーの開発を提案することとなった。
統一規格としての指標もこれらは兼ねており、また民生品ではないことからどこの企業も戦時となれば大規模な注文が期待できた。
一時休戦状態のダイムラー・ベンツやMAN社、また機関車製造を専門に行なっていたヘンシェル社もこの呼びかけに応じ、また、これらの3社以外にも多数の企業が共同開発に乗り出すこととなった。
具体的には各自の企業がそれぞれ得意とする分野で案を纏め、お互いに発表し合い、欠点を探し、最良のものを創りだしていくのだ。
無論、現場だけでなく上層部も資金を出す割合を決めたり何だりと技術者達が動き易い環境を構築するのだ。
1910年11月――
ヴェルナーは陸軍大学を卒業した後――当然、参謀課程を落第することなく――はドイツ帝国軍近衛歩兵第1連隊に中尉として所属していた。
そこで彼は新米将校として先任将校達にこってりとしぼられながら――家柄も経営者としての功績も関係なかった――どうにか仕事をこなしていた。
そんな彼の仕事は主計係。
花形ではなかったが、彼が自らそれを志願した為にそうなっていた。
さて、近衛連隊ともなれば常設であり、定数は平時であっても満たされている。
しかし、ここ30年程大規模な戦争が無かったこともあり、実戦経験者は現場レベルではほとんどいなかった。
ドクトリンの明確化により、日露戦争の戦訓からの要塞・トーチカ攻略の為の浸透強襲訓練など様々な実戦に即した訓練が行われており、その為に行進訓練をはじめとした儀礼的訓練の時間が削られていた。
ヴェルナーは本来ならば少尉の仕事である訓練教官もやりつつ、その一方で主計係としての仕事もこなさねばならなかった。
これはひとえに、彼の経歴にあった。
本来ならば大学卒業と同時に少尉に任官し、部隊で新兵訓練などを行うのだが、彼は少尉時代を参謀本部と大学で過ごしていた為、座学はともかく、少尉として必要な実践的訓練課程をクリアしていなかった。
そのツケがここにきて一気に出た形となったのだ。
とはいえ、ヴェルナーはただの中尉ではなかった。
彼が参謀本部で過ごした時代は決して無駄ではなく、モルトケら陸軍高官を前に堂々と意見を述べ、それを認めさせる程度の話術と胆力を身につけ、それに加え将官・佐官クラスに幅広く人脈を広げていた。
前者はともかく、後者としては相手から寄ってきていた。
退役後、RFRで雇ってもらおうという者やヴェルナーが将来、派閥を築き上げるだろうことを予測し、おこぼれを頂戴しようという者など様々であった。
そんなヴェルナーはベテラン下士官などからは当初は金持ちのお坊ちゃんと揶揄されたが、彼は何事にも率先して取り組んだ。
教官であるのに自ら兵士と同じように泥に塗れたりしながら訓練に参加するなどして、ただのお坊ちゃんではないことを証明してみせた。
もっとも、ヴェルナーも内心ではかなり精神的に、肉体的にキツイと思っていたが、そこら辺はやせ我慢でどうにか乗り越えた。
最初だけ頑張ればあとは他の下士官に任せるつもりだった。
要は現場に舐められないようにする為の行動だった。
他にも彼は所属の砲兵部隊に対し、幾つかの要望を提出していた。
この頃になるとヴェルナー論文にあったように、野砲などのタイヤにはゴムタイヤが使われはじめ、機動力に関しては上昇していた。
だが、ヴェルナーが求めたのはそこではなく、歩兵・砲兵間の緊密な連携であり、また歩兵攻撃前の準備砲撃であった。
彼はチャート・グリッド法を砲兵将校に提案するなど、ソフト面での火力向上に力を入れた。
この頃、陸海共同航空隊なる組織が結成された。
この組織は空軍の基礎を築く組織であり、ヴェルナーも設立から3年後の1913年にこの隊へと配属され、同時に大尉へと昇進した。
彼はこの組織で人事・主計部門の責任者として腕を振るった。
史実でゲーリングの行ったドイツ空軍の急速な拡大を見習い、グライダースポーツを振興し、また民間航空会社による航空機のスピードレースなどを各地で開催させつつ、マスメディアに飛行機をより大きく取り上げさせた。
そんな中、ヴェルナーは歴史的事件への準備を怠っていなかった。
彼は転生した後、自らの覚えている限りの知識をノートに纏めてあり、忘れることを防いでいる。
そして、そのノートでは1914年にサラエボ事件から第一次世界大戦というものがあった。
サラエボ事件を防ぐか、防がないかの選択肢において、ヴェルナーは防ぐ選択をした。
とはいえ、暗殺されたフェルディナント王子はその結婚相手の家柄的事情から、宮廷で軽蔑されていたので、事件が起こるにせよ起こらないにせよ、第一次世界大戦自体が勃発しない可能性があった。
史実においてシュリーフェンプランの関係上、ロシアが動員を開始すると例え無関係であっても、ドイツも動員を開始し、開戦しなければフランスと挟撃されてしまうという事情があった。
また、本来は戦争を防ぐ為の同盟がここでは逆に作用し、オーストリア・ハンガリーとセルビアの小競り合いという予想に反し、連鎖的に同盟国も引きずり込まれてしまった。
準備された大戦争ではなく、なし崩し的に始まってしまったのが第一次世界大戦であった。
ともあれ、史実からは大幅に流れが変わったこの世界において、そのような事態が起こる可能性は極めて低かった。
まずドイツの黒竜江省の租借権購入を巡る諸問題でドイツ側はロシアに対し、裏取引を行なっていた。
ドイツの中国権益拡大を認める代わりにバルカン地域におけるロシアの権益拡大を認めるというものだ。
勿論、オーストリア・ハンガリーには知らされていない。
確かにドイツ人も多数いる国であるのだが、万全に統治されているとは言い難く、内部には内紛の種が多数あった。
また、近年のドイツ本国の急激な発達に伴い、二重帝国からも多数のドイツ人が本国へ帰ってきているのが現状であった。
さて、ヴェルナーは余計な火種を作らない為にサラエボ事件を防ぐことを決めたのだが、これは中々に簡単だった。
彼の人脈は非常に広く、資金も豊富であった為に情報を集め始めて1ヶ月もすると続々と情報が集まってきた。
様々な過激派の中でもっとも実行力がある組織が黒手組と呼ばれる集団であった。
彼は黒手組を中心に情報を集め、モルトケにバルカン地域における戦争の火種と称して史実で起こるだろうサラエボ事件から第一次世界大戦の流れというパターンとオーストリア・ハンガリーの内紛にロシアを含めた各国が介入、そこからの大戦争というパターンを文書に纏めて提出した。
前者は史実の流れそのまんまだが、後者はヴェルナーが現時点で集まった情報で最大限に最悪な事態を見積もった結果だった。
モルトケは重大案件としてヴィルヘルム2世へとその予想を提出し、政府内で検討された結果、万が一が起こった場合、ドイツは仲裁役に徹するという結論を出すと共にオーストリア・ハンガリー在住のドイツ人に対してドイツ本国への移住を求めることとなった。
その一方で手違いが起こってからでは遅いとして、ロシアやイギリス、アメリカついでにフランスにもこのヴェルナーの2つの予想が伝えられ、万が一の場合もドイツはあくまで仲裁のみである、と告げた。
そして、一番最後にオーストリア・ハンガリーに伝えられ、この事態が起こり、セルビアへの復讐やロシアへの復讐を考えたとしても、ドイツは仲裁に徹すると伝えられた。
そのような情勢の中、1914年6月28日フェルディナント王子が妃ゾフィーを伴ってサラエボを訪問。
だが、何事もなくその訪問は終了し、2人共元気に帰っていった。
その後、セルビア政府がフェルディナント王子暗殺を目論んでいた黒手組をはじめとした大小様々な過激な組織を一斉摘発した、と発表した。
結論からいえば、欧州諸国はどこもなし崩し的に始まるような戦争を望まなかった。
だが、バルカン地域は依然として不安定なままであり、オーストリア・ハンガリーに対してドイツは早期安定化の為、ロシアと協力するよう求めた。
ここに至り、オーストリア・ハンガリーはロシアとドイツの間に何かしらの裏取引があることを悟ったが、この二大国を相手にして勝利できる外交力も軍事力も経済力も持っていなかった。
とはいえ、オーストリア・ハンガリーとロシアには回復不可能な致命的対立は存在せず、ロシアとオーストリア・ハンガリーの国境地帯では慢性的な両国からの独立運動が起こるなど悩みも共通しており、歩み寄れる点はあった。
その為、ロシアとオーストリア・ハンガリーの間でドイツの仲裁でバルカン地域における線引きをすることに合意し、また国境の早期安定化という点で後者はドイツも交えて協力することになった。
ドイツの東部国境にはポーランド人がいたが、彼らはロシアではなくドイツを支持していたのだ。
一連の結果、オーストリア・ハンガリーはバルカン地域における勢力拡大を制限され、対するロシアは大幅にその勢力を拡大させた。
これは仲裁役であるドイツがロシアに対してかなり有利な判定を下した結果であった。
この結果に対し、ロシアはドイツに対して大幅にその態度を軟化させ、話題の焦点の一つであったセルビアもまたドイツに対して豚やそれに関連する製品を優先的に輸出することを確約した。
ちなみに、この豚の輸出に関してだが、1906年から1910年までの豚戦争――二重帝国とセルビアとの間で起こった関税戦争であり、軍同士の対決ではない――からセルビアは輸出先の一つとしてドイツに目をつけ、豚や関連製品の市場を開拓していたのだ。
このことからオーストリア・ハンガリーではドイツへの不信が巻き起こり、フランスへ接近するきっかけとなった。
史実では悲惨な総力戦へと繋がる入り口であったサラエボ事件。
この事件を知る者はこの世界においてはヴェルナー唯一人となった。
後に、世界各国の作家や研究者達の間でもし、サラエボ訪問時にフェルディナント王子と妃ゾフィーが暗殺された場合、というものが興味深いテーマとして語られることになるが、それはまた別の話であった。
そして、運命の日を過ぎた後、欧州においては相変わらずフランスとドイツは犬猿の仲でありながら、経済的に追いつけ追い越せとフランスはドイツに挑戦し、ドイツもまたフランスに負けず、世界の工場たらん、と経済的に発展を続けた。
その影響を受け、イギリス、アメリカが経済的に発展していく一方でこの2カ国とドイツの関係は非常に良好であった。
ロシアにおいては革命の気運が高まったが、第一次世界大戦という史実におけるロシア経済への重荷が無かった為に、革命の首謀者達の取り締まりと同時にドイツに負けまいというニコライ2世の決意の下、民衆に毎日パンとウォッカを支給しつつ、抜本的な経済・行政改革に乗り出した。
ドイツはヴィルヘルム2世とニコライ2世が互いにいとこであり、ウィリー・ニッキーと呼び合う程に親しく、深夜であっても電報を交わす仲であったことも手伝い、この改革を支援した。
ビューローに代わり、1909年に宰相となったベートマンもロシアを味方につけることには賛成し、またモルトケやティルピッツもロシアと開戦となった場合、海はともかく陸では征服が困難と一致した意見であった為に賛成に回った。
無論、無償の支援をくれてやる程にドイツは甘くはなかった。
ロシアには膨大な各種天然資源を対価として提供することを約束させた。
これにより、ドイツはイギリス・アメリカに加え、ロシアともその関係を深めていくことになった。
だが、この動きに納得がいかない国があった。
それはオーストリア・ハンガリー。
同盟国である自分を差し置いて、ロシアへの支援を優先させるなど言語同断であった。
オーストリア・ハンガリーから見ればドイツの動きは裏切りであったが、当のドイツからすればオーストリア・ハンガリーほど面倒くさい国家はなかった。
前時代的な統治体制しかもたないこの国を変えるよりはロシアを新たなパートナーとして迎えた方が早かった。
また、5年ごとに更新されていた三国同盟であるが、一応1912年も更新することに三国とも同意していたが、ドイツはもはやオーストリア・ハンガリーもイタリアも必要としていなかった。
ドイツが必要としていたのはイギリスであり、ロシアであり、アメリカであった。
故に、ヴィルヘルム2世をはじめとした政府内協議にて1917年の同盟更新の際、これを破棄することが決定していた。
ともあれ、一連のドイツの親ロシア的行動から反独感情は決定的となり、オーストリア・ハンガリーは前々から接近していたフランスへラブコールを繰り返した。
フランスはこの動きを歓迎し、オーストリア・ハンガリーと攻守同盟を結んだ。
それに伴ってオーストリア・ハンガリーはドイツとの同盟を1917年を待たずに解消。
これにより、独墺伊の三国同盟が崩れたことになり、必然的に1892年に締結された露仏同盟も解消されることとなった。
この露仏同盟はその条文に三国同盟が存続する限り、継続されるというものがある。
故に、三国同盟が崩れてしまえばこの条約も意味を成さないものであった。
無論、フランス側はそこを承知で再びロシアと同盟締結を目指すべく動いたが、オーストリア・ハンガリーという権益的な意味での敵対国がフランス側に所属した為にロシアは頑として首を縦に振らなかった。
そうこうしている間にヴィルヘルム2世がロシアを訪問し、ニコライ2世と会談。
両国の相互発展を目指し、ドイツとロシアの間に同盟が結ばれた。
皮肉にも二重帝国が脱退しなければ三国同盟更新の年である1917年のことだった。
一方イギリスの動きであったが、1907年に締結されていた英露協商は既にこの時には意味の無いものとなっていた。
英露協商における最大の特徴はバルカン地域におけるロシアの権益をイギリスが一定の範囲で認めるというものだ。
この点に関してはドイツも既に容認している為、問題とはならない。
元々はドイツの3B政策を牽制する目的であったが、当のドイツが英米露協調路線へと転換しているのだ。
ロシアとドイツが同盟を結ぶというのは自然なことであったが、イギリスは焦りを覚えた。
彼の国が現在、同盟といえるものを結んでいるのは日英同盟のみであった。
その日本は日露戦争において大いに頼りになる存在であることは証明されたが、欧州に対して何らかの影響を与えることは全くなかった。
また、英仏協商、英露協商が意味の無いものとなった今、欧州でイギリスは孤立していると言えた。
だが、それはかつてのように栄光ある孤立ではなく、ただの孤立であった。
そこでイギリスもまたドイツに接近するのは当然のことであった。
ドイツと敵対してももはや意味はなく、それよりか将来に起こりそうな対仏戦争においてドイツ側に立って参戦し、勝利後にフランスの利権を分割することを選んだ。
イギリス側には第三の選択として孤立を貫き、戦争が起こった際、どちらの陣営にも物資を輸出し儲けるというものがあったが、それをするにはイギリスと大陸はあまりにも近すぎた。
そして、欧州の動きに一番過敏に反応したのは日本であった。
仇敵ともいえるロシアと黒竜江省を掠めとっていったドイツが手を組んだのだ。
これで反応しないわけがなかったが、現実問題として黒竜江省の経済活動はうまくいっており、日本に対して利益をもたらしていた。
故に日本政府は過熱する国民感情を和らげる方向へと向かい、様々なキャンペーンを展開することとなった。
余談だが、このドイツとロシアの同盟に関して日本人の間では憎しみを込めて髑髏同盟(=独露同盟)と呼ばれることとなった。
ともあれ、独露同盟成立後、日本としては珍しくうまく立ち回り、朝鮮半島における共同開発を欧米各国に持ちかけ、多くの欧米企業の進出を手助けした。
元々雲山金鉱という、朝鮮半島北側にあるアメリカ人が発見した金鉱があった。
それに加え、ヴェルナーがタングステンなどのレアメタルがある可能性を示唆したことにより、思いの外うまくいった。
国民からは感情的反発が大きくあったものの、それよりも政府は欧米の機嫌を優先した。
その一方でドイツの成長が無視できない程に著しい為、独露同盟により大きくなった反独感情に四苦八苦しながら、日本政府はドイツに範をとった国内の工業基盤増強に乗り出していた。
この予算抽出の為に軍事費が大幅に削減されていたが、周辺に日本に対して脅威を与える国は存在しなかった為に陸海ともに反対できなかった。
そして、限られた予算の中では兵力の増強ではなく、陸海共に装備の近代化に費やすこととなった。
そして、そんな日本に驚天動地の出来事が起きた。
独露同盟成立から1年足らずで今度はドイツがイギリスと同盟を結んだのだ。
時の内閣総理大臣は「欧州情勢は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職することとなった。
しかし、イギリス側は極東の足場を失いたくはなかった。
その為、イギリス外相であるグレイが日本へと飛んできてこの同盟のもたらす利益を説明し、ドイツ側は日本に対して何も悪い印象は抱いていないことを主張した。
事実、日本側が黒竜江省の一件から反独になっただけであり、ドイツ側は日本に対して良いも悪いも何の感情も抱いていなかった。
新たに発足した内閣とてバカではなかった。
ドイツとロシアとイギリスがついているならば、もし戦争になったとしても負けることはあるまい、と。
国民感情を何とかすれば日本の未来が明るいものであることは間違いなかった。
以後、日本政府はマスメディアを通して反独・反露感情の緩和に奔走することとなった。
だが、それに待ったをかけた国家がいた。
それはフランスであった。
少しでも同盟国が欲しいフランスとしては日本を何とか同盟から離脱させようと、様々な反独・反露キャンペーンをはった。
これらのキャンペーンは政府向けではなく、国民向けであった。
元々黒竜江省の一件や日露戦争などから一気に日本の世論は反独・反露に傾き、ドイツと同盟を結んだイギリスも悪い、と反英感情まで高まった。
この結果から日本各地で反対集会が開かれ、軍人もその多くが日本が間接的にドイツやロシアと同盟を組むことに反対した。
喉元過ぎれば何とやらでロシアとたった一地域で戦っただけで青息吐息の状態に日本がなったことを国民も軍人も忘れていた。
幸いにも日露戦争の英雄である東郷平八郎など将官クラスには日露戦争を体験した者が残っていた為、軍内部に関しては諌めることができたが、国民はどうにもならなかった。
しまいには日本各地で暴動が起こり、日比谷公会堂がまた焼き討ちされるなど被害がそれなりに出た。
このような事態に至っても政府は頑として日英同盟を崩さなかった。
何故ならば過去、小村寿太郎の一件があったからだ。
あのときの提案を受け入れたおかげで満州は安定しており、同じく真似をして朝鮮半島もそうした結果、欧米からは絶賛され、利益もより多く出、欧米の様々な技術を間近で習得することができていた。
もし、あのときあのまま拒否していたら、と思うとぞっとする話であった。
ともあれ、国民感情をどうにかしなければならず、日本政府はイギリスに泣きついた。
イギリスはドイツ、ロシア、イタリアと共同でフランスに対して圧力を掛け、日本への行いは内政干渉であると声高に批判し、その行いをやめさせることに成功した。
そのような中、何もせずに一番得をした国があった。
それはイタリアであり、この国はちゃっかりドイツ・イタリア間での同盟に関しては更新し、その同盟関係を継続していた。
この国は領土的問題からオーストリア・ハンガリーとフランスを仮想敵国としており、そのどちらもが同盟を結び、勝手に本物の敵国となってくれたのだ。
そして、こちら側にはイギリス、ドイツ、ロシア、おまけに日本。
これで負ける筈がなかった。
そんなわけでイタリアは『未回収のイタリア』と呼ばれる地域の奪還を目指し、ドイツ、イギリス、ロシアに領土問題の解決を声高に主張し始めたが、フランスはそこに目をつけた。
イタリアに対して秘密裏に接触し、もし戦争となり、ドイツに勝利した暁にはイタリアが主張するニースやチュニジアは勿論、二重帝国側に圧力を掛けて未回収のイタリアを全て返還させる、と。
しかし、この提案をイタリアは黙殺した。
戦って勝てば良いだけの話であり、何も背後から刺すような真似をする必要はなかったのだった。
同盟関係が劇的に変化した欧州ではフランスの孤立化が進み、ビスマルク体制の再来となっていた。
そして、このフランス孤立化に大きな働きをしたのはヴィルヘルム2世であり、宰相であるベートマンであり、オイレンブルクであった。
しかし、その反面、元同盟国であるオーストリア・ハンガリーでは大きな反独感情が巻き起こり、イタリアもまた領土問題を解決すべく、非常に好戦的な世論となった。
戦争の火種は――消えていなかった。